ガリバルディ、マッツィーニ、カヴール、「イタリア独立の三傑」のうち、ガルバルディとマッツィーニが「サンシモン主義者」であると書いてあるものは見つかります。
カヴ―ルについてはサンシモン主義との関係を書いてあるものはありません。
しかし、カヴールが一番サンシモン主義&サンシモン教徒に近く、ガリバルディやマッツィーニと違い、グローバリスト。この3名のウィキペディアの抜粋。
抜粋:
ジュゼッペ・ガリバルディ(イタリア語: Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)は、イタリア統一運動を推進し、イタリア王国成立に貢献した軍事家である。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ[1]、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人とされる。
抜粋:
ジュゼッペ・ガリバルディ(イタリア語: Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)は、イタリア統一運動を推進し、イタリア王国成立に貢献した軍事家である。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ[1]、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人とされる。
(中略)
ジェノヴァで医学部教授の息子に生まれる。病弱ながら聡明で、ジェノヴァ大学を卒業し、弁護士を開業。彼はイタリアの秘密結社・カルボナリに入党するが、彼の革命を目指す活動はすぐに法律から追われることになる。カルボナリの組織に限界を感じた彼は、1831年、マルセイユで新たに「青年イタリア」を結成した。この組織のモットーは「神と人民」であり、いくつかの国家に分裂していたイタリア半島に1つの自由共和国を打ち立てることを目的としていた。彼はまた、似たような目的を持つ組織をいくつか創設している。すなわち、「青年ドイツ」、「青年ポーランド(ポーランド語版、英語版)」、「青年スイス(イタリア語版)」そして「青年ヨーロッパ」がそれである。
カヴールおよびチェッラレンゴおよびイゾラベッラ伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(イタリア語: Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, conte di Cavour, di Cellarengo e di Isolabella、1810年8月10日 - 1861年6月6日)は、「カミッロ・カヴール」や「コンテ・ディ・カヴール(カヴール伯爵)」の通称で知られる、19世紀イタリアの政治家。カヴールは爵位名で、家名(姓)はベンソである。[1]サルデーニャ王国首相、イタリア王国首相(閣僚評議会議長・初代)、外務大臣(初代)を歴任。カヴールの依頼でナポレオン3世の愛妾になったカスティリオーネ伯爵夫人ヴィルジニア・オルドイーニは従妹。
(中略)
1810年、カヴール侯爵ミケーレ・ベンソ(イタリア語版)の第2子として当時フランス帝国領であったトリノにて生まれた。終生フランス語を母語とし、イタリア語はやや苦手であった。
次子であったために家を継がずトリノ士官学校を卒業して10代で軍隊に入るが、自由主義思想を抱いて国王に睨まれ、1831年に軍役を退く[2]。
除隊後は親族の居住するスイスやフランス、当時の先進国であったイギリスなど、諸外国を巡って見聞を広め、自由主義経済と議会主義を志した。帰国後は小村の村長となり、資本主義的大農場経営を導入してベルチェリ地方の領地内の農業改革に努め、工業化の課題に取り組むための銀行や鉄道会社の設立・経営などを行ったが[2]、改革を求める自らの姿勢と当時の政治状況の隔たりは大きく、政治には関わらなかった。
(中略)
カヴールはサルデーニャ王国近代化のための政策を積極的に推し進め、近代産業の育成・軍隊の近代化を進めた。通商協定がイギリス、フランス、オーストリア、その他各国との間で結ばれ、全般的に自由貿易関税が導入された[2]。また、都市間の物流・交通を円滑化するために、全国の鉄道網を整備した。さらに国家財政の基礎を固めるために、強い反対を押し切って修道院を解散し、その土地を国有化して聖職者たちへの国家からの俸給を廃止した(1855年)。この過程でカトリック信者のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は司教たちと共謀し、カヴールの提出した修道院廃止法案の可決を妨害した。これに憤激したカヴールは首相を辞したが、国王は彼に代わる首相を見出すことができず[1]、カヴールは再び首相に指名され、法案も1855年5月29日に可決された[1]。この「カラビアーナ事件」を契機に、カヴールは議会に続いて国王までもある程度コントロールできるようになった。これらの自由主義的政策はイタリア各地の亡命者をピエモンテへ惹きつけ、イタリア統一運動の中心地とする効果をもたらした[2]。
(中略)
フランスはイタリアと共同でオーストリアと戦い、北イタリアのうちロンバルディアはサルデーニャ王国の手中に落ちたが、ヴェネトはオーストリアに留まった。フランス軍の多大な犠牲とフランスの勢力拡大を恐れるイギリスの干渉により、ナポレオン3世は同年7月オーストリアと突如ヴィッラフランカの和議を結び、カヴールを裏切った。これに対してカヴールは抗議の辞任をしたが、翌1860年1月に首相に復帰した。ハプスブルク家が支配していたトスカーナやブルボン家支配のエミリアで住民投票を実施し、平和裏にイタリア中部のサルデーニャ王国併合を成功させた。これを黙認したフランスに報いるため、密約に基づいてサヴォアとニースを割譲した[2]。
ニース出身のガリバルディは故郷の割譲に激怒し、共和派も加えた義勇軍を率いてブルボン家の支配する南部の両シチリア王国を倒し、カヴールもこれを黙認しながら共和派の勢いの制御に努めた。義勇軍の進撃により、住民投票による平和裏なイタリア中部の併合が妨げられること、ローマに駐留するフランス軍と衝突することを恐れたカヴールは、国王率いるサルデーニャ軍を送って義勇軍のローマ進撃を阻止した。民主主義者でありながら君主制支持者でもあったガリバルディは、敬愛するヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に両シチリア王国を献上し、ローマ・ヴェネトを除くイタリア統一がほぼ完成した。
カヴ―ルのイタリア語版ウィキペディアも翻訳ソフトでごらんください。
Camillo Benso, conte di Cavour - Wikipedia
仮置き: