2020年1月に書いた記事です。
ランバル公妃マリー・ルイーズとポリニャック伯爵夫人ールイ14世の寵姫、黒ミサで失脚のモンテスパン公爵夫人との繋がり - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
この記事の末尾で紹介した記事で紹介されたブログで、「LANVIN(ランバン)」に、ポリニャック伯爵夫人の血縁者がいたことが書かれていました。
ポリニャック家の血筋 | Maison de Bourbon (ameblo.jp)
創業者のジャンヌ・ランバンの英文ウィキペディアを見ると、帽子から始まって香水でも有名になった、金持ちのパトロンに恵まれた、という点で「ココ・シャネル」とよく似ています。(※実際、ココとジャンヌは強力なライバルだったらしい)
Jeanne Lanvin - Wikipedia
Google翻訳:
ジャンヌ=マリー・ランバン(フランス語: [ʒan maʁi lɑ̃vɛ̃]; 1867 年 1 月 1 日 - 1946 年 7 月 6 日)は、フランスのオートクチュール ファッション デザイナーです。 彼女はランバン ファッション ハウスと美容と香水の会社ランバン パルファムを設立しました。
若いころ
ジャンヌ・ランバンは、コンスタン・ランバンとソフィー・デシェイの11人の子供の長子として、1867年1月1日にパリで生まれました。 彼女は16歳でパリのマダム・フェリックスで帽子職人の見習いになりました。彼女はスザンヌ・タルボとキャロリーヌ・モンターニュ・ルーのもとで訓練を受け、1889年にフォーブール・サントノレ通りで帽子職人になりました[1]。
キャリア
1909 年、ランバンはシンジカ デ ラ クチュール (フランス) に加わり、クチュリエとしての正式な地位を確立しました。 ランバンが娘のために作った服は、自分の子供のためにコピーを要求する多くの裕福な人々の注目を集め始めました。 すぐに、ランバンは母親のためにドレスを作るようになり、パリのフォーブール サントノーレ通りにある新しいブティックの顧客には、ヨーロッパで最も有名な名前の何人かが含まれていました。
1923 年から、ランバン帝国にはナンテールの染料工場が含まれました。 1920 年代に、ランバンは室内装飾品、紳士服、毛皮、ランジェリーを専門に扱う店をオープンしました。 彼女の最も重要な取り組みは、1924 年のランバン パルファム SA の創設でした。1927 年に発売された彼女の代表的なフレグランス、アルページュ [2] は、娘のマルグリットがピアノで音階を練習している音からインスピレーションを受けました。 (アルページュとはフランス語で分散和音を意味します。)
1922 年、ランバンはフランスの著名なデザイナー、アルマン アルベール ラトーと協力してアパート、自宅、ビジネスの再設計を行いました。[3] アパートメントのリビング ルーム、私室、バスルームは、1985 年にパリの装飾芸術美術館で再組み立てされました。 この家のために、ラトーは 1920 年から 22 年にかけてブロンズ製の注目すべき家具をいくつかデザインしました。
二人は友情を育んだ。 ラトーはランバン スポールのマネージャーとしてランバン帝国に加わり、もともと国立セーヴル マニュファクチュールで製造されていたランバンの球形のラ ブール香水フラコンをアルページュのためにデザインしました。 今日に至るまで、アルページュの香水の容器には、ポール・イリブによるランバンと娘のマルグリットの金のイメージ (1907 年にレンダリング) が刻印されています。 ラトーはまた、1920 年にフォーブール サントノーレ通りの本店に設立されたインテリア デザイン部門、ランバン デコレーションの経営者でもありました。
私生活、死、そして遺産
1895年、ランバンはイタリアの貴族であるエミリオ・ディ・ピエトロ伯爵と結婚しました。 2年後、彼女は娘マルグリット(別名マリー・ブランシュ)(1897年 - 1958年)を出産した。 夫婦の一人っ子マルグリット・ディ・ピエトロはオペラ歌手になった。 彼女はジャン・ド・ポリニャック伯爵(1888年 - 1943年)と結婚した。 母親の死により、彼女はファッションハウス「ランバン」のディレクターとなった[1]。
ランバンとディ・ピエトロは1903年に離婚した。ランバンは1907年に新聞レ・タンの記者で後にイギリスのマンチェスターのフランス領事となったグザヴィエ・メレと結婚した[1]。
ランバンは 1946 年 7 月 6 日に亡くなりました。彼女の元のオフィスは、パリのボワシー ダングラス通り 16 番地にあるランバンの本社に保存されています。[5]
