Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

国を飛び越えて就職

2008年04月28日 | 友人・知人

友人の長男は大学4年生。大学のレベルも高く、成績も優秀(TOEICも800点台)、しかも積極性のある青年です。

そんな彼は今就職活動中ですが苦戦を強いられています。見守ることしか出来ない友人は気が気ではありません。うちの息子はまだ高校2年生なので就職より前に大学進学が控えているのですが、いずれにしてもそのうち私も友人と同じ思いを味わうのかと思うと、ちょっと憂鬱になります。

さて、若者の就職難、失業率が高いというのは別に日本に限った話ではありません。また、(サラリーマンを目指す人であれば)どんな会社でも引っ張りだこの人、大企業に拘らなければいくらでも就職できる人、何処の会社でも採用したくない人がいるというのも、どの国でも同じでしょう。

ただ、就職に関して欧米の友人と話していて特に違いを感じるのは、「彼らはしたい仕事と条件の為ならば、外国や現在の土地を離れることをそんなに大袈裟に考えないのではないか」ということです。日本では、地方の人が就職の為に大都市にでてくることはあっても、その反対はあまりなく、ましてや国を飛び越えて就職をすると言う発想はあまりないでしょう。

欧米の友人達から聞いた話をいくつか上げましょう:

①フィンランド人のJのバンド仲間の若いカップルは、フィンランドからスイスに新しい職を見つけスイスへ、

②彼の知り合いのブルガリアの女性は旅行中のフィンランド人と恋におちブルガリアを出てからフィンランドで就職、

③マルタ人のEの弟はベルギーに就職、(仕事ではありませんが、彼の妹はイタリアに移住)、

④ドイツ人のHの両親は彼女が小さいころにドイツからスペインに仕事を見つけ移住(Hは本国に帰ってきていますが、両親や兄妹はそのままスペインに移住)、

⑤カナダ人のMは彼が16歳のころ両親がドイツでの仕事の為一家でドイツに移り、数年前彼と両親はまたカナダに戻ってきました。しかしMの妹はオランダで職を見つけ、弟はドイツで就職。実はMもドイツに残りたかったのですが、就職先がないことなどからカナダにUターンしました。しかし彼は「いずれまたドイツでリベンジ」と言っていました。

このことを話していたとき、フィンランド人のJが

「欧米人にとっては昔から、“音楽の勉強のためにウィーンへ”“絵の勉強の為にパリへ”と自由に行き来していたから、今でも国境を越えること自体に抵抗がないのかもしれない。ま、言葉の壁はあっても、文化は大差ないしね。」

と言っていましたが確かなのでしょう。

それに、もしかしたら「日本は農耕民族でその土地から基本的に離れたがらないが、西欧人は狩猟、放牧をして暮らしてきたので獲物や牧草を求めて移動してきたので、移ることに免疫ができている。」という面もあるのかもしれません。

いずれにしても、仕事、就職先の選択肢が多いことは当人にとっては良いことなのでしょう。(外国人が来て仕事をするために、その国の人がまた外国に・・・という問題もありますが。)

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いつも前向き

2008年04月22日 | 友人・知人

日本に来ているデンマークのミアさんからメールが入ってきました。

現在金沢にいるけれど、持病の喘息がでてしまったので、東京に戻りしだい帰国することになると言います。それで残念ながら今回の旅行で彼女と会うことは出来なくなってしまいました。

それにしても昨年夏から彼女はついていません。「厄年」というのを私は信じませんが、それでも彼女についてはこの言葉がちらりと頭をかすめます。

ミアさんは昨年の夏には肺炎にかかり、やっと治って外をサイクリングしていたら、東アジアの某国の外交官の息子にひき逃げされ肋骨と足を骨折、そして今回日本に来る直前に中耳炎(中耳炎と書きましたが、彼女の説明だともっと性質の悪い耳の病気らしい)で出発を遅らせ、そして喘息でまた予定変更。

さて、この外交官の息子のひき逃げ事件ですが、これは車のナンバープレートが外交官のものであったのを目撃していた人がいたこと、それとぶつかる直前に運転席の若い東洋系男性をミアさんが見ていたことなどもあってすぐ犯人は特定されたそうです。

しかしそれにもかかわらず、このひき逃げの犯人は罰せられることがなかったのです。

外交官とその家族には“外交特権”というものがあって、赴任地で罪を犯しても(その国で)罰することができないのです。なんとも理不尽なことでしょう。極端な話、殺人を犯しても許されるということなんでしょうか?

