Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

日本とドイツのホテルのサービスの差

2012年03月30日 | 異文化

今週初めから来日して、京都に滞在しているドイツ人ペンフレンドのトーマスさんから電話がありました。

現在、京都を楽しんでいる様子を知らせてくれましたが、同時に「ドイツは暖かかったけど、日本は寒いね。桜はどうかな」という桜の開花の遅れの心配とともに、スーツケースが壊れて京都で新しいものを買う羽目になった話もしてきました。

スーツケースが壊れた-実は私は先日のドイツ、イタリア旅行から帰国して、私のスーツケースのキャスターの付け根を覆う樹脂が抉られ、空洞があいてしまうという被害がありました。

そこで利用したANAのホームページを見て「空港から出た後に荷物の破損に気がついたときは、7日以内の申請すれば対処してくれることもある」ということを知り、ANAの相談窓口へ電話。

しかし、残念ながら、ANAが補償してくれるのは、「スーツケース本体に穴が開くなど、中に荷物を入れて使用できなくなった場合のみ」ということで、諦めました。

しかし、トーマスさんの場合はスーツケースを買い換えなければならないくらいのダメージを受けたようです。

実のところ、電話は短時間だったので彼のスーツケースが航空会社による破損なのかどうかははっきりしていません。が、もしそうだとしたら、彼が利用した航空会社もおそらく7日以内の申請が必要になると思い、彼が泊まっている旅館にメールで事情を書き、航空会社の連絡先の伝達、そして彼の相談に乗ってくれるようにお願いしました。

(トーマスさん宛の英文レターも添付。)

すると、なんとメールを送って1分後に旅館から、

「了解いたしました。

トーマスさんがお帰り次第、お知らせ致しますので、ご安心下さい。」

という返信メールがありました。(サポートもしてくれそうな気配。)

これには、「日本のサービスは、世界一」と思わず言わずにはいられませんでした。

先のブログで、フィレンツェのホテルの『日本人感覚で言えばありえないこと』を書きましたが、実は例のオーバーウルゼルのホテルの今回の予約に際しても、

①ホテルの宿泊代金が、ホームページの金額と違い、それを質問すると、「2012年価格」と切り捨てられた

②ホテルのリコンファーム時に、チェックインの時間が20時までのはずなのに、「1945分までに到着しない場合は、エントランスにあるキーボックスから鍵を取り出してホテルに入ってください」といわれた

③キーボックスがどんなものかわからないので、「もし、何かあったときに連絡をとるために、連絡先を教えて欲しい」とお願いしても、「キーボックスの暗証番号を教えたでしょう」とだけの返信メール、

と、とても日本では考えられない対応をされました。

まあ、ただしこのオーバーウルゼルのホテルに関しては、メールの対応がとにかく早いし、頼んだことは的確にしてくれます(地図をリクエストすると直ぐ部屋においておいてくれたり、電車の切符の相談をすると、ネットで丁寧に調べてくれたり)

おまけに今度は、一緒にいたトモエさんと女主人が大変馬が合ったようで、他のお客には出さないヨーグルトまで4人にだけご馳走してくれたりもして、客を客と思わない態度は、実は「ホテルと客は主従関係ではなくて、友達同士」という部分もありそう-①~③のような対応があってもこちらも一瞬むかっ腹はたつものの、別にこのホテルを倦厭しないのも、そんなところがあるからだと思います。

それにしても京都の一旅館の1人の従業員とドイツのプチホテルの1人の女主人のサービス精神の差は個人差もあるでしょうが、文化の差を感じます。だからそれは「良い、悪い」ということではないのかもしれません。

しかし、やはり日本人の私としては、『日本のサービス精神』が一番しっくりしますし、これは不変であって欲しいと願ってしまいます。

参照:

『ドイツのホテルの女主人と、電車・バス等の1日グループチケット』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20120123

『フィレンツェのホテルとフランクフルト空港でついたため息』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20120328

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フィレンツェのホテルとフランクフルト空港でついたため息

2012年03月28日 | 旅行

ドイツ、イタリア旅行ですが、全般的にはもちろんとても楽しんできたのですが、2点の不愉快なこともありました。

まず一点は、イタリアのフィレンツェのホテル。

このホテルは2008年の秋に、友人Hとフィレンツェにきたときに宿泊したホテルです。一応4つ星で、アンティーク、駅から至近。

実はこのホテルはその時も問題はあり。

たとえば、朝食を済ませて部屋に帰って来るような時間にメイドさんが部屋の掃除に来てしまったり(8時台前半です。普通は食事をしたら、歯を磨きに帰って来るのくらいわかりそうですが、これに懲りて、食事に行く早い時間も“Don’t disturb”の札を下げました。)、昼に荷物を置きに帰ったら、メイドさんが部屋に入ってきたまま居座り、私がベッドに置いた紙袋を、手で軽く開いて覗いたり。

ホテルのレストランでディナーを取ったときは、ボーイさんのあまりの失礼さに、友人Hが取っ組み合いのけんかになる一歩手前。

 

そのあとも、紅茶のように底が見えるコーヒーがでてきたり、注文の品に違うものがでてきたりと、とんでもない対応でした。

今回ホテルを決めるにあたって、それでもこのホテルにしたのは、「あのときの2人の従業員は酷かったとはいえ、ホテルの部屋は素晴らしかったし、駅にも近い。値段もあのグレードのホテルとしては格安。ま、問題は個人の問題」と思ってのことでした。

ところが、チェックインして通された部屋は、息子達のツィンルームはベッドだけで部屋が一杯でスーツケースを入り口の短い廊下で広げなければならないくらい狭く、オマケに窓が小さく、開けば工事中の中庭。

私の部屋も狭くはあり、窓も非常に小さかった上、隣は(おそらく従業員用の)トイレがあります。

前と同じくアップルワールドを通し同じ手配会社経由の予約。それに格安とはいえ、円高を考えれば、前回より高い金額を払っているのに何故・・と納得できないものの、まあ混んでいればこんなこともあるだろうと我慢。

しかし、私の部屋はしかないとはいえ、さすがに息子たちの部屋は交渉しようと、フロントに行ったところ、「バスタブなしの部屋だけど、それでも良いか?」とのことでした。

結局息子達に部屋を見てもらうと、「バスタブは使わないから、こっちで良い」ということで部屋をチェンジ。

そして、16時くらいから出かけ一旦ホテルに戻り、19時くらいから再び食事に出かけ22時過ぎにホテルに戻ると、ベッドメイキングが入ったようで、荷物が異動しています。

