Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

2017年のフランス映画『12か月の未来図』-3

2023年12月31日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

フランスはじめ欧州で私が羨ましいと思うのは、日本や他の東アジアのように塾がないこと。そしておそらくテストの類がマークシート方式が主流でないことだと思います。

日本は教育が「産業」に組み込まれてしまって、「点数」「偏差値」をあげることが目的となってしまいました。

キラキラやポエムが作り出す『希望』や『常識』-教育熱に火をつけた?1994年のカーネギー財団のレポート - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

フランソワがアンリ4世学校で教えているときは、「自分が受ける評価」を気にしたからでも、「教え子に対する興味や愛情」があったからでもありません。

あたかも「芸術を愛する芸術家」「書くことを愛する小説家」のように、「教養を愛した教師」でありました。少なくとも、エリート校は「教養」がある生徒が普通。

それが「教養」が通じない移民の子供たちに向かうことになったフランソワ。学力を上げるには「教養」が大事と気が付きます。「教養」に親しむことが、物ごとに疑問を持ち、考えることになる-アンリ4世校でも生徒たち自身にを特別愛することもなかったフランソワ自身が、移民の子供たちと心通わせていくようになる。

移民の生徒たちも変わりましたが、一番変わったのがフランソワだと思います。

アンリ4世校の教師をしているだけだったら、彼は「教養」はあるだけの人間で終わっていたでしょうが、移民たちの中学で教えた彼は「教養と人間性」を備えた魅力的な男性に変化しました。

 

この映画は、フランスでも「ファンタジー」でしょうが、多くの教育関係者が目指していると思います。

日本もそうなるとよいのに…。

 

学校で学んだことは役立つのか? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

教養のシッポ1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

教養のシッポ2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

教養のシッポ3 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

なお、フランス映画『最強のふたり』も、移民の青年が主人公のお金持ち(こちらも「フランソワ」)と接していくうちに「教養」を自然に身に着け、変わって行った様子が描かれています。

映画『最強のふたり』予告編 (youtube.com)

この一か月で観た映画・『最強のふたり』について - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年のフランス映画『12か月の未来図』-2

2023年12月30日 | 教育

フランソワ先生-

彼は名門校アンリ4世校

アンリ4世校 - Wikipedia

の教師で、いわゆる将来のエリートたちを教えるエリート教師。彼自身も、父親が有名な教育学者で、ブルジョア。

おそらくそれまで彼は移民が多い地区に行くことさえなかっただろうし、当然移民の子供も、移民の子供に教える教師たちにも会うことはなかったと思います。

その彼が、移民の子供たちが通うパリ郊外のバルバラ中学に行った途端、「エリート校のエリート教師」から「移民学校の一教師」と即変わる。

名前を覚えるのが大変なアフリカ系の子供たちの名前を覚え、子供たちを観察し、彼らの尊厳を尊重し、彼らが学業に興味を持てないでいることに悩みます。

妹の話のヒントから、彼なりに生徒に学習に興味を持たせる方法を思いつき、ビクトル・ユーゴーの「レ.ミゼラブル(ああ無情)」を教材に。

「レ・ミゼラブル」のストーリーだけではなく、ビクトル・ユーゴー自身やその時代の話、その他アーネスト・ヘミングウェイのSix words novelなどを、子供たちが好きなように発表できるようにしました。

-と、ここまで書いてしまいましたが、残りは映画をご覧ください。

 

フランソワ先生が「レ・ミゼラブル」を子供たちの学習への興味を持たせるのに使いましたが、私が小学校4年の時の担任の先生がしてくださったことは少し似ていたと思います。

私のクラスは学業に興味を持てない子はそうはいなかったと思いますが、道徳の時間や空いた時間に、担任の先生が皆に読んでくれた本がありました。

それは、挿絵もない「ギリシャ・ローマ神話」。

小学校4年生ではまだ「挿絵付き」の本や、子供むけのひらがなが多い本を読むことが多かったですが、私は担任の先生にその本を借りて読みました。

挿絵も全くない分、想像で補うしかありませんでしたが、それだからこそ楽しめた本。
(子供向けの「ギリシャ、ローマ神話」ならたぶん、この本以前に読んでいたと思いますが、先生が読んでくれなかったら、それで終わっていたでしょう。)

もともと本は好きでしたが、この時の経験が「読書」も質を変えるきっかけになりました。

 

オマケ:

神道、ローマ・ギリシャ神話、曜日名 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

(↑この記事のタイトルや本文に誤字(「ローマ・ギリシャ神話」→「ギリシャ・ローマ神話」、「新道」→「神道」、「or 」→「and」)がありますが、2014年11月以前の記事は修正するとフォーマットが崩れるので、修正できません。すみません。

Intelligient mind-知的好奇心を失わずに - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

理想の先生 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

実は私と同じクラスだった才女が後に翻訳家になりましたが、この時担任の先生から同じく「ギリシャ・ローマ神話」を借りていたのかもしれません。

Amazon.co.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017年のフランス映画『12か月の未来図』-1

2023年12月29日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

2017年のフランス映画視聴。

12か月の未来図 - Wikipedia

映画『12か月の未来図』予告編 (youtube.com)

【インタビュー】映画『12か月の未来図』のオリヴィエ・アヤシュ=ヴィダル監督に独占インタビュー‼(4月6日公開) - YouTube

 

名門校のベテラン教師フランソワは自身の出身も、学校の生徒も上流階級。
その彼がひょんなことから移民ばかりの中学校で1年間教えに行くことになったお話です。

勉強に興味を持たない生徒に悩んでいる彼に、彼の妹は言います。

「兄さんにはわからない。勉強をするのがつらい子もいるのよ。
悪い成績が続き、屈辱を味わえばー自分をバカだと思う。心の奥に刻まれる。

学習性無力感って、聞いたことある?
水槽の中をガラスで2つに分け、一方に空腹のカマス、もう一方に小魚を入れる。

カマスは小魚を食べようとするとガラスにあたり、やがて無駄だと気づきあきらめる。
ガラスを取ると小魚が目の前を泳いでも、カマスは襲わない。

失敗が無気力にするの。」

おとなしく聞いていたフランソワは一言。

「魚だろ」

妹は

「多くの動物でも実証されているし、人間でも同じよ。」

 

「勉強ができないから子供を塾に行かせる」というお父様やお母さまに特におすすめしたい映画です。

 

参考:

ストレス環境が生み出す「学習性無力感」に対処する2つの方法 「静かな退職」は人間の脳にとって自然な反応だ | チームマネジメント|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャン・ポール・ベルモンドの孫娘のパートナー・マロン派のレバノン商人

2023年12月25日 | 人物

アメリカンドリーム

 

このアントゥン・セナウイ氏-

Antoun Sehnaoui - Wikipedia

「最優先すべきは紙と家族」という彼の宗教は「マロン派カトリック」。

マロン典礼カトリック教会 - Wikipedia

マロン典礼カトリック教会(マロンてんれいカトリックきょうかい、英語: Maronite Church、フランス語: Église maronite、アラビア語: الكنيسة المارونية‎)は、レバノンを中心に信者を擁するアンティオキア派の伝統に属するキリスト教東方典礼カトリック教会の一派。マロン派(まろんは)とも呼ばれる。マロンーアンティオキア総大司教の司教座は、レバノンのブケルケ(英語版)に置かれている[1]。名前の由来は、4 - 5世紀のアンティオキアで活動した聖マールーン(聖マロン、en:Maron)に由来するといわれる。レバノン国内では人口のおよそ3割程度を占め、古くから重要な政治ポストを占める最大宗派であり、大統領がマロン派から選出される慣行を持つなど、国内外の政治・経済両面において大きな影響力を持つ。また、その歴史的経緯などから、同じカトリックが多数派であるフランスとは緊密な関係にある。

概要

アンティオキアの聖マールーン(聖マロン) マロン派は聖マロンが創始した当初は教義上単意論を採用し、正教会ならびにローマ・カトリック教会とは離れていた(ちなみに東西教会の分裂はマロン派発生当時はまだ起こっていなかった)。 聖マロンが死んだ時、その遺体を巡って信者間で争いがあった。マロン派の歴史は、キリスト教他宗派やイスラム教などとの戦いに彩られている[2]。 その後、十字軍時代にカトリック教会との接触を機にマロン派とカトリック教会双方から再合同の交渉が行われ、1180年にカトリックに帰属し、教義もカトリックと同一となった。一方でマロン派は独自の典礼を保持し、教会用語や祈祷書には古シリア語やアラビア語が用いられている。現代ではローマ教皇と一致して教義・組織はカトリック教会に属しながらも、独自の組織や典礼の伝統を維持する東方典礼カトリック教会の一つになっている。