いつも大らかな彼女もさすがに犯人と外交特権に腹を立てていましたが、「私はどんなときにも良い面を見ようとします。私はこれほどの事故で骨折だけで済んだことを喜ぶべきでしょう。少なくとも命に別状はなかったのですから。

話しは違うけど、私は来月、アイルランドに研修に行けることになったんです。Good newsでしょう!」

と、落ち込んだ様子もありませんでした。

今回の喘息も辛いだろうに、自分の旅行が如何にエキサイティングであるか、そして日本を非常に気に入ったかをハイテンションで綴ってきた彼女。

きっと「喘息で旅行を中断しなければならないけど、これはまた精気を養って日本を再訪しなさい、ということだわ。」とでも思っているのだと思います。

彼女には次回会えることでしょう。

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異端児の孤独

2008年04月16日 | 友人・知人

翌日、前夜の往診で痛み止めの注射を打ってもらったのと針治療が効いて良くなったというHは一緒にドイツに向けて出発できることになりました。

早朝タクシーでHがアパートからやってきて、ホテル前で私を拾い、ドイツ方面の列車が到着する東駅に。

タクシーの後部座席にどっしり座っているHは黒のコートに身を包み、取っ手が金の細工になっている中東の杖を持っていました。そして彼の癖のある髪の毛、浅黒い顔に髭。態度が尊大なこともあって、アラブ人の権力者のような面持ち。とても日本人には見えず、実際、不審者扱いを受けることもあるといいます。

パリからフランクフルトはICE(Inter City Express)で3時間49分。

Hのチケット予約が間際になったため、車両も座席もばらばら。駅の窓口で座席を変えてほしいと係員に交渉するも、冷たく断わられました。

「ハンディキャップと言って、もう一回聞いてみて。」

私が窓口で断わられるのを見たHが大きな声で叫ぶので、私はまた窓口の列に戻りました。先に並んでいた若い女性が様子を見ていて、私に先を譲ってくれようとしました。その親切さと対照的に、先程と違う係員も冷たく「出来ない」と言うだけ。Hはそれを見て「弱者に優しくない国だな。」と吐き捨てるようにいいました。

まあ、後で考えてみると、私たちのチケットはドイツ国鉄のホームページで買ったものであったので、変更できなかったのはそのせいだったかもしれません。しかし、それならそう説明してくれるべきでしょう。

それでもICEに乗り込んだあとHの座席の隣の人に席を替わってもらうことができ(今回は1等車だったため、空席がいくつかあった)、私たちは並んで座れたので結果オーライでしたが。

「日本に帰ったら、きっと違和感があるだろうな。」

昨夜アパートで話していたときに私が感じたように、彼は長い海外での生活や世界各国の人達と仕事をしてきたことが、自分に大きく影響を与えていることを気がついているのでしょう-列車で朝食後のコーヒーを飲みながら、Hはふとつぶやきました。

先程の窓口の粘ったように、現在の彼は日本人にありがちな「ま、いいか」で物事を済ませません。彼は「おかしいことはおかしい」と言い、そしてそれを改善しようと努力します。

若い頃からそういう部分はありましたが、数回の海外勤務がさらに磨きをかけました。

その姿勢は、彼のものの見方とそれに基づく行動の指針となりますが、それは「なるべく波を立たせない」「長いものに巻かれろ」という性質の人間が多い日本では少し浮いた存在なのかもしれません。信念、自信があってできることでありますが、時に孤独を感じることもあるでしょう。

そうは言っても、前夜「やっぱりどこよりも日本は優れている」と望郷の念にかられていたH。 異端児も、母国を愛する気持ちは強いのです。

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16年ぶりの再会 2

2008年04月15日 | 友人・知人

さて、アパートの門はHが何度かいじくっているうちに開けることが出来たので、私たちはそのまま時代物のエレベーターに乗り、彼の部屋まで上がりました。

彼の部屋は家具つきで、リビング、寝室、キッチンとバスルームの1LDK。明るい上品な感じのインテリア。

「一週間に1回、お掃除の小母さんを頼んでいて、昨日来てくれたばかりだから助かった。」

意外と(?)きれいに整頓された部屋に感心しているのに気がついてか、Hは恥かしそうに言いました。 

窓の外のアンバリッドのドームの黄金の屋根に陽光が反射し、緑の芝無と街路樹がそれを優しく包み込んでいます。前の道路で信号待ちをしているポンコツ車でさえが、その中に溶け込んで絵になります。

そんな部屋に、から揚げ弁当としゃけ弁当はミスマッチではありましたが、ま、お弁当を嬉しそうにほおばるHの姿に免じて許しましょう。 

Hと私はもう20年以上前に机を並べただけで、今回パリに来るにあたって彼に連絡をしようとは思っていませんでした。しかし、私のよきディスカッション相手のT(フランクフルト在勤)がHの同期であることから、連絡を取るように勧めてくれたのです。 

しかしまあ、メールをまめに返してくれるTに対して、Hはメールの返事は5本に1本程度というほど不精メール。今回の旅行の連絡でも、一番最初にパリに行くという連絡の後の返事と、「パリからドイツに入りたいけど一緒いかない?」という私のずうずうしい誘いに対する前向きな返事はすぐくれたものの、連絡は途絶えがち。私もドイツで迎える側Tもこれには困っていました。 

Hの足のことを空港からホテルに到着してすぐ知った私は、その後すぐTに電話をいれ、

「Hさんの足のこと聞いた?」

と尋ねると、ほんの少し前にそれをH本人から聞いたTは、

「聞いたよ。君、今日の夜はどうするつもり?ドイツにHは来られるのかな。散々だね。」
Hの足の心配より、私の旅行が駄目になることを心配していました。

事前に1から10まで抜かりのないように計画をたて、細かいことまで気を配るT。その正反対のH。
この日も私がきちんとHの元に到着したかどうか気になるTは仕事中にもかかわらず、Hに国際電話をかけてきて私の無事を確認します。

電話でTに嗜められたこともあり、Hは私に、「オルセー美術館にでも行ってきたらいいよ。その後近くのレストランに出かけよう。」と言ってくれましたが、話し出したら止まらない私達は、アンバリッドが夕日に沈み、やがてはライトアップされるのを窓越しに眺めながら、延々話続けました。

かつて冗談を言い合った若い同僚も、今や国際金融、エネルギーのエキスパートとなり活躍中。彼の見解、今までの経験についての話は面白く、口下手な方だと思っていた彼の話は飽きませんでした。日本語で思う存分いろいろな話がしたかった彼に私が付き合った形でもありましたが、同時に彼は知りたがりの私の餌食でもありました。

とうとうその日は、私が薬局に彼の薬を買いに行った時間と、夜に医者が往診した時間を除けば、ずっとしゃべりっぱなしでした。レストランに行くのも忘れてずっと。

翌日はもうパリをたたなければならないけれど、このひと時はどんな観光をするより「パリらしい時間」を過ごせたような気がします。

ともかく、HとTという素晴らしい友人達に感謝。

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16年ぶりの再会 1

2008年04月14日 | 友人・知人

「お久しぶり。お元気そうで。ところで申し訳ないけど、不測の事態が発生して・・・」

パリのホテルにたどり着いて、ホテルから携帯に電話をかけると、パリ在住の友人Hが困った声を出しました。

仕事が忙しくなって残業になってしまったのか、出張でも入ってしまったのかと思って言葉を待つと、実は連日の業務の忙しさ(私のドイツ行きに付き合う為の休暇をとるために連日激務だった)のせいか急に膝の関節が腫れてしまい、医者に見せたら水がたまっているとのこと。今日は痛さの為仕事は休み自宅にいて、明日も家から出られる状態ではないと言います。

「今日はこれから出かけるのは無理だけど、明日の昼にでも薬局で車椅子を借りてくるか、松葉杖を買ってアパートまで来てくれないかな。そうしたら昼に行きたがっていたレストランにお付き合いできると思うので。」

フランス語は出来ず、英語も基本的なことしか話せない私にそんな高度なことを頼むというのに呆れながらも、そこまでしてレストランに連れて行ってくれようとしている気遣いはわかりました。彼に何か食べ物を買ってアパートに届けるから一緒に食べましょうと提案。

最初は遠慮していた彼も「何が食べたい?」という私の質問に、「だったら、日本食のお弁当屋でから揚げ弁当を買ってきてくれるとうれしい。」。

もうじき50歳になろうとしているのに未だ独り身のH。足が痛くて買い物にも行けず、食料品は底をついてしまったという彼に私はたぶん天使の使い(?)に思えたに違いありません。

翌朝は午前中に目的のルーブル美術館で3時間ほど過ごしてから、オペラ座近くにあるお弁当屋で彼が希望したから揚げ弁当と自分用のしゃけ弁当を買い、アパートまで歩いていくことにしました。

「メトロでもいいけど、歩いてもそんな距離ではないし、それに歩いてきた方がわかりやすい。」と彼が言っていたこともありますが、真っ青に晴れ渡り心地よいこの日は、散歩にもってこいの日でした。

25年前に訪れたパリは恐ろしく感じ、人々もギスギスして見えてあまり好きになれなかったのですが、今回は「から揚げ弁当としゃけ弁当が入った袋の魔術」か、自分が町に溶け込んでいる気がして、一人でも全く怖いと感じませんでした。

