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カネミ油症事件-旧鐘淵化学工業(鐘紡系)の責任・PCBとモンサント

2019年02月27日 | 社会(歴史・都市計画含む)

今月24日、元カネミ油症五島市の会会長の矢口哲男さんが亡くなりました。

カネミ油症については朧げにしか覚えていなかったので、どのような事件だったのか、と改めて調べてみました。 

先ず事件についてはウィキペディアから抜粋:

ウィキペディア
カネミ油症事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8D%E3%83%9F%E6%B2%B9%E7%97%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6 

抜粋: 

カネミ油症事件(カネミゆしょうじけん)とは、1968年、カネミ倉庫が製造する食用油にダイオキシン類(PCBなど)が製造過程で混入し、その食用油(『カネミライスオイル』と呼ばれた)を摂取した人々やその胎児に障害等が発生した西日本一帯の食中毒事件。カネミ倉庫は油にダイオキシン類が含まれていることを知った後も汚染油を再精製して売り続けた結果、工場のあった福岡と再精製油が売られた長崎にさらなる被害をもたらした。摂取した患者は現在まで長きにわたり、様々な後遺症に悩まされている。なかでも、妊娠していた女性患者から全身が真っ黒の胎児が産まれ、2週間ほどで死ぬという事件が発生。これは社会に大きな衝撃を与え、学界でも国際会議で「YUSHO」と呼称され、世界的な関心を集めた。本事件は「国内最大級の食品公害」と表現されることもある。

このような世界的にも重大な事件で、事件の詳細が明らかになっていたにもかかわらず、当時の最高裁においては患者の敗訴が濃厚となった。結果、患者側は訴えを取り下げるが、生活は困窮し自殺をする者も現れた。なお、カネミ倉庫以外にも、PCBをカネミ油の脱臭に必要だとして販売した鐘淵化学工業(現カネカ)もこの事件に大きく関わっている。 

こちらは、カネミ倉庫二代目社長のインタビュー記事です。 

<カネミ油症50年>「カネカが回収すべきだった」 カネミ倉庫社長インタビュー  PCB処理負担に不満
http://www.jea-navi.com/archives/2075 

(前略)

事件発覚当時、油症の原因物質ポリ塩化ビフェニール(PCB)の毒性は社会的に認知されていなかったとされる。PCBを製造した鐘淵化学工業(現カネカ)の当時のパンフレットには、次のような記述がある。

「カネクロールによる金属材料の腐蝕は、高温、低温を問わず、実用上問題はなく、材質の選択は自由であります」

PCBによる金属腐食性も否定しているように読める。食用油に大量混入したPCB。原因は裁判において、脱臭工程でステンレス管を流れるPCBが管を腐食させ、漏れて食用油を汚染したとみられ、PCBを製造販売したカネカの責任も追及された。だが、後にカネミ倉庫の人為的ミスと隠蔽(いんぺい)行為があったとの見方が強まり、全責任がカネミ倉庫にあるとの判断に一気に傾いた。

加藤社長は、「混入原因は、はっきり言って分からない。当時を知る社員はもういませんし。僕らはピンホール(腐食穴)が原因としか言いようがない。そしてPCBにもし毒性があると分かっていたら(食品製造工程で)使ってない」と断言。PCBそのものに問題があり、購入時のカネカの説明も不十分だったことを訴える。 

PCBは、カネミ油症をきっかけに製造中止となったが、既に社会環境に大量に存在。PCBの保管、処理は特措法などにより、メーカーではなく購入した企業側が費用負担することになっており、加藤社長はその不満もぶちまけた。

「うちの場合、コンクリート小屋を造り、鉄板の大きな箱を入れ、その中にPCBを全部保管させられた。無害化処理する費用には2千万円もかかった。本来、カネカが全回収し処理するのが当たり前じゃないのか」 

(中略) 

現在、政府米の保管料など国の支援も受けながら認定患者の医療費や見舞金などを支払っているカネミ倉庫。だが経営は厳しいという。カネカは被害者が求める協議にも応じていないが、同社の救済の枠組みへの参加が被害者支援の拡充に不可欠と考える。

