Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

時代を読む『GDP増大が経済発展か』 by 内山節

2011年01月30日 | 社会(歴史・都市計画含む)

本日の東京新聞に載った立教大学大学院教授で哲学者の内山節氏のコラムから:

時代を読む『GDP増大が経済発展か』

最近、比較的若い人たちの間で、ソーシャルビジネスへの関心が高まっている。実際、そういう企業をつくる人たちも、ずいぶん多くなってきた。ソーシャルビジネスとは、自分たちが大事にしたい社会的使命の実現を主目的にした、経済活動のことである。

私の友人に、盛岡市で農産物店を経営している人がいる。彼は元々は商社マンだった。その後、農家のためになる仕事がしたくなって、20年近く前にこの店を開いた。

朝早くから協力関係のある農家をまわり、作物を集め話し合いをしながら、農民たちの活動を支えていく。

店の目的は安全かつ安心でおいしい食べ物をつくっている農民が、持続的に農業を営んでいける基盤を提供することで、地域の消費者とともに地域農業を守っていくことである。だから利益が目的ではない。しかしこの使命を継続的にはたしていくためには、店の運営費や従業員の人件費なども確保されなければならないから、そのためのビジネスモデルは持っていなければならない。これもソーシャルビジネスの一つの形である。

今日フェアトレードといわれているものもそのひとつの形態で、途上国の人々がつくりだしたものを買いたたくのではなく、その地域の人たちが無事で持続的な生き方、働き方をつくりだせるように、一定以上の価格で購入するとともに、その地域の人々がもっている技術をいかして、先進国の人たちが求めているものをつくってもらう提案をする。このような流通、販売のあり方を、この活動を支持してくれている消費者とともにつくりだしていく、それがフェアトレードといわれる経済活動である。

ソーシャルビジネスには他にもさまざまな形態があるが、それはこの活動を支持してくれている人々とともに社会的使命を実現していこうとする、ひとつのビジネスのかたちなのである。

経済発展はイノベーションによっておこる、という理論を提唱したのは、60年ほど前になくなった経済学者のシュンペーターであった。

イノベーションとは、新しい技術の開発や生産方法の改革、新たな資源開発によってもたらされる経済的変革のことなのだが、この理論を応用すれば、ソーシャルビジネスもイノベーションのひとつだと言ってもいいだろう。

ただしその目的は経済発展にあるわけではないし、利益の増大にあるわけでもない。

人間達が経済の歯車にされてしまうのではなく、無事で幸せな社会をつくる。さらには自然とも調和しながら、持続できる社会をつくっていく。そのための改革運動が、今日ではソーシャルビジネスという名の下に展開している。

そしてこのような動きに関心を示す人がふえているのは、これまでのような経済発展をめざしつづければ、自然も人間の社会もますます壊れて言ってしまう、と感じる人々が増加している、ということだろう。

私たちはそろそろ、経済発展とかイノベーションという言葉の意味を、再検討しても良い時期にきているのである。GDP(国内総生産)を増大させることが経済発展なのか。それとも自然や人間が無事で、幸せな社会をつくるための経済を創造していくことが、本物の経済発展なのか。イノベーションは新たな利益創出のためにあるのか。それとも持続的な社会をつくるための方法なのか。

内山氏のコラムを読んで共感する人は、私も含めて多いと思います。

そうであっても、「それは理想に過ぎず、実際、政府も企業も方向を変えていこうとは思わないだろうし、ソーシャルビジネス活動家がいくら頑張ってもあまり効果はない。そもそも世界全体が変わらないと。」と悲観する人は、そのうち半分以上はいるのではないでしょうか。

現在、2、3歩外を歩くだけで足が折れる鶏のナゲットや、農薬や保存料のたくさん降りかかった遺伝子組み換えの安い作物(もしくは加工品)を、「安ければ良い」と喜んで食べているだけの人達は多いと思います。

それがめぐりめぐって安全な食べ物を供給しようとしている農家を潰したり、アフリカの農地を使い捨てにしていること、ひいては『安全な食べ物を特別なもの』に、自分たちが変えてしまっていることに気がつきません。