まあ、確かに高級ホテルでは、夜にベッドカバーを外しに来ることもあったとは思いますが、この時動かされたカバンのファスナーが若干開いているのが気になり、ちょっと不愉快に。

それでも気を取り直してベッドで精算の記録、計算をしていると、ひっきりなしに隣のトイレの水を流す音がします。これは計算が終わったあとの23時近くになっても続くので、またもやフロントに行き、(明日の朝で良いので)部屋を変えて欲しい、と訴えたところ、1人しかいないフロントは掃除をしていたフィリピン人のボーイさんに、「マダムと一緒に部屋に行って、様子を見て報告してくれ」と頼みました。

その後、このボーイさんが非常に良い人だったことが幸いしてその時点でグレードの高い部屋にかえてもらうことができたのですが・・・この部屋の室温は30度でそれより下がらない上、ここも息子達とは別の中庭に面しているのですが、1階(0階)にある従業員室からなぜか歌声や、大声が聞えます。(夜中まで続き、しかも二晩連続。あれはなんだったのだったんだろう。)

流石に3回も部屋変えをしてもらったところで大差ないだろうと、窓を開け(騒音が酷くなるけど、暑さに適わず)、眠りにつきました。

このホテルについては、ブッキングコムにある口コミの評価は比較的高いのですが、それでもちらほら、私と同じ体験をした人達の苦情も載っていて、あるロシア人は3回も部屋を変えてもらったと書き、「部屋が暑すぎ」と書くイギリス人、「クローゼットを開けるのに、一人がベッドに登り、ベッドも動かさなければならない」というアメリカ人もいましたし、騒音に辟易した人たちの声もありました。

まあとりあえずは、「これもイタリアさ」と割り切るべきでしょうか。

もう一つの嫌なことは、またしてもドイツのフランクフルト空港での出入国の際の人種差別的管理官(アジア人の挨拶無視、侮蔑した態度)、それと、新人研修の実験材料となったとしか思えないセキュリティチェックです(先進国とは思えない対応)。

フランクフルト空港では2007年にも嫌な目にあい、セキュリティ責任者とメールを取り交わし、「またなにかあったら知らせてください」とまで言ってもらったので、彼にメールをしようと一旦思いましたが、ネットで調べると、私以上に酷い目に会っている人も少なくないようなので、「もう言っても無駄。今度からフランクフルト空港は使わないようにしよう」と、割り切ることにしました
(※その担当者の協力のもと、やはり抗議をし、「(どの空港にもいえますが)係員に名札があればよいですね。ルールや法では差別はなくせないでしょう。」と提言。)

2007年については、『空港でのできごと』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20071124

まあ、図太くなるのと、諦めも、海外では必要でしょう。

(でも、最初から泣き寝入りは止めましょう。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チンパンジー以下のリーダーに率いられるという屈辱

2012年03月28日 | 国際・政治

ニューズ・ウィークより。

計画ゼロ?アメリカの核廃棄物処理

http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2012/03/post-2485.php

[2012215日号掲載]

 バラク・オバマ大統領が生まれるずっと以前から、アメリカ政府には核廃棄物、つまり原子力発電所から出る使用済み核燃料の長期的な処理に関するきちんとした方針がなかった。

 スペインのように地中に埋めている国もあれば、フランスのように再処理によって可能な限り核燃料を活用しようという国もある。だがアメリカは、問題を先送りしているだけだ。

 米政府の核廃棄物処理に関する有識者委員会は1月下旬、最終報告書の中で政府のいいかげんな姿勢を批判した。「この国が核廃棄物問題に真剣に取り組んでこなかったことが、悪影響と多大なコストをもたらすことは明らかだ」

 米政府は今のところ、核廃棄物を厳しい警備を敷いた貯蔵施設1カ所に集めて保管するという政策を取っていない。アメリカで現在稼働している原子炉は104基あるが、使用済み核燃料はそれぞれの原発の敷地で「一時保管」されている。

凍結された核廃棄物貯蔵施設

 しかし、このシステムには問題がある。高レベル放射性廃棄物を保管している原発の8%が、警備上の基準を満たしていないのだ。

 今回の報告書で、米政府はようやく核廃棄物処理に関する指針を示したことになる。報告書では核廃棄物の管理のみを行う政府機関の創設や核廃棄物輸送の効率化が提言されたほか、原発敷地内での保管に対して地元の反対がある場合は、地元住民が連邦政府から補償を受けていないケースに限って保管をやめることも提言されている。

 だが、この報告書で触れられていない大きな問題が1つある。

 ネバダ州ユッカマウンテンの核廃棄物貯蔵施設計画だ。委員会は貯蔵施設の立地について判断を避けるよう要請されていた。

 この手の施設をめぐる決定は、地元政治の影響を受けることが少なくない。09年にオバマ大統領は、ユッカマウンテンでの貯蔵計画を事実上、凍結した。この決定の背後には、ネバダ州選出のハリー・リード民主党上院院内総務からの圧力があったといわれている。

 とはいえ、ユッカマウンテンに触れずにアメリカの核廃棄物問題を論じるのは建設的とは言い難い。ほかにこれといった貯蔵施設の候補地がないからだ。

使用済み核燃料の再処理で解決?