改めてLANVINの英文wikipediaも検索。
Lanvin - Wikipedia
Google翻訳:
ランバン (フランス語: [lɑ̃vɛ̃]) は、パリに拠点を置くフランスの高級ファッション ハウスです。 1889 年にジャンヌ ランバンによって設立され、現在も運営されているフランス最古のファッション ハウスです。 2018年からは上海に拠点を置くランバングループの子会社となっている。 31歳のフランス人デザイナー、ブルーノ・シアレッリは、2019年1月にランバンのクリエイティブ・ディレクターに任命された。
歴史
ランバンは娘のマリー・ブランシュ・ド・ポリニャックのために服を作りましたが、これが多くの裕福な人々の注目を集め始め、彼らは自分の子供たちのためにコピーを要求しました。 すぐに、ランバンは母親のためにドレスを作るようになり[3]、パリのフォーブール サントノレ通りにある新しいブティックの顧客には、ヨーロッパで最も有名な名前[誰?]も含まれていました。 1909 年、ランバンはクチュール シンジケートに参加し、クチュリエとしての正式な地位を確立しました。 ランバンのロゴは、1907 年にジャンヌ ランバンがおそろいの衣装を着て娘と一緒に舞踏会に出席したときに撮った写真からインスピレーションを得ました。[3]
1923 年から、ランバン帝国にはナンテールの染料工場が含まれました [4]。 1920 年代に、ランバンは室内装飾、紳士服、毛皮、ランジェリーを専門に扱うショップをオープンしましたが、彼女の最も重要な拡大は 1924 年のランバン パルファム SA の設立でした。ヘリオトロープをベースにした動物性アルデヒドの「マイ シン」は 1925 年に導入されました。 独特の香りであると広く考えられています。[要出典] これに続いて、1927 年に彼女の代表的なフレグランス「アルページュ」が発売され、娘がピアノで音階を練習する音からインスピレーションを得たと言われています。[要出典]
ジャンヌ・ランバンに続いて
1946年にランバンが亡くなると、会社の所有権は娘のマルグリットに譲渡され[5]、マルグリットは1942年からいとこで当時ファッション業界の専門家だった友人と会社の経営を共有していた。 マリー=ブランシュ・ド・ポリニャックが 1958 年に亡くなったとき、彼女には子供がいなかったため、ランバン家の所有権はいとこであるイヴ・ランバンに移りました。
1960 年代半ばから 1996 年のロレアルによる買収まで、ランバンはベルナール ランバンによって経営されました。 輸出部門はナンテールの元の工場にあり、すべての香水が製造され、瓶詰めされていました。 管理本部はパリにありました。 1979 年にランバンはスクイブ USA から独立性を買い取り、同年に米国のパリによって大規模な PR プロモーション ツアーが手配されました。
ミッドランド銀行は 1989 年 3 月に一族から同社の株式を購入し、褪色した同社のイメージを刷新するためにレオン・ブレスラー氏を就任させた。 しかし、1990年2月、ミッドランドは撤退し、ランバンをヴィトン家率いるフランスの持ち株会社オルコフィに売却した。 オルコフィから、ハウス オブ ランバンの株式の 50% が 1994 年にロレアルに買収され、1995 年に 66%、1996 年に 100% が取得されました。ロレアルの多様な傘下の下、フランスのファッション業界内で活躍するさまざまな CEO が会社を指揮しました。 。
2001 ~ 2018 年にハーモニー S.A. が過半数を所有
2001年8月、ランバン [6] は台湾のメディア王ショーラン・ワンが率いる投資家グループ、ハーモニーS.A.によって再び非公開化された [6] 。 王氏は2003年に他の投資家を買収した[7]。
2005 年、Joix Corporatic は日本におけるランバン プレタポルテのライセンス所有者となり、小売価格は 5,000 万ユーロとなりました [8]。 日本では、ランバンの衣料品は、伊藤忠商事が所有するライセンスの下で販売されており、伊藤忠商事は同社の株式の5パーセントを保有しており、2007年にはランバンブランドの衣料品から推定2億8000万ドルの売上を上げており、オートクチュールハウス自体が稼いだ金額を上回っている[9]。 2007年、ワン氏はランバンの香水部門をフランスのインターパルファムに2200万ユーロで売却し、グループはブランド開発のための伝統的な産業手段を1つも持たずに残った。 同年、ランバンは数十年ぶりに黒字化した[10]。
