Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

本当に偉大な人 in ベルリン

2014年01月30日 | 人物

昨日の東京新聞の夕刊に載った記事です。

東京新聞(2014129日)

私を殴った人へ 一緒に働きませんか 邦人男性が広告「人種差別変えたい」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014012902000233.html

[ベルリン=宮本隆彦] 私を殴った人へ、私と一緒に働きませんか-。ベルリンの街角で見知らぬ男から人種偏見の暴力を受けた日本人男性が、一風変わった広告を現場近くの地下鉄駅に出した。「憎しみに憎しみを返しても仕方ない。何か建設的なことをしたかった」。憎しみを捨て、人種の偏見を乗り越えたい。

 男性は、十四年前からこの町で暮らすソフト開発者の山内斉(ひとし)さん(43)。静岡県富士市で小中高校時代を過ごし、東北大に進学。二〇〇〇年に渡独し、現在は独企業で働いている。

 昨年九月の深夜、職場近くのバス停で三十~四十歳の白人の男にからまれ、右目を殴られた。男はドイツ語や英語で「中国人か日本人か韓国人か知らないが、おまえらが大嫌いだ」などと叫んでいた。眼鏡は割れ、目の周りが腫れたが、視力に異常はなかった。

 日独の友人は「運が悪かった」と慰めてくれた。でも山内さんには「男が再び誰かに暴行するのを止めたい」との思いが強く残った。男の憎しみをなくすには「一緒に働くのが一番良い」とも考えた。

 頭に浮かんだのは自身が携わる子ども向けの算数教材の翻訳ボランティア。米国の英語教材をドイツ語に訳す仕事なら、襲撃時に両方の言葉を口にした男に手伝ってもらえると考えた。

 広告はベルリンの繁華街クーダムの地下鉄駅ホームの床に二カ月間掲示された。「親愛なる襲撃者へ あなたの憎しみを止めるため、子ども用教材の翻訳の仕事を提供します」。そんな内容のドイツ語と連絡先を載せ、右目に眼帯をした事件直後の自分の写真も添えた。

 もし男が名乗り出て、翻訳を手伝ってくれるなら報酬も払うつもりだ。

 これまでに翻訳ボランティアの希望者が二人現れたが、男本人からの連絡はまだない。それでも「彼は広告を見たんじゃないかな」と連絡を待ち続けている。「自分の力で暴力や人種差別をなくせるとは思わないが、一人の気持ちなら変えられるかもしれない」

この記事は、私の海外の友人達にも送りました。

Berlinippon

How Hitoshi Yamauchi deals with evil

http://berlinippon.com/tag/hitoshi-yamauchi/

"Here is an amazing story about a Japanese mathematician who was assaulted in a vicious racist attack in a subway station in central West Berlin.

He went back to the scene of the crime and placed a poster with a job offer to the attacker. The job is intended to teach the assailant humanity and get rid of his hatred. The job description is translations of children’s books."

(中でリンクがはってある記事は、ドイツの新聞のものなのでドイツ語です。)

以前から、「法律があったとしても、それがいけないことだと教えても、人の心から差別をなくすことは不可能」と言っていた私ですが、この山内さんの方法は、一つの希望を与えてくれました。

私の友人達のコメントのなかから、イタリア人のクラウディアさんのものを原文のまま、貼り付けさせてもらいます。

“I think this episode is terrible and wonderful at the same time. Terrible of course because such awful things shouldn't happen, but wonderful because of the reaction of the Japanese man.

It's easy to repay hatred with hatred, but a real man has different ways. So when I read about such episodes my faith in human kind suddenly raises.”

クラウディアさんも、山内さんの行動から一種の力を得ます。

それはクラウディアさんや私だけでなく、多くの人もそうだったと思います。

山内さんを殴ったドイツ人(またはドイツ在住者)が、山内さんに連絡をとるかどうかはわかりませんが、山内さんのことは新聞やポスターで気が付くことでしょう。

そして、彼も含めて、もともとの人種差別者、ただの鬱憤晴らしの人種差別者、乱暴者、自分のしていることがどんなに卑しく、そして実は意気地なしのすることかと正気に返る人が少しでもでてくるかもしれません。

(日本の人種差別者にも、山内さんの行動を見て、何かを感じて欲しいと思います。)

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悪質な香港のSNS、Zorpia

2014年01月23日 | 

昨年の11月初め、欧州に住む日本人の知人Kさんを差出人とするメールが届きました。

彼とはあまり連絡をとっていないので、「なんだろう?」と思ってメールを開いたところ、中身は彼からのメールではなく、Zorpiaという会社からのもの。(香港を拠点とするSNSのようです。)

そして、英語で、「Kさんからメッセージがあります。こちらをクリック」と書いてあります。

私はリンクはクリックはしないまま、Kさんに「こんなメールが届いているけど」と直接メールをしました。

それでわかったのは、同じようなメールがKさんに届き、彼がはうっかりリンクを開いてしまったとのこと。その後、彼のアドレス帳に乗った人全員に、Zorpiaから「Kさんからメッセージがあります」というメールが送られてしまったということです。

返事をくれたKさんには、

「・・・しかしまあ、あのサイトは香港版フェイスブックのようなものと擁護する人もいるようですが、私に言わせれば悪質ですね。

SNSは、ここに限らず、似たようなことをしますから、私はすべて警戒します。

まあ、他のものは、「招待メール」という形をとっていて、「××さんからメッセージがあります」という形をとらないだけマシかもしれませんが。」

と書き送りました。

さて、この手のメール、普通は一回来た後も中のリンクを開かないと数回は開封催促のメールが来ます。それと同様このZorpiaからも催促のメールが届いたのですが・・・・このサイト、大変しつこく、何通も届き、それは1月の下旬に差し掛かった今も届きます。一応迷惑メールに入るとはいえ、流石にうんざりします。

皆様、友人知人からのメッセージを装う悪質なZorpiaからのメール(もしくは中のリンク)、開かないようにご注意を!

下手をすれば、友人を失います。

コメント (5)
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2006年アルザス・ロレーヌで

2014年01月22日 | 旅行

2006年初夏に、私はフランクフルトに駐在していた友人Tと彼のご家族を尋ねてフランクフルトに入り、そこから、アルザス・ロレーヌに車で連れて行ってもらいました。

(このときの私の旅のパートナーは同世代の友人Aさんで、友人Tとは初対面。)

この旅行から帰ったあとに彼に送ったメール、たまたま、昔宿泊したホテルのことを調べようとしたときに見つけたのですが、よかったらどうぞ。

(前略)

私がフランスで感じたのは「親日的」というより、「日本文化に対する憧憬を感じた」と言った方がよかったかもしれません。

今回の旅行では現地に人とふれあうことがなかったのですが、シャトーホテルのレストランシェフ(オーナー?)が日本びいき、レストランのお皿なども日本から買ってきている、と、慣れぬ英語でしてくれたボーイさん。ナンシー派博物館でガイドさんから「ジャポニズム」の説明を受けているフランス人学生の団体は、近くを通りかかった私に嬉しそうに微笑みかけてくれたり。それ以外にも観光中のちょっとした視線などからそう感じたのです。

ナンシーはアールヌーボーの町で、ガレなどが日本の影響をうけていることなどから日本に対する思いいれみたいなものがあったのかもしれません。そしてナンシーに限らず他の町でも、私は何度か「ジャポネ~」という言葉を耳にしたような気がします。そしてそれは揃って好意的な響きを持っていました。

そういえば昔モルディブに行った時も似たようなことはありました。当時大晦日をモルディブで過ごす日本人は少なく、客はほとんど欧州人でした。夕食の時など私達の後ろで「フジタ(画家の)」名前が出たりして、振り向くと必ず微笑みが返って来たり、日本の芸術、文化について聞かれたり。

また、気難しそうで誰とも打ち解けなかったギリシャ人の一人旅男性(当時たぶん60代後半くらい)は、私に対し伯父のように接し、可愛がってくれました。彼は若い頃九州の八幡にいたことがあったらしく、文化がどうのというわけではなかったようでしたが、何か良い思い出があるようでした。

(中略)

ドイツ人に関しても、フランクフルト空港で電話のかけ方がわからなくて困っていたのを助けてくれたお兄さん、電車でニコニコ私達をみていたおじいさん(彼に駅について質問したら、本当にうれしそうに答えてくれました。)、ストラスブールに観光に来ていた日本のサッカー選手が贔屓の高齢夫妻等々。まあ、そういう人たちは別に相手が日本人でなくても親切なんだとは思いますが・・。

同じく全般的に旅行を楽しんで帰ったAさんですが、彼女は、フランクフルトのデパートの店員12名に無視された、値段をごまかされた、と言い、また、フランス、ドイツ共、(あまり好意的でない)視線を時々感じたと言っていました。

私はメッスの大聖堂を観光していた東洋系のカップルのうち男性が、若干敵意のような眼差し(女性の方からは敵意は感じませんでした)を向けているのを感じたくらいで、あまりいやな記憶はないです。単に鈍感、能天気になっただけだったのか・・・。

(後略)

さて、このとき一泊したシャトーホテルは、ナンシーの近くの村、リュネビルにあるシャトー・ダドミニル。

ちょうど、『上から読んでも下から読んでも』さんが、このシャトーホテルに宿泊したときのことをブログで紹介してくださっていましたので、リンクを。

http://ameblo.jp/matsuge8/entry-11218010167.html

http://ameblo.jp/matsuge8/entry-11218016891.html

http://ameblo.jp/matsuge8/entry-11218527310.html

http://ameblo.jp/matsuge8/entry-11219355295.html

http://ameblo.jp/matsuge8/entry-11219817624.html

当時私もAさんも「シャトーホテルなんて一生縁がなさそう」と思っていましたが、Tのたっての希望もあって、宿泊しました。

(シャトーホテルといっても、私たちが宿泊したとき(20066月)は、一泊一部屋160ユーロ(朝食なし)、つまり180ユーロ。日本では考えられません。

こうしたこじんまりしたシャトーホテルは不便な場所にあるものがほとんどなので、今後は行くこともないと思いますから、これは良い経験になりました。)

このブログ主さんが泊まられた部屋は、窓からの眺めや家具など見る限りでは、友人T家族が泊まった部屋と一緒の気がします。私とAさんの部屋はその隣のツインで、壁紙はバラ色一色のファンシーな部屋でした。

ところで、このシャトーホテルの部屋で印象に残ったのは、お風呂と洗面所で一室、トイレで一室と独立していたこと。(お風呂からトイレ出入り不可。)

実はこの前日に泊まったストラスブールのホテル(ベストウェスタン系の三ツ星)なども、完全に独立はしていないものの、バスルーム内は左側バスタブ、正面トイレ、右手に洗面台との字型に配置されていて、トイレは扉付き(つまり非常に狭い個室。)でした。

日本のホテルでも、部屋内トイレが個室になっていることは稀なのに、立て続けにこうした扉付のトイレ。

アルザス・ロレーヌにはバスルームとトイレが独立していることが良くあるのか、それとも、これも日本の影響なのか(特にシャトーホテルの場合、日本びいきのシェフがオーナーを兼ねていたとしたら、日本式を真似たのかも。)、謎です(→英国、フランス、オーストラリア、ニュージーランドの住居に独立トイレ仕様はあるみたいです。http://en.wikipedia.org/wiki/Bathroom

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ミラノの運転手さんにとっての福島、そして今日本では

2014年01月22日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

最近読んだ本に、イタリア在住のエッセイスト、内田洋子氏のエッセイ集『イタリアの引き出し』(阪急コミュニケーションズ)があります。

この一篇の『僕の気持ちを届けてください』は、作者がミラノから東京に向かおうと、マルペンサ空港行きの電車乗り場まで行こうと乗ったタクシーの運転手さんとの会話を綴ったものです。(20122月末の話)

後半を転載させてもらいます。

しばらく黙って運転していたが駅に着こうかというとき、

「もうすぐ一年ですね」

運転手は静かに言った。

震災のことだった。

「速報をテレビで見て、大変に驚き、居ても立ってもいられなくなりました」

遅番で家でニュースを見た彼は、タクシーのアンテナに日の丸を付け、ミラノの町に飛び出した。市内を走りに走った。日本に気持ちを届けたかった、という。

「タクシーの運転手になる前、僕は消防士でした」

原発担当で、ガイガーカウンターを常備し、放射線量を測って回るのが彼の仕事だった。

運転手は、福島のこと、町の人たちのこと、現場の作業員たちのことを、あれから毎日ずっと思っている。

「今の僕には、日本まで行ってお手伝いすることができません。僕はお客さんを駅まで運ぶ。お客さんは、どうか僕の気持ちを日本まで運んでください」

駅に着くと運転手は車から降りて、無言のまま深々と日本風にお辞儀をした。

この運転手さんの車は日本車、そして「僕も家族も、可能な限り日本製品を買っています」というくらいの日本ビイキの方でした。

彼は、おそらく今でも福島のこと、町の人たちのこと、現場の作業員達のことを、遠くミラノから思ってくれていることでしょう。

これは彼に限らず、今でも「福島は大丈夫か?」と心配してくれる外国人たちがたくさんいます。

それに対して、東日本大震災はまだ3年も経っていないのに、今、被災地や被災者のことを忘れてしまっているような日本人が少なくない気がします。

日本にあって、外国にない『忘年会』。日本人って、忘れることに対する美学のようなものがあるのか・・・。

政府などは、「おもてなし」「強い日本」と、まるで3年前の災害も原発事故もなかったかのようにふるまい、国民を結束させるどころか、逆に対立を煽っているようにも思えます。

昨年の311日のブログに外国の友人に送ったメールを貼り付けましたが、そのなかで紹介したYoutube 『Pray for Japan (English version)』

http://www.youtube.com/watch?v=MIbvJO3ICqA

の元になったものを見つけました。(こちらはエピソード中心、英語バージョンの方は映像中心)

『この胸の苦しみが愛おしいほどに生きて[東日本大震災] song by Kokia

http://www.youtube.com/watch?v=MqgUMK0Br2I

ついでにこれも。

『0からの始まり song by Kokia

http://www.youtube.com/watch?v=D2YypEDdKOU

(実のところ、歌詞全体は私には消化不良です。

が、いくつかのフレーズは耳に残り、そしてメロディと透明感のある声、心に響きます。)

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サントリーのJim Beam製造元買収の話と"Lost in Translation"

2014年01月15日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

昨日、アメリカ人のティムさん(投資アナリスト)から、

With Suntory's purchase of the historic American bourbon whiskey maker Jim Beam I'm reminded of this scene from the movie "Lost in Translation". 

で始まるメールを貰い、サントリーが米国のバーボンウィスキーメーカー Beam社を高額で買収した話を知りました。

ところで、「サントリー」と言ってこの映画を思い出すのはティムさんだけではなく、ニューヨークタイムズは、「『サントリー』はこの映画で(ハリウッドスター役の)ビル・マーレイが宣伝していたことくらいしか知られていない」とまで書いているよう。

アメリカではわざわざ日本産の洋酒を買う人も少ないでしょうし、サントリーは非上場企業だったとのことで、アメリカで知名度が低いのは仕方がなかったと、後では思い直しましたが、ちょっと私は意外でした。

ところで、サントリーといえば、缶コーヒーBossのコマーシャル、ハリウッドスターのトミー・リー・ジョーンズの「この惑星は・・・」シリーズは日本で人気がありますが、数年前、このCMの動画を何人かの外国の友人達に送ったところ、大うけ。

また、ティムさんは嘗て、「日本の缶コーヒーは美味しいと言う評判だから、日本に行ったら飲んでみたい」といっていたので、サントリーなど率先して、缶コーヒーでアメリカ進出してみたら・・・どうでしょうね。

映画:ロストイントランスレーション

ウィキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

予告編動画

http://www.youtube.com/watch?v=yYAS92XPvIM

ところで、この映画の脚本、製作、監督を務めたソフィア・コッポラは、若い頃日本に住んでいたことがあったようで、彼女はこの映画を「その体験をもとにした半自伝的作品」と言っているようです。

ふと、昔読んだ、ボブ・グリーンのコラム集、“He Was a Midwestern Boy on His Own(翻訳本はおそらくないはず)の中の一つ”Japanese Beat”、日本の異文化にふれて戸惑う筆者を思い出し、ティムさんに本の紹介をしました。

このコラム、大分誇張はあるし、中西部出身の作家グリーンは標準的アメリカ人ビジネスマンとは違って子どもっぽい態度をとり続けていますが、それでも、長時間のフライトでフラフラになっている作者に休息をとらせず、タイトなスケジュールを押し付ける日本招待者たち、握手を求められて迷惑そうな顔をする女性、英語のメニューはあるものの、英語が通じないホテルのモーニングサービス・・・なかなか面白かったです。

(この本が出版されたのは1991年なので、グリーンの東京出張をした時期は、ソフィア・コッポラが日本に住んだ時期と近いかもしれません。)

また、このコラム集にはもう一つ日本人がでてくるものがありますが、それもティムさんに紹介したので、ここでもさせてもらいます。

それは、”In Good Faith”というもの。

時期は日米貿易摩擦の真っ最中の時期、シカゴに出張した日本のビジネスマン山本氏がホテルでブリーフケースの盗難に会い、アメリカに対して不信感を持って帰国したところから始まる話です。

彼の帰国後、彼のもとにカバンに入っていたものと、お金が見知らぬアメリカ人から送られてきます。

その送り主は、シカゴに住む、天涯孤独、無職の退役軍人Josef Loveras

彼は、食べ物をゴミ箱で空き缶を探しているときに、ずたずたになったブリーフケースを見つけます。中は何故かパスポート、航空券、書類、家族の写真を含む私物、そしてお金が入ったまま。

カバンはぼろぼろで使い物にならないので、彼はお金以外の中身を山本氏に速達郵送。お金は郵便ではなくなると思い、(生まれて初めて銀行に行って)円をドルに換金して日本に送金。

送料・手数料は彼にとって安いものではなかったけれど、これは少ない自分の年金から拠出。

こうしたことは、信心深く、正直ものであった彼には当然のことでした。後にアメリカ出張に行った山本氏を彼にお礼を申し出ますが、彼はこれを断り続け、何回目かにやっと受け取りました。

山本氏はこの体験を通じて、アメリカの不信感をなくし、一人ぼっち(山本氏に彼がした善行を知って、彼を「間抜け」扱いする知人はいる。)だったLoveras氏もかけがえのないものを得ます。

コラムは、Lovers氏の言葉で終わります。

Joseph Loveras said he had heard that some people are saying that the Americans and the Japanese might be to starting to harbor ill toward each other because of international economic conditons. Loveras said that he didn’t understand all details of this; he said that he wasn’t very well versed in such global matters.

“I really feel I have found a friend in Yamamoto,” Loveras said “He’s married and he has two children. What a fine gentleman.”

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釜石捕虜収容所の元所長のお孫さんのコラムを読んで

2014年01月14日 | 社会(歴史・都市計画含む)

釜石捕虜収容所について、ブログで2度取り上げていますが、

『安倍首相の靖国参拝が台無しにするもの』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20131230

『空の空なればこそ』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20131213

ちょうど、ニューズウィークの編集部の小暮聡子氏がこんなコラムを書いていたので、貼り付けます。

ニューズウィーク(2014114日)

祖父と私と「永遠の0」

http://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2014/01/post-274_1.php

おじいちゃんは「戦争犯罪人」だった――私がそれを知ったのは、今から16年前、高校生のときだ。

祖父・稲木誠は第2次大戦中、岩手県釜石市にあった連合軍捕虜収容所の所長を務めていた。「連合軍捕虜」というのは、戦時中に日本軍がアジア・太平洋地域で捕虜として捕えた連合軍将兵約14万人のことだ。そのうち約36000人は日本に連行され、終戦まで全国各地の収容所で生活しながら労働力不足を補うべく働かされていた。祖父は311で大きな被害を受けた釜石市沿岸部の捕虜収容所で、製鉄所で働く捕虜約400人を管理していた。捕虜の国籍はオランダ、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどで、その多くは若者だった。祖父も当時、28歳だった。

釜石市が近年の歴史で海からの脅威にさらされたのは、311が初めてではない。終戦が迫った1945年7月と8月、この町は太平洋から連合軍による艦砲射撃を浴び、壊滅的な被害を受けた。祖父が管理する収容所でも、捕虜32人が犠牲になった。祖父は戦後その安全管理責任などを問われて戦争犯罪人(B級戦犯)となり、巣鴨プリズンに5年半拘禁された。巣鴨プリズンというのは、東條英機などA級戦犯も入っていた監獄のことだ。現在その跡地には池袋サンシャインビルが建っている。

祖父は大学で英語や哲学を学んだ後に学徒兵として徴兵されたため、巣鴨プリズンでは英字誌のタイムやニューズウィークを読んでいた。戦時中の日本の新聞と比べて質の高い報道に触れ「ジャーナリズムの世界でもアメリカに敗れた」と感じた祖父は、プリズンを出た後に記者になった。

それから20年以上が過ぎた頃、釜石市で元捕虜だったオランダ人のファン・デル・フックという人から釜石市長宛に1通の手紙が届いた。そこには「収容所での取り扱いは良かった」と書かれていた。「戦犯」という十字架を背負いながら生きてきた祖父にとって、それは天上からの福音のようにありがたいニュースだった。過酷な捕虜生活を生き延び母国へ帰ったフックさんが、人生の終盤に際して祖父の心を救ってくれたのだ。これをきっかけに2人は文通を始め、敵味方を超えた友情を育んでいった。フックさんから祖父に贈られた捕虜収容所での集合写真の裏側には、フックさんの字でこう書かれている――「1944年クリスマス 人情味ある所長であった稲木さんへ敬意をもって」。

私がこれらの話を知ったのは、高校時代のある夏の日だ。祖父は私が7歳のときに他界していたため、戦争体験については彼が記者を辞めてから出版した本などの手記を読んで初めて知ることができた。祖父の記憶と言えば、いつも優しくひょうきんで、幼い私に身振り手振りで英単語を教えてくれたこと。その祖父からは想像も出来ない壮絶な人生に、手記を読むうちどんどん引き込まれていった。単純に、祖父のことをもっと知りたいと思った。

祖父から直接話を聞くことが出来なかったため、それ以来私は祖父を知る人物を探してきた。大学時代には釜石市を訪れて祖父の元部下に会い、アメリカ留学時には元連合軍捕虜の戦友会に参加したり、メリーランド州にある公文書館で祖父の裁判資料をあさったりして調査を続けた。それでも、祖父を知る元捕虜を見つけることは出来なかった。

当時のことを調べるなかでは、知りたくなかったことも沢山出てきた。釜石にいたアメリカ人元捕虜(既に他界)が書いた本には、祖父のことが悪く書かれていた。祖父に有罪判決を下したアメリカ側の裁判資料にも、フックさんが手紙の中で回想する祖父像とはかけ離れた供述ばかりが並んでいた。今から10年前には、釜石にいた元捕虜が米ワシントン州に存命していることが分かった。だが私が電話をすると「話せない」とすぐに切られてしまった。当時の私はまだ勉強不足で、元捕虜の苦しみを本当の意味では理解できていなかった。

それから7年が過ぎた2010年、 知人から「釜石にいた捕虜がアメリカで見つかった」という連絡が来た。待ちに待ったはずのニュースだったが、私は嬉しいというより戸惑った。これまで別の収容所にいた各国の元捕虜たちと交流してきて分かったのは、彼らは終戦後もずっと痛みを抱えたまま生きてきたということだ。元捕虜の多くは90歳を迎えて静かな余生を送っている今、私が突然連絡をすれば当時の悲惨な記憶を蘇らせることになる。そう思うと、この捕虜に連絡することがどうしても出来なかった。

(後略)

このあと小暮氏はアメリカにいるもと捕虜のところを訪れ、歓待されたことを書き綴っています。

恐らく、お祖父様の稲木誠氏は優れた人柄で、この収容所の扱いも入鹿の里や水巻町の収容所と同じく、人道的であったと思います。

それは、出来上がったのが戦後18年後であっても、釜石に連行された中国人の慰霊の像があると言うことだけでも想像できます。

しかし、この小暮氏の文章のなかには、欧米の捕虜の話しかでてこず、しかも、

「ウォーナーさんには、日本や当時の体験、祖父や私に対する恨みや憎しみなどが一切見て取れないのだ。彼の4世代に渡る家族にも、全くそういう感情が見えない。ウォーナーさんのひ孫(19歳) に「ひいおじいちゃんから、戦争の話を聞くことはある?」と尋ねると、笑顔で「しょっちゅう。木の下とかでね」という答えが返ってくる。孫も、ひ孫も、みんな口を揃えて「おじいちゃんに会うたびに戦争体験について聞いてきた」と語る。それでも、彼らには私を警戒したり、非難するようなそぶりは皆無だ。それはつまり、ウォーナーさんがそういう教育をしてこなかったということに違いない。少しでもそういう語り方をしていたら、逆に4世代に渡って日本に対する憎しみが引き継がれていたかもしれないのだ。」

と書いています。

小暮氏は日本に連行された中国人300名については全く言及しておらず、逆に中韓を暗に批判しているようですが、お祖父様はそれをどう思うだろうか・・・と感じずにはいられません。

追記:

『永遠のゼロ』といえば、作者の百田尚樹氏は、昨年10月にツィッターで、

「すごくいいことを思いついた!もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す。 そして他国の軍隊の前に立ち、「こっちには9条があるぞ!立ち去れ!」と叫んでもらう。 もし、9条の威力が本物なら、そこで戦争は終わる。 世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる。」

と呟いていたというのを、最近知りました。

「『他国』が攻めてくることは100パーセントない」とは言えず、安全保障についてはきれいごとだけを言っているわけには行かないと私は思いますが、「揉め事を解決しようとしないばかりか、相手を刺激して勝つこと」しか頭にない輩に限ってこういうことを言うもんだな・・・と思いました。

彼が安倍首相のお友達で、NHKの委員になるんですから、まったく。

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60年代沖縄で生物兵器実験をしていた米国

2014年01月13日 | 社会(歴史・都市計画含む)

今朝の東京新聞に以下の記事がありました。

東京新聞 (2014113日)

60年代沖縄で生物兵器実験

日本に復帰前の1960年代初めの沖縄で、稲作に深刻な打撃を与える生物兵器の研究開発のため、米軍が屋外実験を繰り返していたことが分かった。

稲に大きな被害をもたらす「いもち病菌」を水田に散布し、データを集めていた。共同通信が米軍の報告書を米国の情報公開制度で入手した。

 米国本土や台湾でも実験しており、沖縄が米軍の生物兵器の研究開発戦略に組み込まれていた実態が浮かび上がった。中国や東南アジアを念頭に開発を進めていたとみられる。その後米国は69年、人に被害を与える病原体を含め、保有する生物兵器の廃棄を決めた。

報告書は、米陸軍がいもち菌を使った研究開発の結果をまとめて65年の作成。実験場所の一つとして沖縄が明示され、61年~62年に少なくとも12回の実験が記載されている。

「ナゴ」「シュリ」「イシカワ」という具体的地名があり、名護や首里、石川(うるま市)の可能性があるが、基地の敷地内だったのかなど詳細は不明だ。

報告書は、いもち病菌の散布について「沖縄と台湾では、菌をまくために小型の散布機を使った」と記述。614月に沖縄で行った散布実験では、数十メートル離れた場所にどの程度菌が届くかを計測した。

他の11回の実験では、稲にできた病斑の数や期間中の気象条件、少量の減少率などのデータを集めていた。

また、61年~62年にナゴで、日本と台湾、米国の稲の品種を使い実験したなどとする記述もあり、実験回数はさらに多かった可能性もある。

同様に入手した米陸軍の別の文書は、沖縄などで行った実験が「有用なデータの蓄積という点で部分的な成功を収めた」と評価している。

この実験は、ケネディ政権下、マクマナラ国防長官の指揮のもと行われたプロジェクト112の一環とのこと。

NHK

プロジェクト112 知られざる米軍化学兵器開発

http://www.nhk-g.co.jp/program/documentary/2013/053/

『みんな正しくHappyがいい』 さん

<毒ガス貯蔵・沖縄> プロジェクト112~知られざる米軍化学兵器開発

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3223.html

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3224.html

私は1960年代初め生まれですが、幼稚園の受け持ちの先生が『新垣先生』という名前の、沖縄出身の綺麗な先生でした。ということで、私が『沖縄』という名を知ったのは4,5歳の頃。

幼稚園生だった私にとって沖縄は、「南国。行くのにパスポートが必要な日本。英語が使えるし、ドルでお買い物ができるところ」くらいしかなく、TVでみる『ルーシー・ショー』『奥様は魔女』『ニューヨーク・パパ』、ディズニー映画を作る“夢の国アメリカ”は、“民主的で正義の国”と信じていました。

当時、こんなことをしていたんですね。

それにしても、生物兵器を他国で実験、というのも恐ろしいですが、国に対しての『兵糧攻め』の発想って、卑劣ですし、怖いです。

(生物化学兵器を使わなくとも、国が食料を輸入に頼り、自国の農業を守らないとしたら『兵糧攻め』にあいやすくなりますし、世界的な飢饉、それから燃料となるオイルが枯渇すれば、食料の輸入はストップするでしょう。)

追記:『兵糧攻め』といえば、キューバのことを思い出しました。

その関連で興味深いものを見つけたのでついでに貼り付けます。

キューバと北朝鮮のピークオイル

http://www14.plala.or.jp/Cuba/Cubaene20060801.htm

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あけましておめでとうございます

2014年01月04日 | 

皆様、

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

今年の初夢は電車に乗って出かける夢でした。

息子も4月から社会人になり、私も完全に子育てから開放されるので、新しい一歩を踏み出せということなのか。

ということで、今年は1人でちょっと長く海外に行こうかな・・・などと考えています。

(が、夫も海外旅行に行く気になってきたので、やはり短期になってしまうかも。)

さてブログに登場してもらっている友人達で、新しい一歩を踏み出したり、海外での予定がある人達について、ちょっとご紹介。

日本人ペンフレンドのさちえさんは欧州移住に向けて、4月からベルギーに3ヶ月滞在予定。

(『さちえさんの旅行記(ベルギー編)』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20120820外)

ドイツ人ペンフレンドのカイさんとブルクハルトさんを紹介させてもらったマリさんは、昨年の1月から1年間の予定でドイツに留学していましたが、あちらでお仕事が見つかったのか、そのまま数年ドイツに留まることにしたそうです。

(『ドイツに留学中のマリさんと『引き出し』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20130225

ドイツ在住のくにこさんは、1月中に帰国することになりました。

(『コミュニティと日本人-ドイツのくにこさんからのメール』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20130905外)

20123月に一緒にドイツとイタリアに旅行をしたトモエさんは、3月に、ドイツのブルクハルトさんの町と彼女の別のドイツ人の友人の町、そしてイタリアのマリアさんの町で日本イベントを開きます。

このとき一緒に旅行にいった、私の息子も2月にヴェネツィアへ友人と旅行。

(ヴェネツィア大学に通っていた日本語ができるイタリア人女の子とペンフレンドになっています。)

(『ただいま!

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20120322外)

外国人の友人達では、

イタリア人のルイジさん、フランス人のアリーヌさん、ドイツ人のブルクハルトさんも来日予定。フランス人のジュリーさんは昨年末から来日しています。

スペインのベゴーニャさんが、イースター休暇に再来日。

(しかし今回は京都を拠点とします。)

(異文化カテゴリー

http://afternoon-tea-club.blog.ocn.ne.jp/blog/cat6462193/

来日組ではありませんが、年末年始はニューカレドニアに住むご両親とお姉さんのバネッサさんが住むパリで過ごしたアンソニー君、彼はビバリーヒルズからマンハッタンへ転勤となり、もうわくわくしています。

今年も日本に出張にこれるかな・・。

(『24年ぶりに再会したアンソニー君 / マイケル・プロンコ氏のコラム』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20130423外)

今年も、皆様にとって良い一年になりますように!

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