Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

素敵な大晦日

2007年12月31日 | 

今日は大晦日。

年末は大掃除、年賀状、お正月の準備と慌しいですが、私はこの時期が案外好きです。ただし、この時期を楽しいと思う理由は別に私が掃除・料理好きだからではなく、その一年間にあった出来事、知り合った人々のことをいろいろ頭の中で思い返す時期だからです。

また最近はそれだけでなく、「○○年の大晦日はこうして過ごした」、「○○年はこうだったな」と昔のことまで考えるようになりました。ま、それだけ歳をとったことかもしれません。

私が若い頃に勤めていたところは大晦日まで仕事があり、しかも私の部署の仕事は外国相手であった為、時差の関係もあり夜遅くまで仕事になることがありました。

料理が得意だった男性職員の一人がお給湯室のやかんを使って「年越しそば」ならぬ「年越し点心」なるものを作って、残業している数人の職員にふるまってくれ、彼らと一緒に過ごした大晦日の晩もなかなか楽しいものでした。

年末年始を異国で過ごそうと、友人とモルディブで過ごしたときもありました。24年前のモルディブはまだ日本ではあまり馴染みがなく、私達が過ごしたリゾート島にいた観光客も日本人はごくわずかでした。

飛行場しかない島からホテルには、‘ドーニ’と呼ばれる船で移動するのですが、乗客は欧米人ばかり。家族連れ、カップル、一人旅・・・。

この旅行では、日本人が珍しかったせいか、私達はすぐ数人の客と従業員と仲良くなりましたが、ここで一番記憶に残っているのはギリシャ人のコスタスおじさん。

当時
70歳くらいのこの男性は一人旅で、気難しいのか、他の客と話ている姿を見たことがありませんでした。しかし、たまたま写真のシャッターを押してもらうお願いをしたところから、彼が単に人見知りが激しいということがわかりました。

彼は若い頃日本の八幡に軍の仕事でいたことがあり、そして日本のことを今でもよく思い出すという話をしてくれました。それからたびたび話をしたり、一緒に冷たく冷えたコーラを飲んだり・・。

そういえば、コスタスおじさんに「あなたは今何をやっているんですか?」と尋ねたとき、彼が「“ペンション”で暮らしている」と答えたので、彼がペンション(宿泊所)のオーナーだと一瞬思い込み、トンチンカンなことを言って彼を笑わせました。‘
pension’に年金という意味もあったのは、その時知りました。

波の音を聞いて過ごした大晦日、翌日のインド洋の初日の出は、こうした異国の良き人達がいたからこそより忘れられないものになっているのでしょう。

その他、結婚した年初めて過ごした夫の実家の大晦日、臨月のお腹を抱えて過ごした大晦日、新居で迎えた大晦日、風邪をひいて唸りながら過ごした大晦日・・・、どれも良い思い出です。

今年の大晦日は取り立てて変わったものではないけれど、それでも2007年の大晦日も、あとで思い返せば素敵な思い出になるでしょう。

皆様素敵な大晦日をお過ごしください。(本来、「良いお年をお迎えください」と言うべきなんでしょうけどね。)

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ファンタジー

2007年12月26日 | 友人・知人

子供の頃、森永のハイクラウンチョコレートに入っていた妖精カード(Cicely Mary Barker画)を集めていました。

これは30代後半
以降の方なら目にしたことがあるでしょう。残念ながら妖精カードはもう持っていませんが、今もなお、私は妖精・小人というモチーフを使った絵や物語にはひきつけられます。

さて、妖精や小人ものといえば西欧が本家本元ですが、日本にも素晴らしい作品がいくつかあり、中でもいぬいとみこの『木かげの家の小人たち』などは名作です。この作品はフランスで“Le secret du verre bleu”という題名で翻訳されているようですが、反応はどうだったのか気になります。(これはドイツの児童文学に通ずるものがあると思っているので、私はドイツでも翻訳、出版して欲しいと思っています。)

昨日はクリスマスでしたが、一昨年のこの時期ドイツに住む友人の幼い息子さんに不思議なことが起こりました。

息子さんは当時4歳。
ある日突然彼に
3匹の"何か“が見え出したのです。

息子さんに見えるもの・・呼び名、“ミミ(友人の親戚の犬の名前)”、“キャメル”、“モータン”から察するに、それらは犬、ラクダ、牛のミニチュア版のようなもののようだと、友人は想像していましたが、当然彼らにそれが見える筈がありません。

息子さんはあたかもそれが本当に存在するように話しかけ、そして両親にも、「今ここにいる」とか、「何処そこで寝ている」と報告までするようになりました。最初は面白がっていた友人夫妻も、案外長くこれが続くので少し心配するようになっていました。

この話をフィンランドのペンフレンドJにしたところ、彼はフィンランドに伝わるいくつかの妖精(精霊)について教えてくれました。

そのなかでフィンランドで古くから伝わるノーム(英語でgnome、フィンランド語ではhaltija もしくはtonttu)については、Jもお気に入りのようでした。

「ノームは各家庭にいて、家人の留守のときに、家や動物を守ってくれるんだよ。だからたとえ家に誰もいなかったとしても、フィンランド人は挨拶をしながら家に入る習慣があるんだ。留守番をしてくれていたノームに、感謝の気持ちと愛情を持っているからね。」

