Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

クリシュナムルティの助言

2022年12月16日 | 歴史の教科書に載らない偉人

2009年、短い間メールをやり取りをした韓国系アメリカ人から、クリシュナムルティのことを聞きました。

Krishnamurtiを知っていますか? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

アメリカ人の友人から、Jiddu Krishnamurtiという、インド出身の思想家(1895-1986)のことを教えてもらいました。

“Krishnamurti Fundation of America”のホームページから、彼の教えについて書いたものを貼り付けます。

このKrishnamurti氏はもともと神智学協会に属していましたが、1929年あたりから、「真理とは、宗教、宗派、どんなものから得られるものではなく、個人の心から生まれる」と悟った人です。

「宗教や政治、そのほかいかなるものに属さず思想は自由に。他人の見識は参考にはするけど、自分で考えることが一番。そして考えは固定しない。」と言う私の言葉から、友人はこのKrishnamurti氏のことを思い出したそうです。

(後略)

 

今は彼は注目されてしかるべきな気がします。

宗教、思想家、専門家等、「世界の為に」「皆のために」「未来のために」という偽善にうんざりしている人たちにはよく理解できると動画です。

タイトルは「~生涯」となっていますが、「生涯と助言」という感じでしょうか。

5分でわかるクリシュナムルティの生涯 Krishnamurti - YouTube

Wikipedia、これは最後の方を先に読んでもらった方が良いと思います。

ジッドゥ・クリシュナムルティ - Wikipedia

 

ソクラテスの「無知の知」と同じくらい響きます。

「無知の知」の意味とは?読み方は?使い方から英語や対義語まで解説 – スッキリ (gimon-sukkiri.jp)

抜粋:

ソクラテス以前、世の中の根源を知っている人は「知者」(ソフィスト)と呼ばれていました。タレス(「万物の根源は水である」と説いた人物)やヘラクレイトス(「万物の根源は火である」と説いた人物)などが著名なソフィストです。

ソクラテスは自らが知識人階級であるにも関わらず、「自分はソフィストではなく、何も知らない」と言い、無知の知を説いた点で画期的でした。

 

ソクラテスが「無知の知」を提唱するに至ったきっかけは、「デルフォイの神託」です。「デルフォイの神託」とは、ギリシアの中央部に位置するデルポイのアポロン神殿において、女性司祭が告げた神の言葉を指します。

ある時、ソクラテスの弟子が「ソクラテスよりも賢い者はいるか」とデルフォイで尋ねたところ、「一番の知者はソクラテスである」と告げられます。しかし、ソクラテスは自分自身をそのように思ったことがありませんでした。

そこで、ソクラテスは神託の真意を確かめようと、政治家や詩人などの賢者を問答をしながら訪ねて回ります。

その結果ソクラテスは、「知識人は実際に知恵を持っているわけではなく、知っていると思い込んでいること」「自分が知らないことを知っていることは、知らないのに知っていると思い込んでいる人よりも勝っていること」に気づきました。

 

なお、クリシュナムルティのことを教えてくれた韓国系アメリカ人は、グリーンカードが欲しくて若いころ湾岸戦争に従軍。「地獄を見た」と苦しんでいた人でした。

 

参考:

「貴族の末裔の過激派」と「貴族の末裔の政治家たち」-6(ドイツの秘密結社「イルミナティ」) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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グラフェンナノ粒子は100年前のコールタールと同じ道か-山際勝三郎再び

2021年07月06日 | 歴史の教科書に載らない偉人

最近、グラフェンナノ粒子について調べていましたが、人体に危険があっても、それを調べる学者は出てこないか、出てきても握りされそう。

昔、コールタールの発がん性を発見して、ロックフェラーを怒らせた日本の医学者がいました。

2人の野口・ロックフェラーが潰した研究、応援した研究-山際勝三郎という医学者 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

彼はノーベル賞受賞は認められず、歴史に名を残すことはできませんでした。

山極勝三郎 - Wikipedia

抜粋:

山極は1925年、1926年、1928年と没後の1936年の4度、ノーベル生理学・医学賞にノミネートされている[7]。1925年と1936年は日本人からの推薦のみであったが、1926年と1928年はいずれも海外からで、フィビゲルとの連名での推薦であった。

この中で最も受賞の可能性が高かったのは、フィビゲルが受賞した1926年である。ノーベル財団所蔵の資料によると、同年の選考過程は以下のようなものであった[8]。

ノーベル委員会は、フォルケ・ヘンシェン(Folke Henschen、1881 - 1977)とヒルディング・バーグストランド(Hilding Bergstrand、1886 - 1967)の2人のスウェーデン人医学者に、フィビゲルと山極についての審査を依頼した。ヘンシェンは過去にフィビゲルを推薦したことがあり、当初作成した報告書ではフィビゲルと山極の両方に高い評価を与え、「人工癌はノーベル賞に値し、もし寄生虫による発見者であるフィビゲルと、タールによる発見者である山極の両名で賞を分けるとすればそれは当然である」と述べた。バーグストランドは人工癌の意義は認めたものの、すでに知られていた煙突清掃員や放射線科医の職業癌(煙突掃除人癌も参照)を例に出し、それらの事実を追認したに過ぎず、癌の起源に関しては少しも新たな事実に光を当てていないとした。彼は新しい知識や手法の価値は、長期間にわたる臨床的な事実による知見でのみ実験的に確認されると考えていた。バーグストランドはオットー・ワールブルク(1931年受賞)による癌組織の嫌気性代謝に関する研究(ワールブルク効果も参照)の方が将来の癌研究には重要であるという立場から、フィビゲルと山極の人工癌の研究はノーベル賞には値しないと結論づけた。一方で、バーグストランドはバクテリオファージ研究者のフェリックス・デレーユを強く推薦し、この点を巡ってもデレーユの研究の独創性を疑問視するヘンシェンとの間で対立した。ノーベル委員会はデレーユについて別の専門家に助言を依頼し、ヘンシェンの意見が認められた。しかし、バーグストランドが人工癌への授賞に反対していたため、ヘンシェンは「フィビゲルは山極が科学界に入ってくる以前に、発見の根拠となる素晴らしいアイディアを持っていた」として、共同受賞という当初の意見を変更し、フィビゲルについてのみ受賞に賛成する新たな報告書をノーベル委員会に提出した。

コールタールが発がん性リストに上がるまで、これが元で癌で亡くなった人達はどのくらいいたのか。メイヨークリニックもFDAも、ロックフェラーの息がかかっていたか。

コールタール - Wikipedia

抜粋:

世界保健機関の下部組織IARCの発がん性リストでは、コールタールは発癌性があるグループ1に分類されている(発癌性も参照)。

コールタールは最初に確認された発癌性物質である。1916年、山極勝三郎と市川厚一は家ウサギの耳にコールタールを塗擦する実験を行い皮膚がんの発生を確認したが、これは世界ではじめての化学物質による人工での癌の発生例(実験発がん)として知られている[1]。

一方、メイヨー・クリニック でゲッケルマン療法を行った乾癬患者280人を25年間追跡調査した結果、皮膚癌の発生率は一般と比べて増加していなかった。アメリカ食品医薬品局 (FDA) もまた、治療レベルでリスクの上昇は認められなかったとしている。

いやいや、ゲッケルマン療法こそがメイヨークリニックは発見した療法でしたか。

【コラム】ゲッケルマン療法[特集:今、話題になっていること ─皮膚科編]|Web医事新報|日本医事新報社 (jmedj.co.jp)

抜粋:

ゲッケルマン療法とは,乾癬患者に対してコールタール軟膏を塗布し,紫外線を照射する治療法である。1925年にMayo clinicのGoeckermanが報告1)した。ゲッケルマン療法はステロイド外用薬を必要とせず,安全性が担保され,約1カ月で効果が発現し,長期にわたり寛解状態を維持できるとされ,乾癬治療の一翼を担った時期もあった。しかしながら,コールタールの悪臭,発がん性の問題などから,市販粗製コールタール軟膏(ソリオン®軟膏)が製造・販売中止2)となったため,最近ではまったく行われなくなった。

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歴史の教科書に載らない偉人-ワシントン・グラッデン(2)

2020年01月21日 | 歴史の教科書に載らない偉人

ワシントン・グラッデンについて書いてある面白い記事がありました。 

Christian Today(2016年10月24日)
キリスト教から米大統領選を見る(16)米国の「社会的福音」の歴史とサンダースの民主社会主義
By 青木保憲
https://www.christiantoday.co.jp/articles/22383/20161024/united-states-presidential-election-2016-16.htm

(前略)

米国が大きく変わった節目として、南北戦争は1つの「事件」であった。米国人が血で血を洗う争いを起こしたということだけでなく、その後の北部、南部というくくりを生み出したという意味でも、後の米国社会を方向づけたといえよう。 

そしてもう1つ、米国内に極端な貧富の差を生み出す契機となったのも、この南北戦争であった。その極端さは常軌を逸していた。人口の10パーセントが、国家の10分の9の富を独占していたのだから。 

その結果、人々の道徳性は退廃の一途をたどった。それに対して、従来のピューリタン的キリスト教は人間の罪を指摘することで、個人的な回心を迫った。しかし一方で、このようなやり方では改善が得られないと考える者たちもいた。その代表がワシントン・グラッデンであった。 

1875年当時、彼はマサチューセッツ州で会衆派牧師をしていた。そこは一部の経営者が多くの労働者を雇い、劣悪な環境で長時間の労働を強いていた。この状況に耐えきれなくなった低所得者たちは、不正な犯罪行為に手を染めていくこととなった。

(中略)

グラッデンは、この状況を改善するのに、単に個々人の回心だけでは足りないことを痛感した。道徳的改善を求めるために、まず経済的な改善を成し遂げなければこれは達成できないと考えたのである。そして彼は、個人の罪ではなく、社会の罪、そして社会制度自体の改善を通して人々を救済することを目指し始めたのである。これを「社会的福音運動」と言う。チャールズ・ホプキンスは、この概念を次のように述べている。

(中略)

