先日、元上司のA氏が近況報告として送ってきてくれたメールの抜粋を貼り付けます。
私は約20年前に英国から帰って直後、あるご縁で三重県南部にある紀和町という町の紀南国際交流会という団体と出遭い、爾来、その中心になっている戸地功(トジ・イサオ)さんという方をお手伝いしています。
戦時中、今の紀和町(入鹿<イルカ>の里)の石原産業の銅山に戦争捕虜の英国人兵士数百人をビルマ戦線から連れて来て使役させていましたが、栄養失調などで16人が異国の片田舎で亡くなりました。銅山での労働に体力を消耗する英国の若者に手厚く接し、亡くなった人のためには墓地("Little Britain")を作って、老人会の婦人方が今も毎日花を手向けて墓守をしています。
紀南国際交流会は、毎年秋に英国国教の様式で慰霊祭を行っています。そして、そのようなヒューマニスティックな行動の大切さを若者達に伝え、将来の国際平和に役立つ人たちを輩出したい、という趣旨で活動しています。
(中略)
このほど戸地氏は英国女王陛下から"Member of British Empire (“MBE”)"という勲位を授かり、11月4日に駐日英国大使館で叙勲式がとり行われました。
甚だ地味ながら大変一所懸命にやっている人たちの苦労が認められ報われたと、とても嬉しく思っています。
(後略)
以下は、この入鹿の里で強制労働をさせられたイギリス人たちと戦時中の町の人の様子です。
東紀州ホットネットより抜粋:
http://www.kumadoco.net/dictionary/report.php?no=206
英軍捕虜鉱山へ
昭和十九年六月十八日から、労働力不足を補い生産増大をはかるため、軍当局から捕虜英兵三〇〇名が紀州鉱山に配置された。彼等は太平洋戦争の初頭、マレー地区でわが軍と戦い、シンガボールの戦で捕虜となったもので英兵たちはシンガポールの港で働き、その後秦緬鉄道工事に十九年三月まで苦役に従事し、終了に伴い紀州鉱山に送られてきたのである。
マレー地区は、紀州鉱山を経営する石原産業が戦前より企業進出していた地であった。戦争中は南方資源開発の命をうけ、軍に協力してマレー地区の事業推進を担当して、ボーキサイトをはじめ、錫・鉄鉱の鉱山の開発経営にあたっていた。
彼等は、車の監督のもとに、板屋選鉱場の西側所山につくられた収容所で生活しながら、抗内作業その他に従箏していた佐々木仁三郎の『三重県終戦秘話』によれば、彼らは仕事に対しては勤勉であり、かつ能率的であると、職員から聞いたと記されている。収容所の生活も紳士的であった。イギリス人の自尊心と教養がさせたものか。
収容所では捕虜の処遇によく注意を払い、日本人さへ物資の不自由の中で、農園を丸山地区に開き野菜や馬鈴薯の確保をはかるとか、村民も乏しい野菜提供するなどの温情を示した。また、浴場やパン焼釜を設置するなどよく意を用いた、彼らからも収容中の処置について感謝をうけたという。しかし村民は、防諜の取締りもあり、話しかけることもなかったが、動員された学生などの中には好奇心から接触した者もいた。
八月十五日の終戦とともに、自由の身となり九月八日トラックに分乗して、ユニオンジャックの旗をなびかせ、車上から手を振りながら帰還していった。敗戦という現実が身にしみて感じられた。しかし、内一六名は、異境で故郷の空を慕いながら寂しく病没した。現在所山の英国兵墓地に葬られ十字架の墓標の下に眠っている。銅板の墓誌銘には英文をもって「神のより偉大なる栄光の下に一九四一~一九四五年の戦争中、ここ板屋、あるいはその付近で逝去せる、英国陸軍兵士のために」と刻まれている。
戦時中にこのような友好関係が捕虜と町の人にあったかどうかはわかりませんが、実はこれ似た交流を、福岡県水巻町でもやっています。
