Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

My Slippers -土足より素足の方が汚い?

2010年05月29日 | 異文化

前回、『家の中で靴を脱ぐ』ということに対してある欧米人の「裸足やソックスのまま家に中を歩きまわられたら、バクテリアをばらまかれる」というコメントを紹介しました。

「だったらスリッパを使えば良いのに。」

このコメントを読んだ時の私の感想はこれでしたが、よく考えると、「きっとこうした人達は、自分専用のスリッパは良いとしても、来客用、トイレ専用のスリッパなど不特定多数の人が使うスリッパなどはそれこそおぞましく感じるだろう」とも思えてきました。

(これは、数日に一度しかお風呂に入らなかったり、シャワーだけで過ごすことに抵抗がない外国人のなかに、「日本人は毎日お風呂に入るけど、家族とはいえ同じお湯に浸かるなんて、信じられない。私達の方が清潔」と言う人がいるのと似たようなこと。)

さて、スリッパについてですが、私が子供の頃にフランスの一流デザイナー(特にピエール・カルダン)のスリッパをよく見かけました。

「ピエール・カルダンの名前もエプロンくらいなら良いけど、室内では靴をはいたままのフランス人がデザインしたスリッパなんて・・・」と、当時は胡散臭く思ったものです。

ところが高校生になって、オードリー・ヘップバーン主演の映画、『マイ・フェア・レディ』の終盤のシーンを見たときに、私は海外にもスリッパを履く人がいることを知りました。

それは、一度出て行って戻ってきたイライザが彼の家に戻ってきたとき、ヒギンズ教授が何事もなかったように椅子にもたれて背をむけたままに言うセリフ、「スリッパを取ってくれないか?」から。

まあ、ヒギンズ教授のように昔の上流階級の人でなくても、たとえばロシア・東欧では、家で靴を脱いでスリッパに履き替えるのが常識になっている地域もあるようです。

さて、家で靴を脱ぐ習慣がない国ですが、近年は「カーペットに泥がつくのが嫌」「フロアーに傷がつくから靴は家で履かないほうが良い」「足のバクテリアより、外の埃の方が汚い」という人ももちろんいます。そのなかには、来客にも靴を脱いでもらう人もいるし、「『あなたの靴は汚い』と言っているようで失礼なので、客に『靴を脱いでくれ』とは頼めない。」と言う人もいます。

面白いなと思ったのは、こうした『日本人的衛生観念』を持った人達のなかには、「家で靴を履かない友人の家に招かれたときは、自分でスリッパを持参する」という人もいるということです。

これは、本人の家が『自分達は家のなかでは靴を履かないけれど、来客には強制しない家』の場合がほとんどだと思いますが、とても思慮深くて、賢い方法だと思います。

しかしながら、この“マイ箸”ならぬ “マイスリッパ”、これを自国と同じような感覚で日本でやったら、訪問された日本の家主は、「私の家のスリッパって、そんなに汚い?」もしくは、「私の家って、スリッパを持参されるほど汚くないわよ」と気分を害すこと必至でしょう。

それにしても異文化理解は、奥が深いです。

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外国人の衛生観念

2010年05月28日 | 異文化

海外と日本を比較して、私が日本が一番優れていると思うものは『衛生観念』です。

前回、シャルトルの小さいお店で食事をしたのですが、その時お店の女の子が棚の上にあったコーヒーカップを床に落としました。しかし、それを拾うと洗いもせずにそのまま元の棚に戻していたのを目撃。

床に落ちたものでも手で埃を払って食べたりする人もいる国です。私達のコーヒーカップにコーヒーを注いであったと思ったので、関係ないだろうとばかり、これは見なかったことにしました。

ところが、この後すぐ運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ私は、飲んだほうと反対側のコーヒーカップの縁が少し欠け、外側にヒビが入っているのを発見。