 一方で有識者委員会は、政府の原発監督機関である原子力規制委員会(NRC)と共に、使用済み核燃料の再処理という選択肢も検討した。確かに再処理をすれば最終的な廃棄物の量は少なくなる。

 しかし再処理が問題解決の決め手になるかといえば、そうでもなさそうだ。ワシントンに本拠を置く科学者団体「憂慮する科学者同盟」は、再処理は廃棄物の危険な蓄積を先送りするにすぎないと指摘している。

 核廃棄物処理に関する長期的なプランが定まっていないのは、カナダや日本も同じだ。だがスウェーデンやロシア、イギリスのように、厳重に警備された貯蔵施設を2030年以内に稼働させるという計画を立てている国は多い。

 この先、アメリカの議会と政府が貯蔵計画の策定にこぎ着けたとしても、取り組みが遅れたことのツケは大きいだろう。報告書にはこう書かれている。「現在利用可能な、もしくは合理的に見込める原子炉や核燃料サイクルの技術的発展において、わが国がこれから少なくとも数十年間、直面することになる廃棄物管理のハードルを下げられるようなものは存在しない」

 全米各地に核物質が保管されているという事実に、アメリカ人は慣れていかなければならないのかもしれない。

核廃棄物処理の問題はどんなに知恵を絞っても、これは最終的に地上に残る限りは問題の解決にはなりませんが、核廃棄物処理をうやむやにしながら原発を建て続けている国の指導者たちの知能指数は明らかにチンパンジー以下ではないでしょうか。

ところで、モンゴル大統領が拒否したはずの米国と日本が計画した(している?)、『モンゴル核廃掃場建設反対』の署名サイトは、今でも続いています。

Stop the U.S. from creating a nuclear waste dump in Mongolia

http://www.thepetitionsite.com/1/no-nuclear-waste-in-Mongolia/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時代を読む『「科学だけに依存」を問う』 by 内山節氏

2012年03月25日 | 社会(歴史・都市計画含む)

本日の東京新聞、コラムから。

東京新聞(2012325)

時代を読む

「科学だけに依存」を問う by 内山節氏

20世紀初頭に活躍した哲学者にフランスのベルグソンがいる。彼が語ったことの一つに、自然科学は暴力にすぎないというものがあった。それはこういうことである。

科学は科学の方法で捉えた真理をつかんでいるにすぎない。つまり、科学の方法ではとらえられないことは、科学では扱えないのである。ところが、科学者は科学的な真理だけが唯一の真理だと言い、それを人々に信じ込ませようとする。それは、暴力だ、というのだ。

それは次のようなことと似ている。人間の能力にはさまざまなものがある。知識が豊富なのも能力だけど、他にも運動能力とか、美術、音楽の能力、他人を思いやる能力など、実に多様な能力をそれぞれの人がもっているといってもよい。ところが、偏差値が人間の能力を測る唯一の方法だとしてしまったら、それは暴力でしかないだろう。

科学も、ものごとを考察するいろいろな方法のひとつにすぎないのである。しかも、考えてみれば、人間は科学に依存しないことの方が多い。たとえば一番大事な「幸せとは何か」ということは、科学では解けないのである。今日の私たちが大事にしている、思いやり、優しさ、自然の素晴らしさ、結びあう豊かさなどがなぜ重要なのかも、たとえ科学で考察したとしても、ほんの表面的なことしかとらえられないだろう。

科学はひとつの指標を提供できるだけなのである。そのことを、東日本大震災と、その後の過程は示した。復興とは何か-。それは復興とともに生きていこうとしている人たちがつかみ取っているものであり、科学的に何か示せるものではない。原発事故が明らかにしたのも、科学の傲慢さであり、科学に依存しすぎることがもたらす危険性でもあった。拡散した放射性物質にどう対応すべきかも、科学が示している結果をひとつの参考資料に、生きることの意味を総合的に判断して考えるはかないのである。

東日本大震災以降、私たちは、この時代が転換期を迎えていることをあらためて実感した。これからも、未来に渦根を残すような生き方をしてよいのだろうか。巨大なシステムに管理された社会が、果たして無事な社会だったのだろうか。国と地方自治体、そして私たちの関係はどうあったらよいのか。百年、千年に一度の大災害を語り継ぎ、教訓を残しつづける社会をどうつくったらよいのか。課題が次々に私たちの上にのしかかってくる。

そういう時代には、これまで常識として通用してきたすべてのことを疑ってみるしかない。果たして自由とは何だったのか。市場競争に明け暮れるだけの経済でよいのか。国とは何か。・・・・。

今日の時代とは、ヨーロッパが近代への助走を開始してから500年の時代が、行き詰まりをみせているのだと私は思う。そういう時代に東日本大震災は起こった。ゆえに、私たちはすべてを問い直す勇気が求められている。

科学とは何かを問いなおすのも、この時代の課題の一つである。別に科学を否定するというのではない。科学をひとつの方法として用いながらも、科学だけに依存しない人間の知恵が、有効性を発揮する社会をどうつくるかが、課題なのである。

東日本大震災は、この課題をも、私たちに提起したのではなかっただろうか。

ある若い、有望な経済学者が、先輩の経済学者から「最新の経済学の粋を駆使してこういうことを分析、結論を出してくれないか」と頼まれ、「それは無理ですよ、経済学は、あくまで前提をおいた上で、仮説を検証するということしかできませんから」と答えました。

更に「前提をおいて仮説を検証をする必要性も分かるが、第一線の学問的成果がすべてそういうやりかただけでなされ、それだけで評価がなされるということでは、なぜ、何年もかけて経済学を勉強するのか、という基本的疑問に答えられず、結局、経済学は世の中のためには役に立たないという俗説を正当化することになってしまうのでは」と言われた彼の返事は、

「確かにそういう面もあります。しかし、経済学を使って、常識では分からないことを解明できることもありますから」。

科学と経済学は違うとしても、世の学識者たちが、この若い学者のような謙虚さ-それは真の聡明さ-を持ち備えた人が多ければ、と願います。

(この若い経済学者は(若くして)亡くなりましたが、もし現在も生きていたのなら、きっと日本の経済学界に大きな功績を残しただろうと思います。

しかし、教え子や、接した人々に残した影響は大きいでしょう。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドイツZDF 『フクシマのうそ』動画

2012年03月24日 | 原発・核・311

izumiさんから教えていただいた動画のリンクを貼り付けます。

ドイツZDF フクシマのうそ パートI

http://www.youtube.com/watch?v=mKPpLpam6P0

ドイツZDF  フクシマのうそ パートII

http://www.youtube.com/watch?v=uOgoZDDsRkc

特にパートIIの後半をどうぞ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ただいま!