フィンランドの人達が本気でノームを信じているわけではないにしろ、家庭用サウナにおくノームの陶器の置物などもあって、ノームは国民に親しまれているようです。

さて、前述の友人のところはドイツなので各家庭用のノームはいませんが、息子さんが見ていた動物の妖精達はいったいどうしたのでしょう。あのあと数週間くらいたってから友人から報告が来ました。

「うちの子によると、昨晩までにミミキャメルは『帰っていった』そうです(一体どこに帰ったんだろう?)モータンは未だいて、昨晩は我々と一緒のベッドで寝たようです。ともあれ、お蔭様で動物も一匹に減ったので、家も広くなった感じがします。」

2匹に去られて、友人も寂しそうでした。

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イタリアの頭痛

2007年12月23日 | 海外ニュース・できごと

今、日本人にイタリアのイメージを聞いたら、あまり悪いことは言わないのではないかと思います。

まあ、マイナスのイメージとしては、せいぜい、「女ったらし」「適当」「スリ、かっぱらいが多い」といったくらいでしょうか。

この国は優れた芸術家を数多く生み出し、文化遺産も多く、風光明媚、そして食べ物が美味しい、ということで昔から人気のある国です。

しかし、イタリア人自体についていえば「イタ公(
wop)」と下げずまれていた時代もありました。

これはイタリア南部出身者によく見られる黒髪、浅黒い肌に対しての偏見もあったかもしれませんが、いわゆるアメリカなどに渡った移民達が、
dangerous(危険な), dirty(汚い), demeaning(品位を落とす)-3D-という人が嫌がる仕事についている人が多かったこと、そして、「ゴッドファーザー」や「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」に描かれているように、アメリカ移民のイタリア人というとマフィアと絡んでいるようなダークな印象があったからなのだと思います。

私が「イタ公」という言葉を知ったのは映画や本からで、実際人が会話で使っているのを聞いたことはありませんが、今は映画のなかでさえ、その言葉を耳にすることもなくなりました。欧米の一部の人達のなかにはひょっとしたらまだイタリア人を下げずむ人達もいるかもしれません。そうだとしても、現在のイタリアの地位が世界的に上がったのは確かです。(これはファッション、ブランド界の力も多大に影響しているでしょう。)

さて、そのイタリアでは今、ルーマニア人の移民に頭を悩ましています。ルーマニア人にとってイタリアは文化的にも言語的にも似通っているので、もっとも人気のある移民先であるらしいのですが、そうしてやってきた彼らの仕事は人があまりやりたがらない仕事。

危険、汚い、きつい、単純作業-それでも仕事があればまだ良いほうで、不景気になればすぐ切られる身。皆が貧しければともかく、街で見かけるイタリア人や観光客は皆自分より裕福で幸せそう。こうして、犯罪に手を染める人達も増えてしまうのでしょう。

最近ローマでおこった事件で検挙された犯人の半分以上がルーマニア人だそうですが、こうしてイタリア国民のルーマニア人嫌いが増える中、10月にルーマニア人による極悪非道な強盗レイプ殺人事件がおき、それに拍車をかけたようです。

(ルーマニア政府は「事件をおこしているのは普通のルーマニア人ではなくて、ロマ人(ジプシー)だ。」がさりげなく差別化を狙った発言をしています。実際この凶悪犯もロマ人の若者でしたが、随分無責任な発言です。)

嘗て移民を出してした国が豊かになり地位も上がり、今度は受け入れ側に。景気が良い間はいいけれど、悪くなった途端に安い賃金で都合よく使っていた人達は大変なお荷物、爆発物となる・・。

ルーマニア移民が増えたのはイタリアがwelcomeと迎えたというより、「EUの基盤である基本的自由のひとつ、人々の移動の自由」を守ったまでのことのようですが、問題が起こった今もまだルーマニア人締め出しはしないようです。

貧しさから這い上がって豊かになったが故に持つ寛容さか、それとも宗教的寛容さか。いずれにしても、それがかえって両者(イタリア国民、ルーマニア移民)に不幸を招いているのだとしたら皮肉です。

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英語以前に

2007年12月19日 | 教育

外国の友人達と話していて一番うらやましくなることは、彼らのコミュニケーションを楽しむ態度です。そんな彼らはいつも材料となる話題を増やす努力をしているのでしょうが、たとえこれといった題材がないときでも“ユーモア”というスパイスを加えてそれを上手に料理して相手に差し出す、そんな芸当をいとも簡単にやってのけるのです。

フィンランドのペンフレンド、J(40代前半)などは特にそれに優れています。

彼は大手企業の役員で、仕事で付き合う国の内外のエリート達、学生時代から付き合いの続く旧友達(科学者から失業中の人達まで)、趣味でやっているバンドのメンバーの若い人達、バイク仲間達と様々な人達との付き合いがあることに加え、非常に多趣味で好奇心が旺盛なので話題が豊富。

それだけでなく、日常の事柄も彼にかかれば一つの材料になります。たとえば、週末に市場に出かけて『ドライ・ストロベリー』を試食したということだけでも彼にかかればドラマに仕上がります。

昔、毎週月曜日に「週末はどうでした?」と質問をするアメリカ人英会話講師がいました。こう訊かれて、週末に映画に出かけたとか、旅行をしたという時なら少しは会話が続くのですが、土日は家でゴロゴロしたり、出かけても大したことをしなかった時などは会話も続きませんでした。

それは私だけでなく他の受講者も同様でした。英会話が上達しなかった原因は、実は英語以前の問題だったのでしょう。

また、私達日本人の『(世界的に)共通となる話題の下地(文化、芸術、社会問題)の不足』と『意見を持たない、言わない』というハンディも間違いなく語学上達の足を引っ張っているのだと思います。

そういえば、海外赴任中の元同僚もこんなことを言っていました。

「仕事の時はお互いに相手が分かっていますし共通の目的があるのでいいのですが、レセプションとかでまったく仕事の接点がない方に話しかける時など、結構頑張って話をしないとすぐ会話が途切れてしまいます。要は、対応できる話題をいかにたくさん持っているかがポイントで、こればかりは言葉の知識とは関係なく、これまでの経験や興味の範囲で決まってくるのだろうと思います。もう少し言えば、一つの話題から関連ありそうなものへと発展させていかれる能力も大切でしょう。」

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素晴らしき伯父

2007年12月17日 | 生活・日常

先日、大好きな伯父が亡くなりました。

まだ乳児の頃、私は数ヶ月間伯父の家にお世話になっていました。姉が怪我をし、日中母一人で3人の幼い娘達の面倒を見るのが困難になった為、一番丈夫で手がかからなかった私を郷里に住む姉夫婦に預けたと聞いています。

伯父と伯母、そして10歳ほど年長の私の従姉妹のところが居心地が良かったのでしょう、約1ヶ月後に親が迎えに来た頃には、まだ言葉も話せなかった私はハンガーストライキを決行して、そこから連れて帰られるのを拒否したといいます。

伯父夫婦の家から本家に連れてこられた途端ミルクを飲むことを拒否し続けるわが子を、結局両親はまた伯父夫婦のところに連れて行くしかありませんでした。こうしてその後半年間、私は伯父夫婦の家で過ごすことになったのです。

このことがあったので、伯父夫婦は遠く離れていても、私をもう一人の娘のように思い続けてくれました。

私も両親の郷里に行くと泊まるのは本家でなく伯父夫婦の家。2歳になった息子を連れて行ったときに本当の孫のように甘やかし、目を細めていた伯父。不思議と初対面と思えないほど懐いた息子。乗り物酔いをする為遠出をしたがらない息子ですが、伯父の家へは喜んで行きました。私が行かなくても、たとえ車で道中辛い思いをしても。

私自身は、結局伯父と直接会ったのはもう遥か昔ですが、それでも私にとっても伯父と伯母は特別な存在。言ってしまえば、もう一人の親のような存在であって、夫の両親も含めて「私には父と母が3人ずついる」とよく言っていました。

そんな伯父が「もう年内もたないかも知れない」と聞いたのは先月の下旬。心配させるのを嫌がって伯母も親戚も連絡をよこさなかったようですが、従姉妹の一人がこっそり私に連絡をくれました。しかし、結局はその数日後に伯父の具合は急変し、意識が戻らぬまま、約1週間後に息を引き取りました。

伯父の病気の話を聞いたときも、亡くなった知らせを受けたときも、私は夢の中のような出来事に思えたのかもしれません。

私にとっての伯父はいつまでも声が大きくて暖かい元気な伯父です。伯父の危篤を聞いても、亡くなったと知らせを受けても、実感がありませんでした。

告別式で、その記憶のままの伯父の遺影を目にしたときに、涙が初めて出ました。

「伯父さんはあんた達(私と息子)のことを気遣っていたんだってよ」前に座っていた母が涙を流しながら伯母から聞いた話を囁きました。そしてひと回り小さくなった伯母が焼香の列なならぶ私の手をぎゅっと握り締めたときに、本当にこれが現実であることに気がつきました。

「従姉妹から伯父のことを聞いたとき、すぐ新幹線に乗っていればよかった」そう悔やむ反面、「決して弱いところを人に見せなかった伯父はどう思っていたのだろう」時おりそんなことも考えていました。

伯父が亡くなった今、二度と話をすることはできません。しかし、伯父は私に伝えたかったことがあるとすれば、「残した伯母を気遣って」と願っていたのではないか、そんな気がします。そう考えたとき、伯父の笑顔が浮かんできました。

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凡人向英語教育を

2007年12月14日 | 教育

「先生が、『外国人だって日本に来て英語をしゃべっているんだから、日本人だって外国言っても日本語で押し通せば良い』って言っていたよ。」

英語嫌いの高校生の息子の言葉です。

まったく・・・英語教師がこんなことを言うわけはないし、きっと英語が苦手な他の科目の教師が言ったのでしょう。親の立場上、私は不出来な息子を諭しました。

「外国人のすべてが英語が母国語ってわけでもあるまいし。一応英語が国際共通語になっているから皆英語をしゃべるだけ。」

勿論教師も先の発言を本気で言ったわけでも、息子が真に受けたわけではないのも分かっています。

それにしても、息子達が習っている英語を見ると、こんな風に言ってみたくなる気持ちも理解できないではありません。

高校生の英語のテキスト-まるでそれは『英字新聞を読めるようにするための勉強』のようです。これはいわゆる受験用の英語なのでしょうが、英語の基礎ができていていない生徒達(高校生、大学生)にこれは無理というものです。

確かに中学を卒業するまでに基礎をしっかり身につけている生徒達だったら問題はありません。しかし日本全体の比率でいったらどうでしょう。そういう生徒はほんのわずかだと思います。

実のところ、英語圏で生活するとか専門的な仕事につくのでもない限り、中学の英語を身につけてさえいれば、基本的な外国人とのコミュニケーションはなんとかなると私は思っています。

私の非英語圏の友人だけでなく、英語圏の友人達もとりたてて難しい単語や言い回しを使っていませんが(それは相手が私であるから気を使ってくれているということもありますが)、とにかくそれでも何とか意思は伝わるのです。

あるメーカーで短期間営業の仕事を手伝ったときに接した外国の顧客達も同様でした。まあ通信手段がEメールということもあり文章が簡潔だったということもありますが、仕事だって基本的には中学で習った英語プラス仕事の専門用語を覚えればなんとかなるものなのです(文書でも契約書、法律関係のものは日本語のものと同じように大変分かりづらいですが)。

今、日本では英語の開始時期を早めようという動きもありますが、子供達が英語の基礎を身につけないうちに高度な英語を学ばせることが、いかに時間の無駄かをまず考えるべきだと思います。

「日本に旅行したとき、英語の通じる日本人があまりに少ないので驚いた。あなたはそれについてどう思いますか?」

フランス人のペンフレンドの先日の質問の答えの一つは、間違いなく「凡人に英才教育さながらの教え方をするから」でしょう。

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ブルガリアの聖女

2007年12月13日 | 友人・知人

ブルガリアのペンフレンドは、50代前半の女性です。

彼女はブルガリア政府関係の要職についていましたが体制変換後に職を失い、英語学校を設立し、つい最近まで子供たちに英語を教えていました。

彼女は特権階級出身者で旧体制では恩恵に預かってきたものと思われますが、今も昔も彼女の目は弱い人達に注がれています。そして彼女の視点はいつも第三者的で、思慮深いです。

旧体制時と現在-文通を始めた当初、彼女は思ったことを率直に書いてきて、時として私を心配させることもありました。しかしそれは同時に言いたいことを言える自由を謳歌しているように思えました。

彼女の話は多肢に渡りますが、こんなことを書いてきたことがあります。

「ブルガリアでは、旧体制のときに若者達が教会へ行くことは基本的に禁止されていたんです。そして体制変換後は教会へ行く自由が認められました。とはいえ、長らく禁止されていたお陰で、国民の間で宗教(そして伝統文化)を重んじる人達が減ってしまったというのは嘆かわしいことです。」

そして体制が変換して自分達が得た『行動、言論の自由』と引き換えに失ってしまったものについても心痛めていました。

「旧体制のときは見かけることのなかった町の中でゴミ箱をあさる人達、そして病気になっても病院に行けない人達、仕事をいつ失うかという心配は旧体制ではなかったことです。教育は人間にとって一番大切なのに、それも今ではお金がある人しか十分なものを受けられません。『私達が得たものは、民主主義でなくて無政府主義ではないか』と言う人達さえでてきている始末です。もちろん、『自由であること』が一番大切なんですけど・・」

彼女が英語学校を設立したのは、英語の必要性を感じていることと、彼女自身子供達の姿を見て心が洗われるからだそうです。それでも彼女は自分が第一線から退いていることに歯がゆさを感じ、時としてそれは彼女を落ち込ませることがあったようです。

そんな彼女に転機が訪れたのは今年の3月。

公職から離れていた彼女に新しい仕事が舞い込みます。それはある保健機関で病院に行けない人達の為に資金を援助する仕事です。彼女はそこの責任者に就任すると決まったとき、喜ぶともに長らく公職から離れていた自分に勤まるかどうかの不安もあったようでした。そんな彼女に私は言いました。

「あなたはその仕事の適任だし、あなたのような人を迎えられる職場、そして援助される人々は幸せだと思います。まあ、あなたを選んだ人達の目は確かでしたね。」

彼女はしばらく英語学校のクラスの受け持ちも続けていましたが(土日)、現在はそれは辞め、オフィスで貧しい人達の為に毎日奮闘しています。

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不愉快なロボット

2007年12月12日 | 生活・日常

クリスマス・カードの時期になりました。私のもとにはもう海外からクリスマス・カードが届きだしています。

私のほうはといえば、先月の終わり頃から急にバタバタしてしまったため、発送するのが今日になってしまいました。

さて、というわけでクリスマス・カードを持って郵便局の本局に出向いた私でしたが、とても不愉快な思いで帰ってくることになりました。

私が行った時間、郵便担当窓口は3つ開いていて客もそんなにいませんでした。ですからそんなに係員たちは忙しいわけでもなかったのです。

それにもかかわらず、いつものように「エアメールでお願いします」と私が窓口に差し出した封筒をその50歳前後の女性係員は無言で受け取り、一通の重さを量ると、いきなり郵便証紙を封筒にべたりと貼ったのです。

30年間毎年のようにクリスマス・カードを出してきた私もこれにはびっくり。確かに「切手で出したい」と先に言うべきであったのだろうと思いますが、まさか海外宛のクリスマス・カードに、客に確認もせずにいきなり証紙を貼られるなどとは予測していませんでした。

「すみません。記念切手を貼りたいので・・」

あわてて係員に告げると、彼女は面倒くさそうに一度貼り付けた証紙をベリっと封筒から剥がしました。マルタの友人宛の封筒に引き剥がした形跡が出来ても彼女は知らん顔です。

そして、記念切手が欲しいと言っているのにもかかわらず、普通の切手を出してこようとしたり、案外損傷の激しかった封筒を返すときも謝りの言葉一つありません。

他の封筒が無事だったことを不幸中の幸いと思いつつカウンターで切手を貼っていましたが、マルタの友人宛の封筒の損傷部分が気にかかりました。

もう一度家に帰って封筒を変えてくるべきか-。しかし、結局は時間がないので切手を上からバンドエイドのように貼り(それでもまだ完全に剥がした痕は消えていませんでした)、出してしまうことにしたのですが、なんだか釈然としません。

切手を貼り終えて窓口に向かうと、例の女性は窓口から離れていました。私は別の女性係員に発送を頼んでから、「自分が最初に切手でと断わらなかったのが悪いにしても、いきなりクリスマス・カードに証紙を貼るというのは今までなかったんですが・・」と苦情を言うと、その係員は「クリスマス・カードに証紙を貼ってしまったんですか!?」と一瞬絶句しました。

会社から出すような大量のクリスマス・カードならともかく、個人から個人(しかも外国人宛)のクリスマス・カードにまで「届けばよいだろう」と思って証紙を貼るような係員-こういうロボットのような仕事をする人はよく見かけますが、絶滅して欲しい人種です。

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大きい事実と小さい事実

2007年12月11日 | 社会(歴史・都市計画含む)

この1、2年ひょんなことから満州について調べています。
中国でひどいことをした日本人、悲惨な引き揚げ体験。

そんな中から、ある引き揚げ体験者の言葉には耳を疑いました。

「私は昭和22年に家族で満州から引き揚げてきたんですけどね、なんだかあまり怖い思いをしたというのも、空腹だったという記憶もないんですよ。かえって中国の方におにぎりを頂いておいしかった記憶のほうが強くて。8歳までいたことになるんですけど。」

彼女の父親は当時満州電業の技師をしていて、一家5人で新京(長春)で終戦を迎えたとのことでした。引揚げ時に8歳となると終戦時はまだ6歳で記憶も曖昧だろうし、たぶん彼女のご両親が子供達に怖い思いをさせまいといろいろご苦労なさった甲斐もあってのことでしょう。

これはとても珍しいケースだったのかと思い本やインターネットで調べてみると、ソ連軍や国民軍(八路軍は規律正しく強奪も暴行もしないかったと言われている)は怖かったにしても、戦後現地の人に仕返しとして危害を加えられることも、食物の苦労もなかった人の話がいくつか載っていました。

食料はともかく、現地の人と大きなトラブルもなく2年も過ごせたのは何故でしょう。満州電業も他の公的企業同様、戦時中から食料や物資を蓄えていたようなのでそれがものをいったのかもしれませんが、別の側面から考えられることがあります。

まず現地の人達のことですが、終戦時日本に占領されて恨みつらみがあったとしても、仕返しより自分たちの生活を守るのに必死だったのと、大抵の人はモラルが働いていたので野蛮な行動はとらなかったということ。

もう一つが満州にいた日本の民間人のなかでは彼女のお父様のような技師などがいて、彼らは「お国(日本)のため」の前に、プロの職人としてがんばってきたのではないか、そしてそういう気持ちが国境をこえた友情さえも生み出し、戦後あまり嫌な思いもせずにいられたという一因になったのでは、とも思えます。

「日本は戦争中満州で、中国人の為になることをやってやった。」と堂々と言い張る高齢者がいます。日本が中国にしてきたことを思えば、こういう人の主張は胡散臭く思っていたのですが、今回調べるにつけその言葉に誇張はあったとしても嘘ではなく、一つの事実だったのではないかと思えます。

そして「戦争をしていた」という意識が希薄な新京で戦時中過ごした彼らのこういう言葉が時として利用され、話をこじれさせるのではないかとも思えます。

こうした小さな事実の前に、日本は中国初めアジアに対する加害者であるという大きな事実があります。しかし、時として片一方の事実だけを主張して争います。(従軍慰安婦や南京大虐殺の「あった、なかった」「人数は誇張だ」という議論もしかり。)

戦争に限らず何事も『事実』は大きい小さい含めて多数にあるのは明らかなのに、それらを単純化して争っているのを目にするとき、いつも不思議に思います。

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運命をも変える本との出会い

2007年12月10日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

「それは私が18歳のときでした。私の人生でもっとも暗い年でした。ドイツがノルウェー、デンマーク、ベルギー、オランダ、フランスを占領し、ロンドンには毎晩空襲がありました。次はアメリカに違いないと思っていたとき『源氏物語』を発見して本当に救われたのです。非常に感動しまして・・・それは異国趣味とか、珍しい国の文学ということではなく、登場する人間の姿や美しい表現が、素晴らしいものだったからです。暗いできごとばかりが載っている新聞を忘れられるようになりました」

これは日本文学研究者で日本文化を欧米に発信し続けているアメリカ人、ドナルド・キーン氏(1922年生まれ)のコメントです。

彼は翻訳版
『源氏物語』に出会い、日本語通訳となり、日本文学研究の第一人者となっていったのです。『源氏物語』に出会わなければ現在の氏はいなかったわけで、それは日本にとっての大きな損失だったかもしれません。

もちろんキーン氏の前に、東洋学者アーサー・ウェイリーが『源氏物語』ほかの日本の古典文学を翻訳してくれたからこそ、というのもあるわけですが。

本-私がペンフレンドを探すときは、基本的に『本好き』『芸術好き』の人を基準に探しています。その為、私のペンフレンド達は皆揃って本が好きですが、その中でもデンマーク人のペンフレンド、ミアさんはずば抜けているかもしれません。

彼女が最近読んだ本は以下のとおり。

『海辺のカフカ』村上春樹

Autumn Bridge Takashi Matsuoka (日系アメリカ人)

『遠い日の戦争』 吉村昭

『破船』 吉村昭

『仮釈放』 吉村昭

『一茶の俳句集』

一茶の俳句集はデンマーク語版のようでしたが(「デンマーク語では俳句のリズムを感じられなくて残念」と彼女は書いてきています)、その他の本は英語版、もしくはドイツ語版を彼女は読んだのだと思います。彼女はその中で、吉村昭の『遠い日の戦争』に感銘を受け、彼の他の本を探して一気に読んだと言っていました。

たとえ文化が違う人が読んだとしても、良い本というのは人を惹きつけるものなのでしょう。そして、それが人の運命を変える力を持つこともあるのですから、本は偉大です。

それにしても、日本のそういう本を見つけ出し、翻訳してくれる人達に感謝します。

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三人目の部長 2

2007年12月08日 | 友人・知人

(つづき)

「あの部長は気難しいところはあるけれど、“この職場で一番”と思えることがあるんだよ。何だと思う?」

この部長の近くにいて、一番大変な思いをしているように思える課長が部長をよく言わない私達に訊きました。一体何んだっていうんでしょうか。仕事に対する情熱でしょうか。さんざん溜息をついていた私達でもこの部長の仕事に対する情熱は感じられました。でも、それが“一番”と言われてもピンとこようがありません。

「彼はね、本当にここを愛しているんだ。」
普通の人が言ったら気障に思えるこのセリフも、人徳者のこの課長の口から出るともっともらしく聞こえ、ここで偏見が少しほころびました。

そして例の“贈答品事件”があり、その後は急速にこの不器用な部長に親しみを感じるようになっていったのです。

そういえば、あれからしばらくして、こんなこともありました。

ある朝、いつも口元を覆っているハンカチを忘れてしまった部長は、会議にでなければならず、私にハンカチを買ってきて欲しいと頼みました。お金を受け取り、売店に向かおうとした私を部長はもう一度呼び止めます。

何かついでに買ってくるものがあるのかと思って振り返ると、彼は自分のネクタイを指でさしています。つまり、このネクタイにマッチするハンカチを買ってきて欲しいとのジェスチャーでした。

また、中国に出張に行く前に部長は私を応接室に呼び、部の女性のファーストネームを紙に書いて欲しいと頼みました。何でこそこそするのだろうと訝しく思いながらメモにして渡すと、彼はその紙を大事そうにしまいこみました。

そして出張から帰ってきた部長から包みを受け取ったとき、初めてその謎が解けたのです。部長から手渡されたものは印鑑で、ベージュ色の石に一人ひとりのファーストネームが刻まれていました。

「本当は苗字にしようかとも思ったんですが、皆さん結婚されるでしょうから。」

「いや、漢字の人は良いいのだけれどね、中国にはひらがながないので困りましたよ。北京駐在員の人のお子さんの積み木にひらがなが書いてあったので、それをお借りして持って行って作ってもらったんですけどね。」

女性が一人ひとりお礼にくるのに照れながら、その日の部長はいつになく饒舌でした。

(ちなみに、私の名前もひらがなです。他の漢字の名前の印鑑の字体とは違って、かわいらしい文字で彫られた印鑑は今でも私の宝物です。)

それでも、この部長が皆を悩ませたことがまだ一つありました。

彼は皆をうならせるくらいの達筆だったのですが、達筆すぎてときどき判読ができないことがあったのです。

メモを前に悩んでいる私を助けようと、そのメモを手に取った同僚達にも読めません。

「わっかりません」

両手を上に向けた男性は自他共に認める悪筆だったので、隣の席の女性が笑いました。

「同じ解読不明でも、あなたみたいに汚い字だったらいくらでもぽんぽん訊けるのにね。」

しかし、そんな皆の困っている様子を部長が知って読みやすく書いてくださるようになったのかはわかりませんが、皆徐々に部長の字に悩まされなくなっていったのです(完全にではありませんが・・)。

それは、部長自身に馴染んだのと同じ速度で、皆が彼の字に慣れていったということもあったのだと思います。

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三人目の部長 1

2007年12月07日 | 友人・知人

「誰だ、これを置いたのは。」

机にその箱を置いたのは私でした。何がいけなかったのかわからぬまま進み出た私に向かい、1、2週間前に着任したばかりの部長は部屋に響き渡る声で怒鳴りました。

「こんなもの受け取ってはいかん!すぐ返しなさい。」

当事働き出してから2年目の私は彼の剣幕にあっけにとられながら口で詫びはしたものの、今までと勝手が違うことに戸惑っていました。

実はこの品物は部長宛に取引先から届いた贈答品でした。実際に受け取ったのは私ではなく別の課の先輩女性で、私はただそれを受け取り、会議中だった部長の机に置いておいただけでした。(営業部の総務課にいた私は部長の秘書代わりでもありました。)

「ごめんね、私が受け取っちゃったばかりに。私行って誤解を解いてくるわ。」

騒ぎを聞きつけた先輩女性が私の席に駆け寄ってきて、そのまま部長が篭った応接室に向かおうとしましたが、私は引き止めました。

部長を初めとする上司宛のお中元やお歳暮、外国から来るクリスマスプレゼントなどもいつも受け取っていました。だから今回私のところに直接配送係がきていたとしても、何の疑問も持たずに受け取っていたはずだったからです。

また、私はその時皆の前で怒鳴られたことに多少は気を悪くしていたし戸惑いもしましたが、受け取りに拒否反応を示した部長に不快感はもっていませんでした。

当事取引先などから送られてくる品は大抵お菓子やお酒で、それらはほぼ例外なく皆で分けて食べたり、部会に使ったりしていました。こちらからも取引先にお中元、お歳暮を贈っていたので別に気に留める人はいなかったのです。外国からのクリスマスプレゼントも同様です。

その時届いたものは着任された部長への挨拶の品だったようで、確かに他のものとは違っていはしましたが、大抵の人ならこんなに目くじらは立てなかっただろうと思えました。

この部長の態度は今までのお中元やお歳暮も不当に思えてくる潔さでした。

30分くらいすると私の席に電話が鳴りました。相手は応接室の部長です。

「ああ、私だけれど・・さっきは怒鳴ったりして本当にすまなかった。」

自分が感情を爆発させたことを恥じると同時に、荷物を受け取ったのが私でないこと知って掛けてきたようでした。きまり悪そうで、とても心のこもった詫びの電話。

受話器を戻しながら、ふと見るといつの間にか、さっきまでどこかに行っていた課長が何食わぬ顔で席に戻ってくるところでした。私が先輩女性と話をしている間に、彼がこっそり応接室に電話を掛けていたような気がしました。

その後その贈答品がどうなったのかは覚えていませんが、部下に謝った部長、部長の顔をつぶすことなく部下を見守り続けた上司、後輩を心配して駆け寄った先輩女性の記憶はいつまでも残っています。

さて、この部長は私にとってある意味一番印象深い部長でした。

一番最初の部長はとてものんびりした、好々爺、といった風情の部長でした。
二人目はとてもせっかちで、子供のようなところもある部長。

いずれにせよ、お二人とも人当たりがよく部下に慕われるタイプでしたが、三人目の部長である彼は前の二人と正反対のタイプ。真面目だけが取り柄の堅物というか、偏屈で冷たくさえ思えました。

いつもハンカチで口元を覆い、冗談を口にすることもなく、周りも少しずつぴりぴりしてくるのがわかりました。着任されて間もない頃は、日頃人の悪口や噂話をしない同僚達も前の部長と比べてみては不平を言うようなこともあったのです。
(つづく)

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80年代のオフィスから

2007年12月05日 | 友人・知人

「クリちゃん、ありがとうね、あのTシャツ着させてもらったよ。」

40過ぎの課長が仕事の途中、ふと思い出したように私のモルディブ土産の礼を言いました。

少年のようなきらきら光る大きな目を持つものの、エキゾチックな容貌と大きな身体の主が、あの熱帯魚の絵が大きく描かれたTシャツを着た-当時20代の私の顔は思わず引きつりました。あれは彼のお子さんが着るだろうと思って渡したもの。