やがて1870年代以降、社会的福音の考え方は2つの方向に分岐する。1つはこのような社会全体を改善する働きを教会が担うべきとする方向性。もう1つは、これを教会ではなく、労働組合やストライキなどの社会運動によって世界を改善しようとする流れである。そして後者から1890年代に「キリスト教社会主義」が生み出されていくこととなる。 

しかし、ここで断っておかなければならないのは、米国に共産主義は根付かなかったということである。特にマルクス主義に代表される共産主義勢力は、自らの独自性を謳(うた)うのに、従来の宗教性を否定した。それはキリスト教の神を認めないことにつながる。                 

そのため、米国では共産主義を聖書に登場する「悪魔」と見立てるようになり、これに伴って社会主義もその亜流と見なされる憂き目に遭っている。そのため、米国で「社会主義」という言葉は、一般庶民レベルでは用いられることがあまりなかった。

(後略)


グラッデンは、クリスチャンでありながら社会主義者でした。

やはり、社会主義を欧米が必要以上に敵視するのは、宗教もあってのことなのでしょうね。

ふと考えると、「自由(Freedom)・平等(equality)・博愛(Phiranthropy)」の精神は、キリスト教(カトリック、プロテスタント共)や仏教等の主流の流派にはあるでしょうが、「公正・公平(Fairness)」は入っていません。

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歴史の教科書に載らない偉人-ロックフェラーの寄付金を拒否したワシントン・グラッデン(1)

2020年01月21日 | 歴史の教科書に載らない偉人

サヴォイア一族(現当主はエルサレム王位継承者でもあり)やユグノー、ユダヤ人、無宗教の偉人を追っていたときに、エルサレムに、ロックフェラー博物館なるものがあることを知りました。 

ウィキペディア
ロックフェラー博物館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BC%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

この博物館を作ったのが、ジョン・ロックフェラー2世

ウィキペディア
ジョン・ロックフェラー2世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BC2%E4%B8%96

 彼はロックフェラー財団、ロックフェラー大学を創設し、国連に建設地を寄贈していますが、コロラド燃料製鉄会社でストライキをしていた労働者30名を射殺もしています。

お父さんの方がひどいですかね。

ウィキペディア
ジョン・ロックフェラー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BC

 ともかくも、ロックフェラーのなりふり構わぬ商売のやり方、犯罪に近い行為を批判し、ロックフェラーの寄付金を拒否することを訴えたアメリカ人プロレスタントの牧師であり政治家の ワシントン・グラッデンWashington Gladdenという方がいました。

Wikipedia
Washington Gladden
https://en.wikipedia.org/wiki/Washington_Gladden 

The Conversation
How a 1905 debate about ‘tainted’ Rockefeller money is a reminder of ethical dilemmas today
https://theconversation.com/how-a-1905-debate-about-tainted-rockefeller-money-is-a-reminder-of-ethical-dilemmas-today-124068 

(抜粋) 

Because of his stature, Gladden was named to the largely symbolic position of moderator of the nationwide Congregational Church. He assumed this role just months before Rockefeller’s $100,000 donation to the church’s mission organization became public. 

Gladden demanded the mission board return Rockefeller’s gift.

In his view, the fact that the businessman made his money “within the letter of the law” did not absolve beneficiaries of moral responsibility. Gladden asserted that Standard Oil operated in an “unscrupulous and brutal way … with utter disregard to the ordinary principles of business morality.”

For Gladden, the issue of tainted money affected all institutions that existed for the good of society. No gift, no matter how large, could “compensate for the lowering of ideals and the blurring of consciences” required to accept it. Tainted money inevitably bred tainted institutions, and everyone suffered as a result, he noted.

Despite his fame, Gladden did not win many supporters: Only 25 of 189 American Board of Commissioners sided with him.

The appeal of Rockefeller’s $100,000 proved too great. Given the support it might provide to the board’s missionary activities, the overwhelming majority saw no reason to return it.

The board eventually reached a tacit agreement not to take future donations from figures as controversial as Rockefeller – not exactly the bold repudiation of tainted money that Gladden had wanted.

関連:

『ロックフェラーの回顧録』を評価できなくなった理由・社会貢献のNo Free Lunch化を憂う
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/9ec6d3ece1d63057127c85899255b5aa

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歴史の教科書に載らない偉人-宗教を否定する社会活動家、安藤昌益

2020年01月17日 | 歴史の教科書に載らない偉人

ロバート・オーウェンよりも前に、日本にも無神論者の社会活動家(思想家)がいました。

ウィキペディア
安藤昌益
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A

 安藤 昌益(あんどう しょうえき、1703年(元禄16年) - 1762年11月29日(宝暦12年10月14日))は、江戸時代中期の医師・思想家・哲学家。秋田藩出身。号は確龍堂良中[1]。思想的には無神論やアナキズムの要素を持ち、農業を中心とした無階級社会を理想とした。死後、近代の日本において、社会主義・共産主義にも通じる思想を持った人物として評価された。 

歴史誕生 追跡 安藤昌益
https://www.youtube.com/watch?v=O2FPubWADqA 

(安藤昌益を研究していたGHQのカナダ人外交官、エドガートン・ハーバート・ノーマンがいますが、自殺します。(他殺の可能性の方が高いと思います) 

長州を憎んだ森有正・カナダ人外交官E.H.ノーマンとチャールズ・ウィロビー
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/710f602c952b9d9e397a2eee91d630f5 )

 

ロバート・オーウェンも、安藤昌益も、宗教を否定しなかったらば、(オーウェンは失敗したとはいえ)、社会活動家、人権活動家、思想家として、これほど冷淡な扱いはうけなかったことだと思います。 ※オーウェンはのちにオカルト系に興味を示していたよう。

日本において、政治家や実業家にはキリスト教信者が多いです。

これは、明治以降有産階級でキリスト教を取り入れた人がいて、その子孫が代々基盤を受け継いでいったから、というのではなく、クリスチャンのネットワーク(欧州だと王族や貴族の繋がりも強い。)の強みを生かせた人達が生き残れた、というのがあるのではないか、と思います。

 また、ネットワーク以前に、社会主義者や共産主義者には宗教家や特権階級にとっての脅威となるので、葬り去りたい存在。

反共は、キリスト教系組織(日本会議も含む)に多いのは、そんな背景もあるのだろうと、今頃になって気が付きました。 

分かりやすいところで一つ- 

ウィキペディア
国際勝教連合
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8B%9D%E5%85%B1%E9%80%A3%E5%90%88

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歴史の教科書に載らない偉人-義務教育の父ロバート・オーウェン

2020年01月17日 | 歴史の教科書に載らない偉人

1月上旬に

ドラマ『ポルダーク』・フランス革命とマダムタッソー、そしてフリーメイソンhttps://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/7d6631de70d01f7b3945ae4b8b633a49

 から始まり、             

世界の発展に寄与したユグノーと国連や社会活動家たち-1
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/9ddbc6d10091ef50c09639c92ab7d6e4

世界の発展に寄与したユグノーと国連や社会活動家たち-2
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/b55ac61e2555fdb8cbe4e88755fffed5

 へと繋がる記事を書いてきました。

 

『ポルダーク』の主人公ロスはコーンウォール地方の一領主ですが、彼がアメリカの独立戦争に従軍しているときに、父親は死に、家は没落。かつての収入源であった銅を求めて鉱山の発掘を再開。事業を再開したのはもちろん自分の家の再建のためでもありますが、もう一つは、領民に仕事を与える為です。

鉱山でも自ら働き、家の付近で畑を耕し、豚や鶏も育てる。

子どもをできた未婚のカップルのために、家を用意したり、領民のためなり、領民の為に牢屋に入ることもあるロス。 

それに対し、地元の上流階級の人々は、貧しい人々が不満をつのらせ、フランス革命のような暴動を起こすのではないかと心配するだけ。加治屋から成りあがった資産家ジョージ(ロスの学友)は。そうした貧しい人々を助けるどころか、領地に入ってきた村人を鉄砲で追い払うことも。

 この主人公ロスを彷彿とさせる人物が、当時の英国にいました。

 

ウィキペディア
ロバート・オウエン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%83%B3 

ロバート・オウエンRobert Owen、1771年5月14日 - 1858年11月17日)は、イギリスの実業家、社会改革家、社会主義者。人間の活動は環境によって決定される、とする環境決定論を主張し、環境改善によって優良な性格形成を促せるとして先進的な教育運動を展開した。協同組合の基礎を作り、労働組合運動の先駆けとなった空想社会主義者。「イギリス社会主義(英語版)の父」とされ、初めて本格的な労働者保護を唱えたとされる。ロバート・オーウェンあるいはロバート・オーエンの表記ゆれがみられる。 

(中略) 

1771年、ロバート・オウエンは、北ウェールズ地方モントゴメリーシャーのニュータウン(ポーイス)で、小手工業者の子として生まれ、10代で商店に奉公して各地を転々とした。この間に産業革命のにともなう労働者の困窮を目撃する。 

1790年、マンチェスターの紡績工場の支配人となって、数々の技術改良を進め、工場経営に成功、資本家となっていく。ついで、1800年以降、スコットランドのニュー・ラナーク紡績工場の共同経営者となって最新技術の導入を図り、優れた経営手腕で2000人の労働者を雇用する「綿業王」へと立身出世を果たしていく。同時に、労働者の生活改善やその子弟の教育に尽力して、工場に幼稚園や共済店舗を設けた。著述を通じて労働立法の必要を説き、1819年の紡績工場法の制定に貢献した。 

1817年には、貧民階級救済のために協同主義社会の創設を提案した。1825–1827年には、私財を投じてアメリカ・インディアナ州に協同村ニューハーモニーを建設したが失敗に終わった。帰国後、1839-42年にクイーンウッドでも同様の試みをしたがやはり失敗する。財産を失って庶民へと身を落した後は、社会運動や言論活動を通じて私有財産制度・宗教・財産結婚、金属貨幣制度を厳しく糾弾した。 

(抜粋はここまでとしますが、全文リンクからどうぞ。) 