2012年03月22日 | 旅行

昨日ドイツ、イタリア旅行から帰ってきました。

今回の旅行は前にも書いたとおり、友人のトモエさん、欧州旅行初体験の息子、海外旅行初体験の息子の友人、R君の4人の珍道中。

天候にも恵まれた8日間でした。

ドイツではフランクフルト近郊のオーバーウルゼルに2泊し、イトシュタインというフランクフルトから電車で40分くらいの町に出かけ、ドイツ人の友人ブルクハルトさんと一緒に観光、食事。

ブルクハルトさんはルフトハンザのメカニックを昨年末完全退職、在職中から趣味でガラス工房を開いているのですが、彼から彼の作品をプレゼントされただけでなく、トモエさんが次回行う日本文化のプレゼンテーションのお手伝いをしてもらう約束もしてくださいました。

イタリアでは、私と息子と息子の友人R君はフィレンツェに4泊。トモエさんは1泊目フィレンツェ、2泊目グリッツァーナ、3泊目サンジミニャーノ、4泊目フィレンツェ泊。

グリツァーナではD氏の奥様マリアさんやトモエさんが滞在したB&Bの宿の奥様ルースさんと彼女の7歳の息子さんのアルトゥーロ君(偶然にも2軒は家族ぐるみでの付き合い)と、若い案内係のアリーチェさんとジョルジュ・モランディのアトリエを訪問したり(アトリエ見学も無料ですが、アリーチェさん自体がボランティアとして案内)、村の人々が集うレストランで昼食(メニューがない!チーズを固まりごと回して客が皆で食べたり、話したり!)D家でマリアさんと原発事故の話も含めて、楽しいひと時を過ごしてきました。

今回の旅行で訪れた場所は、数回目のところも初めてのところもどこも良かったのですが、フィレンツェとシエナにあるチェルタルドという村が、ある意味私にとっては一番印象に残った村でした。

観光地よりも小さなヨーロッパの古い街並みが残る村や町を歩くのが好きな私は、「フィレンツェ近郊で1時間以内に電車で行けて、駅からの移動が楽な村はないか」と当たりをつけてグーグルマップで検索で発見した村がチェルタルド。

抽出後にインターネットで検索したところ、この村がデカメロンの作者のボッカチオが晩年を過ごしたところであることや、群馬県の甘楽町と姉妹提携していてこの村に、甘楽町が茶室を寄贈していることも知りました。

駅からもケーブルカーがあって旧市街にも行きやすいし、中世の村にある茶室とやらも観てみたい」と出かけたところは、想像以上に素晴らしい。ケーブルカーを降りたとたん、中世の村にタイムスリップしたような錯覚を覚えるうえ、高台なので遠くにサンジミニャーノの塔も見えるのです。

そしてまた、何よりもここで観光案内所のジュリアナさんという50代くらいの職員の方と知り合えたことが大きいです。

英語を話さない彼女と身振り手振り、英語とイタリア語の単語を並べて、「日本の茶室があるというけど、どこにあるのか?」と質問したことから、俄然彼女はhospitality発揮。

まずは一番のメインである宮殿の階段が修復中で登れないこともあって、ボッカチオ博物館の階段を案内してくれ、一緒に上まで登ってくださり(階段を登る途中、「私は年齢が高いから階段を登るのが辛いの、ちょっと休ませて」というジェスチャー)、サンジミニャーノの方向を教えてくださったり。

更に驚いたことに、ボッカチオ博物館を出た後昼食をしていた私達を探し出し、わざわざ宮殿内にある茶室のある場所まで案内してくださった上、「私はお昼を食べてくるわね」と別れたのに、宮殿を出ると私達を宮殿の出口で待っていてくださったこと。

ジュリアナさんは英語をほとんど理解しないので、日本のキャラメルと一緒に英文の手紙を書いて彼女に手渡してきたら(同僚で英語ができる人がいる)大変喜んでくれました。

短時間であれ彼女といると非常に心安らいだこともあって、彼女と短時間でお別れは名残おしい・・・再会を約束しました。

彼女と一緒に映った写真は、イタリアのルイジさんにでもイタリア語に訳してもらってメールで送ることにしましたが、こういうとき、英語以外の言葉がたくさんできる人が羨ましい。)

今回の旅行では他にも、アイルランドのミュージシャン(22歳の大学生)と飛行機の座席が隣り合わせになって若者の就労、福島原発の話をしたり、スコットランドから父親の還暦旅行に来ていたキルトスカートをはいた20歳の男の子とも話をしたり、イタリアの電車での幼児を連れた親子とのふれあいもでき、4人連れではあまりできない経験もできました。

簡単な旅行報告をした友人が返事をくれて、

「最近、旅は、何かを買うとか、何かを見る、ということより、その土地の人との出会いが面白い気がしています。物欲とか何かが無くなってきた年のせいでしょうか。」

と言っていましたが、一緒に行った息子とR君も、買い物や観光より、土地の人との出会いが一番楽しかったようです。

さて・・・次回はどこにいきましょうか・・・。

なんていう前に、ブルクハルトさんやイタリアの友人達(旅行中電話で話した人々)、旅行で知り合った人々、お世話になった人々へのメールを書かなくては・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エコノミストの記事『原子力の未来:破れた夢』

2012年03月12日 | 原発・核・311

本日のJBpressに掲載された、エコノミストの翻訳記事です。

エコノミストがこのような記事を書いてくれるとは・・・。

JBpress

原子力の未来:破れた夢 (Economist

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34737

英国の化学者フレデリック・ソディは1908年に、原子核の中にため込まれた巨大なエネルギーが「不毛の大陸の姿を変え、両極の氷を融かし、全世界を笑顔に満ちたエデンの園に」できるだろうと熱を込めて語った。

 ところが原子力は軍事利用され、世界に正反対の脅威をもたらした。原子力は、未曾有のスケールで楽園を不毛の地に変えてしまえるのだ。

 理想主義者は、原子力も、民生利用の衣裳をまとえばバランスを取り戻し、今後数百年にわたって安くて豊富、かつ信頼できて安全なエネルギーを供給してくれると期待した。だが、現実はそうはならなかった。これからもなりそうにない。

 本誌(英エコノミスト)は26年前、停滞気味だった原子力産業を前に進めるには、「多くの原子炉を建設し、毎年毎年、犠牲者ゼロ、重大事故ゼロの記録を積み重ね、安価なエネルギー源となることを議論の余地なく示し続けることだ」と主張した。

 当時としては公正な見方だった。しかし、原子力産業は「チョコレート工場と同じくらい安全」だという本誌の結論は、はかないものだった。それから1カ月もしないうちに、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所の原子炉1基が制御不能に陥り、爆発。当時現場にいた作業員や、後に除染のために送り込まれた作業員が命を落とした。

