Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

LGBTと「草食系男子」-2(昔「草食系男子」今は「アセクシャリティ」?)

2023年08月21日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

LGBT(Q)の存在は、人口の10%以上のようなことを言いますが、

日本のLGBTの割合は人口の約10%-高校生での割合や海外との比較も紹介 | SDGs CONNECT (sdgs-connect.com)

この割合には、アセクシャリティが入っているので、実は「草食系男子」も加わっていることもあるのですね。

「LGBT」のうち、実際性的つながりを求める人たちだけを割り出したとしたら、どういうことになるのでしょうか。

 

無性愛 - Wikipedia

無性愛(むせいあい、英: asexuality)とは、他者に対する性的な惹かれ(性的魅力を感じること)の欠如、すなわち性的な行為への関心や欲求が少ないか、あるいは存在しないことである[1][2][3]。無性愛の性質を持っている人のことをアセクシュアル[4]、Aセクシュアル[5]、無性愛者[6](英: asexual エイセクシュアル /eɪsɛkʃʊəl/[7]、アセクシュアル /æsɛkʃʊəl/[8])という[注釈 1]。

概要
無性愛は、性欲自体がない無性欲や、性的行為に嫌悪感を抱く性嫌悪、性的欲求低下障害(HSDD)(英語版)とは異なる。また純潔運動や不淫(禁欲)も、意識的な行動であり、一般に個人の信条や宗教的信念などの要因に動機づけられる点で、無性愛とは異なる[9][10][11]。

無性愛は、異性愛・同性愛・両性愛に並ぶ性質であると言われている。また、より幅広い領域にわたる、様々な無性愛的なアイデンティティ(グレーアセクシュアル)を分類するための包括的用語としても用いうる[12]。ブロック大学のアンソニー・ボガードは「世界人口の1%が無性愛者に当てはまる」と自身の著書に記している[13]。

性的指向や科学研究の分野としての無性愛の受容はまだ比較的新しく[2][14][15]、社会学・心理学的知見からの研究の蓄積は始まったばかりである[14]。無性愛は性的指向であると主張する研究者もいれば、これに同意しない研究者もいる[15][16]。

ソーシャルメディアの出現以来、様々な無性愛者のコミュニティが形成され始めている。これらのコミュニティの中で最も充実し、かつよく知られているのは、2001年にデヴィッド・ジェイ(英語版)によって設立されたAsexual Visibility and Education Network(AVEN; 無性愛認知教育ネットワーク)である[16][17]。

他の性的指向に比べるとメディアでの紹介や法的保護の動きは遅れているが、英語圏では徐々に性的アイデンティティとしての地位を獲得しつつある[18][19]。日本でも2000年代初頭からコミュニティ形成の動きが進んでいる[20]一方で、研究やメディアへの露出は英語圏ほど活発にはなっていない。

定義
「恋愛的指向」も参照
本節では英語圏の文脈での定義について説明する。日本独自の用語などについては「#日本における無性愛」を参照。

無性愛であると自認する人々にはたくさんの種類がいるため、無性愛は幅広い定義を包摂しうる[21]。研究者は一般的に無性愛を「性的な惹かれや性的関心の欠如」と定義するが[16][14][22]、無性愛者らの定義は様々である。「性的な欲求が少ないか、もしくはない人」「性的な行為が少ないか、もしくはしない人」「恋愛的な関係・性愛的でない関係のみを持つ人」、または「性的な欲求および行為の両方がない人」を示す用語として無性愛は用いられることがある[14][23]。また、無性愛であるという自認(帰属意識)も定義上の要素となりうる[23]。

AVENでは無性愛者を「性的な惹かれを経験しない人」として定義し、次のように述べる。

我々の皆が、無性愛であると気付いた時から無性愛という用語やコミュニティを必ずしも知っていたわけではないが、ほとんどの無性愛者は生涯にわたって無性愛である。(…)一方、無性愛者のコミュニティにも少数ながら、自らのセクシュアリティを探究したり疑問を抱く中で、束の間だけ無性愛と自認する人もいる。(…)無性愛識別基準[24]によって研究を補助する学術的試みはなされているが、その人が無性愛であるかどうかを定義するための検査は存在しない。無性愛は他のあらゆる性自認と同様に、本質的には、人々が自分自身を理解し、その一面を他人に伝える上での一助として用いる言葉にすぎない。その人が自己表現のうえで無性愛という言葉を有用と思えば、確かに無性愛者と自認してもよいだろうし、あとで無性愛者でないことを示すようなことがらを経験したなら、それでもまた構わない。[25]

無性愛の人々は、いかなるジェンダーの人々にも性的に惹かれないが、純粋な恋愛関係になる場合もあるし、ならないこともある[16][26]。無性愛を自認する人で、性的な魅力は感じるが、性的あるいは恋愛的行為(抱きしめる、手を握るなど)を心からは望んでいない、または必要とはしていないために、行動に移す気がないと述べる人もいる。一方では抱きしめたり、他の恋愛的な身体行為を行う無性愛者もいるし[9][10][14][21]、好奇心から性的な行為を試みる者もいる[14]。一人での処理の形として自慰行為をする者もあれば、その必要がないと感じる者もいる[21][27][28]。

特に性的な行為に関しては、自慰行為の必要性または欲求は、無性愛者からは一般に性衝動(sex drive)と呼ばれ、性的な惹かれや性的なものとは切り離して考えられる。自慰行為をしている無性愛者は一般的に、それが人体の正常な営みであり、潜在的なセクシュアリティを持つしるしではないと考え、快感を覚えないこともある[14][29]。無性愛者の男性には勃起を経験しない人もおり、そうした人にとっては試しに挿入するといった性的な行為は不可能である[30]。

無性愛者は、性行為を行うことに対する感情についても様々である。無関心で、恋愛パートナーのためにセックスをする人もいれば、一般に人がセックスをすることを嫌うわけではないが、性行為をすることには強い嫌悪感を抱く人もいる[14][21][28]。

無性愛者と自認する多くの人は、自らを他の性的アイデンティティにも属していると考える。例えば、性的指向や性的アイデンティティの恋愛的・感情的側面に関しては、無性愛者は異性愛、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、クィアと自認することがある[25][26]。あるいは性的指向の性的でない、恋愛的な側面と関係があることを示すために、以下のような用語で自らを定義することもある[21][26]。

アロマンティック[31] - 恋愛的に他人に惹かれない
バイロマンティック[32] - 恋愛的に両性に惹かれる(が、性的な魅力を感じない)
ヘテロロマンティック[33] - 恋愛的に異性に惹かれる
ホモロマンティック[34] - 恋愛的に同性に惹かれる
パンロマンティック[35] - 恋愛的にあらゆる性に惹かれる
アロマンティックと非アロマンティックの間、または無性愛とそうでない状態との間(アロマンティック・スペクトラム)にいると感じるため、グレーA(グレーロマンティック、デミロマンス、デミセクシュアルまたはセミセクシュアルなど)を自認することもありうる。グレーAという用語が、「場合によって恋愛的な魅力や性的な魅力を感じる人」全てを指すのに対して、デミセクシュアルやセミセクシュアルは、性的な惹かれを2次的な要素として経験する、すなわち、「ある程度安定的な、あるいは強い感情的なつながりを生じて初めて性的な惹かれを感じる人」のことを言う[21][36]。

コミュニティとシンボル

無性愛コミュニティのメンバーは、帰属を表すために右手中指に黒い指輪をつけることもある[37]。
コミュニティ
無性愛者のコミュニティに関する学術研究は今のところ不足している[38]。海外の研究者及び当事者の間では、無性愛者は「エース(ace)」、そのコミュニティは「エースコミュニティ」と呼ばれることもある[39][40]。

1990年代にはインターネット上に性的欲求がほとんどまたは全くない人々のための私的なサイトがいくつかあった[41]が、学者の述べるところでは、オンラインコミュニティの普及を追い風に、21世紀初頭に無性愛を自認する人々のコミュニティが合体したという [42][43]。「Leather Spinsters」のなどのグループは、文化の圧力に対して無性愛的な生き方を擁護し、ジェラディン・ヴァン・ヴィルステレンはオランダで「Nonlibidoism Society」を創設し、Yahoo!は無性愛者に「Haven for the Human Amoeba」というコミュニティを提供した[41]。AVENは、2001年にアメリカの無性愛活動家デビッド・ジェイによって設立された組織で、無性愛者の問題に焦点を当てている[16]。その目標は、「無性愛の周知と議論の創出、および無性愛コミュニティの形成の促進」である[16][17]。また、日本では「asexual.jp」などのコミュニティが活動している(後述)。

(後略)

 

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「LGBT」と「草食系男子」-1(恋愛格差)

2023年08月20日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

「異性愛」「同性愛」「両性愛」と言う場合の「愛」は、多くの場合は性的繋がりを求める愛、つまり「恋愛感情」。

21世紀になって、「恋愛感情」を持てない若者を「草食系男子」と呼んだ時期がありました。

この記事2本は、イタリア人、スウェーデン人、アメリカ人の男性の友人たちと。「草食系男子」について話していたものです。

2011年、

ルイジさんからのメール-イタリア事情 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

抜粋:

先のブログで、結婚しない中高年のことを少し書きましたが、前に、イタリアのペンフレンドのルイジさん(30代)と、草食系男子と、結婚しない男性について話したことを思い出しました。

彼の英語は完璧ではありません(それは私も同様なので、文通が成り立つ)が、書いてあることは、大変興味深いことなので、少し長めの抜粋ですが、貼り付けさせてもらっちゃいました。

彼が書いているのは、イタリアの男性が昔ほどマッチョばかりでもないし、女性の尻を追いかけていないこと、女性が独立したこと、そして、イタリアにパラサイトシングルが増えたこと。

2015年

テクノロジー・バブルと人間性の崩壊 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

抜粋:

ところで最近、こんなニュースがありました。 

Japan Today(2015.6.23)
40% of unattached singles in their 20s, 30s don't want relationship: survey
http://www.japantoday.com/category/national/view/40-of-unattached-singles-in-their-20s-30s-dont-want-relationship-survey 