教材 産業革命 その6 ロバート・オーエン
https://www.youtube.com/watch?v=e5477SPv8QM

彼はロスと違い労働者階級出身でしたが、貧しい人達の生活を改善しようとしたところが同じです。 

さて、「義務教育の父」と呼ばれた彼は、co-op(生活協同組合)の祖でもありました。 

(私が2005年に初めてフィレンツェに行ったとき、空港からの途中でCOOPと書かれた看板をつけた建物を見つけ、日本の生協がイタリアに出店しているのかと思いました。

そのフィレンツェからボローニャ県の山の上のドーアさんのお宅に伺い、そこから小さな町Vergato(岩倉使節団が通った町でもあります)に買い物をしに降りてきたときに、再びCOOPを発見。
「何で生協ががイタリアにあるのですか?」と、建物を指さして質問した私にドーアさんは、

「COOPは共産党が作りました」と説明。これはイタリアのCOOPがイタリア共産党によりつくられたということだったのでしょうか?)

※次回に続く

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2人の野口・ロックフェラーが潰した研究、応援した研究-山際勝三郎という医学者

2018年07月03日 | 歴史の教科書に載らない偉人

先のブログの末尾で、日本窒素の名前を上げましたが、日本窒素肥料を作ったのは、野口遵氏。

ウィキペディア
野口遵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E9%81%B5 

野口 (のぐち したがう、したごう、通称:じゅん、1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。

朝鮮半島進出後の野口遵は政商であった。朝鮮総督府の手厚い庇護の下、鴨緑江水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、咸鏡南道興南(現・咸興市の一部)に巨大なコンビナートを造成した。さらに、日本軍の進出とともに満州、海南島にまで進出した。森矗昶、鮎川義介などと共に当時、「財界新人三羽烏」として並び称されていた。 

ウィキペディア
日窒コンツェルン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%AA%92%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%B3

財界新人三羽烏は、現在も影響力は大きいですね。 

ところで、「野口」といえば、「野口英世」
ダブル野口でも、出身地も違ってお互いの接点はないとはいえ、共に貧しい家からパトロンを得て、日本や世界に影響を与える人物になったという点では同じ。(遵氏は1873年石川県生まれ、英世は1876年福島県、生まれ)」。

野口英世関連ですが、こんな記事がありました。

 

山際勝三郎という医学者の研究は闇に葬られた。

るいネット
ロックフェラーと野口英世の関係~野口の研究のほとんどは捏造だった
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=307418
 

(前略) 

「アメリカとカナダの医学教育」エイブラハム・フレクスナー編1910年

 この100年以上前に書かれた論文は「フレクスナー・レポート」と名付けられ、これが現代まで続く西洋医療を蝕む元凶といわれているのです。実はこのレポートは、石油を利用して医療支配を企んでいたジョン・ロックフェラーが依頼したレポートだったのです。その内容を一言でいうと、「コールタール医療への提言」ということになります。

 コールタールのようなものを薬として使えるのか疑問を持つ人は多いと思いますが、欧米では非常に患者数が多い「乾癬(かんせん)」という皮膚疾患の治療に使えるのです。

 コールタールはともかくとして、多くの薬は、石油の副産物であるといえます。農薬とか、化学肥料とか、食品添加物とかは、すべて石油でできています。現代ではバイオテクノロジーによって錠剤、カプセル、粉薬、塗り薬、注射などすべての化学薬品は石油から作られています。そういう意味においてロックフェラーは先見の明があったといえるのです。 

ところで、フレクスナーのコールタール医療に疑問を持った日本人の医学者がいます。山極勝三郎です。彼はコールタールを長期間にわたりウサギの耳に塗り付け、その経過を調べたのです。その結果、コールタールが原因でがんが発生することを発見したのです。1915年、今からちょうど100年前のことです。

 当時、がんの発生については、ヨハネス・フィビケルという医学者の「寄生虫原因説」が主流だったのです。山極勝三郎は、その寄生虫原因説を覆し、コールタールががんの原因になることを自ら実証して見せたのです。

 これに腹を立てたのは、ジョン・ロックフェラーです。コールタールが発がん物質とわかってしまうと、薬として使えなくなってしまうからです。

 そこでロックフェラーは、政治力を使ってマスコミを押さえ込み、山極勝三郎の研究を黙殺させ、ノーベル賞の推薦委員会の制度を悪用して、「寄生虫原因説」のヨハネス・フィビケルにノーベル賞を受賞させたのです。1926年のことです。ロックフェラーがその財力と政治力を使えば、このぐらいのことは簡単にできたのです。 

(後略。全文リンクからどうぞ。)

参考: 

陰謀論で隠れてしまう、ワクチンとロックフェラー財団の関係
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/c6f0cd697c31ccdf01f5d402cbcfd361

 なお、野口英世のパトロンの1人は、星一でしたのでついでに― 

日本軍の財源となったアヘン売買・戦争と製薬業界
https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/2d1849832a3cf8d8594a67b5422a5dd9

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センメルヴェイス・イグナーツ医師が殺された時代と現代-WHOと村中璃子氏は時代錯誤

2017年12月12日 | 歴史の教科書に載らない偉人

子宮頸がんワクチン被害やそれを封じ込めるWHOや村中璃子氏、それを取り巻く面々こそが、非科学的と思えるのですが、そのやり方は「19世紀のまま」ではないでしょうか? 

(イグナーツの理論が無視され、最後には医師達によって殺害されるに至ったのは、医師の良心の呵責のせいというより、むしろ医師達の「権威、評判に傷をつけたくない」「損害賠償を恐れた」という面が強かったと、私は思う。) 

ウィキペディア
センメルヴェイス・イグナーツ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%84 

センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ (Semmelweis Ignác Fülöp [ˈsɛmːmɛlvɛjsˈignɑ̈ːʦˈfyløp]) またはドイツ語表記時はイグナーツ・フィリップ・ゼンメルワ(ヴァ)イス (Ignaz Philipp Semmelweis) ハンガリー人の医師。1818年7月1日 、ハンガリー王国ブダ市タバーン町に生まれ、1865年8月13日、オーストリア帝国ヴィーン市デープリング町にて死去。オーストリアのウィーン総合病院産科に勤務。産褥熱、今日で言う接触感染の可能性に気づき、その予防法として医師のカルキを使用した手洗いを提唱するものの存命中はその方法論が理解されず大きな排斥を受け不遇な人生のまま生涯を終えた。現在では当然の如くに採用されている消毒法及び院内感染予防の先駆者とされ、「院内感染予防の父」、「母親たちの救い主」と呼ばれている。 

活動 

センメルヴェイスは自宅分娩や同じ病棟で助産婦が行う分娩と医師が行う分娩では産褥熱の発生率が10倍も違うことに疑問を持ち研究を始めた。この原因を明らかにしようと分娩後に死亡した遺体の解剖を行っていた最中の1847年、友人の法医学者ヤコブ・コレチカが産褥熱により死亡した検体解剖を学生らに指導していた際に誤ってメスで指を切創、そのまま解剖を行った後日、産褥熱と似た症状で死亡してしまった。この経緯から彼は目に見えず「臭い」でしか確認できない死体の破片が医師の手に付着していることが死因であると結論付けた(当時は病原菌などの概念が無かったため、このような結論に至った)。彼は自説に基づき脱臭作用のある塩素水で手を洗うことで死体の臭いを取り除き、その結果産褥熱による死亡者は激減したものの、彼の革新的な主張は当時の学会で受け容れられなかった。 

1849年3月20日、ウィーン総合病院の助教の任期が切れ、センメルヴェイスは1850年10月にハンガリーに帰国した。1851年よりペシュト市の聖ロクス病院(セント・ロークシュ・コールハーズ)産科名誉部長に就任、1855年にはペシュト大学の教授に任じられる。1857年にチューリッヒ大学の招聘を断り、本国に留まる。同年19歳のヴェイデンホフェル・マーリア (Weidenhofer Mária) と結婚。5児を授かる。 

塩素水による洗浄を行った病院に彼が在籍していた時には産褥熱による妊婦の死亡率が3%であったが、彼が除籍された後には洗浄導入以前の30%にまで戻ってしまった。このような相関関係に気づいたセンメルヴェイスも自身が過去に多くの妊婦らを死に至らしめていた事実に気づき罪の意識に苛まれた。そして塩素水による消毒が産褥熱を激減させる事を啓蒙しようと数々の病院をまわるが、センメルヴェイスの指示は半ば強要や脅しに近いものであったため、同業者も門前払いし、医学会もセンメルヴェイスを危険人物扱いにしていた。 

1865年、ウィーンの皮膚病学者フェルディナンド・リッター・フォン・ヘブラーに率いられた医師の集団が、嘘の説明でセンメルヴェイスを精神療養所施設に呼び出す。異変に気づいたセンメルヴェイスが逃亡を計った際、集団から殴打を受けてその時の負傷が元になり同施設で死亡。 

センメルヴェイスの説が受け入れられなかった最大の理由は、「患者を殺していたのは医師の手である」という医師にとって受け入れがたい結論にあった(当時、センメルヴェイスの論文を読んだ医師が自殺するという事件まで起き、説を認めることは医師が大量殺人を行ってきたことを認めることになるからであった)。また、彼自身が論文を書くのを苦手としたために、研究成果を論文として発表することが大きく遅れた点も不幸だった。それでも、スイスの雑誌に発表した論文がイギリスの外科医ジョゼフ・リスターに読まれ、手を消毒することで細菌感染を予防するという消毒法がもたらされた。 

1889年、ルイ・パスツールが科学会議の席上において「センメルヴェイスが消し去ろうとしていた殺し屋とは連鎖球菌である」と発表した。 

(後略) 

村中璃子氏とお仲間たちにとっては神様のようなパスツールが泣きますね。
(パスツールも偉くなった後は『真の科学者』と言えなくなったと、私は思います。)

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スウェーデンのオロフ・パルメ首相を暗殺したのは誰か?