上記以外、何においても、一人ひとりが「政治家でなくても、ソーシャルビジネスをしなくても、消費者である自分たちが変わっていけば、社会を変えていける」と信じることから、『本物の経済発展』も『絵に描いた餅』ではなくなるでしょう。

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アドラーが好んだカエルの寓話

2011年01月29日 | 友人・知人

心理学者アドラーが好んだイソップ寓話に以下のようなものがあります。

“ミルクがいっぱい入った壷の淵を、二匹のカエルが跳び回っていました。

突然、二匹とも壷のなかに落ちてしまいました。

一匹は「もうおしまいだ」と泣きました。

ゲロゲロと泣いて、溺れ死ぬ覚悟をしました。

もう一匹はあきらめませんでした。

何度も何度も足をばたつかせて、とうとう、

もう一度足が固い地面に着きました。

何が起きたと思いますか?

ミルクがバターに変わっていたのです。”

この話を、以前、子供の頃に印象強く残ったイソップの別バージョンの蛙の話をもとに随想を書いた友人Bにメールで送りました。

友人Bが取り上げた方の蛙の話は、ずっと水を探して井戸を探し当てた二匹の蛙のお話です。

井戸を見つけた蛙たち、一匹は喜びその井戸に飛び込むことを決め、もう一匹は「ここで安易に水を求めて井戸に跳び込んだら二度と出られなくなる」という思慮深い判断をして、引き続き別の水がある場所を探し続け、結局水を見つけることができずに干からびて死んでしまうという結末で終わるもの。

友人Bは『ミルクの壷の蛙』を読んだ後、「この『ミルクの壷の蛙』も昔読んだ記憶がある。でもこういうのはよく聞く話。『井戸の蛙の話』はこれと違って、何十年経っても覚えていられるくらいのインパクトがあった。」という返事をくれました。

実はこの『ミルク蛙』のお話は『井戸蛙』のあらすじもそえて、友人N、友人T,友人Oにも送ったのですが、

日本の将来について私と語ることが多い友人Nは、「(『ミルク蛙』の話は)子供にも聞かせたいが、閉塞感漂う今だからこそ大人にも心響く話だと思う」と言い、食べ物に目がない友人Tは、「ミルクを蹴っただけでは、ミルクはバターにはならない」と突っ込み、スポーツが大好きな友人Oは、「何故蛙はミルクの中で泳げなかったんだろう」と疑問を呈しました。

私自身の感想は「『ミルク蛙』の話にしても、『井戸蛙』の話にしても、「助かった方の蛙達は『知恵』ではなく、『運』を持っていた。」と考えるのも、私が大人であるためか・・・。それでもまあ、『ミルクをバターに変えた蛙』のような楽観的視点の方が、インパクトは小さいですが、覚えておきたいです。」。

一つの寓話でも、読んだときに人それぞれ視点が違い、その視点の違いは、性格やその時の関心によって違うものなんだな(もちろん、ジョーク的要素を含んで感想を述べている部分も後者二人にはありますが、)・・・と妙なところで新しい発見をし、4人の性格を思って一人笑ってしまいました。

さて、『ミルク蛙』に話を戻しますと、この話をアドラーから聞いたことがあったアルフレッド・ファラウ哲学博士は、

「とても信じられない話のように聞えるかも知れませんが、ダッハウの強制収容所に入れられていた間、わたしは希望を失っていた大勢の人々にこの短いお話をして、彼らの心を揺さぶることが出来たのです。」

と『アドラーの思い出』(創元社)のなかで述べています。

(アドラーは『ミルク蛙』の話自体がこれほど人に影響を与えるとまでは思っていたわけではないでしょうが、『楽観-希望』が人に与える影響の大きさは、わかっていたのでしょう。)

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アルフレッド・アドラー

2011年01月28日 | 人物

「有名な心理学者の名前を一名あげなさい」という質問をしたとしたら、多分フロイト(Sigmund Freud18561939)の名前が一番多く回答され、二番目にはユング(Carl Gustav Jung18751961)あたりがでてくるのではないでしょうか。