また、街行く人々に道を尋ねながらの散歩でしたが、私の見る目がかわったのか、出会った人々は皆気さくで親切。

嘗てある有名作家も住んでいたというHのアパートはアンヴァリッドの目の前。予定を大幅に遅れて到着し、門を探そうと庭の柵沿いの道を歩いていると、上の方から「おーい」という声がします。

声のするほうに顔を向けると、髭面の怪しい日本人らしき男性がニコニコ笑って部屋の窓から手を振っています。窓辺に座って、私が現れないので心配していた様子。

Hと会うのはもう16年ぶり。彼はパリで駐在員をし、その後は中東駐在員、そして今度はパリのある機関に出向になったため、かれこれ外国暮らしも7年。髪に白いものが混じり、恰幅はよくなっていても、そこには昔と変わらぬままのHがいました。

Hの部屋まで行くのに、門に暗証番号を入れて、建物の表玄関でもう一度別の暗証番号、そして玄関ホールに入るのにまた一つ暗証番号を入れなければなりません。

暗証番号はすでに聞いていたので、門で入力するのですが、門が開きません。

「門が開けられない!」

大きな声でHに向かって叫ぶと、「引くんじゃなくて、押して入るんだよ。暗証番号の後にカチッと音がしない?」

確かに音はするし、きちんと押しているのに門はびくともしないのです。結局彼が痛い足で無理して下まで降りてきてくれることに。

(彼が降りてくる間に、門の前に立っている私を見かけた通行人の女性が、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれました。「友人が今降りてくれるのを待っている。」と答えると、彼女はにっこり笑って安心したように行き過ぎました。やはりパリの人は親切になった?)

門の隙間から、アパートの表玄関が開き、Hが杖をつきながらやってくるのが見えました。

「やあ、変わらないね。」お互いちょっと照れたように挨拶を交わしたあと、彼は門を開けようとしましたが、やはりビクともしません。

「あれっ?確かに駄目だな・・。たまに電気系統がおかしくなるんだよ。」

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隣席のフランス人

2008年04月11日 | 旅行

4月3日から8日までの「初めてのお使い」ならぬ「初めての一人旅」も無事行って帰ってきました。

まあ、現地では友人達と一緒だったので、厳密な意味で言えば「一人旅」とはいえませんが、一人で飛行機に乗って外国に行くこと自体(国内旅行でさえ一人でしたことがない)は初の経験でした。

外国に行く楽しみは、現地の人や、見ず知らずの人と触れ合うことです。その第一歩が飛行機ですが、今回は一人ということもあって特に「隣席が良い人に当ると良いな・・」と願っていましたが、その甲斐あってか、日ごろの行いが良い(!?)せいか、願いが叶いました。

飛行機の隣の席は、日本で働いている家族に合いに行った帰りの50代と見られるパリ在住のフランス人。英語もほとんど通じないし、飛行機もあまり慣れていない様子。私はフランス語ができないので言葉によるコミュニケーションは取れなかったけど、表情や身振り手振りで彼女と意思の疎通を図りました。

ファッショナブルな外見と裏腹に案外そそっかしい彼女。機内食の蕎麦についていた麺つゆをメインディッシュにかけてしまったりしていました。

私は自分の食事に忙しくて、それに気がついたのは彼女がメインディッシュを食べ終え、蕎麦のケースを開けようとした時です。蕎麦の食べ方をレクチャーしようと彼女のトレイを見ると、麺つゆの袋はもう使われていた後でした。

身振りで、「麺つゆをスチュワーデスさんに貰いましょうか?」という私に首を降る彼女。「大丈夫よ」という感じで何もかけない蕎麦を一口食べて首を振り、苦笑いしていました。

(それにしても、日本の航空会社も日本の食べ物を出すときは何かしら簡単な説明書をつけるか、もう少しわかりやすく配置する必要があるのでしょう。実際きちんと麺つゆを使った日本人でさえ、蕎麦を食べ終わってからパンの下敷きになっているわさびや刻みのりを発見していた人も少なくなかったようです。)

それ以外にも、機内食のお寿司のビニール袋と格闘しているのを助けたり、スチュワーデスさんとの間で通訳したり(考えてみれば彼女はフランス語でスチュワーデスさんに話せば良いと思ったんですが、とてもシャイな人のようでした。)、言葉ができなくても彼女とは楽しい時間を過ごせました。

何より素敵だな、と思ったのは、目が合うたびに彼女の顔に広がる笑顔。日本人の照れ隠しのような曖昧な笑顔とは一味違った笑顔です。

彼女と言葉が通じればもっと楽しかったかもしれませんが、言葉が通じなければ通じないでも何とかなるものです。ま、お互いが一人旅だったから出来たことでもあるでしょう。

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