Various Topics 2

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※旧Various Topics(OCN)

イエズス会の神父が作った外交学院がCSIS・参考にされたカール・ハウスホーファー(?)

2022年08月13日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

前回、

岸田首相の背景・ワールドメイトとパシフィックフォーラムCSIS - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

を書きましたが、なんで新興宗教の教祖がCSISに食い込んでいるのか不思議に思い、改めてCSISのウィキペディアを調べてみると、そもそもCSISがイエズス会の神父が作った「外交学院」であったというのに気づき、驚かされます。

 

戦略国際問題研究所 - Wikipedia

戦略国際問題研究所(せんりゃくこくさいもんだいけんきゅうじょ、英語: Center for Strategic and International Studies, CSIS)は、アメリカ合衆国のワシントンD.C.に本部を置くシンクタンクである。

(中略)

「ジョージタウン大学戦略国際問題研究所」は、イエズス会の神父エドマンド・アロイシャス・ウォルシュ(英語版)(Edmund Aloysius Walsh、1885年10月10日 - 1956年10月31日)が、1919年に同大学内に創った「エドマンド・A・ウォルシュ外交学院」が改組されたものである。ウォルシュは地政学者カール・ハウスホーファーの弟子であり、その学問をアメリカに移植することを目的とした組織であった。

設立にあたっては、アーレイ・バークおよびデイビッド・マンカー・アブシャイア(David Manker Abshire)[注釈 1]が主導[注釈 2]。1987年にジョージタウン大学から独立した研究機関となった。設立の経緯から、アメリカ陸軍などアメリカの国家安全保障グループとの繋がりを強みとする。

(中略)

日本との関連

日本人では小泉進次郎や、浜田和幸、辻清人、渡部恒雄などが一時籍を置いた。現在では日本から多くの将来有望な若手官僚や政治家(候補含む)がCSISに出向して学んでくる慣習が確立している。日本部には、防衛省、公安調査庁、内閣官房、内閣情報調査室の職員の他、日本貿易振興機構や損害保険会社、日本電信電話の職員も、客員研究員として名を連ねている。

CSISは日本では公益財団法人東京財団(日本財団の下部組織)と協力関係にある。東京財団の他にも笹川平和財団、特定非営利活動法人世界開発協力機構が、パシフィックフォーラム CSISを通じてフェローシップ・プログラムの提携を行っている[6]。また、2011年には日本経済新聞社と共同で「日経・CSISバーチャル・シンクタンク」の創設を発表し、2012年に立ち上げた。

稲盛財団理事長の稲盛和夫は国際評議員を務め、2002年4月1日には政界・経済界等の若手リーダーを養成するための設立基金500万ドルを財団から寄付し、「アブシャイア・イナモリ リーダーシップ・アカデミー」(Abshire-Inamori Leadership Academy:略称AILA)をCSIS内に共同で設立した[7]。パシフィックフォーラム CSISでは、半田晴久と稲盛の他、オリックス元会長の宮内義彦が日本在住の理事を務めている[8]。

CSISは日本の子宮頸がんワクチンの接種、推進に関する報告書[9]の発行なども行ってきている。

(後略)

 

Edmund A. Walsh - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

神父。 Edmund Aloysius Walsh、S.J. (1885 年 10 月 10 日 - 1956 年 10 月 31 日) [1] は、アメリカのイエズス会のカトリック司祭、作家、地政学の教授、および米国で最初の国際問題の学校であるジョージタウン大学外交学校の創設者でした。 彼は 1919 年 (米国外務省自体が存在する 6 年前) に学校を設立し、最初の摂政を務めました。

(中略)

国際情勢
ウォルシュは 1922 年にローマ教皇飢饉救援団をロシアに派遣し、バチカンに聖アンドリュー ボボラの聖遺物を確保することに成功しました (これらは実際にはウォルシュの助監督ルイス J. ギャラガーによってローマに運ばれ、彼は後に本を書きました)。ウォルシュとボボラの両方について)[7][8]

その後、ウォルシュはバチカンを代表して、1929 年にメキシコの教会と国家の間の長年の問題を解決するために働き、1931 年にバグダッドにアメリカの高校、バグダッド カレッジを設立するためにイラク政府と交渉しました。

第二次世界大戦で連合国が勝利した後、ウォルシュはニュルンベルク裁判で合衆国法務長官の顧問を務めました。彼の任務の 1 つは、ドイツの地政学者カール・ハウスホーファー将軍を尋問して、彼が戦争犯罪で裁かれるべきかどうかを判断することでした。国際政治に関するハウスホーファーの理論は、ホロコーストを正当化するのに役立ったと言われています。

ウォルシュは、1922 年の飢饉救援活動の影響もあり、強い反共産主義者でした。ウォルシュは、反共産主義の作家および修辞学者として広く知られるようになり、誤って、上院議員を最初に説得した人物であると噂されました。マッカーシーは、共産主義者が合衆国政府と娯楽産業に侵入したこと、そして彼が政治的重要性を得るために反共産主義の問題を利用すべきであると述べた[9]。ウォルシュはキャリアを通じて反共産主義思想を精力的に推進した[10]。

 

なんと、掲げた目標はヒトラーと同じだった?(しかも、彼も神秘主義ですか…。)

ヒトラーもウォルシュも反共だたので、その辺は相反しますが。

カール・ハウスホーファー - Wikipedia

抜粋:

カール エルンスト ハウスホーファー (1869 年 8 月 27 日 – 1946 年 3 月 10 日) は、ドイツの将軍、教授、地理学者、政治家でした。 彼の学生ルドルフ ヘスを通じて、ハウスホーファーの地政学の概念は、アドルフ ヒトラーの拡張主義戦略の発展に影響を与えました。 彼は、ヒトラーが我が闘争で採用し、世界的なナチスの拡張主義と大量虐殺を動機づけるために使用された、レーベンスラウムという用語の政治的使用を作り出しました.[1] ニュルンベルク法の下では、ハウスホーファーの妻と子供たちはミシュリンゲに分類されました。 彼の息子、アルブレヒトは、ヘスの助けを借りてドイツの血液証明書を発行されました。(注:ミシュリンゲ:ユダヤ人の血をひくもの)

(中略)

第二次世界大戦期を通じて連合国の間では、ハウスホーファーがヒトラーの侵略政策に大きな影響を与えたという見方が広まった。ドナルド・ノートンはこうした見方をされたハウスホーファーを「ヒトラーの悪魔的天才(Hitler's evil genius)」と評している。ドイツ敗戦後のニュルンベルク裁判でも重要戦争犯罪人としてハウスホーファーを裁く動きがあったが、高齢の上に病身であったこと、ヒトラーの政策への関与の立証が困難であった事などから見送られた[5]。ハウスホーファーは、自らの理論がナチス・ドイツに用いられたことについて「自分は科学者であるよりもドイツ人であった」と述懐している[6]。

1946年に妻とヒ素を飲み、服毒自殺をした。

思想と影響
ハウスホーファーはソビエト連邦とドイツの同盟の主唱者の一人であり、グレゴール・シュトラッサーらナチス左派やエルンスト・ニーキッシュのようなナショナル・ボリシェヴィズムの哲学、一部のドイツ共産党幹部までにも大きな影響を与えた。

日本については、日本にヨーロッパにおけるドイツの役割を与えた著作『太平洋の地政学』(Geopolitik des pazifischen Ozeans) を残した。日本滞在中に日本語はもちろん、朝鮮語や中国語を修め、広くアジアを旅しヒンドゥー教や仏教の経典、またアーリア民族が多く住む北インドやイランにも詳しく、アジア神秘主義の権威でもあった。ヒトラー及びナチス党はハウスホーファーの理論に少なからぬ影響を受けた。

ハウスホーファーは、以下を主張した。

ラッツェルの「レーベンスラウム」(生存圏)と国家拡大理論
チェーレンの「アウタルキー」(経済自足論)
マッキンダーのハートランド論による「ランドパワーとソフトパワーの対立」
パン・リージョン理論(統合地域)
ソ連とのランドパワーによる世界支配
ハウスホーファーは世界をいくつかのブロックにわけて、アメリカ、ソ連、日本、ドイツなどがそれぞれの地域で主要な地位を占め、秩序を維持すべきとした。勢力均衡理論に基づいて世界視野での勢力均衡を確立することを提唱しているものといえるが、それらをとりまとめる国がドイツであるとした。

Karl Haushofer - Wikipedia

 

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