「うちの企業体だけではどうしようもないところまで来ている。カネカは法的に無責と言うが、自分たちが作った物で被害者が出ているんだから責任がゼロってことはあり得ない」。加藤社長は再び語気を強めた。
 

カネミ油症事件が人為的ミスだったのか、そうでなかったのか。

カネミ倉庫が「ダイオキシン類の危険性」を知らずにいたとしても、「ダイオキシンの混入」に気が付いたまま、製品を製造販売をし続けていたのであれば、一番責任を負うべきは、カネミ倉庫であると私も思います。 

しかし、これを「カネミ油症事件」とし、鐘淵化学(カネカ)の責任の追及が甘い事には違和感があります。追及が甘いだけでなく、なんと創設者で当時の社長、中司清氏は、事件発覚後すぐの1970年に「経営者賞」とやらを受賞。 

コトバンク
中司清
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%8F%B8%20%E6%B8%85-1651069 

学歴〔年〕
慶応義塾大学経済学部〔大正13年〕卒 

主な受賞名〔年〕
藍綬褒章〔昭和36年〕,勲二等旭日重光章〔昭和45年〕,経営者賞〔昭和45年〕,ベルギー王冠勲章コマンドール章〔昭和49年〕 

経歴

大正13年鐘淵紡績入社。戦争中は満州新京出張所長として活躍、昭和19年取締役、20年現地で敗戦。22年副社長となり、敗戦で打撃を受けた鐘紡の再建に努力。24年繊維部門を残し、他部門を新会社に集約する再建計画を決め、9月鐘淵化学工業を設立、社長になった。以後、塩化ビニール、ブタノールの企業化、アクリル系合成繊維の研究に着手、31年カネカロン株式会社を創立、事業の多面化を推進した。44年会長、49年退任して取締役相談役、53年から名誉会長。この間、関西経済連合会副会長を務めた。 

(こちらもご参考まで

カネカの歴史/中司清
http://database-meian.jp/his/4118.html

カネカ高砂工場史
http://kanehanakai.jp/takasago/t-library/y-4-knkhistory.html

 この賞がどのような種類のものかわかりませんが、被害者に対して侮辱的ではないですかね? 

また、そもそもPCBを最初に開発したドイツの会社、それを販売した米国企業はどこだったのかー。
日本語判のウィキペディア
ポリ塩化ビニフェル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E5%A1%A9%E5%8C%96%E3%83%93%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%AB 

には書いてありませんでしたが、 

英語版Wikipedia
Polychlorinated biphenyl
https://en.wikipedia.org/wiki/Polychlorinated_biphenyl 

にはモンサントの名が。 混合製品名はAroclor(1930年から1978年まで販売)。
(※1921年に米国スワン社がPCB生産開始、同社は1929年にモンサントに吸収されたようです。)

モンサントはベトナム戦争に枯葉剤(ダイオキシン類)を作っていますが、彼らはPCBが引き起こすの環境汚染、毒性について無知だったのでしょうか?

ドイツの開発者は、「シュミット(Schmidt)とッシュルツ(Shultz)の二人の科学者」と書かれているものしかないですが、販売業者にバイエル社の名前しか書かれていないので、バイエル社が開発に関わっていたのでしょうか。

なお、このカネミ油症事件あとも、1978年~9年に台湾でも同様の事件が発覚していますが、WHOってその10年間も何をしていたのでしょうね。

参考:

コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB-1266180 

2個のベンゼンがつながったビフェニルに塩素がついたもので,塩素のつく位置と数で多くの異性体がある。日本では1954年から生産され,カネクロール(鐘淵化学),アロクロール(三菱モンサント)の商品名で市販された。) 

英語ウィキぺディアによると、鐘淵化学工業のものは「Kanechlor」。三菱(三菱化学)製としての製品名は「Santotherm」になっています。
「Pyroclor」というのも、三菱ですかね。

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