2015年11月27日 | 歴史の教科書に載らない偉人

スロベニアの友人から、彼が尊敬するというスロベニア唯一の政治家、France Bucarが亡くなったというメールをもらっていますが、それについて返事ができないまま1か月以上がたってしまっています。 

Wikipedia
France Bucar
https://en.wikipedia.org/wiki/France_Bu%C4%8Dar 

大統領や首相ならともかく主要国の政治家についての日本語の情報はほとんど見つからないでので、ちょっと時間がかかってしまいます。 

ところで、主要国以外の政治家、政治、出来事について、インターネットが普及している今だから、友人達と話題にしあったり、(英語バージョンしかないにしても)情報を容易く手に入れられるようになりました。 

だからこそ、自分たちがどれだけ物事の一部だけしか見ていないことを思い知らされるし、そして同時に、彼らに気が付かされて、「ああ、こんな素晴らしい人達がいたのだ」と感動したり、希望を持たされることがあります。 

以下は、モーガン君の国、スウェーデンの元首相ですが、日本人でどれだけの人が知っているでしょうか。 

ウィキペディア
オロフ・パルメ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%A1 

スウェーデンの今 

あれから20年(1)パルメの外交
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/5c0c761db347b051c3e5d8c178719001

あれから20年(2)パルメの内政
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/6f0ae5f4e95c3b34f15e5cb4fa5c1c25
 

このオロフ・パルメ首相は、1986年に暗殺されていますが、その事件を追ったフィルムです。(参考として紹介。真実はわからない。)

Who killed Olof Palme?
https://www.youtube.com/watch?v=d0LMSnKV6dc 

「スウェーデンの今」さんが、上のブログの冒頭で、 

「スウェーデンには、人々から慕われてきた人は短命でこの世を去ってしまう、というジンクスがあるのだろうか。第2代事務総長として国連の発展に不可欠な役割を果たしたDag Hammarsjöldは、コンゴ内戦の調停のさなかに、飛行機事故でこの世を去った。人々から広く愛されていた女性外務大臣Anna Lindhは2003年のユーロ国民投票の直前に、ストックホルムの老舗デパートNKで刺殺された。」 

と書いていらっしゃいますが、これは「その人物を不都合だと思うグループ」が存在するということでしょうね。 

「人々に嫌われる大物政治家」は、そうそう命を落とすことはないでしょう。

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長州を憎んだ森有正・カナダ人外交官E.H.ノーマンとチャールズ・ウィロビー

2015年08月10日 | 歴史の教科書に載らない偉人

私の愛読書は、加藤周一の『羊の歌』と『続羊の歌』(第三部もあり)です。 

この後者の『続羊の歌』は、加藤周一が1950年代にパリに留学を決めたところから始まり、その中には、同じくパリに留学した森有正(哲学者。森有礼の孫)、朝吹登水子(フランソワーズ・サガンの本の訳者として有名)、そして彼女の兄のお嫁さんの妹の石井好子さん(シャンソン歌手)が出てきますが、これには、ロナルド・ドーア氏も出てきます。 

ちょうど昨日、ドーア氏の2013年1月1日のジャパンタイムズの記事を読むきっかけがあり、このなかに、当時、ドーア氏が森有正氏と食事をした話が書いてありました。 

Japan Times (2013.1.1)
Japan’s steely resolve suggests nationalism based on fear
By Ronald Dore
http://www.japantimes.co.jp/opinion/2013/01/01/commentary/world-commentary/japans-steely-resolve-suggests-nationalism-based-on-fear/#.VcdANv8VjIW 

More than half a century ago I had dinner in Paris with Arimasa Mori, the grandson of the Meiji Era education minister Arinori Mori, who had set the prewar pattern for a Westernized but intensely patriotic education. The Mori family hailed from Kagoshima, and the part that Arinori had played in the Meiji Restoration, as a 20-year-old, was not insignificant. 

Grandson Arimasa had, by the time I met him, given up his job at the University of Tokyo and settled in Paris for the life of an émigré philosopher, a noted expert on Descartes and Pascal. I was staying in a scruffy hotel, the top floor of which was his Bohemian garret.

One thing I remember clearly from that fascinating conversation was his remark about the centuries-old enmity between Satsuma and Choshu. They had cooperated to bring about the Meiji Restoration. 

“I see a lot of Japanese visiting Paris,” he said. “But still, when somebody tells me he’s from Choshu, I want to put a knife in his guts.” 

1950年代後半、哲学者である森有正が、「日本人がたくさんパリを訪れている」「でも、今でさえ、誰かが自分が長州出身だといったとしたら、腹をナイフで突き刺してやりたい」とドーア氏に語ったといいます。 

これは、森家が薩摩藩出身だったということもある前に、祖父の有礼が長州出身の国粋主義者の若者に暗殺されたということが関係していたのか、それとも、この頃もまだ、有正の中に「長州藩」「薩摩藩」という意識が残っていたのかと思って、ドーア氏にこの件を問い合わせたところ、 

ドーア氏から、
「もちろん冗談半分。
(中略)
九州の二大外様大名としてその間のいざこざ は家康時代からじゃなかったですか。
倒幕の可能性がはじめて見えてきたときに否応なしに協力(したけど)。」
という回答をもらいました。 

「冗談半分」ということは、有正は半分は本気(つまり、「実際に刀で切りつけるつもりはないにしても、長州に対しての憎悪はまだ残っていたのだろうか」という意味)だったということですが、明治維新以降、第二次世界大戦終結後12年たっても、このような気持ちを、フランスで哲学を学ぶ有正にあったということは、興味深いことでした。 

