Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

『年の終わりに-2014』 by M氏

2014年12月30日 | 

今年も、M氏から届いた『年の終わりに』を、個人的報告事項を省略して転載させてもらいます。 

「2014年も残り少なくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。 

(中略)

 この1年間、日本経済は概ね順調な推移を見せました。日経平均株価は18000円に迫る水準まで戻し、大企業を中心にボーナスも増えているようです。一方で、全体の実質賃金は低下していて、また「円安」による原材料コスト増が国内志向産業や一般消費者に悪影響を与えているのも事実でしょう。

4-6月期の実質GDPが大きくマイナスとなることは、もともと予想されていましたが、それに続く7-9月期が予想に反して芳しくない結果。これを踏まえて安部政権は消費税の再増税延期を決断して総選挙に踏み切りました。結果はご存じのとおりの与党の圧勝(というより現状維持)で、今後しばらくは政権は安定するでしょう。

民主党の党勢は回復せず、「健全な対立軸を持つ2大政党による政権交代の可能な社会」といったものはますます遠のいているように思えます。米国の共和党と民主党は、ある程度の統治思想の違いを持っていて、州や国の議員選挙でも大統領選挙でも、常に僅差の結果となります。

日本の場合、自民党に対抗する勢力ができるためには、現在バラバラの野党が結集しなければなりませんが、その場合(1)自民党との対立軸(ひとつではなく、かなりの数の)をどう定めて、その旗の下に結集できるか(2)経緯があって出来たとは言え、小選挙区比例代表並立という今の中途半端な選挙制度をいかにドラスチックに改革できるか、が鍵となると思います。

自民党との対立軸を明確にするのは難しいですが、広く国民の関心の高い「経済政策」「社会保障」「外交・安全保障」「行政府・公務員改革」などで、民主党が中心となってあえて明確な軸を出して野党再編の中心となる必要があります。選挙制度については、米国の制度がすべて良いわけではないが、米国では上院・下院共に小選挙区一本(上院は州ごと、下院は人口比例の小選挙区で)となっています。

小選挙区で落ちても比例で復活できたり、国政を担うには程遠い得票率しか得られない政党が「比例区」で議席を得ることができるような、今の日本の仕組みを変えるべきだと思います。さらに言えば、衆議院との間に機能上大きな差のない参議院は、もはや不要ではないでしょうか。国会議員の定数削減や1票の格差是正も大事ですが、その先に根本的な改革が必要だと考えます。

 「日本経済は概ね順調な推移を見せた」と申し上げました。確かにそうなのですが、昨年末に申し上げたとおり、本来今年4月の消費増税が間違いでした。4月の増税さえなかったら、大規模な金融緩和による円安・株価上昇が実態経済に効いてデフレが払しょくされ、名目GDPが大幅に上昇していたはずで、その軌道に完全に乗る前に増税したのは失敗だったと断じます。

この失敗を繰り返さないためにも次回の増税のタイミングは慎重に検討してほしいと思います。今回の再増税延期で、何が何でも2017年4月には再増税する、という方向になりそうですが、そうではなく、その時の状況によって柔軟に判断することが必要です。国家財政の多少の改善のために、国家経済が破壊されてはなりません。

 景気は「気」から、と言います。大震災以降落ち込んでいた日本国民の気分もそれなりに持ち直してきましたが、まだまだ十分とは言えません。明るく前向きに、多少乱暴でも「根拠なき楽観主義」をもっていきましょう。

先々の不安を並べ立てれば数々あるのは事実ですが、それを心配して個々人が委縮したら日本経済・社会全体が委縮します。個人の防衛行動としては正しいことが全体の足を引っ張るという「合成の誤謬」が生じます。特に60歳以上の世代(特に人数の多い団塊およびそれに続く世代)に訴えます。自分自身痛感しておりますが、1年先に生きている、という保証はどこにもありません。

言えることは、「この1年元気に生きた。目先も当分は大丈夫だろう。」という程度でして、だとすれば、何の遠慮もせずに、今したいことを今しましょう。何でもよいのです。60歳以上の世代、大体女性陣はとても元気に動き回っていますが、男性陣の元気がありません。もはや怖いものは何もないはずですから、もっと元気をだしてガチャガチャと世間をひっかきまわしましょう。

若い世代にも、もっと元気になってほしいと思います。そのためにシニア世代に多少の負担増があっても、喜んで明るくそれを受け入れましょう。
未来は、若い世代と、さらに若いその子供たちのためにあるのですから。 

(後略)」 

M氏の見通し、見解すべてが私と同じというわけではありませんが、選挙制度改革の必要性についてのほとんどの意見(M氏の「参議院はもはや不要」という部分については、私は、(現在はそうでも、)長い目で見て不要とは思いません。)と、「未来は、若い世代と、さらに若いその子供たちのためにあるのですから。」いう結びの言葉は、本当にそうだと思います。 

皆様、それでは良いお年をお迎えください。 

参考:

『年の終わりに-2013』by M氏
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/65aba5eaefd03ef6ec1623e587e37da8

『年の終わりに-2012』by M氏
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/1f9928c8e65f999df7f784efbde2ee57 

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世紀末ではないけど『世紀末の香り』を

2014年12月28日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

大掃除や信念の準備に忙しい方々、一休みのときに- 

1981年のフランス映画、『愛と哀しみのボレロ』は、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフ、ドイツ人指揮者のカラヤン、アメリカ人のグレン・ミラー、ソ連のバレエダンサー、ルドルフ・ヌレエフをモデルとした人物もでてくる(「モデル」というより、職業やエピソードを使っただけ、というほうが正しいかも。特にピアフをモデルとした役は、その性格と運命は本物と正反対。)、1930年代から1980年前後にかけて、4家族三世代(一人の役者が二役)およびそれにかかわる人達を描いた映画です。

1980年代は、『愛と青春の旅立ち』『愛と追憶の日々』『愛と哀しみの果て』と、『愛と○○の××』と、映画に題名をつけるのが流行りましたが、それはこの『愛と哀しみのボレロ』のヒットにあやかったものか。 

1970年代までの日本では、イギリス、フランス、イタリア映画がメジャーな映画館で公開されていましたが、1980年代前半以降は、メジャーな映画館で上映される映画は、ほとんどがハリウッド映画になっていったのではないでしょうか。 

この『愛と哀しみのボレロ』はフランス映画いえども舞台も俳優も多国籍なので、正統的なフランス映画とは言えないと思いますが、ヌレエフのモデルを演じるジョルジュ・ドンが踊るボレロとともに、(日本で)消えゆく欧州映画の最後の大作として、記憶に残っています。 

さてさて、今日、こんな30年以上も前の映画のことを書いたかといえば、実はこの映画のなかの一曲がクリスマスからなぜか頭に浮かんでしまっていたからです。
それは、『世紀末の香り』という、歌手を演じるジェラルディン・チャップリン(チャールズ・チャップリンの娘)とマニュエル・ジェラン(マリア・シュナイダーの異母の姉弟)が歌うもの。(吹き替えかどうかわからず。) 

Les uns et les autres - Un parfum de fin du monde
https://www.youtube.com/watch?v=k_PYlcpkwtU 

(さらに、この上のYoutubeの始まりが少し切れて始まっているので、別のものを探していたところ、作曲したミッシェル・ルグラン自身が歌うものをみつけました。 

Michel Legrand - Un Parfum De Fin Du Monde
https://www.youtube.com/watch?v=E0pXocHgdm0 

映像の夜景がとてもきれいです。これ、どの都市でしょうか。わかる人いませんか?※友人から「ブエノスアイレスに似ている」という声が。おそらくそうで、オベリスクがある通りは「7月9日通り(Avenida 9 de Julio)」だと思います。) 

上の歌もですが、映画のエンディング、ボレロのショーもあわせて、年末の大掃除中の方々も、ご一緒にどうぞ。 

Ravel - Boléro (Les Uns et les Autres) Claude Lelouch - 1981
https://www.youtube.com/watch?v=SKeWJo1E780 

(ジェームズ・カーン(彼は同時進行で父親・息子を演じていますが、父親役の場面)の隣に座っている金髪の若い女性は、新人の頃のシャロン・ストーンです。この映画には、フランスの大物女優となったファニー・アルダンも端役で出ています。) 

参考:
ウィキペディア
愛と哀しみのボレロ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%A8%E5%93%80%E3%81%97%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%83%9C%E3%83%AC%E3%83%AD

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先進国で「教育投資が格差是正」というのには無理があるのでは?

2014年12月26日 | 経済

OECD東京センターの2014年12月9日の記事より。

OECDによると、所得格差は経済成長を損なう
http://www.oecd.org/tokyo/newsroom/inequality-hurts-economic-growth-japanese-version.htm 

最新のOECD分析によると、所得格差を是正すれば、経済成長は活性化されるでしょう。所得格差の縮小している国は所得格差が拡大している国より速く成長すると分析しています。

成長にとって最大の問題は、下位中間層及び貧困世帯とそれ以外の社会層との格差が拡大していることです。重要なのは教育で、格差が成長を損なう主な要因は貧困層の教育投資不足です。

アンヘル・グリアOECD事務総長は「この説得力あるデータは、大きく、さらに拡大しつつある格差問題に取り組むことが、力強くかつ持続可能な成長を促進する上で重要であり、こうした取り組みを政策論議の中心に据える必要があると示している。幼少期から万人の機会均等を促進する国は、成長し、繁栄する。」と述べました。

推計によれば、メキシコとニュージーランドでは、格差拡大が過去20年間の成長率を2000年代後半の経済危機までに10%以上押し下げました。イタリア、英国、米国では、所得格差が拡大していなければ、累積成長率は6-9%高く、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーでも、低水準からではあるものの、成長率はより高くなっていたでしょう 。他方、スペイン、フランス、アイルランドの場合は、経済危機前の格差縮小が1人当たりのGDPの増加に寄与しました。

本ワーキングペーパーは、格差が経済成長に影響を及ぼす主要なメカニズムは、貧しい社会経済的背景を持つ子どもの教育機会を損ない、社会的流動性の低下をもたらし、技能開発を阻害することによるという新たな研究結果を示しています。

(後略)

これは、言ってみれば、OECDが新自由主義に反旗を翻したということでしょうか。
ともかくも、今OECDがこういったところで、現在の勝ち組たちおよびほとんどの国の政治家たちには説得力はないでしょう。 

さて、それにしても、このなかの「重要なのは教育で、格差が成長を損なう主な要因は貧困層の教育投資不足です。」という意見、良識派の知識人も皆これを言いますが、もう現在は、この意見は、発展途上国にしかあてはまらないのではないか、と私は思ってしまいます。 

例えば日本。「大学や大学院で教育を受ければ将来良い仕事につける」という常識が今もまかりとおっていて、不況になるほどに塾業界は大儲け、分数の計算ができない生徒がいる、ということで、算数の補習までするような大学までが存在するようになってしまいました。 

教育費をつぎ込むのは富裕層だけではなく、中流や中流以下の家庭でも、生活費を切る詰めても塾の費用を捻出。(そこまでしても、嫌々勉強を強いられた子たちの場合は、入る大学のレベルは知れたもの。)
中流以下の家庭では、大学費用は奨学金を利用するというケースもありますが、就職できずに借金だけが残ることで、経済的にも精神的にも追いつめられていきます。 

今年の7月、下村文部科学相が、「2030年までに公的教育予算を10兆円増やし、高等教育も無償化」などという構想を著書で発表したそうですが、質の低い大学を野放しにしたまま、「大学に行けば将来明るい」といって注ぎ込んで、本当にこれ、国民のためになるのでしょうか? 

そもそもそのお金はどこから捻出するのか。現状で国がやるべきは、ありえないくらいに高い大学の受験料(一般入試平均私立35,000円、国公立17,000円)家計を気にして、センター試験だけ受験したり、ランクを落として確実に入れるところしか受けない子もいます。)の補助、第一志望の大学の結果待ちのために無駄にすることがある入学費用(私立30万前後)の整備、そして、誰でも入れるような大学をなくすこと、公的仕事はもちろん、企業に、「大卒以下の学歴の人の雇用」を推進させることではないか、と思います。 

話が格差是正から飛んでしまいましたが、国も国民(親)もいい加減に「ツボを買えば幸せになる」というのと似た「大学にいけば幸せになる」幻想から目覚めるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。 

なお、格差ですが、これを否定する前に、まずは「富裕層の税率アップ」からだと思うのですが、ぜったいにOECDは言わないでしょうね。 
(ま、富裕層が税率が低い国に移住しちゃうからですが、年中帰ってきたり、商売を元の国でする人には、何かしらのペナルティ(もしくは大口寄付や社会事業をさせる)を課したら良いと思います。)

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1914年のクリスマス

2014年12月24日 | 

Merry Christmas! 

さて、今から100年前の欧州は、第一次世界大戦まっただなか。

この年のクリスマスホリデー、西部戦線では、ドイツ軍とイギリス軍兵士たちが銃を置き、、一緒に讃美歌を歌い、お酒を飲んだり、食物やたばこを交換したり、家族の写真を見せ合ったりしました。
(このクリスマスの休戦は、1915年も一部では行われたようでしたが、2016年までには上部の命令で、なくなったようです。) 

平和な今、クリスマスにこんな話をするのは無粋と言われそうですが、100年目のクリスマスイブに再度取り上げようと思っていた話です。 

Wikipedia
Christmas truce
http://en.wikipedia.org/wiki/Christmas_truce 

この実話を元に作られた映画『戦場のアリア』のtrailerのリンクを貼り付けます。 

Joyeux Noel Trailer
https://www.youtube.com/watch?v=KRrr-CDXijs 

参考:
『1914年のクリスマス~「撃て」と命じる者たちは 死にもしないし傷つきもしない』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/1f80972918cce19c43bad56b44fb1807
 

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We'll be watching you (”Every Breath You Take”の替え歌より)

2014年12月21日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

80年代のPolice(Sting スティング)の歌、
Every Breath You Take(見つめていたい)
https://www.youtube.com/watch?v=OMOGaugKpzs 

この曲は、洋楽を聴くことがない人でも耳にしたことがあると思いますが、一般的には熱烈な愛を歌ったものだと思われています。
「君のことをずっと見つめているよ」と。 

しかし、実のところ、この歌はスティングが最初の妻との離婚の泥仕合の時期にピアノの前に座り、30分で作り上げたもの。ストーカー的に「オマエを見張っているからな」という意味合いで作られたものらしいです。
(この時、彼は、オーウェルの『1984』のビッグ・ブラザー(監視社会の象徴)を頭に描いていたそうです。) 

しかしそれとは裏腹に、曲は甘くせつない。
「憎しみ」は「愛」の裏返し。愛した人と別れるとき、大抵の人は憎しみとその人への愛の交差のを経験する(ストーカーの「愛」は実は自分にしか向いていない。)-このやるせなさが伝わるからこそ、スティングのこの歌は(英語の歌詞を読めない人達にまで)多くの人の心に響いたのでしょうね。

さて、ところでこの歌、彼は替え歌にして歌ったことがあります。

Every Breath You Take(Live 8)
https://www.youtube.com/watch?v=HvVjuHhx65Q 

当時のG8のリーダー達(小泉元首相含む)の映像が映る舞台で彼は“I'll be watching you”ではなく、“We’ll be watching you”、「俺たちはずっと見てるぞ」とG8のリーダー達を牽制。
熱狂する観客は200,000人。 

オリジナルバージョン: (替え歌では”I”以外も、単語や文の置き換えをしています。)

Every breath you take
Every move you make
Every bond you break
Every step you take
I'll be watching you 

Every single day 
Every word you say
Every game you play 
Every night you stay 
I'll be watching you  

Oh, can't you see
You belong to me? 
How my poor heart aches
With every step you take 

Every move you make
Every vow you break
Every smile you fake
Every claim you stake
I'll be watching you

(後略) 

このコンサートLive 8は、2005年7月2日、ロンドンのハイドパークで開催され、スティングの他、マドンナ、U2、Coldplay、エルトン・ジョンなどが出演したそうです。(英国グレンイーグルズでのサミット(7月6日からの開催)にあわせたもの)

そして、このコンサートと同時進行/同日でのショーが、フィラデルフィア、パリ、ヨハネスブルク、ローマ、ベルリン、モスクワ、バリー(トロント近郊)でもあった模様です。 
(ウィキぺディアによると、実際は英国ではロンドンの他にエジンバラとエデン(コーンウォール)、日本でも幕張メッセであったとあります。幕張会場の出演者は、ビョーグ他の海外アーティストとドリカム。)

Music Mania
The Long Walk to Justice Live 8
http://www.musicmania.uk.com/live8.php 

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日本に留学したインドネシアの女の子Eさん

2014年12月19日 | 友人・知人

時々、友人、知人から届くSNSの招待メール。
昨日の朝届いたLinkdedinからの招待メール、最初は誰のものかわからなかったのですが、調べてみて、2010年に日本人の高校生のペンフレンドを紹介したインドネシアの高校生の女の子のものであることがわかりました。 

彼女は私に文通を申し込んできた一人で、

「始めまして
私はEです。
インドネシアの××に住んでいます。
今年は18さいになります。
今日本人のメル友達を探しています。
日本語を練習したいから。

(中略)

日本にもすごく興味があります。
日本語はまだ勉強していますので、あまり上手ではない。
でも 英語ならできます。
私はまだ若くて何も分からないけど、
あなたと仲良になりたい。」 

と、上手な日本語で書いてきました。

彼女に好感を持てた私ですが、10代と文通をする気はなかったので文通は断り、かわりに彼女に同世代の女の子を紹介しました。それをとても感謝してくれたEさん。

(実は、これが私が「文通コーディネート」を時々するようになったきっかけでした。) 

Linkedinは他のSNS同様、設定方法により、その利用者のメールの履歴からメールを吸い上げ、招待状を送ります。

だから私は通常この類の招待メールが届いても、受け取りっぱなしで登録もしないし、そして本人にこの件についてメールで確認することもありません。(ただし、Zorpiaが届いたときは、確認メールをしました。(『悪質なSNS,Zorpia』http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/ae7f10067852aa445b4caa15daf3265e))

しかし今回は、LinkedinでEさんが現在関西の名門大学に通っていることがわかったので、「おめでとう」を伝えるために彼女にメールをしました。彼女が私のことを覚えているかどうかは、不確かだったのですが、彼女も覚えてくれたようで、すぐ、

「メール、ありがとうございます。
だいぶ前だったが、まだ覚えてくださり、ありがとうございます。」
で始まる丁寧な返信メールをくれました。

こうして、彼女が東京や神奈川に来るときに連絡をもらうことになりました。

さて、Eさん、留学生向けの冊子に寄稿していたようですので、これを紹介させてもらいます。 

「昔からずっと日本の文化に憧れていて、日本に留学することにしました。日本の文化を直に体験するだけではなく、日本社会のいい習慣も身に付けられたことは、日本に留学して、一番よかったことだと思います。

昔の自分と違って、自己中心な考え方をやめて、ちゃんと周りを見るようになりました。日本人はいつも自分より他人を優先して、周りに配慮しながら行動します。 
社会に出る時に、それは一番必要なことなのではないか思って、毎日心がけています。 

周りを注意深く見ることで、今まで気付いていなかったことを意識したり、新しい扉が開けるようになったり、いいことばかりが出てきます。気が利く人になると、他人の役に立ちますし、何より、相手から笑顔で「ありがとう」と言われる瞬間がとても嬉しいです。この他人を思いやる習慣は、日本だけでなく、世界中で通じると思うので、身に付いてよかったと思います。」 

彼女のこの文章は、「日本自画自賛番組」で喜ばれそうですが、ともかくも、彼女が日本で生活をしても失望しないでくれているとすれば、それは大変うれしいことです。(これは、彼女の周りの人の質が高い、ということでもあるでしょう。) 

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愛は怒りに勝り、希望は恐れに勝る

2014年12月17日 | Peace

以前、偽2ユーロ硬貨について書きましたが、
(『偽2ユーロ硬貨』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/9adc3c6b67b310b5ee54bd3699b311e7
このとき「2ユーロ硬貨の偽造は割に合わない」と言って否定的だったクラウディアさんが、「中国人の偽造ユーロ硬貨犯罪組織についての記事があった」と、その記事を送ってきてくれました(イタリア語なので記事のリンクは貼り付けません)。

彼女の説明によると、記事には、今年の4月から、イタリアの警察が、イタリアの5都市から12人の中国人が、硬貨偽造で捕まり、その総額は500,000ユーロ以上ということが書かれているそうです。

彼女は、「前にもいったとおり、偽造硬貨なんてものは割にあわないと私は思う。でも、中国は、ものすごく安価で偽造硬貨を作れてしまうので、儲けになるのよね。」と、中国に対して軽蔑的な書き方をしてきました。 

普段あまりこういう感情的な書き方をしない彼女をなだめるべく、返事にこう書きました。

「偽造硬貨については、イタリアだけでなく、ベルギーやドイツなどでもこれが中国からのものと問題視している記事を読んだことがあります。

彼ら犯罪人の罪は、偽硬貨犯罪そのものだけに限らず、中国自体のイメージを下げて、善意の中国人にも迷惑をかけている、ってことですかね。こうした善意の中国人、中国政府と中国人犯罪者、ダブルパンチで気の毒。」 

さてさて、そう、中国人もですが、特に911以降は特に風当りの強い自国外に住むイスラム教徒の人達。

15日にも、シドニーでイラン人による人質事件がおこりましたが、こういう事件が起こるたびに、関係のないイスラムの人達までもが嫌がらせを受けたりすることも。

そんななか、とても心温まる行動をとってくれる非イスラムのオーストラリア人達が現れました。 

ハフィントンポスト (2014年12月17日)
シドニー人質事件後、イスラム教徒を守る呼びかけがツイッター上で広がる
http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/16/australians-offer-ride-transit-muslims-_n_6331666.html?1418767783&utm_hp_ref=japan
 

「愛は怒りに勝り、希望は恐れに勝る」

この言葉は、2011年に亡くなったカナダの政治家ジャック・レイトン氏のものだ。そしてこの言葉を、オーストラリアの人々が今実行している。 

12月15日に人質事件が起こったシドニーでは、イスラム系の宗教的な服を身につけたイスラム教徒たちが公共交通機関を利用するときに不安を感じないよう、多くの人が一緒に行動することを申し出る、という動きが起こっている。 

それは、1人の人が、「#illridewithyou」(私も一緒に乗ります)というハッシュタグとともに、次のツイートを投稿したことから始まった。 

(続きはリンクからどうぞ) 

こうした人達は、イスラムの人達にとってのヒーローというだけではなく、オーストラリアにとってのヒーローにもなりますね。 (いや、世界にとってもそうかな。)

日本でのイスラム教徒の人に対する嫌がらせはあまり耳にしませんが、東アジアの人々に対する嫌がらせをしたり、侮蔑する日本人は多いです。
こうしたことをする人種・国籍差別者たちに「差別反対」と訴えるより、このオーストラリア方式の方が、彼らに「自分達は自国を貶めている」と気が付かせるのには有効なのかもしれません。

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小笠原の欧米(ハワイ・ポリネシア含む)系日本人

2014年12月16日 | 社会(歴史・都市計画含む)

スペインのコリア・デル・リオという町には、慶長使節団のときにスペインに残った日本人の子孫が住んでいます。 

この町は、スペイン人のベゴーニャさんも今年訪問して写真を送ってきてくれたりしましたが、その末裔だけでなく、町の人も、400年前にやってきた日本人(およびその「血」に)敬意を払ってくれています。 

セビージャのパティオにて
http://www.jspanish.com/yomimono/patio/patio37.html 

ところで、これとは反対に、日本にも昔やってきて日本人になった欧米人およびハワイ・ポリネシア人がいたことをご存じでしょうか?

ウィキペディア
ナサニエル・セイヴァリー(セボリー、Nathaniel Savory)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%83%BC 

コリア・デル・リオの日本人及び子孫と対照的に、彼らは「誇り」とされないばかりか、今でもあまり知られた存在ではありません。 

それは、彼らの出身国と日本が戦争をしたから、ということもありますが(戦中は「スパイ扱い」され、戦後も1968年まで小笠原が米国されていたことで、占領中と変換後、複雑な立場に置かれました。)、日本の中に今でも「日本人は単一民族」という意識が強いこともあってのことだと思います。 

以下、2012年のニューヨークタイムズのMartin Fackler 氏の記事です。 

New York Times (2012.6.12)
A Western Outpost Shrinks on a Remote Island Now in Japanese Hands
http://www.nytimes.com/2012/06/10/world/asia/fewer-westerners-remain-on-remote-japanese-island.html?pagewanted=all&_r=1& 

記事中、子孫の一人の、
 “They don’t teach the history of the Bonin Islands to kids, don’t teach about Nathaniel Savory. The Japanese hide these things.”
という言葉がそのまま紹介されていますが、セボリー達のことやその子孫のことは、教科書に載っていなくても、小笠原のHP、TV、本でも知ることができるので「隠された事実」ではありません。

ただ、セボリーたちだけでなく、その子供、孫、ひ孫・・・代々「外人」と呼ばれてきていることは、悲しい事実なのでしょう。

記事を読んだベゴーニャさんが、記事の中の"They call me foreigner" という言葉について、
『El Extranjero(異邦人)』 https://www.youtube.com/watch?v=g8gtVRhgnKoの歌詞を思い出してしまう。悲しい」
と言って、歌詞の英訳を送ってきてくれました。 

"A boat in the harbor is waiting for me 

I do not know where it will carry me 
I do not go looking for greatness 
My only desire is to heal my sadness.  

I am leaving not thinking of the return 
Nor do I regret what I had 
I know I can take
All my things just in one pocket. 

I feel at home in America,
In Antigua I would die
It is the same with Africa 
Asilah, Essaouira and the Riff. 

But wherever I go
They call me foreigner.
Wherever I am
They make myself feeling as a foreigner. 

Also, I am a weird in my land 
Although I truly love it.

But my heart advises me:
Nationalisms? No thanks. 
No country, no flag 
Neither race or condition 
Or limits, or boundaries.
I am just Foreigner. 

But wherever I go
They call me foreigner.
Wherever I am
They make myself feeling as a foreigner." 

参考:

ウィキペディア
欧米系島民
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E7%B3%BB%E5%B3%B6%E6%B0%91 
(ウィキぺディアには書かれていませんが、1968年以降、小笠原を離れた欧米系日本人には、島民からの「仕返し」を恐れた人もいたようです。事実として「仕返し」された人がいたのかはわかりませんが、戦前、戦中、戦後、「蝙蝠」扱いされた人達の心の傷は大きかったでしょう。)

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タイムチケット-ピノキオと狐

2014年12月15日 | 社会(歴史・都市計画含む)

選挙結果は予想されていましたが(そもそもお金と基盤のある自民党の候補者自体が多い)、戦後最低の投票率、これはもう何ともしがたいです。 

今回の選挙でよかったのは、石原慎太郎氏落選、田母神氏の得票の少なさ、共産党が議席を増やしたということでしょうか。(共産党に関しては、選挙区によっては、彼らが立候補したことで自民党対立候補の票を割ってしまい、て、結果自民党を助けた、という面もあります。)

まあ、がっかりするというよりも、あきらめの境地。
日本には、権力者や狡猾な人々が楽に扱える人達がたくさんいますね。 

狡猾といえば、最近こんな狡猾なビジネスが。実は私が知っている若者でもこのビジネスを売り手として利用している人たちがいました。
(普段は拝金主義を批判している人が、「ネットでおしゃべり1時間○○○○円〜、寄付率10%」と広告を載せていたのには失望。) 

日経BP
私の30分売ります! 時間でスキルを売買する「タイムチケット」レレレ山本大策氏
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20141113/424271/
 

――「タイムチケット」とはどんなサービスなのですか。

 自分のスキルを時間単位で気軽に売買できるウェブサービスです。例えば、「1時間3000円でウェブサービスのつくりかたについて教えます」という形で「売り手」は「レレレ」のウェブサイト上でタイムチケットを売り出します。販売するスキルもプログラミングや広告企画、ネーミングのお手伝いまでさまざまです。「30分1000円で、元H.I.S社員が一緒に旅行プランを考えます」といったものまであります。 

こうして売り出されているタイムチケットの中から気になるものを「買い手」が申し込んで、売り手のOKが出れば商談は成立です。あとは買い手が仮支払いをし、お互いが日程調整をして、実際に会って対面で話すという流れです。登録料は無料ですが、フェイスブックのアカウントが必要です。 

 特徴は時間と価格を売り手自身で決められることです。時間は30分単位で、30分から5時間まで、価格は1000円から1万円までの間で設定できます。チケットが売れた場合は、代金の30%をレレレが手数料として頂きます。 

 売り手にはそれとは別に10%から100%を寄付していただく仕組みになっています。寄付先はレレレ指定の団体の中から好きなところを自由に選べます。例えば、1時間1000円、10%寄付のチケットが売れた場合、レレレが手数料として料金の30%、300円をいただきます。残りの700円の10%、70円が売り手の選んだ寄付先に送られ、残りの630円が売り手の手元に残ります。 

 寄付をできる仕組みにしたのには理由があります。単に「私の1時間を1000円で売ります」だと、知らない人から見たら儲けようとしているだけに見える。でも寄付を加えると、社会貢献になるし、友人などにもシェアして拡散しやすくなるんじゃないかと考えました。 

(後略) 

それで実際にこのタイムチケットのHPhttps://www.timeticket.jp/itemsを観てみると・・・確かに、考案者の山本氏が言うように、「スキルのある人(プロ)が、相談相手となったり、何かを指導する、仕事をする」と言う人が売り手になっていて、その中でも、寄付率100%というものもあります。 

しかし、上記はほんの一部で、多くが素人(高校生〜)で、その寄付率は10%のものがほとんど。
(スキルを売る人でも、「宣伝、お試し」というメリット目的の人もいるでしょう。ま、これは悪いことではないとは思いますが。)

人気チケットランキング第6位には、
「1日お疲れ様です。肩モミモミします0.5時間1,500円〜法学部3年生女性寄付率10%」というようなものがありますし、上位には他にも「ランチご一緒します」(20歳女性)、「セーラー服姿でモデルになります」(30歳女性)、「飲みに付き合います」(男性)などというものが続いていています。(新規投稿のなかには、「子供預かります」という男性のものまでも。)

投稿者(売り手)には、単なるノリで投稿して、実際買い手がつくとは思っていない人もいるとは思いますが、少なくとも、スキルのないほとんどの人達にとってのタイムチケットは、「楽して儲ける」のが目的でしょう。(精神面ではホスト、風俗嬢と変わらない人も。彼らは「タイムチケットで人と出会えるのも魅力」と言いそうですが、そういう人は寄付額10%なんてことはしないでしょうね。)

そして、山本氏、書い手と売り手とのコーディネートをするわけでも責任を持つわけでもなく、売上の30%をせしめるというのですから売春組織の元締めと同等(売春組織元締めは「社会貢献」を利用しない分マシ)、そして無責任です。

このタイムチケットと山本氏の話を経営システム工学の勉強をしてきた息子にしたところ、
「ニュービジネスは、それで需要と供給がマッチしてヒットしたら、法すれすれでも、その考案者は賢者。だけど、それが法に引っかかるようになったら、考案者は愚か者。」
と、冷めたことを言っていました。

私の好きな児童文学に『ピノキオ』がありますが、私のなかでは、山本氏はなんとなくピノキオに出てきた『詐欺師の狐(と猫)』に、そして有名人でも何かのスキルがあるわけでもないのに、「ランチを一緒に」「話相手になります」「一緒に飲みに行きます」等、臆することもなく書きこんでいる売り手たちが、『ロバにされたピノキオと他の子供たち』と重なります。 

参考:
http://www.ikedahayato.com/20140703/9117518.html 

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衆議院選挙投票日に思う

2014年12月14日 | 雑感

先日、「大学生が選挙に興味を持てないのは、大学生に対して政策アピールがないから」というような、大学生の新聞投書がありました。 

彼は、「現在の大学生が恩恵を被れる政策を挙げる候補者や候補政党がいない」ということに不満を書き連ねていたわけですが、選挙のことで新聞に投書するほどの若者でさえ、選挙への投票基準として「自分がその政治家のあげる政策で有利になるかどうか」を挙げる。 

「自分の恩恵」が「選挙の決め手」。
これ、この学生さんや今の若者だけでなく、日本人の多くの投票基準がこれ。 

以前、最初はナチスを受け入れ、後に反ナチ運動家となって、自らも収容所送りになった神学者のマルティン・ニーメラーの『彼らが最初に共産主義者を攻撃したとき』について書きましたが、ここで私は、 

「つまり、ルーメラーは、①「教会やユダヤ人に圧力や危害を加えない」というヒトラーの約束を信じ、そして②ドイツに無神論者が増えることを苦々しく思っていたが故、無神論を駆り立てていた社会主義者や共産主義者を弾圧するヒトラーを支持した、と答えます。

そして、「私は今過ちの償いをしている、そしてそれは私1人ではなく、同類がたくさんいる」と。

さて、ニーメラーの過ちとはなんだったのか-彼の最大の過ちは、「ユダヤ人を迫害するとは思っていなかったのでナチスを支持してしまった」ことではなく、「社会主義者たちへの自分の鬱憤を晴らしてくれたナチスを支持してしまった」というところにあると思います。」

と書きました。
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/a84aee1624b818f2eb538a88a3e2f80b) 

「政治家の質は国民と比例する」とよく言われますが、「自分たちに都合がよいことをしてくれるなら、あとのことはどうでもよい」という国民が多い国であれば、その政治の質が高いか低いかは言わずもがなですね。 

ところで、ブログの世界では有名というイケダハヤト氏(漢字も「池田勇人」らしいですが・・・)が彼のブログに、このような記事を書いています。 

悩める若手エリートたち:政治に関心が持てない。選挙に行く理由がわからない。http://www.ikedahayato.com/20141213/17856793.html 

抜粋: 

ぼくは仕事柄、起業家、医者、弁護士などなど、高度な教育を受けた層、いわば「エリート」たちと仲良くなる機会があります。意識して人付き合いをしているつもりは微塵もないですが、なんだかんだで周りは高学歴が多くなってしまっています。 

で、特に若いエリートの間である種の「悩み」が共有されているのが興味深いんです。それは「政治への無関心」。若いエリートたちは、政治に対して自分が大きな関心を抱けないことに、悩んでいるんですよ。 

政治の重要性はよくわかっています。なんせ彼らは高度な教育を受けて、自ら社会を変える立場にいるわけですから。でも、じゃあ自分がその政治にどう関わるかというと、明確な答えが見つからないんです。 

自分のビジネスなり非営利活動を通して「顔が見える範囲の人を幸せにすること」はイメージできますが、「国家システム」という本質的に顔の見えない概念に対して、自分がどうこうすることは、いまいち想像できないという感覚。これは多くの若手エリートに共有されている感覚だと思います。 

私は、「イケダ氏とお付き合いのあるという、起業家、医者、弁護士」面々は「エリート層」にいるとは思いますが、彼らが「エリート」であると思えません。 
そして、こうした人達が本気で「社会を変えよう」と豪語しているとしたら、それはちょっと痛々しいものを感じます。 

医者や弁護士はともかく、たとえば、社会に影響を与えると思っている起業家が、「顔が見える範囲の人を幸せにすること」はイメージできますが、「国家システム」という本質的に顔の見えない概念に対して、自分がどうこうすることは、いまいち想像できない」としたら、彼らが本当に「顔が見える範囲の人の幸せ」を目指しているのかさえ怪しい、と思います。

政治家にならなくとも、「もしあなたが総理大臣だったら、どうするか(長期的、多角的視野を持って政治を見る)」という観点で政治を観れない時点で、リーダーとしての資質に欠けるのではないか・・・。 

この「もし自分が総理大臣だったら、こうする」と考えること(=自分の損得だけでなく、多角的長期的視野で政治を観て考えること)、実は若い起業家にとどまらず、学生も普通のサラリーマンも、普通の主婦、選挙権がまだない10代にも必要ではないかと思います。

これが「国民の質を上げ、政治家の質を上げる」ことなのですが、もはや自分や自分の周囲にしか興味がない人ばかりの日本、どうなっていくのでしょう。 

追記:選挙区投票で、「支持できないけど有力な候補者がいるから、どうせ他の人に投票しても受からない」と思ってる人、たとえ落選をしても、得票数によってその落選候補者は供託金(選挙区では300万円)没収をされなくてすみますので、対立候補者で自分が「まとも」と思える人がいたら、投票してあげてください。

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鳥井弘文さんと「紙の哀愁」

2014年12月12日 | 友人・知人

このブログで何度か取り上げさせてもらっている、山形地域おこし隊の田口比呂貴さん、そして彼が紹介してくれたMATCHAの創設者の青木優さん、MATCHAの元編集長の鳥井弘文さんの3人に関しては、彼らのブログを覗いたり、時々メールを交わしたり、(鳥井さん以外の二人は)直接お会いしたり、と、なんとなく今も繋がらせていただいています。 

三人三様、人間観察としても面白いし、そしてまた、叔母が甥たちを見守るような気分でもあります。 

ブログは毎日読むわけではありませんが、時々読むだけでも、彼らの活躍ぶりがわかったり、それから発見、学ばせてもらったり。 

とはいえ、このなかの鳥井さんのブログ(『隠居系男子』)、情報ものが多いことはよいとしても、更新頻度が高いことが関係するのか、他人の見解で語るものが多かったり、何か、仲間の眼や受けを狙って書いているようなものも時々見受けられたりで、正直に言うと私には、読んで批判的になってしまうものもあるのです。 

それは、私が50代であること、オリジナル性を求めること、そしてまた、言葉にうるさいことがあってのことですが、たぶんそれとは別に、(メールを通じて感じる)彼の本来の良さが出ていなくて、もったいないな・・・と思う気持ちもあって。 

さて、その「彼らしさ」とはなにか。 

私が感じている彼らしさは一言でいうと、「繊細さ」。これは悪くいえば、「神経質」にもなるのですが、彼が自分の言葉100%、そして素直な気持ちで書くものは、光っている気がします。 

今日の彼の記事も、その一つです。 

隠居系男子
相手の拠点を訪ねてみるということ
http://inkyodanshi21.com/japan/tokyo/5952/#more-5952 

これは、 

「神保町周辺に行くたびに「このあたりにオフィスを構えていれば、そりゃ電子化やネット化にためらうのも無理ないなぁ」って思う。それぐらいあの街は紙の哀愁が漂っていてかっこいいし、風情がある。」 

という彼のtwitterでのつぶやきから始まります。

本好きならば、大抵の人は「紙の本」の魅力は感じていると思いますが、「紙の哀愁」と、言葉にすることはできません。

デジタルブックになじみ、それを書きもしている彼だからこそ、「哀愁」を感じられたのでしょう。

デジタル時代にも、詩人は絶滅せず・・・ですね。

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Sentimental Value、岡潔の情緒と情

2014年12月11日 | 人物

以前、アサコさんが、「おばあ様の形見の指輪のアメジストはガラス玉」と知った上で、ペンダントにリフォームしたという話を、『ツキノワグマの牙のペンダント、アメジスト(?)のペンダント』http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20141024 に書きましたが、この話を外国人の友人数人にしたとき、アメリカ人のティムさんは、感慨深げに、

「それは、“sentimental value”だね。」
と言い、 

スペインのベゴーニャさんも、
「スペインでは、"valor sentimental" か "valor intrinseco"と言って、"cuestiones sentimentales" (sentimental matters)はとても大切なものなの。」
と言いました。 

このsentimental -日本で「センチメンタル」というと、感傷的すぎるという、ネガティヴな意味で使われることがほとんどでしょう。(英和辞典を見ても、sentimentalについては、あまり良い感じに書かれていませんが、これ、英西辞典とか、他のものはどうなっているんでしょうね。)

ところで、このsentimental、そしてemotional というのは、「情緒的」の英訳にも使いますが、この言葉が日本で良い意味で使われないのは、日本で「情緒的」ということが軽視される傾向があるのと、根は同じなのか。 

(参考:『『情緒』は『生存を守る本能』の面も』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/0c63189866fcbbee78ef00de29935edb ) 

さて、昨日ちょうど、TV番組で数学者の岡潔氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%BD%94
を取り上げているものを観ましたが、最後に彼の「人の中心は情緒である」という言葉を紹介しています。 

天才であり(彼は「天才でなく努力」と言っていたようですが)、奇人変人。

彼の思想をまとめていらっしゃる方(方々?)がいらっしゃいました。 

「岡潔思想研究会」
http://www.okakiyoshi-ken.jp/oka-kouenroku.html 

一寸ステレオタイプだったり、今の右翼たちが大喜びしそうな記述もありますが、いくつか興味深いものもありました。

これは「情」についての記述。 

幸福と道徳 

 戦後、幸福ということをよくいう。世界のはやりに従って、日本はことにアメリカの真似をして、近頃の人は幸福ということをよくいうんですが、戦前は幸福などといわなかったものです。 

 幸福とは何が幸福かということですが、これは知、情、意のうち「情」が幸福なんです。知が幸福だの、意が幸福だの、意味をなさない。よし意味をなしたところで、そんな幸福どうでも良い。自分の情が幸福と思う、それが幸福なんでしょう。 

 人は動物ですが、動物の中で割合信頼できます。なぜ信頼できるかというと、人には人の情というものがあるから信頼できる。みすみすなことは大抵はしない。それは人には人の情というものがあるからです。 

 こんなことをしてはいけないんだがなあと情の思うことを、知や意のすすめによってする。そうするといつまでも心がとがめる。これが情です。漱石の「こころ」もこれを書いている。 

 そうすると道徳とは人本然の情に従うことである。そういえると思う。また情というものがなかったら、道徳とは何かという前に、道徳というものが存在し得ないでしょう。人に情あるが故に道徳というものが存在し得るのです。 

「道徳がうまく行かないのは、情を重んじないからです。情のみがこれが道徳か、これが不道徳かを見分けることができる。これは教えなくても分っている。だから道徳というものが有り得るんです。」 

 一つは情がエゴイズムで非常に濁っている。もう一つは、生気が充分生き生きしていないんです。情というものだけど、生きるとういうことは情が生き生きすることだと思う。 

(後略) 

岡氏の言う「情緒や情」というのは、sentimentやemotionとはかけ離れてしまっていますが(いや、むしろ反対に近いかもしれません)、「思い入れがある価値」であるsentimental valueともども、大切にすべきものではないかと思います。

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ロナルド・ドーア氏の新著『幻滅』を読んで

2014年12月10日 | R.Dore

先に本を紹介しておきながら、まだ本を手に入れていなかったため遅れましたが、ドーア氏の新著の『幻滅』を読み終わりました。 

私は昔から、読書感想文、イヴェントの感想文などが苦手なため、ドーア氏に送ったメールを編集して貼り付けてしまいます。 

「ロナルド・ドーア様 

『幻滅』を読ませていただきました。
『幻滅』というより、『ロナルド・ドーア回顧録』という方がピタリとしますね。

私は、・・・・・に興味があったこと、・・・・いたため、ドーアさんの本に登場した人々の名前はなじみがありましたが、こうした人達と縁があったり、知識がある人でないと、読み進めるのはちょっと難しいところはあると思いました。(もちろん、逆に言えば、縁がある、知識がある人達にはありがたがられます。)

とはいえ、ドーアさんが「序にかえて」で

「全く主観的に、自分の「日本」という存在・国・イメージに対する感情の移り変わりの歴史。大変な日本びいきだった若い頃の私から、最近日本政府ばかりでなく、体制派というような官僚、メディア、実業家、学者などのエリート層の人たちにも、ほとんど違和感しか感じないようになった経過をたどってみたいと思う。」

と書いてらっしゃるように、現在は、「あたりさわりがないことしか言わない」エリートが増えすぎていて、書こうにも、特出すべき人がいなさすぎ、というところがあるのでしょうか。 

(中略) 

 ところで、先日、negative voteの話を書きましたが、反対意見の人が、「negative voteを導入したら、良きにしろ悪しきにせよ、『目立つ』候補者ほど排除される危険が多く、凡人的政治家が有利になる」と言っていました。

(これは、私のイタリア人の友人が、「negative voteを導入したら、まともな政治家の落選させられてしまう」というのと同じ発想ですね。) 

選挙では行われないnegative vote ですが、実生活で、『目立つ』ことや、発言が、出世に響く日本。エリート・アカデミアは日々、”疑似negative vote”を恐れ、一般人たちは、「えせ賢者」になりたがって、ブログやツイッターで他人の意見(多数派が主)発信する人達が増え・・・結果、メダカの群れのように、皆が同じ方向に向かう・・・という現状は、日本特有のものなのでしょうか。 

本の話に戻りますが、「付録」ではありますが、GRIPSでの講演記録「三権分立-「民尊官卑」時代の民主主義」も興味を持って読ませていただきました。 

ゆかり」 

さて、メールの末尾でふれた付録1の「三権分立-「民尊官卑」時代の民主主義」。 

「・・・・・民主主義の思想が貫徹していた先進国では、三権分立というモンテスキューの処方箋がそのまま実行された国はほとんどありませんでした。たとえば、イギリスでは、政府の執行権と国会の立法権の境界線は、今でもいたって曖昧です。三権におのおのの同等な権威を与えているのは、ほとんどイタリアの憲法だけで、日本の憲法では、三権のうち国会が、政府、裁判所より優勢であるべし、とはっきり規定されています。

それでも、はっきりした分立でなくても、往々にして国会は、新しい法律を審査し、政府の執行権施行を討論する場所となったのですが、権限として政府の提案する法律を阻止すること以外に、執行権に侵入することはできませんでした。司法権となると、裁判所は、政府の執行権の行使が、法律にかなっているかどうかを判断する権限しかなくて、政府の施行権自体を規制しないのが普通ですが、その点、国によって大きな違いがあります。 

・・・・・代表民主主義の黄金時代でも、モンテスキューの三権分立から逸脱する国は多かったのです。しかし、モンテスキューからヒントをとれば、司法権を行使する裁判所の独立性が、執行権にも立法権にも優越する存在であることは、満足な政治体制の必須条件です。」 

というのに続いて、官僚と政治家、元来のメディアの意義についても書かれています。 

ドーア氏の憲法に関する意見や、最後の「あえて余計なアドヴァイスを提供します」についてはあまり肯定的にとらえなくとも、これは、政治に興味がある人なら、一読してほしいな、と思います。 

(本文は、一般人(特に若い人)では読んでいて挫折する人がいるかもしれません。が、それを乗り越え、知らない名前は流し読みにするなど自分なりの方法で最後まで読めば、(その方や著者には失礼ですが)得られるものは少なくないと私は思います。) 

参考:
『外国人日本学者が書く戦後の日本』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/31f3c24c7b1e905d9fd745cef760be28 

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HARIOの『ご飯釜』と田口比呂貴さん

2014年12月07日 | 友人・知人

先日、山形地域おこし協力隊の田口比呂貴さんのブログを覗いたら、面白い記事がありました。

ひろろーぐ
HARIOの『ご飯釜』でお米を炊いたら、激ウマだった。しかも省エネ。もう炊飯器は使えません。
http://hirotaguchi.net/gadget/hario/


私は別に、HARIOの製品の宣伝をするつもりはありませんし(それは田口さんとて同じだと思います。)、今すぐこの製品を買うつもりはありません。

しかし、私たちの今の生活、ボタン一つで後は自動で全部機械がやってくれることに慣れてしまい、お米も満足にガスで炊くことができない人がほとんどになっています。(恥ずかしながら私も・・・)

頭のなかで「これではいけない」とは思ってはいても、「失敗するとお米を無駄にしてしまう。」という言い訳を作って、ガスでごはんを炊くということをしません。

そんななか、「ちょっと手伝ってあげるから、やってごらん」とでも話しかけてくれるような、こうした釜-
普通の釜や鍋で炊くコツは覚えられないにしても、機械(そして電気)に任せっきりでいることに罪悪感を持ちながら腰が重い私たちには、少しずつ生活の見直しをするきっかけになってくれそうな気がします。

さて、ところで、この書いてくれた田口さんについて一言。

ニーチェの言葉に、
「多くのことを中途半端に知るよりは何も知らないほうがいい。
他人の見解に便乗して賢者になるくらいなら、むしろ自力だけに頼る愚者であるほうがましだ。」
~『ツァラトゥストラかく語りき』

という言葉がありますが、私が田口さんのブログやメールを読ませてもらったり、実際お目にかかってみた上で羨ましいと思うのは、彼が“このニーチェの言う『賢者』と遠い人”だと感じるからです。
(もちろん、彼の母親の世代としては、「甘いな」「未熟だな」と思うことも少なくないのですが、この点については本当に彼にかないません。)

人、とくに彼のようにブログを書く若い人達(いや、若くなくても、私もそうか・・・)は、『賢者』のつもりになってしまう人が多いです。 

ひろろーぐ
http://hirotaguchi.net/ 

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夢に出てきた巨大弦楽器は・・・

2014年12月06日 | 生活・日常

年末になって、大掃除とともに、整理したり、捨てたりしなければならないものがたくさんあるし、また家具を動かしたり、大掛かりな掃除もしなきゃならないな・・・と思っていたせいか、先週変な夢を見ました。

我が家の和室に、ドーンとピアノくらい大きなコントラバスのような楽器が横たわっている夢。

夢の中で、私は、これを部屋から出そう持ち上げようとするのに、できず、出口にもつっかえてしまって、途方にくれて、途中であきらめ、大きな弓で弾いてみよう(音を出すだけ)とするんです。

そして、「こんなもの出すのに、畳を傷める」「立ち上げたら天井にぶつかるし、ふすまを外しても外に出せないのではないか」という、とても夢の中とは思えない現実的な心配をしている私。 

「こんな巨大な楽器に夢、何か意味がある?」
と思って調べてみると・・・ 

「楽器の夢は自己表現・恋愛・人間関係の象徴です。 楽器を上手に演奏する夢はあなた の恋愛関係や対人関係がうまく行っていることを暗示し、 異性との合奏を楽しむ夢は その異性に好意を抱いていることを暗示しています。」 

「弦楽器を自分が弾いた場合は吉夢で、人から助けられて運が開く 幸運に出会います。」 

などとありますが、弾く以前に、持ち上げることもできないって・・・・何か、最悪な答えが返ってきそうで、この後は調べるのを止めました。
(フロイトの『夢判断』だったら、「欲求不満」とでも書いてあるかな。) 

それで、冒頭に書いたように、年末にかけての面倒事のストレスが巨大楽器になって夢にでてきたのだろう・・・と、結論づけることに。 

と、この夢の話をクラシック音楽命の友人Tにしたところ、彼はその夢の意味よりも楽器について興味を持ったようで、「その楽器、オクトバスでしょう。」と言って、楽器のリンクを送ってきてくれました。 

ウィキペディア
オクトバス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%90%E3%82%B9 

このオクトパス(蛸)ならぬオクトバス、こんな楽器が本当にあること、そしてそれがまさしく夢に出てきた楽器と同じものであることに驚きました。 

楽器は、エレクトーンを強制的に習わされたり、クラリネットを少しだけいじったことはありましたが、弦楽器には縁がなかった私(小学校低学年に頃、誕生日のプレゼントのリクエストを聞いてきた親に、「ヴァイオリン」と答えたものの、親がプレゼントしてくれたものはウクレレ。ウクレレも確かに弦楽器でしたが・・・。)、なんでこれが夢に現れたのかと、また疑問。 

さて、今週は、ちょうど、ティムさんが、「日本で、『カントリーロード』は良く知られているのかい?日本人が歌っている動画を見つけた」というメールを書いてきて、これをもとに、日本のジブリアニメ『耳をすませば』『猫の恩返し』の話、そしてバンジョーやスペインのギターの話・・・と、クラウディアさんとベゴーニャさんも交えてしていました。 

楽器が弦楽器の話になったところで、ふとこのオクトバスのことを思い出し、彼らに、私の夢の話とともに、オクトバスの動画を送ったところ、3人共、この楽器の存在を知らず、大変驚いたようです。 

B: Dear Yukari, your dream sounds very funny to me because the octobass looks like a manga (good) monster! xDDDD Keep enjoying your dreams! 

C: Oh my God, it's huge!! 

T: Now I'm curious...  It really is huge!  Amazing! 

さて、私が彼らに送った動画ははこちら- 

MIM's Octobass: Nico Abondolo
https://www.youtube.com/watch?v=Vc-RWrWxaCw 

それにしても、音色も大して良いと思えないこの楽器、最初に作った人、作らせた人もですが、今もなお残っていて、これを演奏できる人がいるというのも、凄い(amazing)です。 

(これを夢で見た私も凄い?) 

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