日本の20代30代のアンケートで、約40パーセント近くの独身者が、特別恋人を持つことに消極的だという結果がでました。 

このニュースについて、福島の復興支援に来ているアメリカ人のD君(最近は人と人のつながりが薄れていると言って寂しがる、M君と同年齢の青年)は、
「日本人はあまりに仕事が忙しすぎて、恋人を持つ気も起らないのだと思う。つまり、日本の仕事文化が原因の一つじゃないかな。」
とコメントしてくれました。

私は、 

「確かにあなたが言うような面はあるでしょうね。
でも、日本の仕事文化は、ずっと昔から変わっていない。

日本人はもともと恋人を自分で見つけるという部分が、西洋人より苦手な部分があって、だから戦後も「お見合い」というシステムが残ってきたのではないかと思います。

それでもそれはイコール「愛する人はいらない」ではなかったのですが、これが変わってきて、2006年くらいには「草食系男子」という言葉まで生み出しました。

今は「草食系女子」も増えてしまったのか、とにかく、何か本能を失った人達が増えてしまって、その増加はインターネット、スマホ、SNSほかバーチャル系のもののヘビーユーザーが増えたのとリンクしているように思えます。」 

と自分の考えを言いました。 

結婚や特別なパートナーを持つことより、自分自身や自分の趣味、生活を一番に考える人が増えたのは、何も日本だけの話ではないと思います。 

しかし、結婚や同棲する以前にロマンスにも興味がない(もしかしたら、一緒に出掛けるだけの人は必要だけど、恋人および特別な友人共必要ないと思っている)という若者が増えている現象は、日本独特のことなのでは、などと思ってしまいます。 

今は、一人でも楽しめるツールも少なくないですし、SNSがあれば、“友達”とも繋がっていられます。

あと足りないのは、自宅で話し相手になってくれる相手。ただし喧嘩も煩わしいやり取りも面倒なので、心地よいだけの相手。

 

「草食系男子」は日本独自のものだったかもしれないですが、不況とSNSの普及もあって、少なくとも先進国では似たような現象が起こっていたのではないか、と思います。

今は若い人の「草食系男子」って減っていているのでしょうか。

 「同性愛」「両性愛」の肉食系と対照的な「草食系男子」。

LGBT運動は、恋愛格差の勝ち組の運動に思えてきました。

(なお、個人的にはTートランスジェンダーは、本来LGBTに組み込むべきではないように思います。)

参考:

恋愛格差 - Wikipedia

格差とポリガミー(複数婚) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ジェンダーレス水着

2023年07月12日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

昨夜読んだドイツ在住の日本人女性のブログ記事。

プールは大盛況 - 怠惰にドイツで同居 (fc2.com)

抜粋:

屋外プールの水は冷たく、
数十分もしないうちに私と夫は水から上がり、
日陰で寝転んでいた。
目の前の飛び込み台には
ティーンエイジャーから20歳代と思われる若者が並んでいた。
ある集団が、皆、ウエットスーツを着ているので不思議に思った。

以前は見られなかった現象だ。
男児ばかりだ。一人だけ女の子も着用していた。
なので、身体を隠すためのものではないと判断。
では日焼けを避けるために?
寒さ対策?
ティーンの男の子が?
私の予想では一種の流行なのだと思う。
そのグループ内での流行。
次第に周囲の他の人々にも影響するかもしれないぞ。

女性のほとんどは老いも若きもほとんどセパレートタイプで、
しかも、布の面積が極端に少ない。
ほとんど尻丸出しデザインもあった。

今日たまたまこんな記事を見つけました。

なぜ女子の半分が泳いでないの? ジェンダーレス水着の開発者が語った“忘れられない光景”:本当に届けたい人たち(1/4 ページ) - ITmedia ビジネスオンライン

抜粋:

このような水着を開発した背景には、「体型が目立たないようにしたい」という生徒のニーズや、制服のジェンダーレス化などがある。

 「体型が目立たないようにしたい」「肌を見せたくない」というニーズが、女子だけでなく男子にもあると同社が強く認識したのは、7年前に実施した「スーパー中学生ものづくりプロジェクト」だという。

 同プロジェクトは、スクール水着を中学生と共同で開発するものだった。ある男子中学生は、プロジェクトの初期に長袖とフルレングスのパンツを提案した。足首まで隠れそうなデザインだったという。


上のブログの中でドイツの若者が着ているのは、ジェンダーレス水着の代わりにウェットスーツなのでしょうか。

しかしITメディアの紹介記事、「日焼け止め、からだのシルエットを出さない水着」を「ジェンダーレス」とわざわざ呼ぶ意味が分からないです。
水着でが強制的に上半身裸にされるのが強制的坊主頭と同じくらい抵抗がある男子はいると思うのですが、それを「ジェンダーレス」というべきなのか・・。抵抗がある男子は「女性っぽい男子」という意味で「ジェンダーレス」?

(アメリカでは1930年代半ばまで、男性のトップレスは禁止。欧州でも同じようのものだったと思います。

アメリカの男たちが闘った「乳首解放」運動 | 「俺たちはトップレスで泳ぎたい!」 | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)

 

ところでスクール水着自体がもともと格好の良いものではないですが、(申し訳ないですが、)このジェンダーレス水着、なんでこんなにやぼったいのか・・。

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LGBTとミシェル・フーコー-「生の権力」ならぬ「性の権力」

2023年07月12日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

LGBTQの、実は当事者の中にも戸惑いがある「権利運動」。

これがどうなっていくかを大げさに捉えて描いているのが、アメリカのテレビシリーズの『AJLT-セックス・アンド・シティ新章』。

『AJLT/セックス・アンド・ザ・シティ新章』-LGBTQの先進国アメリカの変化と「変わらぬもの」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「こういう世界は良いですか?」と問うために、このドラマは「教材」として観てもらうのが、ひょっとしたら良いのかもしれません。

私は、このシーズン2の4話までu-nextで観ましたが、この回では「女2人のカップル(1人はトランスジェンダー+バイセクシュアル)と男1人の性交渉しようとする乱交場面」まで出てきてしまいます。

今はもう「歯止めのない性の世界」を望んでいる人たちがきっといるのでしょう。

 

「歯止めのない性の自由」と言えば、私は「フランキスト」が真っ先に浮かびます。

オーストリア・ハンガリー帝国のユダヤ人-2(ジャコブ・フランク、エヴァ・フランク) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ボーイ・ゼレンスキー(ジェレンスキー) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

タデウシュ・ボーイ・ゼレンスキーの母親とザモイスキ家の家庭教師をしていたNarcyza Żmichowska - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

とはいえ、「サンシモン主義」も後継者が変わっていき、たまたま道徳観の低いアンファンタン派主流になっていったように、「フランク主義(フランキスト)」も、道徳観の低い派、高い派と別れて行って、道徳観の低いものが生き残った可能性もあるように思います。

「一般から見ると道徳観が低いだけの人」にとっても、こういう宗教や運動は「道徳観が低いことの免罪符」に使えます。


「宗教家と大差ない」と私がこの15年くらいで感じるようになったのは、「ネットのオピニョンリーダー」と、「思想家」を名乗る人たち。


今回はミシェル・フーコーについて。

ミシェル・フーコー - Wikipedia

彼は『性の歴史』を1976年に発表しています。

性の歴史 - Wikipedia

抜粋:

『性の歴史』(原題:L'Histoire de la sexualité)は、フランスの歴史学者・哲学者ミシェル・フーコーが西洋世界におけるセクシュアリティについて研究した、四巻に及ぶ書物である。フーコーはこの本で、言説的な対象としての、あるいは生活における分断領域としての「セクシュアリティ」の出現を調査し、あらゆる個人がセクシュアリティを有するという考えは、西洋社会において比較的新しい発達であると主張する。第一巻『知への意志』(La volonté de savoir)は1976年に出版され、第二巻『快楽の活用』(L'usage des plaisirs)および第三巻『自己への配慮』(Le souci de soi)は1984年に出版された。第四巻『肉の告白』(Les aveux de la chair)は死後の2018年に出版されている。 第一巻でフーコーは「抑圧的な仮説」—西洋社会は17世紀から20世紀中葉にかけて、資本主義やブルジョワ社会の発達の結果として、セクシュアリティを抑圧してきた—という考えを批判する。フーコーが主張するのは、性にまつわる言説は実際のところ、この期間において増殖していたということである。この期間というのは、専門家たちが科学的手法によってセクシュアリティを調査し、人々に自らの性に関する気持ちや行動を告白するように促し始めていた時期なのである。フーコーによると、18世紀、19世紀の社会では、夫婦の関係には収まらないセクシュアリティに対する興味が増大していた。「倒錯の世界」—子どもにおけるセクシュアリティ、精神疾患、犯罪や同性愛といったもの—が、告白や科学的な聴取を通して次々に暴かれたのである。

 

彼は、「ゲイ」で「未成年との性交」を認める運動をしていた人です。

ミシェル・フーコーのウィキペディアには、『性の歴史』の未完成部分について、2018年に刊行される(された?)ことが書いてあります。

今、彼が反対する「生の権力」は確かに出来上がっていると思いますが(コロナワクチン騒動でもわかる)、これとは別に「性の権力」が出来上がっている気がします。

ミシェル・フーコー - Wikipedia

抜粋:

未完に終わったフーコー最後の著作は、『性の歴史』である。この著作は、発刊計画が発表されており、当初は全6巻(第1巻『知への意志』、第2巻『肉欲と身体』、第3巻『子供の十字軍』、第4巻『女、母、ヒステリー患者』、第5巻『倒錯者たち』、第6巻『人口としての住民と人種』)の構想であったが、実際には構想は変更されたうえで、第1巻『知への意志』(1976年)、第2巻『快楽の用法』(1984年)、第3巻『自己への配慮』(1984年)の3巻が刊行された。第4巻『肉の告白』の完成直前にフーコーが死去し、遺稿が残されたが、遺言により長い間刊行されなかった。しかし遺著管理者らがフーコーの思想を世に問う機が熟したと判断したとして、2018年2月9日に死後34年を経て刊行される[5]。この一連の著作においてフーコーは、西洋社会の人間が自分たちを性的存在として理解するようになる諸段階を追究し、性的な自己概念を個人の道徳的・倫理的な生活に関係づけた。