さて、ついでにこの『続羊の歌』の、ドーア氏がかかわるエピソードから思い出した話を- 

『続羊の歌』でのドーア氏の登場場面は非常に短く、彼の名前が出てくる場面は、作者の加藤周一とドーア氏が、(尊敬する)知人である、カナダの外交官エドガートン・ハーバート・ノーマンの自殺を知り、衝撃を受けているところだけです。 

このエドガートン・ハーバート・ノーマンはカナダの外交官であると同時に、日本史の研究者でもありました。 

ウィキペディア
エドガートン・ハーバートン・ノーマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 

生方卓
ノーマンの命日に
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~ubukata/oriori/ori_files/2000/0404_1.html  

ノーマンは、GHQの日本統治時代はマッカーサーの右腕となり、日本の民主化政策を推進してきました。しかし途中から彼は米国からソ連のスパイの嫌疑をかけられてしまいます。
米国の圧力により、駐日カナダ代表首席を退任させられた彼は、こののち、国連カナダ代表、ニュージーランド高等弁務官を務め、1956年エジプト大使としてカイロに赴任します。 

しかし、米国のスパイ嫌疑はずっと収まりません。 

そして1957年の4月、カイロで日本映画を観た翌日、無実を訴えたノーマンはカイロにあるビルから投身自殺をしてしまったのです。 

GHQ時代、ノーマンを直接的に陥れたのは、GHQのチャールズ・ウィロビー准将と考える人もいるようです。 

ウィロビーは、ドイツ人の父と米国人の母を持ち、ドイツ育ち。彼が米国に帰化したのは1910年で彼が18歳のとき。
(日本語のウィキペディアでは彼は「ハイデルベルク大学卒業後米国に帰化」 となっています。しかし、英語版ウィキぺディアには「彼は1910年に米国に移住、米国陸軍の入隊、1913年除隊」となっていて、ハイデルベルグ大とソルボンヌで3年間学び(1910年以前)、1913年に米国のゲティスバーグカレッジに入学したと書いてあります。そうすると彼は15歳で二つの欧州の名門大学で学んだということになります。まあ、英語版ウィキぺディアには、彼の旧姓等、彼の申告を疑う人もいるので、何が本当かわかりません。)

彼は、スペインの独裁者フランコの崇拝者で、ファシストであることを自他共に認める存在で、もちろんこっちこちの反共。 

ウィキペディア
チャールズ・ウィロビー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%BC 

上のウィキペディアからGHQ時代の話を抜粋して貼り付けさせてもらうと、 

GHQでは参謀第2部 (G2) 部長として諜報・保安・検閲を管轄した。政治犯として投獄されていた日本共産党幹部の釈放や、労働組合活動を奨励し、日本の民主化を推進する民政局長のコートニー・ホイットニー准将や次長のチャールズ・ケーディス大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。右翼の三浦義一、旧軍の河辺虎四郎らも使って反共工作を進めた。 

1945年10月4日、GHQより日本政府に対して人権指令が出され、治安維持法の廃止や特高警察の廃止、共産主義者などの政治犯の釈放が行われることになったが、日本の警察力の弱体化と、共産主義勢力の増長を危惧するウィロビーはこれらに強く反対していた。そのため、特高警察の機能を温存するために、内務官僚と共謀して「大衆的集団的不法行為の取締り」を名目に、内務省警保局に公安課を、各都道府県警察部に公安課と警備課を設置することを後押しした(公安警察)。 

(中略) 

極東国際軍事裁判の折、A級戦犯の容疑者は第一次裁判で裁かれた東條英機ら28名の他に22名ほどいたが、この裁判をよく思っていなかったウィロビーの釈放要求(ただし、笹川良一の釈放については慎重だったという)が通り、22名の容疑者に対する二次・三次の裁判は行われなかった。背景として、まずジャパン・ロビーが反共工作を取り仕切ったことと、加えて一次裁判で時間がかかりすぎてイギリスが裁判続行に消極的になったことも影響している。 

判決後、ウィロビーは帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のベルト・レーリンク判事に「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っている。 

ということ。 

このウィロビーは、岸信介はじめ戦争を利用した人達の延命するのを助け、日本の戦争を正当化さえした人物。(ドイツ人の血が入り、ファシストの彼がどうしてここまで力があったのかが、不思議です。)

日本の極右と呼ばれる人にとっては、彼は神のように見えたことでしょう。 

ところで、このウィロビー、のちにスペインのフランコの非公式アドバイザーを務めたということです。 

先日、『スペインと日本の戦後-フランコ政権と長州閥の共通点』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/1f4a01779f995e50d39f5ac79ac63db9
を書きましたが、思わぬところで、この両国に関わった人間を発見しました。 

なお、先に述べた、ノーマンですが、彼の無実が確定したのは、1990年代。
(カナダ政府はずっとノーマンの無実を信じていました。) 

2001年、カナダ大使館の図書館は、「エドガートン・ハーバート・ノーマン図書館」と命名されました。

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