 汚染は広範囲にひろがり、広大な農業地帯が居住不能となり、何万人もが家を捨てざるを得なかった。事故による放射能がどの程度の被害をもたらしたかは、今日に至るまで不明のままだ。故郷を追われた人々のストレスと苦悩は一目瞭然だ。

そして日本も

それから25年が経ち、「原子力ルネサンス」という声も聞かれ始めたころ、事故は再び起きた。

 日本のいわゆる「原子力村」を構成する官僚、政治家、産業界は、チェルノブイリの罪を負う人々のような崩壊しかけた独裁国家の機関員ではなかった。彼らには有権者や株主、社会に対する責任があった。

 それでも彼らは原子力を熱心に推進し、その熱意の陰に、貧弱な規制や機能しなかった安全システムの問題を覆い隠し、罪深くも地殻変動のリスクを無視した。その間ずっと、原子力の安全神話を軽率に唱え続けた。

すべての民主主義国がこれほどお粗末なわけではない。しかし、原子力はどんどん、民主主義国のものではなくなろうとしている。

 近い将来、原子力に最大の投資をすると見られるのは中国だ。といっても、中国が特に原子力に大きく賭けているためではない。この国の経済規模があまりにも巨大なため、そこそこの関心を向けるだけでも、ほかの国の基準では十分大きなものになるのだ。

 中国は、福島の事故を受けて規制を見直す可能性が高い。中国の一部の原子炉は最も近代的で、最も安全な設計だとうたわれている。しかし、優れた技術だけでは安全は実現できない。独立機関による規制と、見逃しているかもしれないリスクを徹底的に洗い出し続ける、念入りで自己批判的な安全文化が必要なのだ。

 中国(あるいは相当数の原発建設を計画しているロシア)は、まだそのような規制や文化を提供できることを世界に示したことがない。

 どんな国でも、規制対象の産業が主に政府の決定により存在している場合、独立機関が規制をかけるのは難しい。しかし、本誌の今週号の特集記事でも述べているように、政府の後押しがなければ、民間企業が原発を建設するという決断を下すことはないだろう。

 その理由の1つは、地元の反対や政策の変更に伴うリスクだ(ドイツの場合、政府が原発に安全のお墨付きを与えていたが、福島の事故後にすべてを停止した。このことは、業界に恐ろしいメッセージを送った)。だが、一番の理由は原子炉が非常に高価なことだ。

 チェルノブイリの事故後、新しい設計で資本コストを下げるとうたわれたが、実現しなかった。欧州で建設が進められている一握りの新型原子炉は、もともと巨額だった予算をもはるかに超えるコストがかかっている。

 世界で最も原発が多い米国では、シェールガスの開発によって代替エネルギーのコストが低下した。新しい原発が建造される可能性が高いのは、米国南東部など、いまでも電力市場が規制されている州のみだ。

※続きはリンクからどうぞ。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行って来ます

2012年03月12日 | 旅行

いよいよドイツとイタリア旅行が2日後に迫ってきました。

旅行のメインイベントだったD氏訪問ですが、前にも書いたとおり、これはD氏が長期出張で日本に滞在することになった為に入れ違い。

(『来日ラッシュ』http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20120303)、

それでもD氏は、自分がいなくても、奥様が自分に変って送り迎えをしてくれたり、私達を歓待してくださるとおっしゃっていました。

しかし・・・グリツァーナは3000人くらいの人口しかいない本当に素朴な村。その村のなかでも山奥にあるご自宅に4人で押しかけるには、駅(無人駅)からの送り迎えを頼まなければならないし、昼食の準備もあるだろうし、大体息子達はまったく英語を話せない・・・これでは奥様を忙しくするだけで、迷惑になってしまうのではないだろうか-。

そんなわけで、一旦はこのグリツァーナにBBを予約してしまっているトモエさんだけがグリツァーナに行くことにして、私達は別の町を訪問することにしようということにしました。

(グリッツァーナ自体にも行きたかったですが、私達も行った場合、それこそ奥様に内緒というわけにはいかないので、結局お世話になってしまう。奥様が歓迎してくださるのはわかるだけに今回は遠慮しようと思った。)

ところが、たまたまの偶然が重なったことにより(最大の偶然は、D氏がトモエさんの予約したB&Bの主人R氏の友人であったこと。まあ、小さい村ではよくあることかもしれませんが、気が付かないで終わってしまうことも多い。)、D氏がすてきな提案とアレンジをしてくださり、私達はグリツァーナを訪問し、D氏のご家族、そしてもしかしたらR氏も一緒にトラットリアで食事をすることになりました。

そして更に、R氏によりグリッツァーナにある、ジョルジョ・モランディという画家のアトリエだった彼の美術館までも見学できそうです。

(ジョルジョ・モランディ Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3

このアレンジのためにD氏が書いたR氏宛のメールの末尾に、

We must get together after I come back. 

-「一杯奢らなきゃね」って感じでしょうか。

私も日本に帰ったら、D氏にこのセリフを言いたい気持ちです。

(実際は、ずっと年下の私などがいえないですが、気持ちはそう。)

では少し早いですが、行って来ます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

311東日本大震災から1年、そして911のティムさんの傷

2012年03月11日 | 原発・核・311

今日で東日本大震災から1年。

復興は未だ目処がたったといえず、そして福島原発についても収束したのかも怪しい。

ご家族やご友人を失くされた方々の悲しみは癒えることはなく、その上自分達の生活が大きく変ってしまっていて、先のことも考えていかなければなりません。

特に原発周辺の方々は、自分の土地に帰る希望もない。

先日、ニューヨークで働くティムさんがシカゴに出張に行っていたとメールをくれましたが、そこには、「僕は911以降、どれだけ飛行機で飛ぶことを嫌悪するようになったか・・・」とが書いてありました。

ティムさんは、あの朝、いつもと同じようにニューヨークのウォール街周辺のオフィスで仕事を始めようとしていたことでしょう。

この2001911日、日本で夜のニュース番組を見ていた私は、TVで飛行機がビルに突っ込むのを見ていましたが、ティムさんはその近くにおり、オフィスから逃避をし、そしてその後はおそらく何人かの友人や知り合いを失ったのではないかと思います。

私はティムさんにこの911の時の話は聞こうとしたことがありませんし、ティムさんもその話を話題にしたことがありませんでした。

今回も飛行機について書いてあるだけでしたが、最後に、

I say this as somebody that has to walk past the construction of rebuilding the World Trade Center ever day.

