ユダヤ人救出に命を懸けたコミュニストやイスラム教徒-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
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「”赤いオーケストラ”は冷戦中のでっち上げ。コミュニストのレジスタンスたちはソ連のスパイなどではなかった。」
と、このレジスタンスの汚名をはらそうとした人がいました。
彼は、ステファン・ロロフ.。
Stefan Roloff - Wikipedia
で、2005年のドキュメンタリーをとりました。
Die Rote Kapelle - Dokumentarfilm von Stefan Roloff - YouTube
彼の父親は、ヘルムート・ロロフ
ヘルムート・ロロフ - Wikipedia
Helmut Roloff - Wikipedia
ところで、ヘルムート・ロロフはヒンデミットと親しく、ヒンデミットはエタ・シュタイナーと親しく、皆反ナチの音楽家でした。
東京裁判〜レーリンク判事&エタ・H・シュナイダーそしてゾルゲ、ウィロビー - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
エタ・ハーリヒ=シュナイダーの謎めいた登場 : 私たちは20世紀に生まれた (exblog.jp)
Eta Harich-Schneider - Wikipedia
エタ・シュナイダーが、ゾルゲと親しく(恋愛関係もあったともいわれている)となるとややこしくなりそうですが、いずれにせよ、反ナチス、ユダヤ人を救う活動をした(処刑されたりもした)人たちが、冷戦によって西側では評価されなかったという事実-これは明かされていくべきでしょう。
なお、赤いオーケストラ(これ自体はナチスが勝手につけた名前)の重要人物の、レオポルト・トレップルの日本語版ウィキペディアがありました。
彼はソ連のスパイと言うより、「イスラエル人コミュニスト」であるだけではないでしょうか。ユダヤ人でも、彼は戦争中も無事でいられたのはなぜ?
レオポルド・トレッペル - Wikipedia
オーストリア・ハンガリー帝国ノイマルクト(現・ポーランドノヴィ・タルク)に生まれる。1918年から左派シオニスト青年組織「ハショミル・ハツァイル」のメンバーとなる。
1924年4月からパレスチナに移住。労働組合の活動家、パレスチナ共産党責任書記として活動し、共産党ハイファ・セクト書記となった。1927年に逮捕。
1929年末、フランスに移り、フランス共産党と接触して活動を継続した。ユダヤ系共産主義紙「デア・モルゲン」(朝)の出版を組織。1932年6月、モスクワに移り、西方少数民族共産主義大学で学びつつ、「デア・エメス」(真実)紙編集部で働いた。その後、I.ヴィラとA.シュトレムの諜報グループが摘発されたことと関連して、フランスでソビエト軍事諜報部の任務を遂行することとなった。
1938年7月、カナダ人ビジネスマン、アダム・ミクレル名義でブリュッセルに到着した。活動のカバーのために、コート製造会社が設立され、他の国にも支社が現れた。
1940年にナチスがベルギーを占領した時、フランスに移り、そこから諜報組織を指導した。在仏ドイツ当局とも密接な業務関係を有し、価値ある軍事・政治情報を個人的に入手することができ、ドイツのソ連侵攻準備についても通報した。当時、ゲシュタポは、ソ連のために働く全ての組織を、その所属に関係なく、赤いオーケストラ(ドイツ語: Die Rote Kapelle)と呼んでいた。トレッペルの「オットー」グループも、この欧州全域にわたるネットワークの中の1つだった。
1942年、赤いオーケストラ各グループの多くのメンバーが逮捕された。1942年11月24日、トレッペル自身もゲシュタポにより逮捕された。ゲシュタポは、トレッペルを二重スパイとして利用しようと試みたが、1943年9月13日に脱走し、フランス共産党のルートでモスクワに警告を発した。その後、1944年8月のパリ解放まで地下活動に入った。
1945年1月、モスクワに戻ったが、二重スパイになっていたという疑いをかけられ、逮捕、尋問に処せられた。1947年7月19日、禁固15年を言い渡された。後年の著書によると、ブティルスク監獄に収容されていた当時、抑留された元関東軍師団長の富永恭次と同室であったという。
スターリンの死後、1954年5月に釈放。3年後ポーランドに移住し、レオポルド・ドンブの名でユダヤ系ポーランド人の文化・啓蒙組織を率いた。
1973年9月、フランスに移住。その後イスラエルに移住し、1982年1月19日、エルサレムで死去、77歳。