フロイトと同じくオーストリア人でユダヤ人心理学者でもあったアルフレッド・アドラー(Alfred Adler,1870-1937)については日本ではほとんど話題になることはないと思いますが、彼の業績や研究は、フロイトやユングを凌ぐのではないか、と私は個人的には思っています。

彼の研究の一つに『共同体感覚』というものがあります。

以下のウィキペディアからの抜粋:

共同体感覚について、まったく初めての人に説明することは難しい。それは、ちょうど、実際に、自転車もなく、また、自転車に乗ったこともない人に、自転車に乗るということについて説明するようなことだからである。

共同体感覚が発達している人は、自分の利益のためだけに行動するのではなく、自分の行動がより大きな共同体のためにもなるように行動する。なぜなら、人間は社会という網の目の中に組み込まれている(Social Embeddedness)からである。それに対して、共同体感覚が未熟な人は、自分の行動の結末や影響を予測することをやめて、自分の利益だけしか目に入らないようにする。

仮に、極端に自分の利益のことだけにしか関心がない人がいるとしたら、その人は自分の利益になる場合にだけ、他人と協力する/他人を利用しようとするだろうと想像される。そうすると、他人が自分を必要とする場合というのは、他人がその人自身の利益になる場合にだけということになり、安心して所属することが難しくなるだろう。

このようにして、共同体感覚の未熟な人は、所属に問題を抱えやすく、不幸な人生を送ることになりやすいことになる。

共同体感覚について、アドラーは、「共同体感覚は、生まれつき備わった潜在的な可能性で、意識して育成されなければならない。」と述べている。それは、ちょうど自転車に乗れるようになる練習と同じことである。

自転車に乗れるようになるためには、実際に、自転車に乗って練習しなければならない。最初は、うまく乗れずに転んだりして失敗を繰り返すだろう。しかし、そのようにして練習をしていくうちに、特別に意識することなく自転車に乗れるようになるだろう。

同様に、共同体感覚を成長させるということは、共同体感覚とは何だろうと机上で考えることではなく、自分の行動ひとつひとつについて、「こうすることは、自分の利益ばかりでなく、相手のためにもなるだろうか。」「こうすることは、自分と相手の利益になるが、それはもっと大きいな共同体にとってはどうだろうか。」と、より大きな共同体のためになる方向を選択することである。

『共同体』と聞くと「『個』を殺す」や、「仲間、仲間以外という分類の世界」を思い描くことが多いでしょうが、『共同体感覚』というものは、突き詰めていけば、「自分を愛し、自分以外の人間(生き物)の価値観・意見を認め、理解し思いやることから得られる感覚」「人から一方的に与えられること(利害関係から理解や愛情まで)を期待しているだけでは得ることが難しい感覚」であると思います。

先日、友人Nと話をしていたとき、彼と彼のお子さん達が通ったカソリック系幼稚園(別に彼らはクリスチャンにあらず)の入口に書いてあった評語「人を大切にすること、自然を大切にすること、神を大切にすること、それは自分を大切にすること」が話題になりましたが、まあ、これも上記とほぼ同じことです。

アドラーの理論は、他のもとっつきやすいものばかりだと思いますので、ちょっと本屋や図書館で彼の本を探してみてください。

心理学の本が面倒なら、創元社の『アドラーの思い出』という、アドラーを知る人達の証言がありますので、こちらからでも。

アドラーですが、彼は彼の理論を別の人があたかも自分の理論のように借用されても怒ることもなく、逆に「理論を人に広めてもらって嬉しい」と喜んだといいます。

彼がフロイトやユングより有名でないのは、アドラーが彼らより劣っていたからではなく、(彼の弟子が戦争で亡くなったりしたことや彼自身が短命であったこともあるでしょうが、)彼が名声・名誉よりも『人類や社会のためにする実績』に興味があったせいではないでしょうか。

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目白視覚障害者の事故に対するルクセンブルクからのコメント