と、自分に言い聞かせるような言葉が。

911の時にその現場にいて繋がりのある人を失くした人や、多くを失った人に対しては、その場にいなかったり、誰も失ったわけではない人には、その傷の深さや大きさを完全に理解できないと思います。

それは311日の東日本大震災の被災地の方々のことについても同じ。

ただ、あの日を忘れないこと、そして乗り越えて前に歩いていこうとする人達を見守り、声を聞くこと-これらが被災地以外にいる私たちに出来る最低限のことではないかと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理解に苦しむ

2012年03月09日 | 原発・核・311

昨日のIBtimesに、以下のインタビュー記事が載っていました。

3.11から1年、「低線量被ばくとの終わりなき戦いは続く」』

by swissinfo ch 里信邦子氏)

http://www.swissinfo.ch/jpn/detail/content.html?cid=32255512&rss=true

3・11から1年が経過する。しかし原発事故による放射線被害は改善を見ないままだ。「低線量被曝と戦う親や子どものストレスは並大抵のものではない。しかもそれに終わりはない」と、スーザン・ボース氏は語る。

 ボース氏は、左派の重要なスイスの週刊新聞「ヴォッツ(WOZ)」の編集長。昨年2回福島県を訪れた。その計40日間にわたる滞在で、東京電力や福島県庁の関係者、南相馬市や飯館村の村長、さらに多くの県内の一般市民と対話を重ね、今年1月末に福島についての本を出版している。

(中略)

チェルノブイリでの体験と福島を比較しながら、ボース氏に原発事故を多側面から聞いてみた。

swissinfo.ch : チェルノブイリでは、甲状腺がん以外にも心臓病などの疾患が多発したといわれますが、実際どんな状況だったのでしょうか?

ボース : もちろんがんや、子どもでは甲状腺がんが多発したが、血圧の疾患、心臓病、免疫力の低下といった症状が重要な問題になっていた。また、原発から半径30キロ地点の学校の先生たちが、子どもの集中力や記憶力が低下したとも証言している。

低線量被曝の被害は「まるで20歳年を取ったような状態になる」といわれるが、実際、避難者や現地に住む人を見るとそうだった。放射線は細胞レベルのストレスを引き起こす。つまり、人間にはDNAの損傷を修復するシステムが本来備わっているが、放射線を絶えず浴びるとこの修復システムが追いつけなくなる。それがこうした病気の原因となる。

日本でも今後、汚染された地域で同様の現象が起こることは確実だと思う。

ただ、福島では汚染の放射性物質の種類が違う。骨に溜まり体外に出ないストロンチウムやチェルノブイリで多量に排出されたプルトニウムが福島にはほとんどない。これは良いニュースだ。問題はセシウム137。このセシウム137との戦いが福島では続いていく。

チェルノブイリの話に戻ると、チェルノブイリ事故のもう一つの問題は、甲状腺がん以外の疾患についてのレポートがなかったということだ。実際はウクライナやロシアの学者が、こうした疾患についての研究を行っていた。しかし、それが国際的に認められるには、英語で書いて科学雑誌に投稿しほかの研究機関によって承認されなければならない。だが彼らはこうしたプロセスを踏まなかった。そのため、WHO(世界保健機関)などがこうした研究を承認していない。また、研究が正しかったとしてもほかの言語に翻訳されていないため、我々も目にすることができない。

同じようなことがこれから福島でも起こると思う。というのは、すでに多くの研究が発表されているが、公式のものが英語に翻訳されていない。これは深刻な問題だ。

(中略)

swissinfo.ch : そのほか、チェルノブイリと福島で、違いに驚いたことがありましたか?

ボース : ウクライナでは、福島のように避難すべきかどうかを個人で悩むことはなかった。年間線量10ミリシーベルト以上の所は強制避難。つまり旧ソ連体制だったため、有無を言わせず「全員すぐに移動」と決行した。

また、一般市民の保護においても、ウクライナの方が優れていたと思う。例えば汚染された地域の学校では、汚染されていない地域から食品を輸送させ何年間もそれだけを使用し、朝、昼、晩三食を学校で食べさせた。こうすれば子どもたちに、内部被曝は起こらないからだ。家では、大人たちが(貧しいが故に)家庭菜園のものや森のキノコなどを食べていたが。

ところが福島では今でも子どもたちに地域の産物を食べさせている。それには驚いた。また現在、食品に含まれる放射性物質の量は1キログラム当たり500ベクレルと高い。今年4月から100ベクレルに下げられると聞いたが、なぜ事故直後に100ベクレルにしなかったのか、それも理解に苦しむ。

民主主義国家の方が、個人の意思を重視するが故に原発事故が起こった場合は複雑になるのかと思ったりする。

もう一つ、福島で驚いたのは、放射能のホットスポットを示す標識が一つもなかったことだ。ウクライナではあちこちに立っていた。ところが福島では、20キロメートルのボーダーでさえこの標識がなかった。

さらに、日本が外国の専門家の調査協力を拒否したことは、大きな問題だと思う。例えば、スイス政府が管理する「アク・ラボ・スピーツ(ACLabor Spiez)」は、詳細な放射線量の測定を専門とする組織でチェルノブイリにも派遣された。汚染地図作成に優れ、ホールボディーカウンターも備えていた。それらを全てを持ち込んで日本で協力したいと申し出たが断られた。

こうした外部団体による客観的なデータを市民に与えることは、安全と信頼性を確保する上で非常に大切だ。病気でのセカンドオピニオンに当たる。それに民主主義の国では、困難な状況にあるときは助け合うのが当然。それにあれだけの事故だったのだから。なぜ拒否されたのか理解に苦しむ。

ただ、もしスイスで同じことが起これば、スイス政府も混乱し同じような対応をしていたかもしれないが。

swissinfo.ch : 今の福島第一原発の状況をどう捉えていらっしゃいますか?

ボース : 東電と話したが、彼らさえ、何が内部で起こっているか把握していない。もともと、あれほどの放射能がどこから出てきたのか理解に苦しんでいる。

また、今後どうなるのかもよく分かっていない。高線量のため(格納容器近辺)には近づけず詳細に把握できないからだ。今のまま、水で冷やし続けるとしても炉心溶融(メルトダウン)した核燃料を取り出すのに30年はかかる。また、今の方法で冷却が続けられていること自体、多くの学者が「奇跡」で人類が経験したことのない唯一のケースだと言っている。

皮肉でだが、あるロシアの物理学者は「チェルノブイリはラッキーだった」と言っている。なぜならチェルノブイリでは、核燃料のほぼ7、8割が放射能として外部に出てしまった(もちろん汚染を引き起こしたが)。したがって、残った仕事はいかに除染するか、いかに原発に覆いをかけるかだけだった。

ところが、福島の場合、核燃料の8割は格納器内にとどまっているとされる。今後、これをどう扱っていくかは、物理学者にとって「まるで月での探検のような」、未知のチャレンジになるという。

(全文はリンクからどうぞ。)

インタビュー中、ボース氏が、「理解に苦しむ」と続けざまに言っていますが、本当に理解に苦しみます。そして、理解に苦しむことが更に増え続けているのも、理解できません。

福島も含めた原発問題をきちんとクリアしないままに、現在、「原発を稼動させないと電力がたりなくなる」という電力会社、これも本当に理解できません。

(本音は単に、「原発を稼動させないと、自分達が大変」ということでしょう。)

そういえば、先日、

山田衆三さんという方の『衆ノ雑感』と言うブログ記事から以下のもの

『ダイナミック・プライシング』

http://yamada-shuzo.dreamlog.jp/archives/52213618.html

2011年12月に「環境未来都市」に選定された福岡県北九州市は、季節や曜日、時間帯に応じて電気料金の基本単価が変わる「ダイナミック・プライシング(価格変動設定)」実証試験を、日本で初めて2012年4月から始めます。北九州市が主導する「北九州スマートコミュニティ創造事業」の一環で、柔軟かつ効率的な電力需給体制を構築することが狙いです。

(続きはリンクからどうぞ)

を知人に送りましたが、彼は、「電力会社はスマートコミュニティや代替エネルギーの普及を本音では反対だろう。(この北九州スマートコミュニティも、)新日鉄傘下の城下町であったから実現できたのではないか。」とつぶやいていました。

電力会社が既得権益を守ろうと必死になること自体は(電力会社の身勝手さに腹を立てたとしても)理解はできますが、これを政府が擁護することについては、私を含め多くの国民は理解できないでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フィンランドの友人の『君が代強制』についての意見

2012年03月06日 | Nationalism

2007年3月に、フィンランドの友人と君が代と日の丸について話をしたことがありました。フィンランドの友人は、「フィンランド語だったら、もっとうまく言いたいことが言えるけど、英語だと伝わらないかな」と言いながら、以下のコメントをくれました。

The link you sent about "Kimigayo" was interesting.

I think there are two questions inside of it:

Q1:Is it right to sing "Kimigayo" at school entrance ceremony because it might hurt some people's feelings?

I think we shouldn't live in such a manner that we always are afraid that someone would upset what we are doing, whether they are in majority or minority. I believe we should tolerate things that are important to others, even if we dislike them.

(中略)

Most nations have national anthem and it joins people and make them feel that they belong in a nation. As humans it is a need that is build inside of us, and if we deny it, we deny some basic needs of people.

In Finland we had a discussion about religious songs at school's christmas partys.

The decision was that since they are part of our cultural heritage, they are also part of school life. If it is against someones personal belief, they simply don't participate in the singing and no one gets upset.

To conclude this: I don't believe that minority has right to rule majority, and neither majority has right to rule minority.


Q2: Is it right to refuse participating in singing or playing, and should it be punished if you don't sing or play it?

I believe that we always have a right to choose in areas that touches our personal believes without being afraid punishment. It is true that the music teacher didn't play the song but the song was singed in the occasion.

If the teacher had prevent the singing, ( minority rules majority ) then I think it should have been punished. But in this case it didn't happen, so why bother it.

But of course this also a question about responsibilities and duty to fullfill them, when they are not in alligned with your personal values.

I have a feeling most of us don't have courage to refuse their responsibilities in such case.

So at some point I have to respect the courage of that teacher.

But, to conclude this one: It is not right to force people to behave against their personal value.

These were difficult questions and it is difficult to give a simple answer to them.

以上に対して、私のグロービッシュ(シンプル英語)の返事は以下のとおり。

Thank you very much for your opinion on Kimigayo.

I think most Japanese people don’t have negative image on singing Kimigayo now. For me, it is just one of songs. But I understand why some people have negative image on Kimigayo (and ‘Hinomaru (National flag)’. 

The words to Kimigayo are very classical one and most of us don’t understand the meaning correctly because we usually don’t learn the meaning of it. So most of us don’t care the meaning of the words.

But ‘Kimigayo’ can be understood as ‘Our emperor’. Now our emperor is just for symbol. But before the war, Japanese people believed the emperor was ‘A living god’. Those days, Japanese people had the greatest respect for the Emperor, (also ‘Hinomaru’ and ‘Kimigayo’).

Some young people died for them in the war, and some people believed it was their pleasure to die for the emperor.

And then some people object to singing Kimigayo. It is one reason.

Now most of us don’t believe our emperor is ‘A living god’ and most of us love our emperor and the royal family as just symbol of our country.

So that, it is seemed there is no reason to have negative image on Kimigayo.

But now there are some politicians (and people) who want to make Japan to a nationalistic country again.

Our emperor said it was not good to force the national flag and the national anthem. But it sometimes seemed that our leaders wanted to become our country like before the war again. They like to force both of the national flag and the national anthem in the school. I think it is the other reason.

I don’t object to sing ‘Kimigayo’ (as just song) on ceremony, but I don’t agree with our government. Not only the music teacher, there were many troubles on Kimigayo.

Last year there was a teacher who was arrested because he distributed handbill about Kimigayo before the ceremony. 

To my regret, the news didn’t become big topics about it.

I think such thing is a big problem.