2012年10月には、マロン典礼カトリック教会の最高指導者であるベカラ・ブートロス・ライ(英語版)総大司教がカトリックの枢機卿に任命された[3]。 レバノン国内におけるマロン典礼カトリック教会(マロン派)とギリシャ正教、アルメニア正教会およびシリア正教会コミュニティとの関係については、同じキリスト教徒でありながら、常に緊密な関係同士であるとは限らず、例えばアルメニア正教徒はレバノン内戦において基本的に中立を保つ一方、左派が多いギリシャ正教徒は、しばしばマロン派と対立する関係にあった。

レバノン内戦においては増加するイスラム教徒と対立し、イスラエル軍侵攻下の1982年、同派の民兵組織ファランヘ党が、「パレスチナ難民」に対する大量虐殺を行い国際的非難を浴びた(サブラー・シャティーラ事件)。 マロン典礼カトリック教会の信者はレバノンの他にシリア、キプロス、イスラエル(レバノン内戦による避難民も含む)、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、カナダ、南米に分布。彼らはアラブと欧米における言語や商慣行を知る事から、有力なレバノン商人を輩出してきた。レバノンにおける政治バランスの悪化により、多くのマロン派住民と資産が内戦終結後に海外に再流出しているとされる。

移民先の各地で政治的、経済的な成功を収めたり、ビジネスでも幅広く活躍する者も多い。日本では、日産自動車の再建に辣腕を振るったカルロス・ゴーンが有名である。 レバノンにおいては、芸術、芸能、メディア方面に人材を輩出しており、女性キャスターや歌手の多くはマロン派信者である。レバノンの大統領はマロン派から選出されるのが慣例となっている。

 

参考:

ソシエテ・ジェネラル - Wikipedia

サブラー・シャティーラ事件 - Wikipedia」

 

ジャン・ポール・ベルモンド追悼-6(葬儀・『ボルサリーノ』) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルザスのクリスマス動画(セバスチャンさんのTourist Channel)

2023年12月25日 | 世界のyoutuber

フランスのアルザス地方のクリスマス動画。

 

ストラスブール – 世界で最も美しいクリスマスの街 – クリスマスの真の精神 (youtube.com)

全世界で最も素晴らしいクリスマス村 🎅 オベルナイ 🎄 クリスマスの真の奇跡 (youtube.com)

世界で最も美しいクリスマス村 🎄 ケゼルスベルク 🎅 クリスマスの本当の喜び (youtube.com)

世界で最も美しいクリスマス村 🎄 リクヴィール 🎅 クリスマスの本当の魔法 - YouTube

コルマール 🎅 フランス 🎄 世界で最も美しいクリスマスの場所 🎄 クリスマスの本当の喜び - YouTube

 

Tourist Channelは(おそらくフランス在住の)セバスチャンさんのチャンネル。

お正月休みに、youtubeで旅行気分に浸れます。

Tourist Channel - YouTube

 

イタリアの中のもう一つの小国、セボルガ公国(自称) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で紹介したセボロガの動画まであります。

セボルガ - 人口わずか 320 人の魅力的な王国 - 本当に美しい場所 (youtube.com)

ロスチャイルド家のヴィラなども。

ヴィラ・エフルシ・ド・ロートシルト - 優雅さと美しさの帝国 - 最も贅沢な地中海ヴィラ (youtube.com)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『年の終わりに-2023年』 by M氏

2023年12月24日 | 友人・知人

今年もM氏の「年の終わりに」が届きました。

昨年のものは下のブログ記事でで、それ以前のものも末尾にリンクが貼ってありますので、是非ご覧ください。

『年の終わりに-2022』 by M氏 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

皆様;  

色々なことがあった今年、2023年も残りわずかとなりました。決して平穏な1年ではありませんでした。昨年勃発したロシアのウクライナ侵攻は、まもなく2年となろうとしますが、膠着状態が続いています。幸いにも、今までのところロシアによる「核」の使用はされていませんが、今までも、そしてこれからも、その恐怖が世界を覆っています。この恐怖が杞憂に終わって、来年こそ休戦が実現することを期待します。

そのような中で、イスラエルとパレスチナ(ガザ地区を実効支配するハマス)との間で悲惨な戦争がはじまりました。長年にわたって、小生は「パレスチナ問題の公正な解決こそ、世界平和実現の礎」と述べてきましたが、今回の事態は明らかに逆方向に向かうものです。1993年のオスロ合意で示された和平への道筋について、この30年間、当事者はもとより、日本を含む国際社会全体が、その実現にむけての努力を怠ってきました。イスラエル側、パレスチナ側それぞれに様々な事情や言い訳などあろうと思いますが、明年こそ、国際社会全体の力で、和平が実現することを切望します。

 最近、年をとってきたせいもあって、歴史に思いを巡らすことが多くなりました。今年2023年は明治維新(1867年)から数えて156年です。そのちょうど中間地点が太平洋戦争終結の1945年です。明治維新の年に生まれた人が1945年には、まあだいたい平均寿命の78歳。その人の孫かひ孫で、1945年に生まれた人が今年同じく78歳になります。要するに、日本の近・現代史全体をこの二人の人が眺めてきたこととなるわけで、明治維新以降現在まで随分長い時間がたったようですが、見方によっては、二つの世代でカバーできる程度の短さなのかもしれません。

この二人の見てきた世界は全く異なったものでした。科学文明の進歩や民主主義の変遷などいろいろありますが、最も大きな違いは「戦争」です。戊辰戦争・西南戦争という二つの内戦から始まり、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)、第一次世界大戦(1914)からシベリア出兵(1919)、満州事変(1931)、日中戦争(1937)そして太平洋戦争(1941)。絶え間ない戦争により対外膨張してきた日本の歴史は、広島・長崎への原爆投下という悲惨な最後となった1945年8月、一区切りを迎えました。それ以降78年間、日本は一度も戦争に参加したことがありません。小生は1949年生まれなので、概ねこの世代に該当しますが、「戦争を知らない世代」と言われて過ごしてきたこの74年間を僥倖と思いつつ、同時にそのような平和国家に生まれ育ったことを誇りにも思います。

 この78年間の半分くらいまでの間、1980年代後半くらいまでに、我が国は「軽武装経済国家」として、日米安保体制のもと、驚異的な経済成長を達成しました。廃墟のなかから立ち直り、日本のGDPは米国に次ぐ世界第2位となり、その米国との間で、自動車や半導体をめぐっての経済摩擦まで起こすほどの実力を誇るまでになりました。それからほぼ40年たちましたが、、日本経済は長期的な停滞に陥り、あっという間に中国に抜かれ、そして今年はドイツにも抜かれてGDP世界第4位に転落するとみられています。今年の出生者数は70万人台前半とみられていますが、この数字は小生の生まれた年の270万人の4分の1に過ぎません。このように人口が継続的に減少する国家のGDPが低下していくのは、当たり前で、驚くほどのことはない。問題は、そこに暮らしている人々が、総じて日々不安なく穏やかに暮らせるかどうか、ということにあります。

かつてのような高度成長は望めないとしても、我々に続く世代のために、少しでも成長・前進する社会にしたいと考えております。  戦後78年の前半部分の高度経済成長の要素としてなにがあったのか。ベビーブームから始まる人口増加と着実な所得と需要の伸びが基本にあったわけですが、小生は、それ以上の「何か」があったのでは、と考えてきました。その一つが「大戦で生き残った世代の悔悟と贖罪、そこからの粘りと頑張り」だったろうと、ずっと思っていました。

たまたま10月25日NHKで放映された「映像の世紀バタフライエフェクト 零戦 その後の敗者の戦い」を録画して視聴しました。戦前・戦中の官民の軍事産業開発・研究に携わっていた技術者たちが、敗戦の口惜しさを乗り越えて戦後の平和産業に身を挺して貢献した姿が描かれています。海軍の零戦の設計をした堀越二郎氏は、戦後最初で最後の国産旅客機YS11の開発に携わりました。その他、国鉄の新幹線、オリンパス工業の胃カメラ、スバル360をはじめとする自動車産業などに旧軍の理系技術将校が戦後いち早く転身して、その若き頭脳を生かして活躍しました。小生の父も、その一人で、1943年9月東京文理科大学(現:筑波大)物理学科(のちのノーベル賞:朝永振一郎教授門下)を繰り上げ卒業して海軍の技術研究所にはいり、潜水艦ソナーの開発に携わっていた時、中尉で終戦を迎えました。

ただちに旧国鉄の技術研究所に入所し、その後金属材料と物理試験の分野で、新幹線の線路(レール)や車両の開発に従事しました。64年の新幹線開業後も、そのメンテナンスとアップグレードに不断に携わるとともに、草創期のリニア新幹線開発にも関わり、1972年に退職しました。父に言わせると「旧陸軍は、理系も文系もひとくくりで使い捨てにしていた。しかし旧海軍は理系の学生の命を尊重してくれて、戦地には派遣せず、内地に、それも研究開発要員として残してくれていたように思う。」ということでした。確かに前述のNHKの番組でも圧倒的に海軍系の逸話が多い。

なお、番組の途中で旧海軍技研から鉄道技研に移った人々20人ほどの集合写真が出たのですが、その中に若かった父の顔を発見して驚きました。父(1920年生まれ)は、生前よく「小学校(長野県戸倉町;現千曲市)の同級生のうち女子はほとんど生きているが、男子のうち相当な人数が徴兵されて戦死した。」と悔しそうに語っていました。同級生が徴兵されて戦死、などということが、その時代にはあたりまえのことだったのです。小生の父母の世代は、そんな口惜しさと、生き残った者としてのある種の使命感のようなものなどに駆られて、戦後の経済成長時代を必死に生きてきたのです。我々の世代以降には、どうやら、それはありませんでした。

バブルがはじけて、日本経済が長期の衰退に入った90年代初めころは、ちょうど我々の父の世代が官民のトップから退いたころでした。官民ともに、その次に続く世代(我々自身も含む)がバブルの時代の堕落した風潮にうかれて踊ってしまったのか。90年代に頻発した多くの経済犯罪やサラリーマンのモラル失墜行為などは、その表れだったのかもしれない。  その結果、どうなったのか。マクロ経済面(GDP)での凋落はもちろん、ミクロ(個別企業)面でも凋落は明らかです。1989年の世界時価総額ランキングトップ50には、32社の日本企業が名を連ねていたが、2022年ではトヨタ(31位)1社のみで、今年2023年には(円安のせいもあり)トップ50から日本企業の名前が消えるようです。この間、時代をリードしてきたICT産業興隆の波に乗れず、ハード面(半導体・電子機器)でもソフト面(GAFAなどのICTプラットホーム産業やAI開発など)でも、欧米や中・韓・台の後塵を拝するようになりました。

今年最もショックだったのは、三菱重工(三菱航空機)が、この20年間心血を注いで開発してきたMRJ(三菱スペースジェット)からの完全撤退を発表したことです。天下の三菱が、世界中で華々しく数多くの先行受注をしながら、商業生産開始をずるずると遅らせ、結局米国での型式証明の取得の目途も立たず、開発費(累積赤字)の負担に耐え切れず事業を放棄しました。同じ三菱が開発している次世代ロケットH3の相次ぐ打ち上げ失敗の件も気がかりです。また、自動車産業では、日本企業はハイブリッドにこだわるあまり、完全EV車の開発に遅れました。ガソリンエンジン車の延長にあるハイブリッド車は、構造が複雑で、完全EVより多くの部品が必要。日本の自動車メーカーがその系列下請け部品メーカーに対して過剰な気配りをしたがゆえに、完全EVへの転換に遅れをとったようです。

 嘆いてばかりではいけません。とにかく次に続く世代のために、前に進まなければ。4年前、まだコロナの影も形もなかったころ「年の終わりに 2019」で、小生は二つの大きな可能性を提示しました。一つが「観光立国日本」でした。今年、コロナの5類移行後、世界的に日本旅行ブームが起きているようで、日本への入国者はコロナ前の水準に近づいています。福島処理水の問題で、中国からの観光客が伸び悩んでいるにも関わらず、円安の追い風を受けて、その他の地域の人々の日本旅行が活況を呈しています。日本中の観光地に海外のお客様が来ている様子は好ましいものです。オーバーツーリズムの懸念が指摘されていますが、これは、お迎えする側が決して言ってはいけない言葉です。

日本が誇る、日本にしかないものがあります。長い歴史を持つお城や神社や仏閣。四季折々の美しい自然、特に春の桜に秋の紅葉と冬の雪景色。一年中緑に覆われた山がちの美しい国土と、きれいな空気と水のある風景。富士山、阿蘇山、屋久島、薩摩富士(小生の一番好きな山)その他もろもろの名山。沖縄を筆頭とする美しい海。アニメやゲームなどの独自の新しい文化。そして何よりも世界一多様で美味しい食事と、多くの人々が持つ「おもてなし」の心。基本的な観光資源は既に十分揃っています。またもう一度日本に来てみたいと思わせるよう、オーバーツーリズムなどということにしてはなりません。交通インフラの充実は当たり前のこと、それ以上に外国人旅行客が快適にすごせるような細かい気配りや工夫を。このあたりに地方自治体を含め、行政の出番があります。予算も重点的に振り向けてほしいものです。

もう一つは「農林水産物の輸出」です。中国が日本の水産物輸入を止めていますが、全体としては輸出が増えているようです。日本の「食」のレベルは極めて高く、またその素材(米・野菜・果物・海産物)の美味しさや安全性も世界一、と思っています。この分野をもっと伸ばすためには、たぶん農林水産物にかんする行政(一例は農協・漁協の問題)の抜本的な改革と、高齢化する担い手の更新と活性化が必要だと思いますし、またこの分野での民間企業(特に総合商社かなあ)の努力も必要です。この二つの他にも期待できるものがあるかもしれませんが、我々の子や孫の世代のため、とにかく明るい未来が開けるように願ってやみません。

(後略)

 

今日は、2015年1月に書いたブログ記事に書いた部分を思い出しました。

イランのハメネイ師のメッセージ、憎しみより理解を - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

抜粋:

昨年の夏、来日中のD氏を訪問したときに、彼が、
「昔は日本人のなかで、「戦争に負けてよかった」と言う人が主流だったのに。」とちらりと言いました。これは、「戦争に勝っていたら、日本の軍国主義は終わらなかったし、民主化もおこらなかった」という意味で、この時一緒にいた私より少し年上の友人が、「そうですね。口にする人は今はいなくなりましたね。」と頷きました。 

これを聞いた時私は、
「戦前の日本が続くことは当然いけないにしても、「戦争に負けてよかった」と口にする世界というのも、抵抗がありますけどね。無益な戦争で家族を失った人には聞かせたくないし。」
というようなことを言ったのですが、今は、「日本は戦争に負けてよかった」という気持ちがわいています。(今も口には出す気にはなりません。) 

ただし、これはD氏が差していた理由(こちらの方は、若干日本はあやしくなってきています。)だけではなく、日本が負けたことで、世界の国々の植民地が独立するきっかけを作ったこともあってです。 

それは、「日本は微力であっても、欧米とは違ったアプローチができる国」ということの再発見でもありました。


やはり、「日本は負けてよかった」
 とは、どんな意味でいったとしても、言われるべきでも、言っていいものではないですね。

 

参考:

人間爆弾「桜花」と新幹線0系、その数奇な関係 殉職したはずの「発案者」、実は生きていた | 新幹線 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「未婚率」とデジタル人間

2023年12月24日 | 

なぜ若者は「結婚」しなくなってしまったのか…大人が意外と知らない「シンプルな理由」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

(前略)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナポレオンが大物になった背景-13(ギリシャのユダヤ人とサンジョルジョ銀行)

2023年12月23日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

ナポレオンが大物になった背景-10(コルシカのギリシャ移民とポッツォ・ディ・ボルゴ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-11(「コルシカ」とナポレオン) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-12(コルシカに移住したトレビンゾ皇帝の子孫) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「反ユダヤ主義が高まっているからコルシカにユダヤ人移住を」…!? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の続きとして

 

ナポレオンとコルシカ、ギリシャを調べていて、キーワードとしてでてきたものに「サンジョルジョ銀行」があります。

サン・ジョルジョ銀行 - Wikipedia

サン・ジョルジョ銀行(イタリア語:Banco di San Giorgio[1], 英語:Bank of Saint George)はヨーロッパ最古の認可された銀行である。1148年に創立され、ジェノヴァ共和国の財政を一手に引受けた。教会大分裂時代の1407年にフランスの干渉を受けて社名を変更している。預金供託金庫のモデルとなった。

(中略)

組織
本店はジェノヴァ初代ドージェ、シモーネ・ボッカネグラ(イタリア語版)の叔父グリエルモ・ボッカネグラ(イタリア語版)の指示で13世紀に建てられたサン・ジョルジョ宮殿(イタリア語版)にあった。

モナコのグリマルディ家を含むジェノヴァの著名な家族のいくつかが、この銀行の設立と統治に関わった。

サン・ジョルジョ銀行はその資金と直接投資を管理した4人のコンスルによって治められた[3]。共和国の有力な寡頭統治者たちはしばしば同行の要職を兼ねたので、銀行と共和国それぞれの影響力を区別するのは困難がつきまとった[4]。

サン・ジョルジョ銀行は設立当初から国に対し短期の当座貸越を与えていた。現金不足をしのぐために1408年から一般預金を受け入れだしたが裏目に出た。15世紀前半、銀貨の相対的下落に伴いフローリン金貨が値上がりし続けた。銀行は膨大な損失を蒙り、何度も取り付けに遭い、公債利子の現金払いすら難しくなった。この歴史を反省して、1539年にはスクード金貨[5]のみを扱う5種金貨建て口座を、1606年にはジェノヴァの銀スクード貨建ての口座とスペインのレアル貨建ての口座を新設した[6]。これは1604年にリヨンで為替相場を統一したことにともなう措置である。

事業

ジェノヴァの海外領土のほとんどは直接または間接にサン・ジョルジョ銀行が治めていた。15世紀を通して、共和国はその領土の大部分を段階的に同行の支配から取り戻した。しかし1453年、コルシカ、ガツァリア(イタリア語版)(クリミアと黒海周辺にあったジェノヴァ植民地)及びいくつかの領地の統治を同行の幹部たちに委ねた[7]。タマン半島はギソルフィ家(英語版)の支配下にとどまったが、一方でその君主の一族は同行の監督下にあった。

(中略)

16世紀後半からポルトガルやスペインの貿易事業も融資を受けており、17世紀には海洋貿易に深く関わり、オランダ東インド会社やイギリス東インド会社などと競争した。これには当時の日本とのいわゆる「南蛮貿易」も含まれる。

ナポレオンのイタリア遠征後、フランス銀行を中央銀行とするため、1805年にサン・ジョルジョ銀行は閉鎖された[8]。

 

(追記:

ナポレオンの先祖のフランチェスコ・ヴォナパルト(貴族)は、サンジョルジョ銀行で傭兵をし、1490年に銀行が支配していたコルシカ島に行き、アジャシオにあったサンジョルジュ銀行の代表者のGuido da Castellettoの娘と1493年に結婚したようです。

House of Bonaparte - Wikipedia

Sebastiano Nicola Buonaparte - Wikipedia

Sarzana - Wikipedia

 

 

15世紀にこの銀行に大きくかかわったのが、ギリシャ系ユダヤ人のギゾルフィ家。

Ghisolfi - Wikipedia

抜粋google翻訳:

デ・ギゾルフィ(デ・ギゾルフィ、デ・ギゾルフィ、ギグルシス、ギルグルシス、ギクスルフィスとしても知られる)は、中世後期からルネサンス初期にかけて著名なジェノバ・ユダヤ人の家族の名前である。

1419年、ジェノヴァのユダヤ人シメオネ・デ・ギゾルフィは、ビハカニムというタマン半島のトゥムタラカン自治体の君臨王女と結婚し、おそらくマトレガの町を中心とするこの地域を占領した[1]。 デ・ギゾルフィ一族は、15 世紀のほとんどの間、ガザリアのジェノバ領事館の保護領としてこの公国を統治しました。 1453年、ジェノヴァ共和国はクリミアの所有地を、多額の負債を抱えていた民間企業であるサンジョルジョ銀行に譲渡した。

ギゾルフィ家は銀行に代わってマトレガとその周辺地域を統治し続けた。 ホジ・ココスなどの仲介者を通じて、彼らはモスクワや他のロシア公国の支配者との関係を維持した。 ザカリアス・デ・ギゾルフィ シメオネの子孫であるザカリアス・デ・ギゾルフィは、1480年頃からタマン半島の王子兼統治者であった。

 

ギゾルフィの支配は、タマン半島だけに限らなかったのではないでしょうか。

タマン半島 - Wikipedia

タマン半島(タマンはんとう、英語: Taman Peninsula、ロシア語: Таманский полуостров)は、ロシア南部のクラスノダール地方にある半島。北のアゾフ海と南の黒海を分けるように東から西へ向かって伸びており、西はケルチ海峡を隔ててクリミア半島(クリミア共和国)と向かい合っている。クバン川が注ぎ込んでおり、半島各地には泥火山が見られ、天然ガスや石油も埋蔵されている。

ポントスから渡ってきたギリシア人がこの半島にヘルモナッサ(Hermonassa, Germonassa)やファナゴリア(Phanagoria)といった植民都市を築き、後にはハザールやキエフ大公国の都市トムタラカン(Tmutarakan)も築かれた。現在は港湾都市テムリュクが半島北部のクバン川河口付近にある。また半島の南の付け根にはリゾート都市アナパがある。

歴史
古代ギリシアの文献には、マエオタエ(マイオタイ人、Maeotae)やシンディ(シンドイ人、Sindi)といった先住の民族の名がみられる。ここにギリシア人たちが植民市を築き交易をおこない、後にはボスポロス王国の一部となった。

4世紀にはフン族がこの周囲を征服し、その後は大ブルガリアが、さらに7世紀半ばにはハザールが支配した。969年頃にハザール・ハン国が分解すると一時的にハザール・ユダヤ人の後継国家が建ったが、980年代末にキエフ・ルーシが半島を征服しスラブ人の国・トムタラカン公国が成立した。さらに1100年頃にはキプチャクが、1239年にはモンゴル帝国が侵入し、1419年にはジェノヴァ共和国の商人がタマン半島を含む黒海北岸に植民地を築いた。

15世紀を通して、クリミア半島に築かれたジェノヴァの都市・ガツァリア(Gazaria)に拠点を置く、ユダヤ系ジェノヴァ人のギゾルフィ家(Guizolfi, Ghisolfi)が、サン・ジョルジョ銀行の監督下でタマン半島を支配した。彼らはユダヤ人の執政官を通じてタマン半島を治めたが、彼らの存在は後に、ハザールのユダヤ教徒がこの時代までロシア南部に残っていたかどうかを巡る論争の元となっている。

1483年にはクリミア・ハン国がタマン半島を征服し、1783年にはオスマン帝国領となった。第二次露土戦争のさなかの1791年にロシア帝国がタマン半島を占領し翌年にはオスマン帝国に返還したが、1828年にはアドリアノープル条約でロシア領となった。ロシア領となったばかりの頃はタマン半島は人影はまばらで、入植したクバーニ・コサックが築いた集落(スタニツァ)タマン(Taman)が最大の町であったが、港湾都市のテムリュクがタマンに代わり最大の町となった。

なお、以前紹介した世界最古の銀行に、このサンジョルジョ銀行は入っていませんが、「消滅した銀行」であったからのっていなかったのか。

銀行とユダヤ人-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

銀行とユダヤ人-番外編(世界最古の投資銀行ベレンベルグ銀行) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

銀行とユダヤ人-番外編(ランベール邸のサミュエル・ベルナールが設立した銀行Banque générale/Banque royale) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

銀行とユダヤ人-番外編(Banque Generali~Genelali group) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

銀行とユダヤ人-3(Goldsmithと銀行) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

銀行とユダヤ人-4(ベンジャミン・ディズレーリの祖父とコーヒーハウス) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

おそらく、サンジョルジョ銀行は、「ジェネラリ」とともに「ロイズ」と無縁ではなかったでしょう。

ロイズとジョン・ジュリアス・アンガースタイン-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロイズとジョン・ジュリアス・アンガースタイン-2(Thompson/Thomson) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どの国が一番不幸か」と問うたら・「プロパガンダ」

2023年12月22日 | 友人・知人

米国の友人が、「北朝鮮出身の元作家の記事がガーディアン紙に載っていた」と記事のリンクを送ってきてくれました。

私はこの作家の名前は聞いたことまないし、ネットで調べても、2017年の東洋経済の記事くらいしかめぼしいものがみつかりませんでした。

脱北者の元作家が送る波乱万丈すぎる人生 日本で生まれ海を渡り「党員」になった末に | 「非会社員」の知られざる稼ぎ方 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

何故ガーディアンがこの作家を取り上げたのかも分からなかったし、そもそも米国の友人が彼の記事を、北朝鮮問題に特別追っていない私に送ってきたのかその理由も不明だったので、友人には、東洋経済の記事のリンク(多分翻訳ソフトである程度はわかると思う)を送り、「なぜこの作家の記事にあなたは興味があるのですか?」と尋ねました。

彼はこの質問に、

「僕はいつも北朝鮮とそこで人々がどのように暮らしているかに興味があります。特に脱北者。彼らは十分な教育を受けておらず、資本主義的なものに慣れていない。(中略)

「ソマリアと北朝鮮のどちらに住みたいですか?」と尋ねるとする― 北朝鮮の方が生活水準ははるかに高いが思想の自由がない、ソマリアは生活水準は悪いが、思想の自由がある。」

と答えてくれました。

このやり取りで思い出したのは、私が2007年に書いた記事。

『カフェ・ヨーロッパ』と日本 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

1949年クロアチア(1991年までユーゴスラビアの一部)に生まれたジャーナリスト、作家のスラヴェンカ・ドラクリッチの『カフェ・ヨーロッパ』は、彼女が1992年から1996年かけて書いたものです。

第2次世界大戦中ドイツに侵攻されていたユーゴスラビアが、戦後徹底して反ドイツ教育を施し、その後ドイツへの出稼ぎ者が多くなると(ドイツに出稼ぎに行っている同胞がドイツでつらい目にあっているのをひた隠し)180度教育方針を転換された話、冷戦時も西側は周辺国の憧れで、他の東欧諸国に比べて比較的楽に西側の国に行けたユーゴスラビアが周辺国に対しある種の優越感を持っていたこと。

反面、ユーゴスラビア人が西側に行ったときに受ける差別のことなどを淡々と書いてあります。

共産主義を遅れたものとする前提で考えると、『共産主義をたたき込まれ、他国の情報が制限されているので、それを疑うことなく、自国が一番だと信じ込んでいる国民』と『共産圏でありながら、実はそのイデオロギーを信じず、西側に憧れつづけた嘗てのユーゴスラビアや近隣の東欧の人々』とどちらの方が不幸なのだろう、この本を読んだとき、私はふと考えました。

日本は民主主義の国でどちらでもない、幸せ-しかしそうとも言いきれない気がします。

まず、制限されていないとはいえ、日常に入ってくる情報が偏っていること。新聞やテレビで取り上げていることは、日本国内のことか、せいぜいアメリカや西欧の主要国のことばかり。東アジアはともかく、その他の国で起きていることはどこか違う惑星の出来事のようです。

比較的取り上げられる東アジアのことでも、今月半ばの『北朝鮮が韓国から貨物列車を走らせるということに合意した』というニュースさえ、あまり話題になりません。

そして、この本の話をしたとき、日本watcherでもあるイギリス人の知人がつぶやきました。

「いずれ為政者に対して批判的な態度を保っているのがどんな支配的イデオロギーの国でも大事でしょう。あまり大っぴらに批判すると監獄に入れる旧共産国などか、何でもいえるのに、辛らつな政府批判を言うインテリがほとんどいない日本と、どちらがいいか」

情報が偏っていること、そして批判する人があまりいないこと、そういう意味では民主主義の日本も、実は共産主義の国と変わらないのかな、そう思えたりもします。

 

2007年から2023年-2011年の福島原発事故をきっかけに、イギリスの知人(これは故ロナルド・ドーア氏でした。)が言っていた「政府批判をするインテリはほとんどいない日本」は少しづつ変わり、2020年の春以降、コロナ情報、ワクチンも声をあげるインテリ層も若干ではありますが、増えてきました。

ただ、残念なことに、「情報の偏り」は、「批判する層」が増えるにしたがって、より偏るようになっているのではないかと思うのです。

ただし、日本で「情報の偏り」なく発信されていると思えるのは、現在のイスラエルとパレスチナ戦争。

これに関しては、欧米の偏りは激しいようですし、米国ではパレスチナ擁護派は「反ユダヤ」とひとくくりにされて、職を辞したりしています。

 

米国のこの友人も、イスラエルは批判することもないし、ついでに言えば「反米的国の国民」に対する優越感はゆるぎないものだと思います。(なお、彼は自国、自国の政府批判はする人です。)

「優越感を抱く国」ほど、案外「プロパガンダ」にも無頓着なのかもしれません。

 

たまたま数日前に見つけたwikipedia。


エドワード・バーネイズ - Wikipedia

エドワード・ルイス・バーネイズ(Edward Louis Bernays、1891年11月22日-1995年3月9日)は、オーストリア系アメリカ人。「広報の父」として知られる広報活動とプロパガンダの専門家。「広報の父」とされる広報・宣伝分野のパイオニア。オーストリア系アメリカ人で、ジークムント・フロイトの甥であり、叔父であるフロイトの精神分析学とギュスターヴ・ル・ボンとウィルフレッド・トロッター(英語版)の群集心理学に注目し、大衆扇動と広報活動の基礎を築いた。

(中略)

プレスリリース手法の改良 バーネイズは、1906年のアトランティックシティ鉄道の列車事故の広報担当者としてその名を知られたアイビー・リーが発明したプレスリリースという手法を、より改良し、アメリカ社会に普及させていった。[6]

女性の喫煙キャンペーン

バーネイズの最も有名なキャンペーンの一つとして、1920年代の女性の喫煙キャンペーンが挙げられる。バーネイズのキャンペーンは、当時最大の社会的タブーの一つとされた女性の公共の場における喫煙を、喫煙業界が「克服」する手助けとなった。 当時女性は指定された場所での喫煙のみ許可されており、違反者は逮捕されていた。これに対し、バーネイズは1929年にニューヨークで行われたイースター行進においてラッキーストライクのタバコを「自由の松明」と題して女性モデルたちに持たせ、タバコを持つ女性と自由の女神のイメージを重ねて想起させる戦略を行った。実際にはニュースにあたるものではないが、バーネイズはこの行事を宣伝ではなくニュースとして取扱うことで、怪しまれずに大衆にメッセージを投下することに成功した。

また、医療団体などから「お菓子は太るが、タバコは痩せる」と広報させ、女性が自らタバコを受容していくための宣伝活動も行った。バーネイズによる巧みな宣伝によって女性は以前よりもタバコを購入するようになり、女性の喫煙も社会的に許容されるようになっていった。 第三者機関の利用 バーネイズは、大衆意見を操作する手法として、クライアントの目的を支持する「第三者機関」の利用を好んだ。バーネイズは「意識的な協力があろうとなかろうと、もし君が指導者に影響を与えることが出来るなら、彼らが支配する層の人々に対してさえ、必然的に影響を与えることが出来るだろう。」と述べている。

(中略)

フロイト理論の応用 バーネイズはまた、間接的にタバコ、石けんや書籍などの多様な商品の販売促進に叔父ジークムントの精神分析の手法を利用した。また、叔父の理論に加えて、バーネイズはイワン・パブロフも利用することとなった。広報業界史研究の第一任者の一人であるスコット・カットリップは、バーネイズを「広報業界においておそらく最も過激で魅力的な人物であり、聡明だが過剰なまでにはっきりとした、そして何よりも1919年6月に彼が起業した当時揺籃期にあった広告産業における革新的な思想家であり哲学者である。」と述べている。

反共プロパガンダ

バーネイズは、大衆に拡がる共産主義理念に対処する方法として「フロイトの理論」を使用したが、その手法は、共産主義に対する国民の恐怖感情を緩和するのではなく、むしろその恐怖を促進し、それに対する大衆感情を弄んだ。この理論は冷戦中に非常に強力な武器となった。

(後略)

参考:

プロパガンダの7つの手法・声優上坂すみれさんの提案 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジェフリー・エプスタインを「ジェフリー・エプスティーン」としたBBC日本語版の記事

2023年12月20日 | 

エプスティーン元被告の仲間170人以上の名前、米NY連邦地裁が公表を命令(BBC News) - Yahoo!ニュース

米ニューヨーク州の裁判所は18日、米富豪ジェフリー・エプスティーン元被告(故人)をめぐる性的人身売買疑惑で、元被告側を手助けした仲間170人以上の名前を公表するよう求める命令を出した。

これらの人物の身元は、被害者の一人であるヴァージニア・ジュフリー氏がエプスティーン元被告と恋人のギレイン・マックスウェル被告に対して起こした訴訟の和解に基づいて公表される。 名簿に名前のある人物は、1月1日までに名前の削除を請求することができるという。

(後略)

「エプスタイン」が「エプスティーン」となっていることに違和感があります。実際、Jeffry Epstienのイギリス英語の発音が、エプスティーンに近いのだとしても、翻訳で「エプスタイン」と変えるわけがわかりません。

しかしこの記事、表題で期待させておいて、太字の部分が重要なのではありませんか?

つまり、重要人物ほど名簿から削除されてしまうということ。

11月28日に書いたアバクロンビー&フィッチの元CEOなどは、名簿にのっていたでしょう。

性的人身売買提訴のアバクロンビー&フィッチの元CEOとジェフリー・エプスタイン人脈 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ジェフリー・エプスタインのボスについては、さわらないのでしょうか。

ジェフリー・エプスタインは児童買春以前の1980年代から負うべき - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

参考:

クリスチャンのHuman Trafficing Documentary・フェミニスト運動が盛り上がっても触れられない事実 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソ連のユダヤ人自治州の成り立ち、つぶされた経緯

2023年12月19日 | イスラエルのファシスト、シオニスト、他

前回の記事から気になったユダヤ人植民地協会等の歴史。

Alliance Israélite Universelle - Wikipedia

Jewish Colonisation Association - Wikipedia

Organization for Jewish Colonization in Russia - Wikipedia

 

最後のwikipediaは、以前書いたロシア(ソ連)のユダヤ人自治区がどのようにしてできて、潰されたか・・・に繋がります。

ロシアに今もあるユダヤ人自治州(ユダヤ人の居住者は少ない) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「ユーラシア戦争」と言う単語を使った記事からの連想・ロシアの極東にあるユダヤ人自治区 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

Organization for Jewish Colonization in Russia - Wikipedia

Google翻訳:

ロシアユダヤ人植民地化機構(イディッシュ語: ייִדישע קאָלאָניזאַציע אָרגאַניזאַציע אין רוסלאַנד、イディッシュ・コロニザツィエ・オルガン) ICOR の音訳頭字語で一般的に知られる、ロシア語のizatsye)は、ユダヤ人の定住支援に専念する北米の共産主義者支援の大衆組織でした。 新しい集団入植地は、まず新しく設立されたウクライナ・ソビエト共和国とロシア南部(スタヴロポリ地方)、そして最後にはソビエト連邦のユダヤ人社会主義共和国ビロビジャンにある。

この組織は 1924 年に米国で設立され、すぐにカナダにも広がりました。 1934 年に、元の ICOR 組織は、新しい募金および連帯組織であるビロビジャンユダヤ人定住アメリカ委員会 (アンビジャン) によって補完されました。 2 つのグループは 1946 年に合併して統一組織になりました。

組織の歴史

設立 設立総会は1924年12月にニューヨーク市で開催され、この組織の当初の使命は、クリミアのユダヤ人の集団農場に資金を提供する資金を集め、ヨーロッパで反ユダヤ主義に直面しているユダヤ人に人道的代替手段を提供することであった。 ICOR は、ペイル・オブ・セツルメントで数十年にわたるポグロムと混乱(ほぼ 10 年にわたる戦争を含む)、そして中欧および西欧の避難国で反ユダヤ主義の絶え間ない脅威に直面してきた東欧のユダヤ人の状況に動機づけられました。 あるいは、新世界における比較的安全で歓迎された結果、ユダヤ人の文化、言語、「国籍」が消滅する傾向が見られるようになった [1] 。 もともとこの委員会は、旧ペイル・オブ・セツルメント、特にウクライナ南部とクリミアに新たに設立された大規模なユダヤ人の集団農場を支援するために、アメリカの寄付者やソ連当局と協力して活動していた。

これらの「コルホーズ」(集団農場)には、安全を求めて大都市に逃れてきたウクライナやベラルーシからの多くの元シュテトルユダヤ人や、ソビエト統合初期の徴発や経済再構築で生計を破壊されたユダヤ人が集まった。 1928年にソ連がクリミアへのユダヤ人入植の考えを放棄し、代わりにソ連東部での最終的なユダヤ自治共和国の設立を支持したとき、ICORもそれに倣った。 ICORは、ユダヤ人の入植を促進するソ連の機関であるコムゼトとそのパートナーであるOZETと緊密に連携した。

ICOR の初期後援者の 1 人は、シアーズ・ローバック・アンド・カンパニーの社長であるジュリアス・ローゼンワルドであり、彼は ICOR に 200 万ドル以上を寄付しました。[2] ローゼンウォルドや他の多くの著名で裕福なアメリカのユダヤ人が ICOR の取り組みに貢献し、彼らの貢献は、資金提供と支援を求める米国のイディッシュ語新聞の労働者および中流階級の読者によって補完されました。

イディッシュ語はソ連によってユダヤ人の国語とみなされ、一部のアメリカの ICOR 文献は英語とイディッシュ語のバイリンガル版で出版されました。 カナダ部門は 1935 年に独立した組織となった。ICOR はイディッシュ語を話すユダヤ人移民の第一世代と第二世代の間で活動し、シオニズム運動とパレスチナのユダヤ人の祖国を求めるその扇動に対抗することを目的としていた。
1930 年代には、この組織はナチス ドイツに対する抗議活動にも参加し、ドイツ製品のボイコットを奨励したほか、スペイン内戦で戦う国際旅団への募金も行いました。 ICOR は米国共産党およびカナダ共産党と連携しており、一般にコミンテルンの党路線に従っていた。 この組織はモロトフ・リッベントロップ協定の締結後に衰退した。
 
アンビジャン
 
ビロビジャン (アンビジャン) ユダヤ人定住アメリカ委員会は、1934 年 2 月 27 日にニューヨーク市のリッツ カールトン ホテルで開催された会議で設立されました。 この会議では、英国労働党国会議員で英国のビロビジャン・プロジェクトの主任スポークスマンであるマーリー卿ダドリー・リー・アマンが演説した[3]。 新しい組織の設立を主導した主なアメリカ人は、1926年から1928年までニューヨーク第17下院議員を務めた銀行家兼株式仲買人のウィリアム・W・コーエンであった[3]。 コーエンは、ソ連におけるユダヤ人自治区の設立が重要な「中東ヨーロッパの地獄で苦しむ何千人ものユダヤ人の救出と社会復帰のための安息の地」となると考え、金と時間を費やしてアンビジャンの設立を支援した。
 
 アンビジャンは 1935 年 9 月にニューヨーク市マディソン街 285 番地に事務所を設立し、正式な業務を開始しました [3]。 マーリー卿は名誉会長に任命され、コーエンが組織の会長に就任した[3]。 アンビジャンの舞台裏で重要な人物となったのはジェイコブ・M・ブディッシュで、彼は米国共産党員であり、ニューヨークに本拠を置く米国のソビエト貿易局アムトルグの職員であった[4]。 ブディッシュはソ連大使アレクサンドル・トロヤノフスキーとの緊密な関係と共産党機構内での地位により、ソ連の発展に関するアンビジャンへの情報の理想的なパイプ役となった[4]。
 
1935年の夏、ブディッシュはビロビジャンを訪れ、地域を視察し、アンビジャンの将来の役割について政府関係者と会談した[5]。 1935年のブディッシュの会談後、ソ連当局はアンビジャンに対し、ヨーロッパ系ユダヤ人のビロビジャンへの移住に補助金を出す取り組みを進める許可を与えた[5]。 主にポーランド、リトアニア、ルーマニア、ドイツからの入植者の選択は、アンビジャンがソビエト当局と協議して行うことになっていた[5]。 アンビジャンは、移転費用を支援するために選ばれた家族ごとに 350 ドルの補助金を提供する予定です。 [5]
 
アンビジャンの努力は、中産階級および上流階級からのかなりの数の派遣団を含む幅広いアメリカ人をその階級の一員に引きつけ、その中には非ユダヤ人も含まれていた[6]。 組織の会費は 5 ドルかかります。[3] 1946 年に ICOR と Ambijan が合併し、統一組織が形成されました。
 
解散
 
この組織はマッカーシー時代の反共産主義に耐えることができなかった。 さらに、1948年のイスラエル建国は、「ユダヤ人の植民地化」に代わるものとしてシオニズムの魅力を大いに高めた。 組織は1951年に解散した。
 
「極東にユダヤ人を追いやるため、ロシアがユダヤ人自治区を作った」という意見も見たように思いますが、実態はユダヤ人自体が望んでいた自治区。
 
イスラエル建国の為にも、潰したい人達は多くいたのだと、改めて思います。
 
日本軍でこれに間接的に協力してた人達にとっては、「梯子を外された」ということだったでしょう。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「反ユダヤ主義が高まっているからコルシカにユダヤ人移住を」…!?