「このカップは前にも今みたいに落として、洗うことなく元に戻したものか。それとも実は今床に落としたカップか?」と確信が持てぬままどうするべきか思案していた私でしたが、「ヒビが入っているのがもう少し前に分っていたら、自分のコーヒーと変えてあげたのに。どこだって見てないところでは何やられているのかわからない。気がつくか、つかないかの違いだよ。」という夫の言葉を聞いて、夫のカップに残りのコーヒーを移し変えました。

(普段からまったくこういうことを気にしないにしても、コーヒーを二杯も飲む気がなかった夫、仕方なしにそれも全部飲み干しました。)

しかしこうして空になったカップを良くみるとヒビは案外酷い。

「床に落としたカップを使うのには無頓着でも、ひょっとしたら彼女はヒビにまでは気がついていないのでは?」とも思えたので、女の子がカップをさげに来たときに、「カップの縁が欠けているし、大きなヒビが入っているので危ないわよ。」とやんわりと伝えてみました。が、彼女はにっこり笑うだけ。たぶん後数回落としてカップが粉々になるまで、この頑丈そうな陶器のカップを使うことでしょう。

さて、フランスに限らず海外において、つり銭を触った手でパンをじかに取る店員や、コーヒーポットやミルクの使いまわし、オープンカフェの砂埃の食器やテーブルと椅子等は、そんなに稀なことではないと思います。しかし、日本人でこれらを嫌がる人は多いでしょう。

こうした日本人の人一倍強い衛生観念はどうしてできたのでしょう。一つには住環境-畳文化-による習慣の違いのせいもあるのかもしれない、と私は考えています。

開国をしてから、西欧文化を取り入れてきた日本ですが、たとえば家をどんなに西洋風(すべて洋間)にしようとも、欧州人のように家でも靴を履いたままでいる日本人はほとんどいないと思います。

「室内で靴を脱ぐ習慣」自体は、実は日本だけのものではなく、アジアのいくつかの国や、フィンランドなどでも昔からあるようですし、欧米でも、家で靴を履かない人達も増えているようです。

ただし、そうした人達でも、「自分達は家で靴を脱いでも、お客様には強制できない。」「パーティの時は例外」と言う人などもいて、日本人感覚で言うと、「それって、かえって不衛生では?」と思えてしまったりします。

しかし、彼らのなかには、「裸足やソックスのまま家に中を歩きまわられたら、バクテリアをばらまかれる」「素足はくさい」という意見もあるので、「ひょっとして、日本人の考える『汚いもの』の感覚が、他と違うだけなのだろうか・・・」とも、ちらりと思ったりもします。

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JR成田空港駅の券売機に失望

2010年05月23日 | 旅行

外国に行くと、「日本にもこういうもの(またはシステム)があれば良いのに。」と羨ましいと思うものがあったり、逆に「この国も日本みたいにすればよいのに。」とその非合理性に対し、変な優越感を持ったりすることがあります。

前者のもので最近のものを言えば、パリの地下鉄・バス共通で使える乗車券です。パリの地下鉄は、市内であれば何処まで行っても同一賃金です。これは乗り換えをしても同じこと。(バスと地下鉄を同時に1枚の切符で乗ることは不可。)そして、この乗車券は10枚回数券(カルネ)で買えば25%以上の割引があります。現在は、乗車券11.6ユーロ(200円弱)、カルネ1セット11.6ユーロ(1500円弱)、その他、私は利用していませんが、乗り放題パスもあります。

金額が一律ということも、不慣れな旅行者にとっても大変ありがたいことです。切符を買うのも、窓口で「切符を1枚ください」「カルネを1セットください。」と言うだけで購入でき、「○○駅まで幾らだろう?」と悩むことはありません。

駅には自動券売機もありますが、それがクレジットカードかコインしか使えないこともあるので、窓口で買う人は多いです。

(ただし、設置されている券売機が紙幣対応する場合は窓口で販売を断られることもあるよう。前の旅行でそうと知らずに窓口でカルネを購入しようとして、「券売機を使ってください」と駅員に断られたこともありました。その駅員男性、私達が使い慣れない機械の前で悩んでいると、ブースから出てきて親切に操作をしてくれました。感謝しつつも、ふと「それだったら、そのまま窓口で売ってくれてもよいのに。」と夫がつぶやきました。)