日本の一部の政治家達は、私のフィンランドの友人のような友人がいればよかったですね。

なお、君が代ですが、私は上にも書いてあるように、私にとっては『ただの歌』でしかないのですが、斉唱を強要する人がいて、それをしない人を罰せられる国であるかぎり、式典でこの国歌を私は歌いません。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『縁』を楽しむ

2012年03月04日 | 友人・知人

私が若い頃に働いていた組織は、全体の人数は500名くらいいて、毎年男性職員は10名前後しか採用していませんでした。

私がブログでよく取り上げる元同僚で友人のTやH-彼らの採用年度もその程度の人数しか採用されていなかったと思うのですが、以前彼らとドイツ旅行をしたときに、実は彼らが同じ公立の小学校出身ということを知りました。更に驚くことに、彼らの同期のもう一人であるIさんも同じ小学校という話。そしてお父様が転勤族であったIさんが転校したあと、その学校のそのクラスに転入し、Iさんが座っていた机に座ったのが、彼ら3人の同期の別の一人ということが後で判明。

同期の10人前後のところ、3名が同じ公立小学校出身(エスカレーター式ではないですし、確か3名ともその後は別の進路)であり、別の1名が地方の学校で同期が座った机で勉強というなんというのを聞いたとき、「人事がオチャメで、小学校が同じ人を選んだ!?」と一瞬考えてしまったんですが、まあさすがにそれはないでしょう。

『縁』というものがあるのなら、これなどもそうかもしれません。

なんて、『縁』の話をしましたが、『縁』は『人との縁』もあれば、『国との縁』もあるように思います。

私は、欧州文化、文学、芸術、歴史(近現代史)などに興味がありはするのですが、正直を言うと、欧州の中でイタリアよりも、フランス、ドイツに惹かれたり、興味があるものが多いのです。が、何故か縁があるのは“イタリア”。

まず、一番最初にできた海外の“親友”は17歳の時に従姉の友人に紹介されたイタリア人の女の子(リアーナさん)と言うのから始まって、イタリア人の友人がたくさんできます。

(ドイツ人の友人とも相性は良いですが、数が違う)

そして、イタリア人でなくても、何故か周りには、イタリア語を習っていたり、イタリア在住の人がいたり、イタリア関係の仕事をしていたりする人が多く、イタリア情報も入りやすい。

そういえば、先日のブログ、『トリノのルイジさんとスマレ先生』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20120215

ですが、あのブログを書いた日に、スマレ先生が、インターネットサーフィンでたまたま私のブログを見つけたというのも、『縁』あってこそなのかもしれません。

さて、このブログの後日談ですが、スマレ先生が日本の本をいくつか翻訳していることから本の話になって、ルイジさんに、

「私の小中学校の友人Kさんは、本業の傍ら、イタリアの本を翻訳しています。

以前彼女は、『出版不況というものがあるけど、とにかくイタリアの本-特に小説-の翻訳依頼はあまりこないので、英語の本の翻訳依頼の方が多い』と嘆いていました」

という話をしたところ、私の英語を勘違いしたのか(私の友人が「訳したい本がない」と受け取ったよう。)、ルイジさんは、

「あなたの友人に、Valerio Masimo Manfrediの本の翻訳はどう?僕、彼が大好きなんだ。」

と書いてきました。

早速、このManfrdiという作家がどういう人なのか調べて見ると・・・なんと、この人の本はもう既に日本で数冊翻訳されていて、そのうち3冊を翻訳していたのが、Kさん。

まあ、いくらイタリアの本の翻訳の数が少ない上、イタリア語の翻訳者が少ないとはいえ、この偶然もやはり『縁』あってのことなのでしょうか・・・。

さて、先の友人Tにこの話をしたところ、

「僕の場合、いくら同期3名が同じ小学校出身だとしても、別に『縁』を感じたことはなかったな・・・。国でも、そうした『縁』を感じるというような国はないね。

たまたま一番興味があるものが多いドイツが赴任先になったのは、それは一種の『縁』なのかもしれないけど、『興味がある』と『縁』は別物だし。」

という返事が返ってきたので、こう返しました。

「『縁』は実体なんかないので、ある、ない、って証明できないでしょうね。

鈍感な人の場合は気がつくことはなく、敏感な人が気が付くだけ。まあ、後者の方が間違いなく人生を楽しめるかもね。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

来日ラッシュ

2012年03月03日 | 友人・知人

3月半ばからの旅行が近づいてきました。

今回の旅行の一つの目的の英国人社会学者D氏訪問ですが、今朝メールが入ってきて、急遽来日が決まってしまったために、フィレンツェ近郊のご自宅ではお会いできなくなってしまいました※ご家族に会いに伺うことに変更

(もっとも、彼の日本滞在は1ヶ月半以上に及ぶ為、ご本人には日本でお会いすることになりそうです。)

フィレンツェでは、トリノのルイジさんが泊りがけでフィレンツェに来る話にまでなっていたのですが、これも急遽仕事の関係で来られなくなってしまい、これも駄目。

今回はそういうわけで当初の予定より大分内容は違ってしまいましたが、それでも、外国の友人や知人の暖かさを再確認させてもらっただけでも、本当に感謝です。

なんていっているうちに、実は今年は外国からの友人達の来日ラッシュで、今度は歓待側です。

D氏は前述の通りの長期滞在。

ドイツのトーマスさんが3月末から4月初旬。

ローマのヴィンセンツォさんが11月頃出張で立ち寄り。

あとはまだ未決定ですが、

フランスのアリーネさんと、トリノのルイジさんが夏頃を予定しています。

異文化交流に興味がある方、もし良ければ、トーマスさんやルイジさんと一緒に東京を散策しませんか?

(基本は友人に向けて誘っていますが、他で興味がある方は、コメント欄に「私信」と書いて、メールアドレスとともに連絡ください。(非表示にします。))

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テーマパークとなったカルカー原発(独)

2012年03月02日 | 原発・核・311

ドイツに、テーマパークとなった原発(未稼働)があることを知っていたのですが、そのテーマパークがどんなものかわかりませんでした。

ドイツ在住のジャーナリスト、松田雅央氏が、このテーマパークについて書いてくださっています。

ビジネス誠

『原発を再利用したテーマパークに行ってきた』

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1202/29/news013.html

ドイツ北西部、オランダとの国境に近い町カルカーに原発を再利用したテーマパーク「ブンダーラント・カルカー」がある。カルカー原発は1986年に完成したものの一度も稼働することなく廃止が決まり、オランダ人実業家の手によってテーマパークへと生まれ変わった。ここは原発とテーマパークという奇想天外な組み合わせを実現した世界唯一の施設である。

(後はリンクからどうぞ)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする