『核兵器をめぐる情報』というウエブサイトに、アメリカン大学のピーター・カズニックの論文の和訳があったのでリンクと抜粋を貼り付けます。全文を是非ご覧ください。
http://www1.odn.ne.jp/hikaku/kaku-info/one/110413.htm
(オリジナルの論文はこちらにあります。
The Asia-Pacific Journal Japan Focus
Japan's nuclear history in perspective: Eisenhower and atoms for war and peace
http://www.japanfocus.org/-Yuki-TANAKA/3521)
抜粋:
“・・・日本は、平和憲法と非核3原則および核軍備撤廃公約を持っている、地球上で最も強烈な反核の国である。悲劇的なことに、その日本が過去4半世紀を通じて最も危険かつ長期にわたる核の危機に襲われつつあり、被害は25年前のチェルノブイリの被害を上回る恐れすらある。しかし、日本の反核主義は、過去66年間にわたり最も恥ずかしげもなく好核の国であり続けてきたアメリカへの依存を特徴とするファウスト的契約にもとづいて、つねに成り立ってきた。福島危機の根源と意義はこの奇妙な組み合わせの同盟国ペアの間の不可思議な関係のなかに埋もれていた。
日本が原子力計画に乗り出したのはアメリカのドワイト・アイゼンハワー大統領の政権期であった。アイゼンハワーは、皮肉なことに、自らが創設に尽力した軍産複合体そのものの台頭に警告を発したとして、いま最もよく知られている人物である。かれは、また、広島と長崎に対する原子爆弾投下を批判した唯一のアメリカ大統領でもある。かれは、原爆投下が戦後におけるアメリカの対ソ友好関係の展望を無にすることを恐れて、一時、原子力の国際管理および米国保有核兵器を破棄するため国連への引き渡しを提唱した。
しかし、1953年の大統領就任までに、アイゼンハワーの核兵器に関する見解は一変した。米国が「膨大な軍事支出の積み重ねで窒息死する」ことを望まず、またソ連とのいかなる戦争も早々に核戦争に転化することを想定して、かれは高価な通常兵器戦力から強化された戦略空軍による大量核報復へと重点を移した。ハリー・トルーマン大統領が核兵器を最後の手段と考えていたのに対して、アイゼンハワーの「ニュールック」政策は核兵器を国防戦略の基礎と位置づけた。
(中略)
原子力平和利用の日本への売り込み
ワシントン・ポスト紙はこのマレー委員長の考えを取り上げて、「核軍備競争をめぐる現在の脅迫観念から人の心を転換させる」方法であると激賞した。「いま、日本への原爆投下が不必要であったと意識するアメリカ人は多い。・・・日本に対する償いの一助として、原子力平和利用の手段のオファーに勝るものがあるであろうか。実際のところ、アメリカが東洋人をたんなる核爆弾の餌食と見なしているとするアジアの印象を払いのけるため、これ以上の方法があるであろうか!」
マレーとシドニー・イェーツ下院議員(民主党、イリノイ州選出)は最初の発電用原子力施設を広島に立地するよう提案した。1955年はじめ、イェーツは「原子力を殺害でなく発電のための手段とする」6万キロワット発電施設を同市に建設する法案を提出した。6月までに、アメリカと日本は原子力の研究開発に協力する合意書に調印を済ませた。
しかし、この考えを日本国民に売り込むのはそう簡単ではなかった。米国大使館、米国国務省情報局(USIS)、そして中央情報局(CIA)は、日本に原子力を普及させる強力なキャンペーンを開始するにあたって、日本プロ野球の父であり、読売新聞と日本テレビの経営者である正力松太郎に助力を求めた。A級戦争犯罪人として2年間収監されたあと、正力は裁判にかけられることなく釈放されていた。アメリカ人の目から見て、かれの猛烈な反共主義は自らの名誉回復に役立った。(参照:有馬哲夫著「正力松太郎の日本における原子力普及キャンペーンとCIAの心理戦争」、2006年11月25日東京経済大学に提出された未公刊文書。英文原題:Tetsuo Arima, "Shoriki's Campaign to Promote Nuclear Power in Japan and CIA Psychological Warfare")。正力の新聞は1955年11月1日、アメリカが大騒ぎのすえ開催にこぎつけた日本への原子力の復帰を歓迎する展示会を共催することに同意し、東京で神道のお祓い式典を提供した。アメリカ大使はアイゼンハワー大統領のメッセージを代読して、この展示会こそ「偉大なる原子の力が本日以降、平和の創造に捧げられるとする日米両国の相互的決意の象徴である」と宣言した。
展示会は、東京における6週間の後、広島とそのほか6都市へ旅した。それは、電力生産、ガン治療、食糧保存、害虫制御、科学研究のための原子力平和利用を呼び物にした。軍事利用は慎重に除外された。核の未来は安全かつ豊かであり、興奮に満ちかつ平和であるように見えた。参会者は期待を上回った。京都の場合、USIS報告によると、15万5千人が雪と雨をおして参集した。
映画、講演そして報道記事の滔々たる洪水はとてつもない成功であった。関係当局の報告によれば、「1954年から1955年にかけて原子力に関する世論の変化は目覚ましかった。・・・原子ヒステリーはほとんど除去され、1956年初めまでに日本世論は原子力平和利用を一般的に受容するに至った」。
しかし、こうした歓喜は時期尚早であった。左翼政党や労働組合による反核組織化は一般大衆の共感を呼んだ。1956年4月に行なわれたUSIS調査によると、日本国民の60%は原子力が「人類にとって恵みというより呪い」であろうとし、わずかに25%だけがアメリカは核軍備撤廃にむけて「誠実に努力している」と考えていた。毎日新聞はこの米国のキャンペーンについて、「はじめに放射能雨による洗礼ありき、ついで海外からの『アトムズ・フォア・ピース』を装った巧みな商業主義の高揚」と書いて、こき下ろした。毎日紙は日本国民に対して、「いま日本において『白い手』により繰り広げられつつある原子力競争の背後にあるものを冷静に吟味する」ことを呼びかけた。
しかし、そののち何年にもわたってUSISの活動は強化され、そして実を結び始めた。米国宣伝キャンペーンに関する秘密報告が示しているところによると、1956年には日本国民の70%が「原子」を「有害」と同一視していたが、1958年までにその比率は30%に下落していた。日本が近代的な科学・産業国家となることを願い、また日本がエネルギー資源を欠くことを知っているだけに、一般大衆は原子力が安全かつクリーンであると信じ込むようになった。かれらは広島と長崎の教訓を忘れていた。
1954年には、日本政府は原子力研究計画に資金を提供し始めた。1955年12月になると、原子力基本法が議会を通過し、日本原子力委員会(JAEC)が設置された。正力は原子力担当国務大臣と初代JAEC委員長になった。日本は最初の商業用原子炉を英国から購入したが、その後まもなく米国設計の軽水炉に切り替えた。1957年半ばまでに日本政府はさらに20基の原子炉を購入する契約を結んだ。
(中略)
否定の代価
アメリカが核兵器による人類絶滅の準備を進めている間、日本はかれらなりの形式をとった否定の方針の下に生きていた。1950年代の危なかしいスタートから始まった日本の原子力産業は、1960年代から1970年代にかけて繁栄し、その後も成長を続けた。この3月、津波の引き起こした福島事故のまえの時点において、日本は、54基の発電用原子炉を運転し、電力需要の30%を賄っていたうえ、50%の大台に到達するのも遠くないと見通すものすらいた。しかし、福島における恐るべき核の大災害は、日本国民に対して、核時代の悪夢的側面に三たび対処することを余儀なくさせたばかりか、かれらの原子力計画がクリーンで安全なエネルギーという幻想の中で生まれただけでなく、広島・長崎の得手勝手な忘却と米国核戦力の強化の中で生まれたという事実にも直面することを余儀なくさせた。
日本核遺産の根本的な評価がいま行なわれつつある。日本国民は、かつて、第2次世界大戦の恐怖を体験したのち平和憲法と反核主義の道を切り開いた。それと同様に、日本国民が、今回の悲劇を契機として、グリーン・エネルギーと米国の核の傘の下での抑止の拒絶の双方への道を設定するため前進することが望まれる。”
この、カズニック氏のことを知りたければこちらのインタビュー記事(英語)を。
http://www.hnn.us/articles/124005.html
ユダヤ系であり、ホロコーストで家族を失っているのに、感情に流されることなくナチ政権時代のことさえも分析。米国人でありながら、人間としての視点で見る。
学者としても、人間としても素晴らしい方ですね。
関連:
アトム、ウラン、コバルトというキャラクターが愛された時代
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110417
「原発と言えば核兵器」という発想があったイタリア人
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110717