今時、ガチャポンでもない限り、紙幣が使えない自動販売機は日本にはないと思いますが、欧州にはまだ多いと思います。フランクフルト近郊の町の無人駅の券売機がそうでした。フィレンツェ近郊の村の券売機は、紙幣は使えたものの、お釣りはなんと『切符購入券』。これは日本では考えられません。

さて、地下鉄や近郊電車はともかく、行先毎に金額の違う欧州の国鉄の駅では、遠距離客でなく近距離客であっても、窓口を利用する人は多いと思います。これはタッチパネル方式の券売機の操作が面倒さも一因ではないか、と私は思っています。

日本のJRや私鉄各線では、『金額路線図から自分で目的駅までの運賃を調べ、金額ボタンを押すだけで切符を購入できるシステム』が基本になっていると思います。これは日本にいるときは当たり前でしたが、海外に出るとその合理性に気がつきます。(香港では日本と同じようなシステムだったと思います。ついでにいえば、切符はカードになっていて、有効時間内に下車しなければいけない、ということもありました。現在はどうなっているのでしょうか。)

ところが、先日成田空港に帰ってきて、JRの乗車券を買おうとしてびっくり。なんと機械すべてが、金額ではなく出発駅や行先を入力しなければならない“全”タッチパネル方式に変っていました。

ちょうどその時「○○○円の切符を買いたい」と言って機械の変更に困惑している、日本を何度も訪れているような外国人がいたので、私は彼から行先を聞いてタッチパネルを操作し、切符を買ってあげました。値段を選んで切符を買うのに比べて、3倍は時間がかかったような気がしました。

「SUICA利用者が増えたので券売機利用者が減ったのも確か。それでも乗客は圧倒的に東京近郊在住者が多いだろうし、そのほとんどが成田空港から自宅のある駅までの運賃を知っているのではないか。これは空港駅の国際化の一貫?それとも成田だけではなく、今後全国に広がるのだろうか。タッチパネルもあってもよいけど、従来の金額を選んで買う券売機を一台も残さなかったのは、値上げの時の路線図を書き変えの手間はぶき?」

日本の方式が合理的と思っていたのを裏切られた気がしたこともあって、この時は妙な勘ぐりさえしてしまいました。

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『フライト・プラン』は人種差別映画ではないのでは?

2010年05月22日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

昨夜、ジョディ・フォスター主演の2005年の映画『フライト・プラン』をテレビ放映していました。

私はこの映画を大して期待もせずに途中(40分ほど経ったくらい)から観たのですが
、案外面白くて最後まで見てしまいました。つまり、途中から見ても理解できるくらいストーリーが単純だったということでもあります。

映画は、飛行中の飛行機から一緒に乗ったはずの主人公カイル(ジュディ・フォスター)の6歳の娘が失踪、彼女が誰の支援も受けられないまま一人娘を探すお話。「娘が失踪した」という彼女を、乗員、乗客誰一人として信じません。「この女性は気が触れているのだ」という皆の思い込みと冷たい視線。飛行機に同乗していたセラピストにセラピーを受けさせられたカイル自身も、一瞬「自分は幻想を見ていたのだろうか?」という気になったりもします。

さて、私が楽しんだこの映画ですが、実はある場面があることもあって日本では評判がよくないようです。

それは、娘を探しまわるカイルが一人のアラブ系の乗客を見て誘拐犯扱いをし、他の乗客もこれに同調してアラブ人を罵る場面があること。そして終盤、まったくの無実なのに名誉毀損や暴力を受けたこのアラブ人乗客がカイルにかばんをとって手渡してあげる場面。

彼女は自分の非礼について詫びることもなければ、かばんの御礼も言うことがないまま映画が終わってしまうのです。それが「人種差別的」ということで、こうした脚本のまま出演したジョディ・フォスターを批判する人さえいました。

さて、私の感想ですが、確かに「無実のアラブ人にせめて、『ありがとう』くらいは言えばよかったのに・・・」とは思いましたが、これを『人種差別的映画』とはまったく思えませんでした。

なぜならこの映画は、「アラブ人というだけで、胡散臭く見る人が多い」という911以降の先入観から、「『娘は絶対飛行機に乗っていた』と主張するのが一人しかいなくて、多勢が『そんな女の子は乗っていなかった』と言えば、実はよく分っていない人も多勢の言うことが真実だと思ってしまう」「一女性の言うことより、警察関係者や、パイロットなどの方を信じる」という人間の無責任さや現実をよく表現していたからです。

カイルがアラブ人乗客に謝らなかったことも、観方によっては、アメリカ政府がアフガンやイラクに対する攻撃について「謝ることがない」のを皮肉っているとも思えますし、この誹謗されたアラブ人乗客が彼女に謝罪を求めるのではなくて親切にかばんを手渡すのも、「アラブ人というだけで人からテロリストのように見られ、誰も理解してくれない辛さを知っている自分が、真実を言っていた彼女を頭から信じなかった。彼女は自分の子供を必死で探していた尊敬すべき女性なのに。」という反省があったからだとも受け取れます。いずれにしても、観客の好感度が高いのはアラブ人乗客のほうになります。

(とはいえ映画のストーリーに大分無理があるのも確かです。まあ、監督や原作者は、人間の弱さや世相の皮肉をあえてデフォルメして描きたかったのかもしれません。・・・ひょっとしてカイルのあの破壊的で無茶な娘の探し方さえも『イラク大量破壊兵器捜査』の皮肉かも・・・。)

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事業仕分けの被害者は弱者-ウルビーノ公の一喝

2010年05月20日 | 社会(歴史・都市計画含む)

今日、5年ほど前まで勤めていた市の外郭団体の敷地内にあった授産所(障害を持った人達のために作業所)で障害者達のお世話をしていた女性と話をしました。

授産所には10名弱の障害者が軽作業をしに来ていて、彼女を含む2名の嘱託職員が親身になってお世話をしてきました。これが、いわゆる事業仕分けの福祉部門の予算カットの為、昨年閉鎖。嘱託職員自身も職を失うことになりましたが、彼女達は通所していた障害者達の先のことが心配で、いろいろその後の勤め先などを探したりしたそうです。

「結果的には半分の人達が自宅で過ごすしかなくなった。彼らは自宅にこもるだけになってしまう。」そう心配する彼女(嘱託員)も、ハローワークに通っているけど、もうずっと仕事が見つからないと言います。(それでも未だに授産所に通っていた人達のことを心配しています。)

この事業仕分けの余波は、私が昨年までいたシルバー人材センターにも及んでます。

経費削減のための人員整理で、私の後任者は半年もしないのに解雇され、定年で退職した人の後も補充がなく、結果負担は残った職員達に。しかも許せないのは、この負担増の部分はほとんどが正職員ではなく派遣やパートの職員に回されるということです。それを断わった人の中には「契約を更新しない」と脅された人もいます。

(脅した人は、自分はいつも
5時のチャイムと同時に帰ります。彼はそのライフスタイルを変えたくないようです。)

事業仕分け-無駄をなくすことは必要ですが、数字を減らせば現場で何が行われているのか、政府は知らぬ存ぜぬなのでしょうか。

国は予算を減らすと通告するだけで、市や現場にお任せ。その後のフォローはあるのでしょうか。

15世紀イタリアのウルビーノに、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro)という君主がいました。彼は質素、賢者、文化的、寛容な名君ですが、何よりも偉いのは、町にでて、貧しい人や、困っている人達の声をじかに聞くことをしていたというところです。

「予算の無駄を削るなら、まずは自分達から。議員の数を減らし、議員年金を減らしなさい。やむを得ず助成金等をカットしたのなら、一度その現場に言って、適正、公平に対処されているかどうか、最後まできちんとチェックしなさい。こうした場合、常に誰かが泣かなければならない。しかし、『ツケは一番立場が弱い人達にまわりやすい』『そして彼らは泣き寝入りしかできない』ということを想像できない者に、国(市町村)は治める資格はない。」