2023年12月18日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

今年10月31日の記事:

コルシカで19件の爆発 - OVNI| オヴニー・パリの新聞 (ovninavi.com)

コルシカ島各地で深夜に計19件の爆発が起きた。ガスボンベなどを使った爆発物によるもので、多数の別荘、旧税務署、不動産屋などが被害に。負傷者なし。翌日、コルシカ民族解放戦線(FLNC)が犯行声明を出したが、当局は2014年に武装闘争をやめたFLNCの再武装にしては早すぎると懐疑的で、分派の可能性も高い。マクロン大統領は9月末に同島を訪問し、仏大統領としては初めて自治権付与の可能性を探ると約束した。コルシカ議会はコルシカ語の公用語化、不動産購入の住民限定を求めており、協議は難航しそう。

 

今年11月4日の記事:

French Jews Are Seeking Sanctuary in Corsica ━ The European Conservative

Google翻訳:

フランスのコルシカ島のラビは、ハマスによるイスラエル民間人1000人以上の虐殺を受けて反ユダヤ主義が高まり続ける中、フランス本土での身の安全を恐れ、フランスの多くのユダヤ人が同島への移住について彼に連絡してきたと報告した。 先月。 コルシカ島のラビ、リーヴァイ・ピンソン氏は放送局ヨーロッパ1に対し、地中海の島への移住の可能性に関して、フランス各地のユダヤ人から多くの要望を受けていると述べ、「多くの人が、ここの生活状況を知りたい、話をしたいと私たちに連絡してくる」と語った。 可能性のある動きについては私たちに伝えてください。」 「彼らは子供たちと静かに暮らせる地域を探している」とラビは述べ、この島に興味を持ち、移住を真剣に検討しているユダヤ人たちから、先週だけで十数件の電話を受けたと述べた。

(中略)

コルシカ島ではユダヤ人はおおむね歓迎されているが、同島のイスラム教徒にとって状況はやや異なる。2015年のクリスマスに激しい反アラブ暴動が発生したときなど、これまで地元住民が反イスラム教徒の破壊行為や暴動に巻き込まれてきたからだ。 デモ参加者はイスラム教の礼拝堂を破壊し、イスラム教コーランのコピーに火を放ち、数百人が「アラブ人出て行け」などのさまざまなスローガンを叫びながらコルシカ島の首都アジャシオの通りを行進した。 翌年の夏、北アフリカ人と地元の若者の間のビーチでの乱闘中に、「ブルキニ」として知られるイスラム教の水着を着た女性の写真を撮っている地元民を北アフリカ人が捕まえたことから、別の暴動が勃発した。 昨年、コルシカ島の著名な民族主義者イワン・コロンナ氏が、イスラム教に関して「冒涜的な発言」をしたとして、イスラム過激派テロリストによって殺害された。 コロンナさんは襲撃後当初昏睡状態に陥り、コルシカ島で数日にわたる抗議活動と暴動が発生し、最終的には治療を受けていた南フランスの病院で数週間後に死亡した。

「反イスラエル政権」を「反ユダヤ」と置き換えることに、ユダヤ系の人々も多く反対しているのですけどね。

罪もなく殺されているパレスチナ人&政府に無視されているイスラエル人の人質)が見えない人たち・・・。

 

参考:

Beth Meir Synagogue - Wikipedia

コルシカのユダヤ人の歴史のwikipediaがないので、かわりにコルシカの下にあるサルディーニャ(イタリア)のユダヤ人の歴史のwikipedia:

History of the Jews in Sardinia - Wikipedia

 

追記:

Any Port in a Storm: Palestinian Jews in Corsica (1915–1920) | Cairn International Edition (cairn-int.info)

Google翻訳:

1915年12月から1920年8月まで、オスマン帝国のシリアとパレスチナの州から追放されたイスラエル系フランス国民またはフランスの保護下にあるユダヤ人からなる800人の難民がコルシカ島に受け入れられた。 1 つはアジャシオ、もう 1 つはバスティアの 2 つのグループで構成され、それらの統合はイスラエル人宇宙同盟the Alliance Israélite Universelleの支援を受けて島の行政サービスを担当しました。 彼らが強制滞在に耐えられるようにし、島社会の生活様式を共有しやすくするために、衣服、健全な学校、仕事などあらゆることが取り上げられた。 ついに故郷に帰る時が来たとき、大多数は島を離れることを選びました。 しかし、これらのユダヤ人とコルシカ島とのつながりは生き続けました。 コルシカ島に残ることを決めた人もいれば、2つの世界大戦の間に戻ってきた人もいた。 今日でも、バスティアの小さなイスラエル人コミュニティの中に、これらの難民の子孫がいます。

Alliance Israélite Universelle - Wikipedia

History of the Jews in France - Wikipedia

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナポレオンが大物になった背景-12(コルシカに移住したトレビンゾ皇帝の子孫)

2023年12月18日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

ナポレオンが大物になれたきっかけは、コルシカに駐在していたフランスのマルブフ総督の縁。

このマルブフ総督はもちろん、ルイ16世にとってもVIPであったのが、ステファノポリ家。

Demetrio Stefanopoli - Wikipedia

デメトリオ・ステファノポリ(Demetrio Stefanopoli、1749年11月12日 - 1821年8月8日)は、コルシカ島の著名人でフランス軍の軍人であった。 コルシカ島のギリシャ人コミュニティの一員である彼は、1782 年にルイ 16 世からトレビゾンド最後の皇帝ダヴィッド コムネノスの子孫および後継者であることを認める特許状を受け取り、その後フランス語ではデメトリウス ステファノポリ コムネーヌとして知られていました。

出身と家族

デメトリオ・ステファノポリはコンスタンティーノ・ブサッチ・ステファノポリの息子であり、彼自身もパオミア[1]のギリシャ人コミュニティの世襲長の息子でした。パオミアは1676年にマニ半島のヴィティロ出身のギリシャ人によって設立されたコルシカ島の村で、軍事指導者ナポレオンが統治したのと同じコミュニティです。 ボナパルトが所属していた[2]。

1729年から1731年のコルシカ革命でジェノヴァ側についた他のギリシャ人コミュニティと同様に、家族は土地を失い、アジャシオで騎兵部隊の隊長としてコンスタンティーノの給料と年金で生計を立てていた。 フランス軍。 その結果、1772年に彼が亡くなったとき、彼の未亡人はフランス陸軍大臣に自分と子孫の援助を求める手紙を書かなければならなかった[1][4]。

デメトリオには、ジョルジオ、ローラ=マリア、ジョバンニ=ステファノという2人の兄弟と1人の妹がいました。 彼の妹のパノリアはアブランテス公爵夫人ロール・ジュノーの母であった[5]。

(中略)

1781年、デメトリオは王室系図学者に自分の系図を提出し、1782年4月にルイ16世は彼の姓の主張を認めた[10]。 彼の新しい地位に従って、彼は王室の馬車に乗る権利を与えられ、1785 年の結婚契約は王室によって署名されました。 彼の妻であるエドメ・マリー・ド・ラ・ショセ・ド・ブーシュヴィル夫人は、他ならぬラ・トゥール・ドーヴェルニュ伯爵夫人によって王宮に紹介された [14] 。 1800 年の作品『ギリシャの航海』より、マニのマラソニシとギテイオン遺跡の眺め フランス革命後、彼は当初、反革命軍コンデに参加した。

1796年から1797年にかけてフランスがイタリアを征服した後、彼はオスマン帝国からの独立を求めるギリシャ人の願望を利用する計画でナポレオン・ボナパルトに雇われた。 ナポレオンは1797年にステファノポリを代理人としてギリシャに派遣し、伝えられるところによると彼をギリシャ王位の候補者とさえ考えていた。

ナポレオンは、デメトリオの妹が未亡人になったとき、年下にもかかわらず、彼女に結婚を申し込んだそうです。

 

(デメトリオの姪のウィキペディア

Laure Junot, Duchess of Abrantès - Wikipedia

に書いてあった情報。

Laure Marie "Panoria" Stefanopoli (or Stephanopoli de Comnène), to whom during her widowhood the young Napoleon Bonaparte made an offer of marriage. 