2009年12月4日、ランバンはフロリダ州バルハーバーに米国初のブティックをオープンした[11]。
2011 年、ランバンの売上は 2 億 300 万ユーロに達しましたが、これにはライセンス収入の推定 450 万ユーロは含まれていません[6]。 2012年、起業家ラルフ・バーテルが出資比率を12.5パーセントから25パーセントに引き上げたため、ランバンは1,750万ユーロの増資を実現した[12]。
2013年11月20日、ランバンはアーセナルFCの公式テーラーとなった[13]。
2015年10月28日、ランバンは株主との意見の相違によりエルバス氏が退社したと発表した。 2016年3月にブシュラ・ジャラールが後任となった。ジャラールは翌年退団し、後任にはオリヴィエ・ラピダスが就任し、わずか2シーズンで2018年3月23日に退団した。 ラピダス氏の退任時には後継者は指名されなかった。
復星が過半数を所有、2018年から現在
2018年2月、上海に本拠を置く複合企業復星国際は、ランバンの持株会社であるアルページュSASの75パーセントと25パーセントを所有していたワン・バーテルとラルフ・バーテルから1億2,000万ユーロ相当の株式を取得し、ランバンの支配株主となった[14]。 「ランバン」の名前を所有している[15]。 買収後、ランバンはジャン・フィリップ・エケをCEOに任命しました。 ヘケ氏はわずか18か月後の2020年3月に辞任した[16]。 ランバンの親会社の会長であり、ランバンの取締役会会長でもあるジョアン・チェン氏がインテルに就任した。
(後略)
最終的に、「中国系の富豪にランバン」は買収されているということでしょうか。
ところで、上記のアンダーラインの部分
ランバンは娘のマリー・ブランシュ・ド・ポリニャックのために服を作りましたが、これが多くの裕福な人々の注目を集め始め、彼らは自分の子供たちのためにコピーを要求しました。 すぐに、ランバンは母親のためにドレスを作るようになり[3]、パリのフォーブール サントノレ通りにある新しいブティックの顧客には、ヨーロッパで最も有名な名前[誰?]も含まれていました。
これは脚色した言い方なんだろうな‥と思います。
娘の名前は確かに大人になって彼女が結婚後は「ポリニャック」になりましたが、少なくとも彼女にジャンヌがドレスを作ったときはまだ娘は子供で「ポリニャック」を使うのはおかしい。
また、そもそも、階級差の結婚が難しかった時代、労働者階級で16歳から帽子職人に行かなければならなかった少女ジャンヌが、1895年にエミリオ・ディ・ピエトロ伯爵と言う貴族と結婚をしたということ自体が怪しい気が。
エミリオと1903年に離婚して、1907年に再婚した人物が、「新聞レ・タンの記者で後にイギリスのマンチェスターのフランス領事となったグザヴィエ・メレ」と言うのも気になります。
Geniを見ると、ジャンヌと娘以外の情報がほとんどなし。
Jeanne Lanvin (1867 - 1946) - Genealogy (geni.com)
Emilio Di Pietro (故人) - Genealogy (geni.com)
Xavier Melet (1862 - 1953) - Genealogy (geni.com)
Marie-Blanche Lanvin (Comtesse De Polignac) (1897 - 1958) - Genealogy (geni.com)
Comte Jean De Polignac (故人) - Genealogy (geni.com)
その割に、ジャンヌの父親は生年月日もわかるし、写真もあります。
BERNARD-CONSTANT LANVIN (1833 - 1911) - Genealogy (geni.com)
Biographie résumée d'Yves Sain Laurent (fetmode.fr)
によると、父親は新聞社(Press)勤務のようです。
しかしまあ、職人技や製法、定番スタイルを引き継いでいる企業以外の「ブランド」の意味って、なんなのでしょうか。
例えば、シャネルだったら、シャネルの死後も、シャネルバックも、シャネルスーツも、シャネルの5番もシャネルロゴと一緒に引き継がれている、
エルメスやカルティエ、フェラガモ等も、基本の皮製品を柱にしています。
「ランバン」のブランドは買収を繰り返して、残っている価値は「ロゴ」ではないか‥とさえ思えてきます。
もちろん、品質の高さはプライドをかけて伝えてきているのでしょうが…。
参考:
ランバングループ はフレッシュな才能、セレブリティの顔、そしてバッグで成長を促す【ファッションブリーフィング】 | DIGIDAY[日本版]