(中略)

晩年のフーコーは、どの著作においても、西洋社会で「生の権力」という新しい権力、つまり、伝統的な権威の概念では理解することも批判することも想像することもできないような管理システムが発展しつつあることを示そうとした。従来の権力機構においては、臣民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」が支配的であった。これに対して、この新しい「生の権力」は、抑圧的であるよりも、むしろ生(生活・生命)を向上させる。たとえば、住民の生を公衆衛生によって管理・統制し、福祉国家という形態をとって出現する。フーコーは、個人の倫理を発展させることによって、この「生の権力」の具体的な現れである福祉国家に抵抗するよう呼びかけた。

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“トランスジェンダーにされる子供たち”についての懸念-2

2023年07月05日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

男の子に女の子の恰好をさせると言えば、ミーガン・フォックスの児童虐待疑惑。

彼女は『ビバリーヒルズ高校白書』に出演していた、ブライアン・オースティン・グリーンの元妻で、二人の間の元妻が

「保守系政治家が告発」ハリウッド女優ミーガン・フォックス「児童虐待疑惑」に真っ向反論の〝裏事情〟(FRIDAY) - Yahoo!ニュース

映画『トランスフォーマー』などで知られる米人気女優ミーガン・フォックス(37)が、3人の息子たちへの「児童虐待疑惑」をツイッターで告発した政治家のロビー・スターバックに激怒し、ミーガンと息子を政治的に利用しようとしていると非難して波紋を広げている。米「TMZ」などが報じている。

 スターバックは自身のツイッターに、ミーガンが女の子の服装をした3人の息子と一緒の写真を投稿して、 《これはミーガン・フォックスの息子たちです。私たちは以前同じゲート付きコミュニティに住んでいて、子供たちは公園で遊んでいました。 そのうちの2人が、乳母が慰めようとするなか、母親に女の子の服を着るよう強要されたと言って、崩壊しているのを見ました。これは純粋な児童虐待です。彼らのために祈ってください》 とミーガンの児童虐待行為を告発した。

(中略)

ミーガンの元夫で子供たちの父親である俳優のブライアン・オースティン・グリーンも、 《このような話が本当なのかどうか、実際に確認できる人はこの世界では数人しかいません。まったくの虚偽と断言できます。 これが真実だと主張しようとするこの人物は、親子関係に悪影響を及ぼすことを気にしない利己的な人物の完璧な例だ》 とミーガンを擁護した。

ミーガンは‘21年、長男のノアが服で自分を表現するまでの道のりをサポートしたことや、ノアをいじめから守ろうとしたことを話していた。 「長男のノアは2歳くらいからドレスを着るようになり、私はこれらのことを扱った本を何冊も買って、これがどういうことなのか知ろうとしました。その本の中には、トランスジェンダーの子どもたちが書いた本もあります。

その中には、男の子でもドレスを着ることができる、服装で自分を表現することができる、といった内容の本もありました。そしてそれは、セクシュアリティとは関係ないのです」 と明かした。 「だから、彼らが幼い頃から、誰も自分たちが変だとか、奇妙だとか、違うとか感じないように、そういうことを彼らの日常生活に取り入れてきたわ」 と語っていた。

そして 「私の子供は勇敢。そういう生き方を選んだのには理由があると私は思っている」 とサポートすることを表明していた。 頭の部分ー米国では今年2月にテネシー州の共和党のビル・リー知事が、公共の場や未成年の前でのドラァグ・パフォーマンスを制限するための法律に署名するなど、LGBTQ+の権利をめぐる保守派とリベラル派の衝突が依然として存在するのも気になるところだ。 そうした中でのフォックスの主張が”逆流”に歯止めになるのか注目される。何はともあれ、論争に巻き込まれた子供たちへの影響が心配される――。

 

彼女は『ビバリーヒルズ高校白書』に出演していた、ブライアン・オースティン・グリーンの元妻で、バイセクシュアル。

ミーガン・フォックス - Wikipedia

ブライアン・オースティン・グリーン - Wikipedia

離婚はしているものの、ブライアンも一緒に女装した息子たちと出かけている画像があるので、ミーガンだけ非難されるのはおかしいと思います。

少なくとも、女装を嫌がった二人の息子(多分下の二人)については、問題があるのでは?

 

男の子にドレスを着せる習慣は、西欧の上流階級にありましたが…。

ブリーチング - Wikipedia

子供服の歴史、19世紀美少女図鑑、実は全員男の子⁉|日本で唯一!ファッション業界で”稼ぐ”ためのファッション史専門学校 (aoki7.com)

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“トランスジェンダーにされる子供たち”についての懸念-1

2023年07月04日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

前回の記事

『マイ・インターン』と『リトル・ガール』 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で、『マイ・インターン』を見ての感想というより、「懸念」を書きました。

抜粋:

「サシャは2歳くらいから、体は男の子で生まれてきたけど、心は女の子であった」と言い、「妊娠した時、女の子を願い、お腹の子が男の子であるのを知って落胆した。だからサシャは女の子になりたがるようになった。(←当然医師は否定)」と自分を責めていると母親カリーヌは言います。

映画に出るサシャは、7歳(8歳と父親が話しているらしい)にしては小柄ですが、話す内容が大人びているので、もともと精神年齢が高い子供でしょう。

そうであっても、「2歳の子供が自分の性別を認識し、それが「本当の自分ではない」とまで言う」というのは、本当なのだろうか?と疑問符が付きます。

私が子供のころ、従姉妹のようにして育った女の子に弟ができました。その男の子は、色白で華奢なうえ、髪の毛を短くすることをひどく嫌い、栗色がかった髪の毛を、肩より下まで伸ばしていました。(両親とも髪を切らせないのに参っていましたが、「ま、幼稚園に行くまでは好きなようにさせよう。」と鷹揚に構えていました。)

髪は長くて、色白、華奢でも、性格は普通の男の子。

彼があの頃、自分の性別を意識して髪を伸ばしていたようには思えなかったので、より違和感を持って観てしまいました。

パリの医師も、サシャの7歳前の成長記録(生まれてから7歳まで、サシャはいろいろな医師や保健師に検診してもらっているはず。)を見ずに、将来のホルモン治療についての話をするのもどうなのか。

「サシャの見かけが「女の子」に見えたこと」「女の子の恰好や遊びなどに興味を持ったこと」は、女の子が欲しかった母親にとってどうだったのか。(母親は女の子を死産。子供はサシャの前に男の子。サシャの次の子も男の子。)

「サシャがお腹にいるときに女の子を欲しがったことがサシャに影響を与えた」と彼女は自分をせめていたようですが、サシャが女の子に見えたことで、「実際の性別が間違いのはず。サシャは息子でなく娘として生まれてくれた」と先に思い込んだのは彼女ではなかったのか。

この母親は、医師との面談でも、サシャが答える前に、「こういうこともあったわよね。」と誘導していますが、小さいときからそうで、サシャはある意味洗脳された部分もあったのではないか。

映画には、サシャを女の子として認めない大人も子供もほとんど出てきませんが、彼らが単に「トランスジェンダーを認めない」からサシャのケースを認めないのか、それとも、サシャの母親、家族の行動を観てきた結果なのか。

もちろん、私の懸念が全く見当違いであれば、サシャを女の子として認めるべきとは思いますが、そもそも、片方の視点でしか描かなかったこの映画は好意的にはとらえられませんでした。

 

LGBTについては、欧州の18世紀からの歴史、フランキスト、サンシモン教を追っていくとどうしても関係してきてしまうので、今はカテゴリーを作って書いています。

「LGBT、ボヘミアン、小児愛」のブログ記事一覧-Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

今回、こちらの千石杏香さんの記事を見つけました。

興味がある方はどうぞ。

3.「トランスジェンダー」にされる子供たち。 - 「LGBT」というレッテルを貼られて。(千石杏香) - カクヨム (kakuyomu.jp)

「LGBT」というレッテルを貼られて。(千石杏香) - カクヨム (kakuyomu.jp)

 

参考:

女子として育った男の人生描く自伝的映画、G・ガリエンヌ監督が自身と母の2役を演じる | CINRA

ブレンダと呼ばれた少年 (deportarepartners.tokyo)

ミーガン・フォックス、トランスジェンダーの息子が苦しむ姿を見るのは「母親として辛い」と語る|ハーパーズ バザー(Harper's BAZAAR)公式 (harpersbazaar.com)

女の子として育てられていた | 有頂天日誌 (ameblo.jp)

息子を女として育てている | ママの交流掲示板 | ママスタコミュニティ (mamastar.jp)

 

オマケ:

子供服の歴史、19世紀美少女図鑑、実は全員男の子⁉|日本で唯一!ファッション業界で”稼ぐ”ためのファッション史専門学校 (aoki7.com)

ブリーチング - Wikipedia

歴史いろいろ話 - 男の子を女装させる風習 (syosetu.com)

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「LGBTの住みやすい社会」と「ノンバイナリー」-2

2023年06月27日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

前回、「「ノンバイナリー」は「両性具有」ほとんど同じでは」と書きました。

「両性具有」といっても、たぶん、性転換手術でわざわざ「両性具有」を最終目的で手術をする人はないと思うので、あくまで、心理的。

「自分の中の男性と女性のどちらとも決めないで、男性にも女性にも恋愛感情や性的興味を持つ人」を「ノンバイナリー」と呼ぶようになったのだと思います。

なお、バイセクシュアルは、「自分の性別(生まれた時の性別、その後の性転換の性別)があって、男女両方と恋愛感情や性的興味を持つ人。」

 

よく考えると、「レズ、ゲイ、トランスジェンダーで男性か女性を愛する人」の権利を守ることと、「バイセクシュアル」「ノンバイナリー」の権利って、次元が違いませんか?

「ノンバイナリー」は「LGBTQ]の「Q]に当たると思いますが、少なくともこちらは外した方がよさそうに思います。

 

「LGBTQ」の「Q」は「「Questioning」の「Q」」と説明するものもありますが、これはQueerの「Q]と読む場合もあるよう。

クィア - Wikipedia

クィア(英: Queer)とは、「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉。同性愛者への侮蔑語でもあったが、1990年代以降は性的少数者や、LGBTのどれにもにあてはまらない性的なアウトサイダー全体をも包括する用語として使われている。

概説
「queer」という言葉が英語圏では偽造酒や男性同性愛者のことを指したために、19世紀から20世紀にかけては、主にセクシュアル・マイノリティに対する蔑称、差別用語として用いられた。

1990年代になって、セクシュアル・マイノリティの一部の者たちは、侮蔑用語となった「クィア」を、異性愛やジェンダー・バイナリを規範とする社会に違和感を覚える性的指向、性自認、性のあり方、およびそのような自分達を言及する際の適切な用語として、自己肯定的に、過激的に用いる言葉に採用し使用するようになった。

「クィア」という語を学問領域で初めて肯定的に使用したのは、テレサ・デ・ラウレティス(英語版)(テレサ・デ・ローティス)である。彼女は、1990年2月に、カリフォルニア大学サンタクルーズ校で行われた、レズビアンやゲイのセクシュアリティを理論的に考える研究会議「クィア・セオリー」においてクィア概念を提唱した。

風間孝、河口和也、キース・ヴィンセント 『別冊id研』[1]によると、ラウレティスは、アメリカ合衆国において、「ゲイとレズビアン」という“ひとかたまり”の集団として扱われることについて、セクシュアリティについての差異がないかのように捉えられていることを問題提起する機会として会議を主催。そのときには、人種とセクシュアリティの関係についてなど、セクシュアリティという単一な概念から、多様で複数性のあるセクシュアリティーズや様々な潜在的な人を組み入れて言及できる言葉として「クィア」という語を使用した。

クィア(英: Queer)とは、「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉。同性愛者への侮蔑語でもあったが、1990年代以降は性的少数者や、LGBTのどれにもにあてはまらない性的なアウトサイダー全体をも包括する用語として使われている。

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「LGBTの住みやすい社会」と「ノンバイナリー」-1

2023年06月27日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

先に書いた、

『AJLT/セックス・アンド・ザ・シティ新章』-LGBTQの先進国アメリカの変化と「変わらぬもの」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ここのAJLTには、チェという人物が出てきます。

 

チェはトランスジェンダーで、ノンバイナリーでオープンマリッジ。

ノンバイナリーとは-

第三の性「ノンバイナリー」とは? トランスジェンダーとの違いも解説 | ELEMINIST(エレミニスト)

抜粋:

ノンバイナリーとは、自分の性認識に男性か女性かという枠組みをあてはめようとしない考え方を指す。バイナリー(binary)とは二つの要素で構成されているものを指す言葉で、ジェンダーバイナリー(gender binary)に由来する。

ジェンダーバイナリーは、性別を男性か女性の二択のみの生物的性で分類する考え方のことであるのに対して、ノンバイナリーとは男女二元論にとらわれない考え方と言ってよいだろう。

 

「チェ」に人物像は、確かに人間として魅力的に描かれていると思いますが、これに、オープンマリッジが入ると、もう「自分たちで好きにやってくれ」と、嫌悪感さえ感じます。
(ドラマでは、今のところ被害者はミランダの夫、スティーブだけですが、自分のしたいことを優先するということは、人を傷つけることも「権利」と考えていそうです。)

「ノンバイナリー」は「両性具有」とほとんど同じだと思います。

「LGBTQ」と「両性具有の社会」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ちなみに、彼らの代名詞は、単数であっても「彼ら」。

 

以前、女性と結婚していて、後に性転換したジョッシュさんのことを書きました。

Youtuberが中毒になると - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

チェが女性から男性の姿(たぶん性転換手術はしていない)のに対し、ジョッシュさんは男性から女子に性転換(妻は当然、本人の苦しみが伝わってきて胸が痛みます。)。

 

彼から彼女になった人が使用するトイレは女性用で問題ないと思うし、女性から男性になった人は男性トイレ(ただし個室)で問題ないと思います。

何故、トイレを男女共有にしたがるのかと言えば、やはりそこには「ノンバイナリー」の存在があるように思います。

 

追記:

2年くらい前だったか、息子の職場に、トランスジェンダー(男→女)の人が来た話を聞きました。その人は息子に「トイレの利用」を相談。あとで、息子が良く対応してくれたとお礼がきたようでした。

息子から男女用、どちらを案内したのか聞いていませんが、どちらを利用するにしても、たぶん他の利用者が入ってこないようにトイレの外で見張っていたのだと思います。

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『AJLT/セックス・アンド・ザ・シティ新章』-LGBTQの先進国アメリカの変化と「変わらぬもの」

2023年06月26日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

U-nextで、『AND JUST LIKE THAT/セックス・アンド・ザ・シティ新章』を観ました。(現在途中)

LGBTQ+への理解やアフターコロナを描く要素も|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 

第一シーズンの一話を見始めた時は「50代半ばで、おまけに一番人気の「サマンサ(キム・キャトラル)がいないのに、どうするんだろう」と好奇心で見始めたものの、「キャリー、トランスジェンダーのチェ、東洋系男性の番組の下品さについて行けずに、一度挫折しかけました。

しかし、なんとか気を取り直して続きを見始めたら、なかなか面白くなってきました。

ただし、それは私がこの年だからであって、若い人が面白く感じるかはわかりません。

でも50代、60代の恋愛や、異性愛者、同性愛者、トランスジェンダー、オープンマリッジ(ポリガミー、ポリアモリー)に興味がない人でも、「SATCのファッション」は楽しめるでしょう。

「AND JUST LIKE THAT…/セックス・アンド・ザ・シティ新章」<シーズン1>衣装スタッフ モリー・ロジャース スペシャルインタビュー映像 - YouTube

やっぱりキャリーしか着こなせない! 待望の“セックスアンドザシティ(SATC)リブート版”ドラマの最新ファッションスタイル - セレブリティスナップ | SPUR (hpplus.jp)

 

キャリーのハイヒール熱は衰えることなく。

ハイヒール/パンプスはすべての女性にとって苦痛か? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

#KuTooとメディア-Swissinfoのような記事が日本から出てこない不思議 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)


オマケ1:

Sex and the City 25th Anniversary | Official Trailer | HBO - YouTube


オマケ2:

新しいキャストの、インド系のサリタ・チョウドリ―は、

サリタ・チョウドリー - Wikipedia

『しあわせへのまわり道』で、インドから会ったこともないインド系アメリカ人に嫁ぐ未亡人、ジャスリーンを演じる女優さんです。

Learning to Drive Official Trailer #1 (2015) - Ben Kingsley, Patricia Clarkson Romantic Comedy HD - YouTube

SATC新章では、「自分で結婚相手を見つける(自分の人生は自分で決める)」という50代の不動産業のインド系アメリカ人を演じています。

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「LGBTQ」と「両性具有の社会」

2023年06月20日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

スナク首相たちの「嘲笑った映像」を観ていないので何とも言えませんが、最後の太字の部分は非難することでしょうか?

英スナク首相「“生物学”も18歳まで重点を」 “トランスジェンダー揶揄”発言か(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース

イギリスのスナク首相がトランスジェンダーの人たちに関連し、学校教育で「生物学にも重点を置く必要がある」などと発言したとする映像が流出しました。

トランスジェンダーの人たちを揶揄したとも取れる発言に批判が集まっています。

性的少数者のニュースを主に扱うイギリスのオンラインメディア「ピンクニュース」は18日、スナク首相がトランスジェンダーの人たちをあざ笑う発言をしたとする映像を公開しました。

スナク首相だとされるスピーチは、トランスジェンダーの人たちの権利を主張する野党党首の発言を引用した冗談を言い、会場には笑いが起きました。

また、スナク首相が肝いりの政策として打ち出している「18歳までの数学必修化」に触れたうえで、「”生物学”も18歳まで重点を置く必要がある」などと述べました。
こころの性とからだの性が一致していないトランスジェンダーの人たちを揶揄したようにも取れます。

「ピンクニュース」は映像が今月5日に非公開で開かれた与党・保守党内のパーティーで撮影されたものだと説明し、「スナク首相がメディアがいない場所では反トランスジェンダーの立場であることを示唆している」と指摘しています。
また、野党議員からは「トランス女性をジョークのオチに使うのはひどい」などと批判の声が上がっています。

スナク首相は今のところ、この映像についてまだコメントしていません。

トランス女性の権利をめぐる議論はイギリスでも続いていて、例えば、女性用のトイレやロッカーの使用をトランス女性にも認めるべきかどうかなどで意見が大きく割れています。
これについてスナク首相はマジョリティである「シス女性」の保護を重視する立場を表明しています。

 

「LGBTQの権利拡大」の動きは、「フランキスト」や「サンシモン教(アンファンタン支持者)」を思い出します。

確か、サンシモン教信者に「両性具有」を説いていた人もいたと思いますが、よく考えると、特に「バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア/クエスチョニング」の運動家は、社会を「両性具有」にしようと思ってるのではないか、と思えてきます。

両性具有 - Wikipedia

抜粋:

両性具有(りょうせいぐゆう)は、男女両性を兼ね備えた存在の事を指し、両性具有者(りょうせいぐゆうしゃ)、ギリシャ語よりandrogynos(アンドロギュノス/アンドロギュヌス)とも称する。

概要
ギリシャ神話では、ニンフのサルマキスに恋されて強制的に一心同体にされたヘルマプロディートスの話が存在する。後世の芸術作品では豊かな乳房を持った少年、あるいは男根を持った女性などの形で表現されている[1]。 日本神話の女神天照大神は中世の書物『日諱貴本紀』で両性具有神として描かれている。

両性具有の逸話として、プラトンの『饗宴』の中でアリストパネスが語ったとされる演説がある。この中でアリストパネスは、かつて男と女の他に「男女(おめ)」と称された両性具有者がおり、いずれも手足が4本ずつ、顔と性器も2つずつあったと説いた。ところが、ゼウスによってそれらを両断したため、手足が2本ずつ、顔と性器が1つずつの2人の「半身」となり、それぞれが残された半身に憧れて結合しようと求め合った。そして元々男女だった男と女が互いの半身、すなわち男は女を、女は男を求める事になった。それが男女の愛であると説いた。

原初の世界あるいは人間が両性具有だったとする神話は世界各地に存在する。原初への回帰を意図した成年式や結婚式といった儀式での異性との衣装交換などの形で残されている場合もある。

両性具有は哲学や錬金術やグノーシス主義などでもシンボリズムとして取り上げられる場合があった。

 

サンシモン教徒だったシモン・ガノーのwikipedia。

Simon Ganneau - Wikipedia

Google翻訳:

シモン・ガノー(1805年頃ロルムで生まれ、1851年3月14日にパリで死去)は、フランスの社会主義者、フェミニスト、彫刻家、神秘主義者であった。

同時代の他の社会主義者と同様に、ガノーはキリスト教を社会改革の呼びかけとして扱った[3]。 彼はバルテルミー・プロスペル・アンファンタンとサン・シモニアン哲学[2]、特に神を両性具有または両性愛者として見る点で影響を受けた[5]。 ガノーの著作では両性具有は人類の最終段階である宗教的救済に向かう動きとしてだけでなく、世界の統一とバランスに関する社会主義の概念を具体化するものとしても扱われている[2]。

ガノーは、マスターとパター、またはママンとパパ(「母」と「父」)を組み合わせたマパの称号を採用し、自分自身を新宗教の両性具有の預言者(ひげと女性のマントを着た)として表現した[6]。 「再定義された人類、エヴァダム」(イヴ・アダムより)と女性解放、男女平等、社会正義の新時代に関する彼の考えに基づいて、「エヴァダイズム」(フランス語: Evadaïsme)と呼ばれる。

  エリファス・レヴィによれば、ガノーも自分はルイ17世の生まれ変わりであると主張し、彼の妻はマリー・アントワネットの生まれ変わりであると主張した。 彫刻家であり元骨相学者でもあった彼は、パンフレットや「異様な外見をしており、間違いなく両性具有を象徴する」石膏像(どちらも「石膏」と呼ばれる)を通じて自身の考えを広めた。

パリのサンルイ島にある彼の屋根裏部屋のワンルームは、1830 年代後半に自分のアイデアを議論するためのサロンとして機能し、アレクサンドル デュマ、アルフォンス エスキロス、フローラ トリスタン、エリファス レヴィなど、当時の多くの社会主義者やフェミニストに影響を与えました。

ガノーは、1844 年のトリスタンのコレクション『The Worker's Union』[3]、および 1848 年の『La Montagne de la Fraternité』というタイトルの論文に寄稿しました。 ガノーには妻[6]と子供がいたが、1851年にガノーが亡くなったとき子供は5歳で、テオフィル・ゴーティエが東洋学者で考古学者のシャルル・シモン・クレルモン=ガノーに引き取った。


参考:

サンシモン主義者-5(Prosfer EnfantantとSaint=Simonianとスエズ運河) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

関連:

「LGBTは“個人の嗜好”」とするだけではいけない?-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「LGBTは“個人の嗜好”」とするだけではいけない?-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

仮置き:

ここでは全く関係ないのですが、ペリエ家関連で。

「ペリエ家とオルレアニスム」のブログ記事一覧-Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ドーフィネ出身の裕福な(プロスパー・アンファンタンの父は没落)アンファンタン一族は、クロード・ペリエの妹の嫁ぎ先と繋がっていそう。

ドーフィネ - Wikipedia

Marie Louise Enfantin (故人) - Genealogy (geni.com)

Pierre François Duchesne (1743 - 1814) - Genealogy (geni.com)

Rose Euphrosie Perrier (1748 - 1797) - Genealogy (geni.com)

Claude Périer, II (1742 - 1801) - Genealogy (geni.com)

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『アデル、ブルーは熱い色』とLGBTQ

2023年06月14日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

映画好き・Short Film-6 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で何本か、友人に紹介した映画の予告編のリンクを載せ、この中の『アデル、ブルーは熱い色』について書いたブログ記事だけリンクを張りました。

『アデル、ブルーは熱い色』-原題は『アデルの人生、第一章と第二章』 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

偶然でしたが、この映画と、末尾のフィンランド語の予告編しか見つからなかった、『愛の部屋、裸の2日間』というポルノ風邦題をつけられたフィンランド映画は、共に主人公がレズビアン。

(フィンランド映画の方のブログ記事はこちら、

『愛の部屋、裸の2日間』というポルノチックな邦題をつけられたフィンランド映画『2Nights Till Morning』 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ヤッコがホテルを好きな理由 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

『愛の部屋~』の方は、観る人によって受け取り方はほとんど変わらないと思うけど、『アデル~』の方は、観る人によって受け取り方、解釈が違う-なので、『アデル~』の私の感想を参考として付けたのです。

 

さて、感想を読み返して、「アデルのその後」に興味が出てきて、この映画の原作本(漫画)のフランス語版wikipediaを開いてみました。

Le bleu est une couleur chaude — Wikipédia (wikipedia.org)

抜粋フランス語翻訳:

物語の舞台は、20 世紀から 21 世紀にかけてのフランス北部のリールです。 クレメンティーヌが亡くなると、パートナーのエマは亡くなった人の両親の元へ行きます。クレメンティーヌは最後の願いとして、エマが自分の日記にアクセスできるようにしてほしいと頼んだからです。 エマはクレマンティーヌの父親の敵意に直面しなければなりませんが、母親は彼女をより親切に迎えます。 物語は、エマがクレマンティーヌの日記を読んだ後に続きます。クレマンティーヌの思春期からエマとの出会いから死の瞬間まで、二人の女性の関係の歴史全体をたどります。 クレメンティーンの日記は彼女が高校生のときに始まります。 彼女は最終学年の少年と出会い、二人ともお互いに好意を持っています。 しかしその直後、クレマンティーヌは路上で別の女性の腕に抱かれた青い髪の若い少女に出会った。 それは一目惚れです。 この出会いが忘れられず、クレマンティーヌは自分のセクシュアリティに疑問を抱き始める。

 

映画のアデルは、原作では「Clémentine」で、病気(脳卒中)で若くして亡くなることになっています。

映画で、クレメンティ―ヌを「アデル」に変えているのは、主演女性の名前からとったとか、映画向きの名前であるとか、の理由もあるでしょうが、「原作はあるけど、原作とこの映画は別」ということだったのでしょうか。

映画では、ゲイのパトロンがいる売れない俳優で、アデルを気にする若い男性(映画のendingでアデルを探し、追いかけていく。)が出てきます。彼が原作にもでてくるのかわからないのですが、私の勝手な印象では、「あの男性はもともとゲイであったわけでなく、映画界に入って何となく(それともゲイのパトロンに好かれて)ゲイ・トランスジェンダーになった人ではなかったのか。そもそもあれは監督の姿ではなかったか」でした。(つまり、監督自身が「LGBTG」の欺瞞の部分も知っている、ということを想像。)

 

2018年この映画で監督は、必要以上の濡れ場のシーンをやらせたことで、主演女優2人から抗議されました。

『アデル、ブルーは熱い色』のアブデラティフ・ケシシュ監督に性的暴行疑惑 (elle.com)

私も「濡れ場シーンはここまでしつこくやらなくてもいいのに・・」とは思いましたが、2013年の映画のシーンを5年もたって蒸し返すことに違和感があります。この時、監督による他の女優へのセクハラ疑惑があったから、「言い出せた」としても。

エマ役のレア・セドゥは、「祖父は、フランスの映画配給会社パテの会長、大叔父はフランスの映画制作会社の会長」という血筋なのですから、映画界のセクハラ(異性から異性、同性から同性)の連鎖に対抗してくれないものか、と思います。

(なお、コネはあれど、レア・セドゥは本当に演技力、魅力の備わった良い女優さん。『アデル~』は、彼女とアデル・エグザルホプスでなければ、あそこまで優れた作品にならなかったと思います。)

 

参考:

アデル、ブルーは熱い色 - Wikipedia

アブデラティフ・ケシシュ - Wikipedia

アデル・エグザルホプロス - Wikipedia

レア・セドゥ - Wikipedia

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「LGBTは“個人の嗜好”」とするだけではいけない?-2

2023年06月08日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

「LGBTは「個人の嗜好」」とするだけではいけない?-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の続きです。

王室のLGBTは、日本語版ウィキペディアに挙げられているだけでも、これだけいます。

Category:LGBTの王族 - Wikipedia

小姓となった男性は、その役目から逃れることができたのでしょうか?

 

今、問題になっているジャニーズ事務所前にも、米、英、フランスの映画界で餌食となった子役や若者がいて、声をあげるも、かき消されてしまっています。

女性だけじゃない!子供も危険なハリウッドの性犯罪事件簿(ELLE News) (line.me)

児童への性的虐待がハリウッドで…イライジャ・ウッド語る|シネマトゥデイ (cinematoday.jp)

米ハリウッドの大物プロデューサー、子役に性的虐待か 男性7人が告発 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

「LGBTを差別するな」と言いながら、こうした闇があることに焦点を当てないです。

欧州の王族が、子供まで性的搾取を行っていたかどうかはわかりませんが、「ゲイやトランスジェンダーの王族」に好かれたばかりに、性的お付き合いをすることになった彼らと、芸能界の大物の相手をさせられた人たちは、同じではありませんか?

 

ヘルムート・ケントラーの事件、知っている人はどのくらいいるのでしょうか。

国連と小児愛・「子供への性行為が問題ではなく問題は暴力行為」by ヘルムート・ケントラー - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

先月の記事ですが、欧米からの圧力、内政干渉にはうんざりです。

LGBT擁護の法整備を 15外国公館、日本に促す - 日本経済新聞 (nikkei.com)

米欧やオーストラリアなど15の在日外国公館が12日、LGBTなど性的少数者の差別反対と権利擁護を盛り込んだ法整備を日本政府に呼びかけるビデオメッセージを出した。エマニュエル駐日米大使が発表した。先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)開幕を控える中、取り組み強化を促した。

スウェーデンのヘーグベリ大使は「国に関係なく、誰にでも誰を愛するか決める権利がある」と強調した。フィンランドのヤースライネン大使は性的少数者の権利について「純然たる人権だ。あらゆる差別を過去の遺物にしよう」と語った。

 

私はLGBTの人たちに差別はなくすことに異論はないですが、彼らが生ききやすくするために、ほかの人たちが合わせるようにすることや、彼らがらみの犯罪にふたをするのは断固反対します。

LGBTの当事者だって、「政治に利用するな」と思っている人も多いのでは?

 

仮置き:

ブルームズベリー・グループ - Wikipedia

Bloomsbury Group - Wikipedia

シュールの本棚 (hatenablog.com)

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「LGBTは“個人の嗜好”」とするだけではいけない?-1

2023年06月07日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

1980年代半ばにニューヨークのブルーミンデールズ百貨店にいったとき、化粧品コーナーで私たち(一緒に行った友人と私)の前に、急に2mくらい身長がある,のっぽの白人男性。

彼は香水を勧める販売員でしたが、しゃべり方と仕草ですぐ、トランスジェンダーとわかりました。

彼に、「ノーサンキュー」といって通り過ぎた後、友人と顔を見褪せて、「あの人、いわゆる「お姉系」の人よね。(日本のデパートの化粧品売り場で、男性の販売員はいないだろうし、そして「お姉系」の人が販売員をすることもないだろうから、)。まさにニューヨーク!」と感激しました。

 

トランスジェンダー・・・21世紀になって日本で盛り上がります。

作者はその流行を意識したものではないでしょうが、2001年から2010年まで連載されて、途中ドラマ化、映画化した『のだめカンタービレ』。その中で、「真澄」というトランスジェンダーでゲイの人物が出てきます。

奥山真澄(おくやま ますみ):小出恵介
体は男だが心は乙女チックなティンパニ奏者。1981年1月4日生まれ。
千秋に片想い中で「千秋様」と呼んでいる。のだめの恋敵であり、「殺してやる!」と物騒な発言をする。アフロヘアとヒゲがチャームポイント。通称は「真澄ちゃん」。
千秋からは早々に腕前を買われていた。

のだめカンタービレ (テレビドラマ) - Wikipedia

 

「真澄」のトランスジェンダーをだれも気にしないし、男性に惹かれることも、友人たちは「そういう趣味の人」として自然に受け入れています。

真澄に好かれることは千明にとっては「迷惑」この上ないですが、だからといって彼を排除しようとしません。
「真澄」も千明に彼ら自身を否定されないことだけで満足しています。

この『のだめカンタービレ』の設定は、今だったら「千明」は「ゲイ差別者」とされてしまい、「真澄」の「片思いだけで幸せ」という言葉もアウトにされてしまいそうです。

しかし、トランスジェンダーも同性愛も、「そういう趣味の人」として受け取って、どうしていけないのでしょうか。

もし、真澄が実在していたとしたら、彼は「LGBTの権利」と叫ぶことはなかったのではないかと思うのです。

 

最近、ずっとフランスの王族や貴族、ブルジョアを調べていますが、「同性愛、バイセクシュアル」はとても多いです。トランスジェンダーを併せ持つ人物は少なそうですが、私が気が付いたフランスの王族や貴族には2人います。

まずは、フランソワ2世の父親のフランソワ1世。

フィリップ1世 (オルレアン公) - Wikipedia

抜粋:

フィリップ・ド・フランス(Philippe de France)またはフィリップ・ドルレアン(Philippe d'Orléans, 1640年9月21日 - 1701年6月9日)は、フランス・ブルボン朝の王族。フランス王ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュの次男でルイ14世の弟。オルレアン公(フィリップ1世)。ブルボン=オルレアン家(単にオルレアン家として知られる)の初代当主。

生涯

出生と同時にアンジュー公の称号を獲得、1660年に叔父ガストンが没するとオルレアン公の称号も手にすることになる。

6歳ごろまでは兄ルイ14世と比べて少々女々しい性格を作るために、時折女装をさせていたが、幼少期からドレスを着ることに興味を持つようになる。このことは家庭教師により国王に伝えられている。フィリップの女装好きは成人しても続き、女性のように指輪やブレスレットを身に着け、リボンやレースで身を美々しく装うことを好んだ。フィリップの最初の妻アンリエット・ダングルテールの親友ラファイエット夫人は著書『アンリエット・ダングルテール秘話』でフィリップの女装癖と周囲にちやほやされることで満たされるナルシズムを指摘、2番目の妻であるエリザベート・シャルロットは「公爵はダンスが上手だが、女性側の踊り方で踊る。彼は女性のようなハイヒール靴を好むので、男性側として上手に踊れなかった」と記している。サン=シモン公も『回想録』でフィリップの派手な着飾りを指摘している。

フランス宰相ジュール・マザランはイタリアのマンチーニ家の姪や甥をこの頃フランスに呼んでいるが、歴史家によると、若いフィリップに男色の手ほどきをしたのはフィリップ・マンチーニであったという説もある。フィリップはシャンボール城やオルレアンの領地を所有するだけでなく、多額の年金を国王から受けて生活した。この莫大な資産で作家のモリエールのパトロンとなり、パレ・ロワイヤルに音楽学校と舞曲学校を設立、援助し、多数の絵画コレクションや宝石を所有した。パレ・ロワイヤルは彼の住居であったが、ここはやがて豪華なフィリップの取り巻きたちの組織と化した。一方で賭博に取り憑かれ、莫大な借金を抱えては家財を売り出すこともたびたびあった[1]。

1661年3月31日に、カトリックに改宗した従姉のイングランド王女アンリエット・アンヌ(チャールズ1世と叔母に当たる王妃ヘンリエッタ・マリアの娘)と結婚した。フィリップは男色を好んだため、夫婦間の性生活は疎遠であったといわれるが、3人の子をもうけている。

フィリップは特にフィリップ・ド・ロレーヌや甥のヴェルマンドワ伯ルイ・ド・ブルボン(兄の庶子)など男性の寵臣を愛したことで知られる。イングランドとの友好を保つため一時フィリップは流刑となったが、1670年6月30日にアンリエットが突如死去すると(暗殺説もある)、フィリップを呼び戻すという条件でプファルツ選帝侯女エリザベート・シャルロット(愛称:リーゼロッテ)と再婚する。しかしその後も女装と賭博を好み、男性達と華麗な生活を繰り広げた。リーゼロッテとも疎遠となり、度々取り巻き達によるリーゼロッテへの嫌がらせを止めようともせず、取り巻きにそそのかされリーゼロッテを侮辱することもあった。

息子のフランソワ2世についてはこちらに書きました。

ペリエ家-番外編(オルレアン公フランソワ2世とサンシモン公ルイ・ド・ルヴロワ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

もう一人が、

ペリエ家-序(パリの上下水とカロン・ド・ボーマルシェ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

に書いた、シュヴァリエ・デオン

シュヴァリエ・デオン - Wikipedia

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国連と小児愛・「子供への性行為が問題ではなく問題は暴力行為」by ヘルムート・ケントラー

2023年04月30日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

「「国連」が、「小児愛」も認めようとしている」というような話を、個人のブログやYoutubeで観ました。

米国Yahooの記事によると、それは誤解であるらしいです。

Posts misrepresent UN position on sex between adults and minors (yahoo.com)

抜粋Google翻訳:

保守的なソーシャル メディアのインフルエンサーは、2023 年 3 月の報告書が、世界中の成人と未成年者の間のセックスの非犯罪化を国連が求めていることを示していると主張しています。 これは誤りです。 国際人権団体が刑法適用の手引きとして作成したこの報告書は、ネット上で誤って伝えられており、国連はAFPの取材に対し、そのような立場は取っていないと公言した。

 

「誤報」であるとしても、国連が「暴力的でなければ、小児愛もOK]と言いださないように、注目していくことは、大事だと思います。

参考:

少女買春が横行する国際支援の闇「国連支援隊員が6万人レイプ。小児性愛者3,300人雇用」専門家告発(木村正人) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

今回、この件について調べていた時に見つけた事件(逮捕することどころか、事件にさえならなかった事件)。

恐ろしい・・・。

小児性愛者に親のない子供たちを預けたドイツの「おぞましすぎる実験」の全貌 | 国の支援を受けながら行われたプロジェクトだった | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)

 

Helmut Kentler - Wikipedia

Google翻訳:

ヘルムート・ケントラー (1928 年 7 月 2 日 – 2008 年 7 月 9 日) は、ドイツの心理学者、性科学者であり、ハノーバー大学の社会教育の教授でした。 1960 年代後半から 1990 年代前半まで、ベルリン上院の承認と財政的支援を受けて、ケントラーはネグレクトされた若者を小児性愛者の独身の父親の家に里子として預け、表向きは父親を再社会化させ、性的接触を明示的に奨励しました。 里親とその病棟の間。 このプロジェクトは後に「ケントラー実験」または「ケントラー プロジェクト」と呼ばれた[1]。ケントラーはその著書の中で小児性愛と彼の同僚を擁護し、国際性研究アカデミーの元会長であるギュンター シュミットは、 ケントラーからの手紙で、13歳で息子と性的虐待関係を始めたことを認めている[2]。

教育と研究

高校卒業後、ケントラーは牧師になるために神学を学びたいと考えていました。 彼の父親は、彼が技術的な職業訓練を受けていると主張した. ケントラーは、カッセルの Lokomotivfabrik Henschel で鍵屋としての見習いを完了し、その後アーヘン工科大学で電気工学を学びました。 父の死後、彼はアーヘンでの勉強をやめました。 1953 年から 1954 年にかけて、彼は英語とフランス語の通訳者としての訓練を受けました [3]。 その後、スイスとドイツのフライブルクで心理学、医学、教育、哲学を学びました。 在学中、彼は若い労働者を対象とした実地試験に参加し、1959 年の著書『産業界における若者の労働』の中でそれを記録し、考察しました。 その中で、彼は依然として彼のキリスト教信仰を明示的に宣言しました(Rüdiger Lautmannによると、2008年のKentler for the Humanistische Unionの死亡記事によると)。 後の出版物では、これはもはや当てはまりません。 1960年、彼は心理学の主なディプロマ試験に合格しました。

プロテスタント教会の教育活動、科学への転換

学業を終えた後、彼は当初、Evangelische Academy Arnoldshain で青少年教育担当官として働いていました。 その後、1962 年から 1965 年まで、ノイハウス アム シュリールゼーの Studienzentrum Josefstal (プロテスタントの若者の仕事) で研究助手および「最初の教育者」として働きました。 彼が開発に決定的な役割を果たした解放的な若者の仕事の理論は、彼を全国的に有名にしました. 翌年、彼は PH ベルリンでクラウス モレンハウアーのアシスタントを務めました。 その後、彼はベルリン教育センターの社会教育学と成人教育部門の責任者となり、1967 年から 1974 年までは部門長を務めました。 1975 年にハノーバーで博士号を取得した論文「両親は性教育を学ぶ」は本としても出版され、1990 年代までに累計発行部数 30,000 部に達しました。 1976年、彼はハノーバー大学の特殊教育専門学校教師養成のための大学講師に任命され、1996年に退職するまで教鞭をとった。

キャリア

ケントラーは「解放的」青少年活動の提唱者の 1 人であり、1960 年代と 1970 年代の性教育の代表者と見なされています。 裁判所の専門家および子供と思春期のセクシュアリティの専門家としての仕事で、彼は専門家の間で認められました。 1979 年から 1982 年まで、彼はドイツ社会科学性研究協会の会長を務め、後に人文科学連合の諮問委員会に参加しました。 また、Deutsche Gesellschaft für Sexualforschung のメンバーでもありました。

ヘルムート・ケントラーにとって、理論と実践は生涯を通じて緊密に結びついていました。 解放的な若者の働きの理論の彼の発展は、彼の研究中の青少年と若い成人との彼の仕事と、彼が教会の教育機関で働いていた5年間の仕事から生まれました. 彼は理論と実践においてグループ教育とチームワークを、さまざまな専門的能力を持つ教育者の信頼と敬意に満ちた協力として実施し、若者と成人の学習と解放プロセスのための心理社会的つながりについての洞察を得ようと試みました.[5] これは、1960 年代の教会教育活動の新しい概念でした。 彼の専門的職務に加えて、彼はまた、教育実践のさまざまな分野で助言および教育の立場で働いていました. 1970年から1974年まで、彼はベルリン上院が後援するマックスドルファーシュタイクで、トレベゲンガーと逃亡したフュルソルゲの子供たちのための最初のヴォンゲマインシャフトの教育諮問委員会に参加しました。

ベルリンでの学生暴動の間、ケントラーは一時的に「警察問題の心理コンサルタント」として活躍した[7]。 コミュニティや共有フラットでのベルリンの学生の性的解放運動は、家庭での解放的な性教育の提唱につながり[8]、1975年の論文にも科学的に反映され、その後のコースで彼を性教育の専門家にしました。 彼の職業生活の。

1960 年代の終わりに、モデル実験で、彼は、彼が「二次的な精神障害者」と見なした何人かの無視された 13 歳から 15 歳の少年を、彼が知っている小児性愛者と一緒に配置し、これが彼らを社会に再統合し、許可することを可能にすると主張しました。 彼らは成熟した大人に成長します[9]。 それに関連する刑事犯罪のため、彼は、10年以上後に時効が満了した後にのみ、これを公開しました. ケントラーは、実験は小児性愛者にさらされることで子供たちが社会的安定を取り戻すのに役立つだろうと主張した. 彼は、大人が未成年者に性的行為を行う可能性が最も高いことを認識していました. このスキャンダルは 2015 年に公に議論され、上院青年局はゲッティンゲン大学の科学者 Teresa Nentwig に事件を調査し、彼女の調査結果を関連当局に転送するよう依頼した[要出典]。

1981 年の FDP の派閥聴聞会で、ケントラーは次のように報告しました。 1988年の裁判の結果は「完全な成功」である[9]。 当時、彼は時効のために刑事上の結果を恐れる必要はありませんでした. 彼はまた、ハノーバーでの教育活動中も元参加者と連絡を取り続け、1990 年代初頭のベルリン家庭裁判所の専門家意見では、虐待された若者の 1 人が小児性愛者の養父と一緒にいることを勧めました。 教育的な天賦の才能[11]

ケントラーは独身で同性愛者で、3 人の養子 [9] と 1 人の養子 [11] がいました。

(中略)

子供は思春期前でも性的ニーズを持つことができるという彼の見解に基づいて、彼は、仲間同士または大人との自発的な性的相互作用と、子供の性的虐待とを区別しました。 [17] ケントラーは、大人による子供へのレイプや性的虐待を心配しないように両親に警告した: 大人が思いやりと優しさを持っていれば、子供は彼との性的接触を楽しむことさえできただろう. ケントラーは、大人と子供の間の平等で差別のない性的関係は容認できると考えた:「そのような関係が環境によって差別されない場合、年上の人が年下の人に対して責任を感じれば感じるほど、人格形成にとってより肯定的な結果が得られる可能性があります。 期待されている」と、彼は 1974 年にパンフレット Zeig mal! の序文に書いた[19]。

法廷専門家としての活動

ケントラーは、虐待事件の法医学の専門家としても活動しました。 1997年、彼はそれまでに扱った約30件の事件について次のように宣言しました。 ケントラーは、子供を持つ大人の性行為が不正の原因ではなく、使用された可能性のある暴力に起因すると考えています。 しかし、これは、真の小児性愛者は暴力を使わず、逆に「子供へのダメージに非常に敏感」であるため、異例であると彼は信じていた[20]。 1999年、ケントラーは「私が専門家証人として同行した罪のない人々に対する約35件の訴訟」についての本の出版を発表したが、その後、原稿(性的虐待の疑いのある親)は未出版のままにした. 同年、彼は次のように宣言した。

[...] 私は [...] 大部分のケースで、小児性愛の条件が少年の人格形成に非常に良い影響を与える可能性があることを経験しました。 [22]

受信

ケントラーは、彼が知っている小児性愛者に若者を配置したという事実を隠しませんでした。 彼は 1989 年に彼の著書 Leihväter でそれについて報告しました。雑誌 EMMA が 1993 年の彼の活動について報告した後、彼は 1993 年にハノーバーでのイベントでフェミニスト活動家によって怒鳴りつけられ、聴衆から顔を殴られました。 ]

Jan Feddersen は、2008 年 7 月 12 日の Tageszeitung の死亡記事で、ケントラーを「寛大な性道徳のための功績のある戦闘機」として称賛した [23]。 一部のプロテスタント教会当局は、同様の意見を表明しました。 死亡記事の中で、プロテスタント青年活動研究センターは、ケントラーの物議を醸す立場を指摘したが、「制度的構造と職業上の社会化」のための彼の仕事と、教会で同性愛を社会的に受け入れられるようにする試みも認めた. ドイツのプロテスタント青年作業部会は、教会会議の動議の後すぐに死亡記事を削除しましたが、ケントラー研究センターは、動議で広く提示された、子供を性的搾取にさらしたという彼の不正行為に対処することなく、ケントラーを擁護しました. むしろ、ヘルムート・ケントラーは「ヨーゼフシュタルにおける概念の発展と学生の研究プロジェクトに、今日まで永続的な影響を与えてきた」[24]。

ヒューマニスト ユニオンは、ケントラーの人柄と作品群に前向きな敬意を表します。 彼の死亡記事では、次のように述べています。 ハビトゥスは、有能さ、信憑性、親密さの特質をまれな方法で組み合わせ、ケントラーは読者と聴衆の両方に感銘を与えました...彼はすぐに共感を呼び起こしたので、多くの人が彼に打ち明けました."[25]

(中略)

2013 年 10 月の Die Zeit で、Adam Soboczynski は Kentler を批判的に調べました。 ケントラーがヴィルヘルム・ライヒに関連して主張したように、1960年代の終わりに、反ファシズムと性的解放との関係に基づいた感受性の欠如により、ダイ・ツァイトは「小児性愛者に優しい科学者」に出版の機会を提供した、とソボジンスキーは説明した。 [29] Georg Diez はシュピーゲル オンラインのコラムでこのテキストを批判しました。 彼のテキストは、一連の強迫観念的で混乱した 68er 運動との和解と見なされており、彼はほとんど証明できない「きつくねじ込まれた主張」を行っています。 たとえば、性的解放は反ファシストのプロジェクトと見なされていた[30]。

[11]

ケントラーに対する申し立て

2015年、世論の圧力を受けて、ベルリン上院政府はゲッティンゲンの民主主義研究所の政治学者テレサ・ネントヴィヒに、青年福祉局の支援を受けて1960年代後半にベルリンで行われたケントラーのペドセクシャル「実験」に関する研究を委託した。 この文脈において、ベルリン教育上院議員のサンドラ・シェーレスは、当時の「実験」を国家責任の犯罪と呼んだ[31]。 2017 年に責任ある上院議員に連絡した影響を受けた人々は、サポートの欠如について失望を表明した.[32] 2017/18年、Nentwigはニーダーザクセンでケントラーの活動の影響を調査するよう依頼されました。 ケントラーはまた、ハノーバーで行動上の問題を抱える若者に対処し、ハノーバーの青少年福祉事務所とも連絡を取り、彼らに代わってレズビアンのカップルの最初のケアに科学的サポートを提供することになっていましたが、カップルが 個人的な理由でケアをやめることを決めた[33]。 ケントラー自身が養子や養子、または家庭教師の生徒などの若者に性的暴行を加えていたかどうかは未解決の問題ですが、[34] 同僚のギュンター・シュミットは、ケントラーが性的虐待を明らかにしたと主張しています。

(後略)

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多情と色情と超自由恋愛主義-序(ムンク)

2023年04月04日 | LGBT、ボヘミアン、小児愛

ノルウェーの画家フリッツ・タウロウ&デンマークの画家エミール・カールセン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

はフリッツ・タウロウの親類がエドヴァルド・ムンクであることを書きました。

エドヴァルド・ムンク - Wikipedia

抜粋:

ムンクは1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県ロイテン(英語版)に生まれた。父クリスティアン・ムンク(1817年 - 1889年)は医者であり、1843年から船医、1849年からは陸軍軍医を務めノルウェー各地の駐屯地を転々としていたが、1861年にラウラ・カトリーネ・ビョルスタ (ノルウェー語版)と出逢い間もなく結婚した。2人の間にはエドヴァルドの前に長女ヨハンネ・ソフィーエ(1862年生)が生まれていた[1]。エドヴァルドが生まれた直後の1864年早々、一家はクリスチャニア(現オスロ)に移り住んだ。ここで次男ペーテル・アンドレアース(1865年生)、次女ラウラ・カトリーネ(1867年生)が生まれた。しかし母ラウラ・カトリーネが結核に冒され、いったん持ちこたえて三女インゲル・マリーエ(1868年生)を産んだものの1868年12月29日に亡くなった。以後、母の妹カーレン・ビョルスタ (ノルウェー語版)がムンク家の世話をすることになった[2]。

ムンクの父はもともと信心深い性格であったが、妻の死後は狂信的なほどキリスト教への信仰にのめり込み、子どもたちを叱るときは異常なほどに厳しかった。ムンクは父の狂信的な考えに反発して口論した日の夜、父の寝室を覗き、父がベッドの前にひざまずいて祈っているのを目撃して衝撃を受けたことを後に回想している。ムンクはその光景をすぐにスケッチに描くことによって、ようやく落ち着いて寝入ることができたという[3]。ムンクは「病と狂気と死が、私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」と語っている[4]。

1875年、一家はクリスチャニア市内のグリューネル・ルッケン地区に引っ越した。しかしその後、ムンクは慢性気管支炎を患った。ムンクの手記によれば1876年末頃、彼は血を吐き結核だと思い自分の死が近いことを覚悟した[5]。さらに姉のヨハンネ・ソフィーエが結核に感染し、1877年11月15日に15歳で亡くなった[6]。ムンクにとって姉は、きょうだいの中でも特別で、亡き母に代わって愛情を注いでくれる存在であったため衝撃は大きかった[7]。こうして身近に「死」を実感したことが後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』(1893頃)『病める子』(1886)といったムンクの初期の諸作品では直接のモチーフになっている[8]。

ムンクは通っていた学校を1879年に中退している。この頃から画家になりたいという希望を持っていたが父の反対に遭い、技師になるためクリスチャニア工業学校に通うことになった。しかしムンクはリューマチ熱のため欠席が続き1880年11月8日に退学。その日、ムンクは日記に「僕の運命は今や――まさに画家になることだ」と書いている[9]。

それまでも水彩画や鉛筆画で風景や家屋のスケッチをしていたが、ムンクの日記によれば1880年5月22日に油絵用の画材一式を買い、5月25日に古アーケル教会を写生している[10]。

王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン
ムンクは父を説得し、同年(1880年)12月16日、ノルウェー王立絵画学校(現・オスロ国立芸術大学)の夜間コースに入学した。1881年8月にフリーハンド・クラス、1882年夏頃にモデル・クラスに編入した。ムンクはこの学校で健康を取り戻し、教官の彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーンの指導を受けた。また、同年(1882年)初め頃、友人6名とともにカール・ヨハン通りの国会広場に面して建つ「プルトステン」ビルの屋根裏にアトリエを借り、そこで画家クリスチャン・クローグの指導を受けた[11]。ムンクは後に「私を彼の弟子の一人とみなすのはどうしても無理がある。……とはいえ、私たちはみなクローグを非常に好ましく思い、また立派な画家と考えていた。」と書いている[12]。

同年(1882年)夏、ヘードマルク県に滞在し、同年秋にはクリスチャニア西郊をスケッチして回った。1883年秋、親類の画家フリッツ・タウロウが主催するモードゥム(英語版)野外アカデミーに参加して制作や討論を行った。これがきっかけで、クリスチャニア・ボヘミアンという当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる[13]。この年(1883年)、彼は産業及び芸術展覧会に油絵『習作・若い女の頭部』、第2回秋季展(芸術家展)に『ストーブに火をつける少女』を出品した。さらに、1884年の秋季展(官立芸術展と改称)に『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』を出品したが、ノルウェー国内では酷評された[14]。

一方、フリッツ・タウロウはムンクの才能を認めており、ムンクにパリのサロンを見学する機会を提供したいと同年(1884年)3月、父クリスティアンに支援を申し出ている。ムンクの病気のためパリ行きはいったん延期されたものの、1885年5月に友人の画家エイヨルフ・ソート(英語版)とともにパリに向かった。そこでサロンとルーヴル美術館に通い詰め、エドゥアール・マネの多くの作品に接して、色彩の表現や、画面の中の一点を強調する技法を学んだ[15]

(中略)

この頃、クリスチャニア・ボヘミアンのリーダー格であるアナーキスト作家のハンス・イェーゲルと知り合った[22]。伝統的なキリスト教的道徳に公然と異を唱え、自由恋愛主義を訴えるイェーゲルに、当時のクリスチャニアの若者たちが熱狂したのと同様、ムンクもその信奉者となった[23]。ムンクにとってボヘミアン時代は、霊感と活気を与えてくれる時代であったが、同時に独断主義的なボヘミアンのメンバーに対して「反吐の出そうな馬鹿者」と嫌悪感を表してもいる[24]。また、ムンクは1885年から数年間、人妻ミリー・タウロウ[注釈 2]との禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをした。


ミリー・タウロウはフリッツ・タウロウの弟カールの妻でした。

 

1970年頃まで、北欧は「フリーセックス」と結びつけられていたと思いますが、改めて考えると、この「クリスチャニア・ボヘミアン」のイメージが強かったからでしょうか。

クリスチャニア・ボヘミアン - Wikipedia

クリスチャニア・ボヘミアン(英語: Kristiania Bohemians, ノルウェー語: Kristiania-bohemen, クリスチャニア・ボエーム)は、1880年代、ノルウェーの首都である当時のクリスチャニア(現オスロ)で生まれた、ボヘミアニズムを標榜する芸術家たちによるグループ、運動。

概要
グループの中心人物は、画家クリスチャン・クローグや、作家ハンス・イェーゲルであった[1]。ハンス・イェーゲルは、1885年に著書『クリスチャニア・ボヘミアンより』を発刊し、このグループをこう呼んだ[2]。

文学的には、フランスのエミール・ゾラやギュスターヴ・フローベールの自然主義に影響されていた。政治的・社会的には、恋愛・性の解放を訴え、社会主義や無政府主義への傾斜をはらんでいた[2]。

クリスチャン・クローグが主宰していた芸術新聞『印象派』は、1889年2月、次の「ボヘミアンの九つの戒律」を掲載し、伝統的なキリスト教的道徳への徹底的反抗、自己中心的な英雄主義を明らかにしている[3]。

汝は自己の生涯を語らねばならない。
汝はあらゆる家族的係累を断ち切らねばならない。
両親はどのようにひどく扱ってもよい。
汝は汝の隣人から、必ず5クローネ以上の金を搾り取らねばならない。
汝は、ビョルンスティエルネ・ビョルンソンのごとき百姓は全てこれを憎悪し、軽蔑しなければならない。
汝は、決して安物のセルロイド・カフスを用いてはならない。
クリスチャニア劇場においては、あらゆる機会を利用してスキャンダルを起こさなくてはならない。
汝は決して後悔してはならない。
汝は自ら命を断たねばならない。

また、ハンス・イェーゲルは、ボヘミアンの綱領について、次のように書いている[4]。

現代は青年期である。青年期とは、すなわち、自分の力で経験を勝ち得るとき、それが育った環境が成長を拒み、不具にする〔……〕そういう時代なのである。自分の力で経験を勝ち得、それゆえに環境を変えていこうとする青年、同じ運命を耐えねばならぬ来たるべき世代を解放してやる、こういう青年が現代的なのだ。
若者たちは、頽廃的な生活を送り、アルコール中毒、梅毒、自殺などに終わるケースも多かった[5]。

画家エドヴァルド・ムンクも、このグループに参加して、ハンス・イェーゲルやクリスチャン・クローグと交友し、大きな影響を受けた。それと同時に、ボヘミアンの連中について「絵についてのきりのない長話で人を苛つかせること以外に丸一日何もしやしない」、「反吐の出そうな馬鹿者」だと罵っている[5]。

ハンス・イェーゲル - Wikipedia


(17世紀生まれのエマヌエル・スヴェーデンボリは「不倫」などを認めてなかったようです。

エマヌエル・スヴェーデンボリ - Wikipedia

 

参考:

自由恋愛主義 - Wikipedia

ギュスターブ・フローベールの手紙~Greek Love - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

同性愛、バイセクシュアルな著名人たちの研究を - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

 

仮置き:

List of gay, lesbian or bisexual people: F - Wikipedia

Joseph Fiévée - Wikipedia

Casimir Pierre Périer - Wikipedia

Claude Perier - Wikipedia

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