(現在は外務省による『日欄平和交流事業』-旧オランダ領東インドで日本占領を経験したオランダ人を招聘して、日本のあちこちを見てもらい、日本に対する理解を深める事業の一環)
福岡県水巻町のHPから抜粋:
https://www.town.mizumaki.lg.jp/town/intro/ned_02.html
水巻町とオランダとの関わりの歴史は第二次世界大戦にまでさかのぼります。第二次世界大戦の序盤、日本は南方で戦局を優位に進めており、それにともなって多数の連合国軍兵士が捕虜として日本国内に送還されてきました。
その内の一部である1,000人以上もの人が、当時の古賀区にあった豆炭工場の脇の収容所に収容され、炭坑の強制労働に従事させられます。捕虜としての扱いは、万国赤十字社の規定にのっとってはいたものの、坑内での作業は過酷を極め、また食習慣の違いなどからくる栄養障害や度重なる事故などにより多くの尊い命が失われました。
1945年、日本は戦争に敗れ、生き残った捕虜たちはそれぞれの本国へ帰還します。
同年、亡くなった捕虜53人の慰霊碑として古賀山中に「十字架の塔」が建立されました。
(後略)
戦時中の日本国内での捕虜への扱いは、その収容所によって違ったと思いますが、そのなかにあって上記二つのような例はめずらしかったことでしょう。
入鹿の里に話を戻しますが、A氏は言います。
「英国にはまだ「和解」には程遠い気持ちの元捕虜が少なからず残っています。
でも、入鹿の里を再び訪ねた人は、お孫さんまで連れて来るようになるそうです。」
年末になって安倍首相は靖国参拝をしましたが、彼はこうした交流を知っているのでしょうか?
彼の参拝をアジアだけではなく(中韓だけでなく、アジアのほかの国からも非難の声が上がっています。)欧米も非難していますが、それは第三者としてではなく、トラウマを抱えて生きる人々やその家族がいる-当事者としての失望や怒りもあってでしょう。
最後に、今月半ばに東京新聞に載ったコラム(ロンドン支局の記者さんのもの。名前を控えておくのを忘れました。)
イングランド北部ヨークにある戦争博物館で、父親が第二次世界大戦中に日本軍の捕虜になったというローラさんに出合った。
父親のヤンさんはオランダ人。オランダ領だったインドネシアで捕虜となり、ビルマに移送されて1942年から半年間、タイとを結ぶ泰緬鉄道の建設に従事させられた。
生前、当時のことはほとんど家族に話さなかったという。わずかに聞いたのは、バナナなどの食料を服の中に隠し、いかに監視員を欺いたか、という自慢話ぐらい。
見つかった捕虜は、全部食べさせられた上で吐かされ、あばら骨が折れるまで踏みつけられたそうだ。飢えと赤痢で多くの捕虜が死んでいく中で、多くの捕虜が死んでいく中で、ヤンさんは日本人監視員が内緒で檻の中に差し入れてくれた玉子で生き延びた。
44年12月、シンガポールから船で日本へ。今度や山口県の宇部港に近い本山岬の炭鉱で、強制労働をさせられた。
満足な食料や衣服のない捕虜達は移送中の寒さでほとんどが息絶え、炭鉱でもヤンさんは栄養失調で、戦後は立って歩けなくなった。
「父は同じ年代の日本人と話すのは絶対に嫌だといっていました。」
トラウマは、20年前に他界する最後まで途絶えることは癒えるまでなかったと言う。
それにしても、戦時中国内で命を落としたアジア人へのこうした活動や国が主導する交流事業ってあるのでしょうか。
釜石市にある銅像くらいしか浮かびませんが・・・。
http://www.city.kamaishi.iwate.jp/kyoudo/event/tanbou2.html
さて、今日は長くなりましたが、
皆様、良いお年をお迎えください。