2011年01月23日 | 福祉・医療

ルクセンブルクに住む日本人の友人が、前回のブログ『目白駅、視覚障害者の事故は防げたはずなのに』を読んで、感想を送ってきてくれました。

彼は、日本社会から思いやりや暖かさといった人間性が失われていることを嘆くと同時に、

「柵の設置よりも監視カメラは設置されていないのですかね。パリのように監視カメラでホームを監視していれば、放送で注意を呼びかけることができたはずですし、また、駅員が見守ることもできたはずです。

ベルギー国鉄では、身体障害者には、駅員に乗降時の介添えを依頼するよう呼びかけています。

日本もバリアリーフで設備面の改善だけでなく、鉄道会社側でもっと気をつけるべきだと思います。」

と近隣国での様子を紹介してくれました。

以下は、私が彼に出した返事です。

「障害者や高齢者ではなく、普通の小母さんである私なども、東京よりパリやフランクフルトの方が、居心地がよくなる面があります。

それは、日本の大都市がアメリカのように、健康である若者が中心の町になってしまっているせいもあるのでしょうね。

また、日本人は身内(友人、知人を含む)+一部の外国人には優しいですが、それ以外の人達は大変冷たい、という特徴があると思います。

障害者といえば、先月、バスに乗ったとき、たまたま視覚障害者の方3名が乗ってきたのですが、彼らのために席をあけさせ、甲斐甲斐しくお世話をしていた女性2(2人共赤の他人で、視覚障害者の方達とも面識なし)に出くわしました。

私はバスの後部座席に乗ってみていたのですが、この内一人は、視覚障害者の方がバスを降りたあとも気にして面倒をみて、乗り換えバスのところまで案内しようとしていました。(実のところ、そこまで面倒を見る必要はないと思われましたが、視覚障害者の方は、ありがたく手を引かれていました。-視覚障害者を誘導するときは、手を引くのではなく、相手に自分の上腕を握らせる。)

その女性とたまたま目が会ったので、「慣れていらっしゃいますね。」と声をかけてしまいましたが、彼女は視覚障害者と接したことがないものの、「何とかしてあげなきゃ」と思ったそうです。

こういう人もいるにはいるし、いろいろな問題を気にかけている人はいるんですが、残念ながら、『目立つ行動を嫌う日本人』が多いですね。

タイガーマスク寄付があっと日本に広まったように、『障害者や弱者を気遣うことはかっこいい』という風潮も広まってほしいものです。」

ルクセンブルクの友人は、このあともまた下記の意見を寄せてくれました。

障害者ではないですが、欧州では、行き倒れの人がいて、手助けせずに無視して歩き去った場合には、犯罪になります。

日本のように無視した場合は、訴えられると罰金になります。交通事故でも、加害者だけでなく、そばにいる人も手助けが義務付けられています。人間として、生命に危険をさらされた人を助けるのは当然との考えがあるからです。

目白の事件も、そばにいる人が駅員に急報するなり、非常ベルを鳴らすなど助ける行動に出なかった場合には、犯罪として警察に訴えられる可能性が欧州では大です。日本では、なぜこのような基本的なモラルの法律がないか不思議です。」

私には、『基本的モラルの法律』があるのが当たり前の社会は不自然に思えるのですが(そもそもモラルも思想と同じで、法律で縛れないと思う。)、たとえば今回の事故のコメントで「視覚障害者は他の人の迷惑だから電車を使うな」といったような非人間的な言葉を見たりすると、「もうそこまでしなければならない時代になったのかな」とも思えてきます。

最後に、視覚障害者の誘導方法の説明があるリンクを参考までに貼り付けます。

(「何かお役に立てますか?」と訊いてくだされば、彼らがどうしてほしいか教えてくれるでしょう。)

http://home.c00.itscom.net/t2oho4no/fukusitaiken/yuudou/yuudou.htm

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目白駅、視覚障害者の男性の事故は防げたはずなのに

2011年01月20日 | 福祉・医療

先日、視覚障害者の男性が、目白駅のプラットホームから転落し、電車にはねられて亡くなりました。この時、同じく全盲の奥様がご一緒で、しかも時間帯は夕方の5時過ぎ。

この事件を受けてJRはプラットホームに柵を設置することを検討している、という記事を読みました。

それはもちろん推奨されることなんですが、その前に「この時間帯、この視覚障害者の夫婦に気をつけてあげる人はいなかったのだろうか。この時間帯だったらプラットホームには人は少なからずいたはず。しかも白杖をついた人が二人連れだったら、一人より目立ったはずなのに。」という声が上がらないことに、苛立ちを覚えます。

もうだいぶ前ですが、市の点訳赤十字奉仕団の会長から、

「視覚障害者の男性が、毎日通勤に電車を一人で利用していた。しかし、その日電車は若干ずれた位置に停車。その視覚障害者の男性はそれに気がつかず、いつもと同じ場所から電車に乗り込もうとしたが、そこは乗り口ではなく電車の連結部。彼はそこからホームに転落して亡くなった。

その時間帯は朝の通勤ラッシュ時。人はたくさんいたのに、彼に声をかけて間違いを知らせることさえする人もいなかったのだ。」

というやりきれない話を聞いたことがあります。

今回もその時と同じく、周りの人が無関心であった為、転落事故を防ぐことができませんでした。

無関心ではなくても声をかけられない人もいるにはいます。

視覚障害者の話ではありませんでしたが、以前、兵庫のゆかりMさんが、

「障害を持った男性の年配者が転んだので、とっさに声をかけたんだけど、凄い顔で睨まれて・・・。それ以来、声をかけるのを躊躇うようになった。」

と言っていました。

この時私は、

「障害を持った方の中には、街でジロジロ見られて不愉快な思いをしている人もいると思います。

健常者であっても、人前で転んだりしたとき、痛さよりも恥かしさの方がまさり、「大袈裟に騒がれたくない」と思う人がいますが、それは彼らとて同じこと。

それに加えて彼らには『哀れみを受ける屈辱』を感じてしまう人もいるでしょうね。

でも、きっとそのおじいさんはその時は必死だったけど、後で心配してくれたゆかりさんに感謝しているのではないかな。」

と返事をしましたが、本当に、その気遣いや一言が、命を救うことだってあるのです。

駅や危ない箇所で障害のある方、それから高齢者を見かけたらそっと見守り、もし少しでも困っていそうだったら、「何かお手伝いできますか?」と自然に声をかけること-それが当たり前の社会になって欲しいと願います。

(余談ですが・・・私の友人の視覚障害者の女性は、買い物に行くと親切な店員さんと出会うことが度々あるようです。でもなかには、ずっと年上の彼女に向かって、まるで小さな子供相手のような口ぶりで話す人もいるようです。これは患者を子供扱いする看護師さんが時々いるのと同じですが、共に不思議です。)

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自己中心的な財界が唱える『小さな政府』

2011年01月12日 | 経済

経済同友会が11日に、10年後のあるべき日本の姿についての提言『2020年の日本の創生』を発表しました。

「消費税率17%、廃県置州、国会定数削減、農地の大規模化・・・。」

そして、経済同友会の桜井正光代表幹事(リコー)は、インタビューのなかで「財政出動をあまり求めない、小さな政府を要求したものだ」と説明します。

『小さな政府』とは、「政府・行政の規模、権限を出来るだけ小さくする」という意味で、いわゆる小泉元首相・竹中平蔵路線です。

先日、『小さな政府』『市場原理主義』について、友人Nと話をしていましたが、その中で私は、

「『小さな政府』が成り立つのは、企業が『企業の社会的責任(CSR)』をきちんと意識して行ってこそだと思います。つまり、持てるもの(富豪~エリート)が、社会的責任を負うから、自由資本主義はなりたつ、ということ。

米国では富を持った人が巨額の寄付、社会的貢献をしたりしていて、彼らのなかには、その社会的貢献がビジネスの原動力と感じる人もわずかながらいます。

現在は大分様子が違ってきているので怪しいところですが、そういう国が『小さな政府』を求めること-それは理解できます。

その反面、日本では米国とは違って、大富豪と呼ばれる人もいなければ、巨額な寄付をする人もいません。そのかわりと言っては何ですが、日本では『終身雇用』が、最大のCSRとなっていました。

しかし、それも現在はくずれ、平気で派遣社員の使い捨てや、人員削減。
CSRは日本でも今脚光を浴びつつありますが、これはまだまだ嘗てのQCサークルレベル。これで『小さな政府』を唱えるのは、ちょっと自己中心的な話だと思います。

(ついでに法人税引き下げやらなんやらも財界人は政府にプレッシャーをかけたりして、自分達に有利になることばかりしています。)」

と意見を述べました。

「経済主導の政治は、国を誤った方向に導く」と言われることもありますが、日本が斜陽してきたのは、財界人が政治家に対して与える影響が大きくなりすぎたせいもあると思います。(政治家の質が落ちたので、財界人だけを責められませんが。)

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Pay it forward-ボランティアのNさん

2011年01月10日 | 友人・知人

昨年暮れからタイガーマスクさん達の養護施設へのランドセル等のプレゼントのニュースが現在までの8件。

暗いニュースが続くなか、心が温かくなるニュースです。

“善意のリレー”といえば、2000年のアメリカ映画『ペイフォワード(原題:Pay It forward)』を思い出します。この題名は、教師(ケヴィン・スペイシー)の問い、「もし、自分で世界を変えたいとしたらどうする?」に対する、生徒のトレバー(ハーレイ・ジョエル・オスメント)の意見です。

トレバーが考えたのは、「自分が誰かに善意を受けたら、それを次の三人に手渡す」ということでしたが、こうした“善意”は、当事者のみならず、“善意の場面”を見聞きしたり、“善意の人”とふれあうだけの人にも影響を与え、(ほんの少しであっても)世界を変える役割があると思います。

さて、善意の人といえば、私がボランティアセンターで仕事をしていた時にもこうした善意の人達と何人もふれあいました。

ボランティアをしている人は基本的に皆善意だとは思うのですが、大きなグループなどには自分の名誉欲、支配欲を満足させたがる面がある人がいたり、時々本末転倒な人も見かけたりはしました。

そんななかにあって、私がセンターにいた時に、心底尊敬し、慕っていたNさんという女性がいました。

そのNさんは80代の大変控えめな方でしたが、市の点訳赤十字奉仕団で副会長を勤め、頑張るあまりに突っ走ってしまう会長(彼も大変すばらしい人です)をサポートしながら、うまく操縦もするような、内助の功の見本のような女性。

私がボランティアセンターにいた時は、人間関係や業務のイザコザ、そして心を病んだ方や、困窮者の相談に乗ったりしたときに、自分自身がぐっと落ち込んでしまうことがありました。Nさんはそんな時、私の元気がない様子をいち早く察知して励ましてくれたり、時には私を廊下に呼んで、「職員にいつもお世話になっているから、皆で食べなさい」と言って、職員全員が食べきれないくらいのケーキを買ってきてくれたりしました。

(センターの職員はタダ働きであるボランティアさんがいて初めてお給料を貰っているのに・・。当然これは毎度お断りをしていましたが、彼女はけしてやめませんでした。)

退職する時に、小さな体で、私をぎゅっと抱きしめてくれたNさん。私は退職後も3,4年はごくたまに活動場所に顔を出していましたが、もう最後の数回はNさんはいらっしゃらず、「Nさんは体調を壊されたので、最近はご自宅で点訳活動をされている」ということを他の団員から聞くばかりでした。

そして、そんな彼女が亡くなったことを、買い物先でばったり出くわした団員の方から伺ったのは昨年秋。

彼女の話によると、Nさんはあれからしばらくして点訳赤十字奉仕団を退団。その後自宅静養しつつ、昨年短い入院期間を経てまもなく亡くなられたとのことでした。

入院のことも、亡くなったことも、たぶんNさんの口止めがあったのでしょう、点訳赤十字奉仕団の会長にも何も知らされていなかったのですが、偶然、この会長が他の知人の葬儀に斎場に出かけたときに、その隣でこのNさんの名前を発見。遺族の方に聞いて、それがNさんの葬儀であったということを知ったそうです。

Nさんは入院してそんなに苦しむことなく亡くなられたそうですが、ご自分の寿命が分っているかのように、出来る限りの点訳の仕事をし、そしてすべてを綺麗に整理、次の題に引き継がれていきました。

彼女は静かで控えめで、本当にごく普通の小柄なご婦人でしたが、多くの視覚障害者の人達、そして団員達、そして職員達、家族はもちろん、周りの人達に彼女が与えたことは多かったと思います。

彼女を知った人は、自分も、きっと次世代にも彼女が持っていたものを残そうとするでしょう。

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ベトナム向宇宙事業がODA対象!?

2011年01月03日 | 国際協力・プロジェクト

元旦の東京新聞の記事に以下のものがありました。

『宇宙事業もODA対象 政府、ベトナムに円借款へ』

政府が、政府開発援助(ODA)の対象に人工衛星導入など宇宙事業を加える方針を固めたことが三十一日、明らかになった。第一号案件として、衛星の打ち上げを計画しているベトナムに円借款を供与する見通し。近くベトナム政府にこうした方針を伝え、日本企業への発注を要請する。

 政府はこれまで、宇宙事業は途上国の貧困削減を主な目的とするODAにはふさわしくないとして対象に認めてこなかったが、欧州各国がODAで産業界を支援していることを踏まえ、方針転換した。宇宙事業で日本は欧米勢に水をあけられており、新興国の小型衛星需要を照準に官民一体で売り込みを加速する。

 ODAのうち円借款は途上国政府に低利、長期の資金を貸し付ける制度で、技術力のある日本企業の受注を優位にする。方針転換には当初、外務省が難色を示していたが、インフラ関連輸出に積極的な前原誠司外相の就任を機に修正したもようで、外務、財務、経済産業各省による調整が大筋で決着した。

ODA-Official Development Assistance(政府開発援助)とは、その名のとおり、途上国政府が開発する手助けを援助することです。なので、上記の記事を読んだときは、怒りさえ沸いてきました。

ODAには、無償援助(=贈与)、技術援助、そしてグラントエレメント(贈与率)25%以上の有償援助『円借款』があります。

今回の供与は『円借款』ということですが、(たぶんこの宇宙事業については日本の企業だけが入札できる『タイド援助』にすると思うので、)日本の大企業が大規模プロジェクトを受注するのを助けることになると同時に、低金利とはいえベトナムに借金を背負わせることでもあります。

もちろんこれだとJBICから借りるよりは金利は低いので、ベトナム政府としてはありがたくもあるでしょうが。(こうした前例を作ると、今後が怖いと思いますけどね。)

前回のブログ『英語ができない政治家達が国際化を叫ぶ』のなかに、「政治家は官僚の力を借りないと何もできない」と書きましたが、今の時代、「官僚達以上に政治家に影響を与えるのは、財界人」というのが正しいかもしれません。

(流石に、前原外相も今回はODA供与国以外も入札できる『アンタイド援助』は考えていないでしょうが、また“親分国”の圧力でもあれば早々に屈しそうです。「日本の政府が財界人より怖いのが、“親分国”」だと思います。)

ODAは、もちろん理想や綺麗ごとだけをうたっているわけではなくて、『試供品的役割』、『人的繋がりを作る』『インフラなどを開発して、次のプロジェクトを生みやすくする』『軍事協力の代わり』などという供与国側の計算もあります。

それ故、(日本からの)ODAは、本当に貧しいアフリカなどより、将来良いお客様やパートナーとなるアジアの国々に対する供与が多くなっていますし、そしてまた、相手国の国民達が本当に欲しいものよりも、借金を負わせながら、『お金になるプロジェクト』『住民達がありがた迷惑と思うプロジェクト』を進行させることもあります。

私は、ODA全体を非難するつもりは毛頭ありません。しかし、『宇宙事業に円借款』に関しては多いに疑問です。喜ぶのは利害関係者だけではないでしょうか。

昔、某国に観光用の橋を作るプロジェクトを担当していた知人が「住民は、あんな立派な橋より、井戸を作って欲しいのにな。」とつぶやいていましたが、こういう現実は半永久的に変わらないのでしょう。

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