フェデリーコが現在の日本にいたのなら、きっとこう言うでしょう。

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ニーチェの新しい苦悩

2010年05月20日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

昨日の東京新聞夕刊に、最近ベストセラーになっているという『超訳・ニーチェの言葉』と言う本についての辛口コラムがありました。

これを一部抜粋すると、

「例えば、ちくま学芸文庫の『人間的、あまりに人間的I』の486。「人のもたなくてならぬものが一つある、生まれつき軽やかな心か、芸術や知識によって軽やかにされた心かである」が、『超訳』では「軽やかな心を持つ」のタイトルで8行もの文章になり、「多くの知識に触れるようにしよう」という教養主義的なお説教になるという按配だ。ニーチェ特有の皮肉は見事に抜き取られている。」

難しいことを一般の人にも身近に、というのでしょうか。昨年はマルクスの漫画本がでて一時期案外話題になりました。また、経済、政治、宗教等々のお手軽本は、近年は定番となっています。

漫画、もしくは解説書的お手軽本について、「たとえばマルクスの名前を知っていても、彼についてや、彼の思想について全く知らないで一生過ごす人が多い中、漫画であろうが、お手軽であろうが、それが知るきっかけになることは良いことではありませんか?もしかして、1000人に一人でも彼から経済、歴史に興味を持ち始める人がいるかもしれないですし。」と、ある経済学者の知人に自分の意見を言った時、彼は「そんな漫画でマルクスや経済を知ろうとする、もしくは知った気持ちになるような輩が、そのあとまで関連したまともな本を読むはずがない。」と不愉快そうに切捨てました。

この話を日本の大学で教えているドイツ人の友人にすると、彼は、「僕は自分で読むことはないけど、マルクスの漫画や、経済などのお手軽本は、あって良いと思いますけどね・・。」と私と同意見であることを言ってきました。

とはいえ、今回の『超訳・ニーチェの言葉』に関しては、『マルクスの漫画』とは意味が大きく違います。

東京新聞のコラムも「本書を鵜呑みにして心の糧にする善良な読者もいるだろうが、訳者と出版社のニーチェへの責任はどうなるのだろうか。」と書いていますが、草葉の陰から、ニーチェもハラハラ見守っていることでしょう。

ニーチェにせよ、他の哲学者せよ、当事者が書いた本自体は難解であっても、格言集くらいだったら、超訳せずとも若い人でも理解できるもの。(そして読むのは楽しい。)

私は、『超訳・ニーチェの言葉』を本屋でパラパラめくったことさえありませんが、東京新聞のコラムが本当であれば、一体出版社は何を思ってこれを出版したのでしょう。

私の好きな彼の格言を一つ-

多くのことを中途半端に知るよりは何も知らないほうがいい。

他人の見解に便乗して賢者になるくらいなら、むしろ自力だけに頼る愚者であるほうがましだ。

~『ツァラトゥストラかく語りき』

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公衆電話でフランス語のお勉強

2010年05月13日 | 旅行

私の携帯電話は海外では対応していないため、海外旅行に行くときは携帯電話をレンタルしようかどうしようかと悩んだこともありましたが、結局はレンタルなるものが嫌いな為、海外で電話を使う時はホテルの電話、もしくは公衆電話を利用しています。

携帯電話の普及により、欧州でも当然公衆電話の数は減ってはいますが、それでも空港や駅には公衆電話はあるものです。(パリは少なかったですが、イタリアやドイツの町の中では、公衆電話は日本以上にあるような気がしました。)

さて、イタリアでもドイツでも、公衆電話用に現地でテレフォンカードを購入して使用していましたが、両国共使い方は日本と同じ。普通に受話器をとってカードを挿入し、電話番号をプッシュすれば電話することができました。

イタリアのものがどうだったか忘れましたが、ドイツのテレフォンカードの場合は、電話の液晶部分に、残りの使える金額が表示されます。

今回もそういうつもりでフランスでテレフォンカードを購入して公衆電話を使おうと思いましたが、これが難儀でした。

最初はモンパルナス駅の公衆電話に挑戦。電話機の使い方に書かれているとおり、まず受話器をはずす、カードを差し入れる-をしたのですが、次の瞬間、電話機からフランス語が流れてきます。