「あれで外に出て行った訳ではないですよね。」

その姿で表に出てないこと願って尋ねた私に、彼は首を振りました。

「ううん、僕あれで買い物に行ったよ。」

すると、同じTシャツを受け取っている同僚も思わず書類から顔を上げて言いました。

「え、まさかあれだけで出て行ったんじゃ・・・」

「ううん、まさか。」

上着を着て行ったならば許せる、と思った瞬間、課長の言葉は続きます。

「僕、ズボンも履いて行ったよ。」

他の会社から出向してきていたある男性はとてもそそっかしい人でした。

来客から帰ってきたその男性は、上着をロッカー(男性のコートや上着をかけるクローゼット)に仕舞おうとする時に、胸ポケットに入っている手帳に気がつきました。

「おやっ、なんで僕のポケットにY君の手帳が入っているんだ?」

机に向かっていた新人男性Yさんは顔を上げ、頭を下げました。

「あれ、そうでした?すみません。」

今度は男性が右下のポケットを探ると、またもや見慣れないハンカチが。

「このハンカチ誰の?」

「それも僕のです。」

またも恐縮するYさん。

もう片方のポケットに手を入れようとした男性はさすがに気が付きました。

「この上着、もしかしてYくんのだった?」

上着といえば、例のモルディブTシャツの課長も、上着を間違えた一人。

来客から帰ってきた彼は、ぶつぶつ言いながらロッカーを開けました。

「皆冷たいよな。教えてくれないんだもん。」

「どうかされました?」

「間違えてズボンとバラバラの上着を着て行っちゃったのに誰も教えてくれないんだから。」

見たところ、ズボンと上着の違いは一見してわかりませんでした。

「それより、一体誰の上着を着て行っちゃったんですか?」

仕方がないな、という顔で尋ねる私に、

「僕は間違えないよ。自分のだよ。」

「じゃ、どうして?」

「僕はここにジャケット2、3着置いてあるんだ。」

誇らしげに言う彼に、今度は先輩女性が冷たく言い放ちました。

「皆のクローゼットなんだから、一人で何着も、しかも似たようなジャケット置いておかないで下さい。この忙しいのに、勝手に間違えて騒がれては迷惑です!」

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中国食堂車のエピソードから

2007年12月03日 | 海外ニュース・できごと

“事件が起きたのは、たまたま乗り合わせた上海から地方に向かう鉄道の食堂車だった。

「乗客のみんな聞いてくれ、この食堂車は鉄道管理局の規定に反し高い料金をとっている」

叫んでいるのは先程注文をとった服務員だ。青椒肉絲にスープ、ご飯、ビールで37元(1元約15円)は少し高いと思った。白い制服に身を包んだ若者は興奮して紙を回し抗議署名を求めている。“

これは今朝の東京新聞の論説委員によるコラムの冒頭です。

このあと、この服務員の若者は、あわてて飛んできた食堂責任者と鉄道警察官に押さえ込まれてしまいます。何事かと詰め寄る乗客に食堂責任者はごまかしますが、服務員の叫び声から、この食堂車が認可されているのと違うメニューを作り二倍の料金をとっていることが明らかにされます。

そして、この騒ぎを聞いてやってきた女性車掌の行動のすばらしいこと。

「今の時代は民主が広がってきた。服務員の王同士が言うように食堂車の運営に問題があった。皆さんに迷惑をかけた」

と彼女は服務員に軍配を上げ、

「謝罪の意を表すために、夕食は無料で提供したい。今後も我々を監督してほしい」

と、しょげ返っている食堂責任者に皆に代金を返すようにさせます。

また、乗客の一人の

「服務員の王という若者は立派だ。今後、彼の身に不利益が降りかかるのではないか」

との問いに対し、

「絶対にあり得ない。それどころか功績を上層部に報告する。心配な人は私に電話して欲しい」

と言って、自分の携帯電話の番号を告げたのです。

実のところ、この論説委員がこのエピソードをコラムに使ったのは、単純に中国の美談や最近の中国の民主化の促進について伝えたかったわけではありません。

しかし、この列車での出来事自体は大変印象に残りました。

日本で通常料金より二倍の金額を載せたメニューを置くような食堂車は考えられませんが、仮にあったとして、その不正を乗客の前で暴くウェイターがいるかどうか、そしてそれを揉み消すでもなく、その場で謝り、自分の判断でテキパキ処理出来る、この女性車掌ような責任者がいるかどうか。

日本の企業の不祥事が続発していますが、根っこはこんなところにあるのかもしれません。

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スカンジナビア

2007年12月01日 | 異文化

昔、イタリアの元ペンフレンド、リアーナさんが日本の着物を買ったと言って、それを着た写真を送ってきてくれた事がありました。

しかし、写真の中の彼女が着ているものは、着物とは似ても似つかないものでした。中国の昔の王朝貴族が着ていたようなその衣装を、林芙美子の『放浪記』まで読むほどの日本好きの彼女が日本の着物と思い込む、西欧人にとって中国も日本も同じようなものなんだろうな、と軽い失望感を覚えたものです。

さて、何故この話を思い出したかといえば、最近『スカンジナビア諸国』について調べたときに、ある発見があったからです。新しい発見-私は、『スカンジナビア諸国』=『スカンジナビア半島にある3カ国のスウェーデン、ノルウェー、フィンランドとデンマークの計4カ国のこと』だと思っていました。

実はデンマークがスカンジナビアに含まれるというのさえ、スカンジナビア航空の直行便がデンマークの首都コペンハーゲンに飛ぶというのを知るまで分りませんでした。航空会社といえば、スカンジナビア航空の他にフィンランド航空があるのですから、それで疑問に思って良かったのかもしれません。

「『スカンジナビア』とは、ヨーロッパ大陸の北に位置するデンマーク王国、スカンジナビア半島にあるノルウェー王国、スウェーデン王国の3カ国を指します。一般的に『北欧』と呼ばれるのは、スカンジナビア3カ国に加え、そのお隣のフィンランドとアイスランドを含めた5カ国です。」

これは、スカンジナビア政府観光局のホームページの冒頭に書かれていることです。

ウィキペデイアには、さらに詳しく書かれていて、

「~従ってフィンランドは本来は含まれないのだが、21世紀現在、北欧人の間においても、北欧とスカンディナヴィアを峻別する人は少ないようである。今日、この三国はいずれも立憲君主制国家である。域外ではしばしばフィンランド、そしてしばしばアイスランドをも含むことがある。ドイツ語圏ではフィンランドを含み、英語圏ではそれに加えてアイスランドを含む。日本では英語圏の影響により、北欧諸国と同一視される。」

とのこと。

私は『北欧=スカンジナビア』とも考えてはいなかったのですが、いずれにしても、北欧のそれぞれの国の違い、歴史についての知識は非常に少なかったのは確かです。

フィンランドに関しては、言語、民族に関して多少他国に比べて違う要素があるのは漠然と知っていましたが、それでも私に中ではフィンランドもスウェーデンも大差なかったのです。

西欧人が日本を他の東アジアの国と同一視しても、非難はできないのかもしれません。

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