<1287> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (97)
[碑文1] 打上 佐保能河原之 青柳者 今者春部登 成尒鶏類鴨 大伴坂上郎女
[碑文2] 佐保川の 清き河原に鳴く千鳥 かはづと二つ 忘れかねつも 詠 人 未 詳
今回は佐保川を詠んだ万葉歌碑を見てみたいと思う。佐保川は奈良盆地(大和平野)のほぼ中央を東西に流れる大和川の北東に流域を持つ支流の一つで、奈良市の若草山の奥の春日山原始林を源流とし、山中の渓谷を北流した後、中ノ川町で西に転じ、奈良盆地に出ると、佐保丘陵の縁を南西の平城宮跡方面に向かい、芝辻町付近で南に向きを変え、西の秋篠川や東の岩井川、地蔵院川等を合せ、大和郡山市額田部南町で大和川に合流する一級河川である。
藤原宮(現橿原市)を造営するとき滋賀県で伐り出した檜の材を運ぶ際、川を利用したが、平城宮(現奈良市)を造るときも藤原宮の旧材をやはり川を利用して運んだとされ、大和川の南北の支流である飛鳥川や佐保川をそのルートにしたようである。ともに現在は水量が少なく、材木は運べないが、当時は水が豊富で、水運の盛んな川だったのだろう。『万葉集』には飛鳥川とともによく詠まれている川で、長短歌合わせ十七首ほどに及び、川の風光も愛でられていたのがわかる。今回はその佐保川を詠んだ中の二つの歌の碑に触れることにする。
まず、碑文1の歌は『万葉集』巻八の雑歌の項の大伴坂上郎女の1433番の歌で、碑は冒頭に示した通り、原文表記によっている。語訳すれば、 「うち上る佐保の河原の青柳は今は春へとなりにけるかも」 となり、「佐保の河原の柳が青味を増し、まさに春を迎えた」というものである。「打上(うちのぼる)」は河原に沿って登って行く地勢をいうものと解され、佐保丘陵の麓に当たる法蓮町付近の風景ではないかと想像される。この柳は中国から梅とほぼ同時期に渡来したとされる枝垂れ柳と思われる。
坂上郎女は奈良時代前期の歌人で、大伴安麻呂と石川内命婦の娘で、大伴旅人の異母妹に当たり、幼くして穂積皇子と結婚したが、死別し、藤原不比等の四男麻呂と親交をもった。しかし、麻呂とも死別し、その後、異母兄の大伴宿奈麻呂と結婚、坂上大嬢と二嬢をもうけた。だが、しばらく後、宿奈麻呂も亡くなるという悲運が続いた。
その後、旅人の妻が任地の大宰府において亡くなったことにより、大宰府に赴き、旅人を助け、家持や書持の養育にも当たった。その後、旅人が帰京して間もなく亡くなり、彼女は大伴家の刀自(主婦)として一家を支えるに至った。言わば、彼女は男性遍歴この上もない女性だったが、晩年は大伴家になくてはならない気丈な女性として存在した。娘の大嬢は家持の妻になり、家持にとって坂上郎女は叔母であり、姑に当たる女性であるが、歌の才質は血筋とみられ、万葉きっての女流歌人として『万葉集』に長短歌八十四首を遺しているほどである。
その中に、この佐保川の歌はあるわけであるが、ほかにも、 「わが背子が見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも」 (1432)という佐保の柳を詠んだ歌が見える。後の西行の歌にも 「見渡せば佐保の河原にくりかけて風によらるる青柳の糸」 (『山家集』54)とあり、佐保の柳はよく知られていたことがうかがえる。なお、坂上の名は佐保の坂の上(現奈良市法蓮町北町)に住まいがあったからと言われる。彼女にとって、言わば、佐保川の辺りは生活圏にあった。奈良時代の川の名称は地名に添うところがあるので、この歌は佐保川の中でも法蓮町の佐保の地で詠まれたことがわかる。
一方、碑文2の歌は、原文表記では 「佐保河之 清河原尒 鳴知鳥 河津跡二 忘金津毛」 とあり、佐保川には当時千鳥がよく見られたのであろう。佐保川の千鳥は六首に詠まれ、 一首には「佐保川にさ驟(ばし)る千鳥夜更(よぐた)ちて汝が声聞けば寝(い)ねがてなくに」 (1124)とある。現在はコンクリートで護岸された町中を流れる川の印象が強いが、当時は千鳥なども多く見られる自然が豊富な川筋だったことが想像される。なお、「河津(かはづ)」は飛鳥川の歌にも「川津」で登場し、鳴き声が詠まれている。
碑文1の歌碑は奈良市法蓮町の佐保川右岸沿いの緑地公園内に昭和四十六年(一九七一年)に建てられ、碑文2の歌碑は大和郡山市下三橋町のこれも佐保川左岸の堤に昭和四十八年(一九七三年)に建てられたもので、平城宮跡の南方に当たる羅城門跡に近いところである。写真は左から碑文1と碑文2の歌碑。次は奈良市法蓮町付近の佐保川、芽を吹く佐保川の枝垂れ柳、川面で小魚を狙う白鷺。
佐保川の 柳芽吹けり 子等の声