昔、アメリカのコイン専用の公衆電話を使ったときに、「○○セントを入れてください」というような音声が聞えてきて、それに従って金額を入れるとスムーズに掛けられた記憶がありますが、今回は、コインではなくテレフォンカードを挿入しているため、別に金額が足りないわけでもありません。

電話の液晶を見ると、「音声ガイドをどうぞ」らしき表示が出ているのに気がつくものの、フランス語の音声はサッパリわかりません。

結局、近くにいたフランス人の学生風の女の子と、同じようにテレフォンカードを持って悩んでいた英語を話す外国人婦人と、頭を突き合わせて電話と格闘。

どうやら、フランスの公衆電話、かけようとしても、混んでいて局に繋がらなかったり、繋がるとしても、電話番号をプッシュする前に一通りこの音声ガイドを聞かなければならないということがわかりました。

電話をかけるには、まずこのフランス語のチンプンカンプン音声ガイドが終わるのを根気よく待ってから電話番号をプッシュ。その後運がよければ、そのまま呼び出し音がし、相手が出て通話。運が悪ければ、番号をプッシュしたあとに、もう一度フランス語が流れて、その後に呼び出し音、通話となります。

不便極まりない上、このフランスのテレフォンカードの残がどれくらいかという表示は電話機の液晶には全く出ません。聞きたくもない音声ガイドを聞いている間も料金が課かっているのかも不明。

とはいえ、欧州から公衆電話での国際通話料金は格安で、今回も、フランスの7.5ユーロで購入したテレフォンカードで、日本に2回、ドイツに1回、イタリアに2回、フランスの地方に1回、ブルガリアに1回、とそれぞれ短い通話でしたが、かけることができました。

(ただし、最後にかけたブルガリアへの電話ですが、テレフォンカードの残りの度数が分らなかった為、「私よ、今シャルルドゴール空港からかけているの」と相手に言って、相手が何か言おうとした途端、無情にもブチっと切れてしまいました。

また、これだけ電話をするのに、どれだけフランス語の音声ガイドを聞いたことか・・・。)

蛇足ですが、国際電話料金についていえば、4星以上のホテルは高いですが、3つ星、2つ星のホテルからかける電話料金と手数料は、どこも日本からかける場合よりとても安かったと思います。

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 日曜の風景&パリのパフォーマーと乞食

2010年05月10日 | 生活・日常

パリ旅行から帰ってきてバタバタしながら連休も終わり。

昨日用事があって夫と駅ビル界隈を歩いていると、あしなが育英募金を呼びかける学生4人を見かけました。旅行の出発前に募金をしそびれたので、あわてて夫と二人で募金を。近くにいた幼児も、親からもらったお金を握り締め、おぼつかない足取りで募金箱へ向かう姿は微笑ましいものでありました。

ところが、このあと30分くらいたってその場所を通ると、募金をする学生の姿はもはやありませんでした。

「そういえば、春のあしなが育英募金って、4月の終わりから、せいぜい5月の連休前ではなかったけ?」

ふとそんな疑問がわいて、数年前に勤めていた市の福祉団体の募金担当者に今朝尋ねてみると、「もしかしたら、学校の福祉担当教師が募金額を増やそうと、勝手に延長してしまったのかもしれない。」という回答が返ってきました。

まあそう考えると、警察なり、駅なりに許可なしで募金をして撤退させられた、ということだったのかもしれません。

さて、これは募金ではありませんが、何年くらい前からでしょうか、私達の町の駅ビル前にも、楽器演奏や歌などを披露してお金を任意で貰うパフォーマーが週末や祝日に現れます。(許可を取っているのかいないのかは不明。)

たまに見ている限りでは、日系南米人とみられる若い人が多く、時々日本人の若者もいます。

東京などの繁華街などならともかく、こんな町で歌っていてもスカウトされることもないし、得られる報酬もさしたるものではないだろうに、とは思いますが、実益よりも、公衆の面前でパフォーマンスができるということが彼らにとって魅力的なのかもしれません。

パフォーマンスといえば、パリの地下鉄では構内、車内共、こうしたパフォーマーがいます。パフォーマー達は誰でもできるわけではなく、オーディションを受けて受かった人達だけの特権らしいのですが、中にはクエスチョンマークつきのパフォーマーもいます。(たぶんオーディションの受かっていないのに勝手にやっている人もいるのでしょう。)

こうした下手なパフォーマーが、乗り合わせている地下鉄の同じ車両にやってきて大音響で演奏しだしたり歌いだしたりする場に出くわすのは、案外苦痛。

今回の旅行では、うまい下手合せて6、7人くらいの地下鉄車内のパフォーマーを見ましたが、私達が座る椅子の目の前でうるさいだけの演奏と歌を初めたパフォーマー二人には閉口しました。(うち一人は騒音公害に等しく、申し訳ないけど席を離れてしまいました。)

不思議なことに、うまいパフォーマーは二駅間くらいで音楽を切り上げ、タイミングよくチップを貰って歩いてさっと降りていくのですが、下手な人に限って音楽を終えるタイミングが悪く、チップを集めようとしてもその車両から人がいなくなってしまう。

気の毒ではありますが、彼らも自らの実力を知っているのか、別段気にしたふうもありません。

そして、駅にいるのはパフォーマーだけではなく、身なりもそんな悪くないのに、お金を恵んでもらおうと紙コップを差し出す若者もいます。

紙コップを持ってお金を恵んでもらおうとする人は、寺院の入り口などでも何人か見かけましたが、彼らはそろって皆老人。地下鉄の紙コップを差し出す人は(私達が見かけた限りでは)若者だけ。

「日本が『不景気だ』っていったって、乞食は少ないし、豊かな国だよ。」

昨年パリに赴任していたH(異端児の孤独“参照)が帰国後に会った時にこういって私を怒らせましたが、「日本は乞食を見かけないから豊か」かどうかはおいておいて、つぶやいた気持ちは理解できました。

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パリに集結したトラクターの悲哀

2010年05月06日 | 旅行

今回の私達のパリ旅行では何のアクシデントもなかったのですが、シャルル・ド・ゴール空港からパリ市内に向かうエールフランスバスの車窓から妙なものを見ました。

それは反対車線のなかに、旗をたなびかせた農業用のトラクターがゆっくり走っている姿。(実際はこれらのトラクターが大渋滞の元凶で、道路の流れもストップしている時間の方が長かったので、『場違いな場所で身動きがとれなくなっていた自業自得のトラクター』と言ったほうが良いかもしれません。)

日本に帰ってきてから、この日にフランスの農家のデモがあり、約1300台のトラクターと1万人の農民が各地からパリに集結し、市内の大通りをデモ行進した、ということを知りました。私達が見たのは、パリ市内から家路につくトラクター達というわけです。

フランスは欧州きっての農業国ですが、景気低迷、豊作、穀物投資のマネーゲームの犠牲による穀物価格の低迷などで、農家の収入が激減。今回のデモは補助金などを求めるものだったようです。大都会にトラクターが集結、と言うのは、一見のどかというかユニークではありますが、実情は農業従事者に自殺者が出るなど、そんなに悠長な感じではないと言います。

農業と助成金といえば、ちょうど旅行に出かける前に、ティムさんと話題にしていました。

ティムさんは国が農家に対し助成を与えること、その結果必要以上の農作物を作り出し、その余剰分が途上国に無償援助され、その土地ではそれ故に国内の農作物市場を混乱させる、ということを問題視していました。

また、日本のお米を筆頭に、農作物についての保護主義に対しても触れていて、農作物に関しても自由貿易主義の彼と、食の安全保障の観点から若干の農作物の保護、農家に対する助成や保証について肯定派の私とは意見が分かれます。

EUには、共通農業政策CAP(Common Agricultural Policy)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E9%80%9A%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E6%94%BF%E7%AD%96

というものがあります。

これは農作物価格の水準維持や、生産に対する補助、そして農業従事者の生活水準の保証をうたったものです。これは特に農業国フランスにとっては大変都合の良いものであるものといいますが、EUにしろ、フランスにしろ、時代の波には逆らえずにいるのではないかと思います。

また、例えば「農業従事者の適正な生活水準の保証」という部分では、実際は大規模農場と比べて、小規模農家にとっては(改善されたとはいえ依然)不公平なものだといいますから、最初に煽りを食うのは小規模農場経営者達。

パリに集まった農業従事者達はほとんどが小規模か中規模農場経営者であると思いますが、ふとトラクターに掲げられた旗の「フランスは農業(大)国ではなかったのか?」という文字に、農業従事者として誇りを持ってやってきた人達の絶望がヒシヒシと伝わってきました。

フランスはそれでも依然農業国でいつづけるでしょう。しかし、それは「農民にプライドを持たせるという意味での農業国」というのとは、少しづつ変っていくのかもしれません。

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セーヌやエッフェル塔は変らずとも

2010年05月04日 | 旅行

私達のパリ旅行中、アイスランドの噴火もおとなしくしていてくれたようで、無事出発、そして帰国することができました。

天候にも概ね恵まれ(むしろ日本より暑い)、パリの美術館・博物館、寺院等々を朝から晩まで観て周り、ついでに近郊の町に足を伸ばしたりして、思いっきり満喫。

もともと私以上に今回のパリ旅行を楽しみにしていた夫などは、私がホテルで休息している間も休みなくパリの街を散策していました。

さて、今回の旅行は大きなアクシデントもなかった代わりに、何か新しい出会いや発見があった旅行ではなかった、という意味では少し物足りないものではありましたが、そういう中でいくつか街の変化を感じ取りました。

まずは、パリの街の中からイスラム系の人々が少なくなった、もしくはその場にいたとして目立たないようにしているということ。生粋のフランス人に混じってアフリカ系の人々がなんの違和感もなく立ち振る舞っているのに対して、彼らの存在感があまりないのです。これはもちろん場所にもよるのでしょうが、イスラム系の人が比較的多いモンマルトル界隈、中心地を離れた場所も訪問してもそう感じるのです。

観光客の中で日本人が減った-これは、噴火騒動でパリ行きを断念した日本人観光客が多かったせいもあるかもしれません。しかし日本料理屋の従業員の方と話をしている中でも、ここ数年、ゴールデン・ウィークでパリにやってくる日本人は減っているということを聞きました。

また、モンパルナス駅にあった両替所には、中国元の交換レートは表示されているものの、日本円については表示がないのです。これは、日本人でわざわざ駅で両替したりする人が少ないせいかもしれません。しかし、なんとなく寂しい気がしないでもありませんでした。

そして、これは2008年の2回のパリ旅行でも思ったことですが、パリの人々が穏やかそう、というか、親切な人が増えたということ。

2001年のNYのテロ事件の影響か、世界各国の観光地に警察官の姿が増えたように、パリにもシャンゼリゼ通りから美術館がひしめく界隈に銃を持った警察官の姿を目にします。そのせいか、観光名所界隈によくいたジプシーのスリ軍団も減り、治安も比較的よくなり、人々の警戒が解けた故なのでしょうか。

そして、これはもう大分前からですが、パリの街につき物だった糞やゴミがなくなったということ。それに対し、パリの歩きタバコが異様に増えたということ。前者はパリ市の努力の賜物でしょう。ゴミに関しては、パリ市内のいたるところに透明なビニール袋をぶら下げたゴミ入れがあり、糞に関しては犬を散歩させている人自体が減っている気がしました。

後者は、パリの屋内がほとんど禁煙になってしまったという反動でしょうが、これもいず問題視されて、屋内禁煙解除か、タバコを吸う人が減っていくかもしれません。

セーヌも、ルーブルも、エッフェル塔もこれから先も何も変らないままに、街や人はどんどん変っていくのでしょう。

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