 

トレビゾンド帝国 - Wikipedia

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナポレオンが大物になった背景-11(「コルシカ」とナポレオン)

2023年12月17日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

「コルシカアドべンチャー」というサイトの歴史のページに、書いてある文章-

History of Corsica (corsica-aventure.com)

抜粋google翻訳:

ナポレオン・ボナパルトは、おそらく世界で最も有名なコルシカ人です。 1769 年 8 月 15 日にアジャクシオで生まれたナポレオンは、1797 年にフランス共和国第一領事に就任し、彼の名前と銅像は今日に至るまで故郷アジャシオでよく見られます。 しかし、ナポレオンは自分の生まれた島に対してあまり郷愁や愛情を持っていないようで、彼の治世中、コルシカ島はフランス国家からほとんど無視されていた。 ナポレオン戦争末期の 1814 年、コルシカ島はイギリス軍に占領されましたが、王政が再確立されるとすぐに島はフランスに返還されました。 ナポレオンが隣のエルバ島に追放されたとき、アジャクシオは「喜んだ」と言われています。

「コルシカ島」と言えば「ナポレオン」と私たちは連想しますが、少なくとも当時も今も、独立派のコルシカ人だったら、それは「不愉快」なことだったのではないか、と思います。

 

ナポレオンにはさほど興味がなかったので調べることをしませんでしたが、欧米や日本の「ナポレオン研究家のサイト」がとても多いのに感心しました。

それに対し、コルシカの歴史は資料も研究も少ないようです。

いずれにしても、コルシカと切っても切れないギリシャ移民の話から、「第一次世界大戦後はコルシカ島から南フランスへ市民の大量流出。 この時期に財力のあるコルシカ人が植民者となり、落ちぶれたものの子孫がベトナム、アルジェリア、プエルトリコで農業事業を始めた」というような、コルシカには興味深い話があることに気が付くことができました。

History of Corsica - Wikipedia

Greeks in France - Wikipedia

Greeks in pre-Roman Gaul - Wikipedia

Cargèse - Wikipedia

オマケ:

オック語 - Wikipedia

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナポレオンが大物になった背景-10(コルシカのギリシャ移民とポッツォ・ディ・ボルゴ)

2023年12月16日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

ナポレオンが大物になった背景-4(ヴァランスとマルブフ伯父、甥) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「コルシカでナポレオンの面倒をみた父マルブフがコルシカでギリシャ移民の為に村を建設」というのが気になっていて、改めて調べてみたら、このような記事を見つけました。

 

The Fascinating Story of the Greeks of Corsica - GreekReporter.com

地中海で 4 番目に大きい島であるコルシカ島は、かつてはオスマン帝国の支配から逃れるために逃れてきたマニのギリシャ人にとって人気の目的地でした。 マニ半島の人々は、とりわけ自由な精神とギリシャ正教の伝統への献身で有名です。 17 世紀の終わり頃、オスマン帝国の支配下で生活できなくなった反抗的なマニオ族はコルシカ島に逃れ、そこで独自の小さなマニ族を設立し、言語、信仰、伝統を守りながら新しい故郷に定住しました。

1670年にオスマン帝国がペロポネソス半島のマニ半島の一部(エクソ・マニとザルナタ城、「マニの要城」)を占領したとき、住民に重税を課し、支払いを拒否した人々を迫害しました。 多くの人も亡命を余儀なくされました。 多数のマニオットがジェノヴァ共和国へ逃亡し、定住して耕作できる土地を求めることを決意した。 1675 年 10 月、730 人のマニオットがオイティロス港で船に乗り、ジェノヴァに向かった。 ジェノバ人と交渉したステファノプロス一家が率いるギリシャ人移民には、オイティロス司教パルテニオス・カルカンディスのほか、5人の司祭、12人の修道士、数人の修道女が同行した。

どういうわけか、マニからジェノヴァまでの旅で120人が命を落としました。 残りはジェノバに短期間滞在した後、当時ジェノヴァの領土であったコルシカ島に移送された。 もちろん、何世紀も前に、地中海の島は古代ギリシャ人によって大々的に植民地化されていたため、これはそこでの 2 番目のギリシャ人の植民地を構成しました。 ギリシャ人は島の乾燥した乾燥した場所を与えられましたが、そこは驚くほどマニに似ていました。 移民たちはそれをパオミアと名付けました。 それは現在のカルジェーズ村から東に 4 km (2.5 マイル) の場所にありました。 ギリシャ人はコルシカ島で文化、言語、伝統を守りました。 頑固なマニオットたちは、ジェノヴァ共和国に政治的忠誠を誓いながらも、何世代にもわたって国民的アイデンティティ、言語、多様性、正統信仰を守り続けました。

しかし、彼らのアイデンティティと伝統を維持するのは簡単ではありませんでした。 地元住民は冷酷な人々で、厳格で妥協のないカトリック教徒で、最初から入植者たちを良く思っていませんでした。 コルシカ島とギリシャ人の間の紛争は長年続きました。 それにもかかわらず、マニオ族は繁栄し、互いに近いパンコーネ、コロネ、ロンドリーノ、サリチ、モンテロッソの 5 つの村落を再建しました。 彼らはまた、7 つの小さな教会と聖マルティンに捧げられた修道院を建設し、修復しました。 ロンドリーノの主要教会は被昇天の聖母に捧げられました。 入植者と地元住民の間の紛争は 1715 年に頂点に達し、コルシカ人の武装集団がマニオットを攻撃し、最終的には撃退されました。 1729年、ジェノバ共和国に対するコルシカ人による島全体の蜂起の際、ギリシャ人はジェノバに対する忠誠を保ち、その結果、家が放火され、略奪された。 ついに 1731 年 4 月、ギリシャ人はパオミアを放棄し、アジャシオに避難することを余儀なくされました。

(中略)

1768年、フランスがコルシカ島の支配権を獲得し、フィヘレンであった総督コント・ド・マルブフは、フランス国王から約120のテラスハウスの費用を負担してカルジェーズ村の建設を手配した。 1775 年、ジョルジュ マリー ステファノポリの指導の下、ギリシャ人入植者のほとんどがアジャシオから新しい村に移住し、1784 年までにカルジェーズには 386 人のギリシャ人が住んでいた。

現在、コルシカ島に残っているギリシャ人コミュニティはほんのわずかです。

1789 年から 1791 年にかけて、カルジェーズはフランス革命によってもたらされた一般的な内乱の結果、近隣の村からの攻撃にさらされました。 1794 年、コルシカ島は短期間イギリスの手に落ちました。 1814 年、フランス第一帝政の崩壊に伴い、周囲の村々がカルジェーズ川の農地の一部を引き継ぎました。 1830 年にシャルル 10 世とブルボン王政が打倒されたときも同じことが起こり、コルシカ島のギリシャ人が平和を享受したのは短期間だけでした。 1874 年から 1876 年にかけて、この村のギリシャ語を話す住民の多くがアルジェリアのシディ メルアンに移住しました。同時に、より多くのコルシカ人が移住し、ギリシャ人は少数派になりました。

(後略)

ロマニオット - Wikipedia

 

ナポレオンの家系はもともと トスカーナ出身とのこと。なので、ギリシャ移民の話は直接には関係がなかったと思います。

ところが、ギリシャ移民とつながりがありそうだったのが、ポッツォ・ディ・ボルゴの家系。むしろ、フランス人のマルブフ総督と懇意だったのが、こちらが先だったのではないでしょうか。

Famille Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)

抜粋フランス語google翻訳:

15 世紀半ばに住んでいたピエール ロヴィコ ダ ポッツォ ディ ボルゴは、ザンテ島 (ギリシャ) に定住して繁栄した一族の祖先です。 この支部からは、とりわけ、1598 年にアジャシオの兵士、1606 年にヴェネツィアに従軍した大尉ステファノ ポッツォ ディ ボルゴが誕生しました。

ドメニコ・ポッツォ・ディ・ボルゴ (1612-1685) は 51 年間ヴェネツィア政府の命令下に残り、1675 年にコルフ島、スーダ島、ザンテ島のイタリア中隊の大佐およびカンディア島の少佐としてのキャリアを終えました。 1649年4月29日、ザンテで、ザンテ貴族のジョルジョの娘エレナ・アポストリティと結婚した。 ジローラモ・ポッツォ・ディ・ボルゴ (1660-1705) ヴェネツィア軍曹長、1683 年艦長。1684 年に貴族バティスタの娘ビアンカ・モチェニゴと結婚。この支部はヴェネツィアで 1737 年に曹長ジローラモ ポッツォ ディ ボルゴによって消滅したが、彼は子孫が不明のまま亡くなった。

ポッツォ ディ ボルゴ家の一部の分家は弁護士、公証人、弁護士の家系を生み出していますが、その他の分家はサンゴの船長たちとともに海に目を向けています。 17 世紀以降、ポッツォ ディ ボルゴ家は、主にコルシカ島の町や村、特にアジャシオ、アラタ、アピエット、ヴィラノバだけでなく、地中海沿岸にも設立された多数の支部に分かれました。 コルシカ島では彼らは貴族の一員であり、ジェノバ評議会においてコルシカ人を代表しています。

参考:

スタヴィスキー事件-番外編(フランス人をスウェーデン王にした黒幕) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-7 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-6 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする