大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月16日 | 写詩・写歌・写俳

<1288> 定めの季節

      時は来ぬ  渡りの群が 空をゆく  祈願のこころ 尽くし行くべし

 中世の歌人、摂政太政大臣藤原良経に 「帰る鴈 いまはの心 有明に 月と花との 名こそをしけれ」 という歌がある。「雁が有明の月と花の美しさを見捨てて帰るのは、月と花の名折れ、その美しさが惜しまれる」という。正治二年(一二〇〇年)の初度百首に初出し、『新古今和歌集』巻一春歌上(62)に見える。本歌は『古今和歌集』巻一春歌上の「はるがすみ たつをみすてて ゆくかりは 花なき里に すみやならへる」という(31)の伊勢の歌である。雁は北国よりやって来る冬の渡り鳥で、春の花には背くのが倣いであるが、大和心はそれを惜しいと思う。その思いを呟いたのが良経の歌であり、伊勢の本歌である。ほかにもこの類の歌は見られ、『新古今和歌集』には次のような歌が連ねられている。

                                                                      

  聞く人ぞ なみだはおつる 帰るかり 鳴きて行くなる 明けぼのの空                                                                  藤原俊成

  故郷に 帰る鴈がね さ夜ふけて 雲路にまよふ 声聞こゆ也                                                                     詠人未詳

    霜まよふ 空にしをれし 鴈がねの 帰るつばさに 春雨ぞふる                                                                        藤原家定

 雁は秋に来て春に帰って行く冬の水鳥であるから、その姿には自ずと冬季の季節感が伴っている。来る雁にも、帰る雁にもその姿には時が纏い、その時ゆえに見る者には切ないような思いが生まれることになる。所謂、「いまはのこころ」は切ないと知れる。果たして、雁の旅は遠く厳しいものが想像される。見送る者たちの心持ちはそこに向かう。歌の中の明けぼのの空も夜更けの雲路も激しく降る霜も春雨もその心持ちに関わって来ることになる。帰る雁にはまた来いよという呼びかけが歌の中には滲んでいる。では、渡りを定めの雁に今一首を贈ろう。写真はイメージで、空ゆく鴨の群。「みんな無事で」とは見上げる者たち、悲願と祈願の縁者たる者の心である。

  北を指す 渡りよ旅よ 遥かなれ 行くからはみな 悲願を遂げよ

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月15日 | 写詩・写歌・写俳

<1287> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (97)

          [碑文1]          打上 佐保能河原之 青柳者 今者春部登 成尒鶏類鴨                                大伴坂上郎女

        [碑文2]          佐保川の 清き河原に鳴く千鳥 かはづと二つ 忘れかねつも                               詠 人 未 詳

  今回は佐保川を詠んだ万葉歌碑を見てみたいと思う。佐保川は奈良盆地(大和平野)のほぼ中央を東西に流れる大和川の北東に流域を持つ支流の一つで、奈良市の若草山の奥の春日山原始林を源流とし、山中の渓谷を北流した後、中ノ川町で西に転じ、奈良盆地に出ると、佐保丘陵の縁を南西の平城宮跡方面に向かい、芝辻町付近で南に向きを変え、西の秋篠川や東の岩井川、地蔵院川等を合せ、大和郡山市額田部南町で大和川に合流する一級河川である。

 藤原宮(現橿原市)を造営するとき滋賀県で伐り出した檜の材を運ぶ際、川を利用したが、平城宮(現奈良市)を造るときも藤原宮の旧材をやはり川を利用して運んだとされ、大和川の南北の支流である飛鳥川や佐保川をそのルートにしたようである。ともに現在は水量が少なく、材木は運べないが、当時は水が豊富で、水運の盛んな川だったのだろう。『万葉集』には飛鳥川とともによく詠まれている川で、長短歌合わせ十七首ほどに及び、川の風光も愛でられていたのがわかる。今回はその佐保川を詠んだ中の二つの歌の碑に触れることにする。

                    

 まず、碑文1の歌は『万葉集』巻八の雑歌の項の大伴坂上郎女の1433番の歌で、碑は冒頭に示した通り、原文表記によっている。語訳すれば、 「うち上る佐保の河原の青柳は今は春へとなりにけるかも」 となり、「佐保の河原の柳が青味を増し、まさに春を迎えた」というものである。「打上(うちのぼる)」は河原に沿って登って行く地勢をいうものと解され、佐保丘陵の麓に当たる法蓮町付近の風景ではないかと想像される。この柳は中国から梅とほぼ同時期に渡来したとされる枝垂れ柳と思われる。

 坂上郎女は奈良時代前期の歌人で、大伴安麻呂と石川内命婦の娘で、大伴旅人の異母妹に当たり、幼くして穂積皇子と結婚したが、死別し、藤原不比等の四男麻呂と親交をもった。しかし、麻呂とも死別し、その後、異母兄の大伴宿奈麻呂と結婚、坂上大嬢と二嬢をもうけた。だが、しばらく後、宿奈麻呂も亡くなるという悲運が続いた。

 その後、旅人の妻が任地の大宰府において亡くなったことにより、大宰府に赴き、旅人を助け、家持や書持の養育にも当たった。その後、旅人が帰京して間もなく亡くなり、彼女は大伴家の刀自(主婦)として一家を支えるに至った。言わば、彼女は男性遍歴この上もない女性だったが、晩年は大伴家になくてはならない気丈な女性として存在した。娘の大嬢は家持の妻になり、家持にとって坂上郎女は叔母であり、姑に当たる女性であるが、歌の才質は血筋とみられ、万葉きっての女流歌人として『万葉集』に長短歌八十四首を遺しているほどである。

 その中に、この佐保川の歌はあるわけであるが、ほかにも、 「わが背子が見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも」 (1432)という佐保の柳を詠んだ歌が見える。後の西行の歌にも 「見渡せば佐保の河原にくりかけて風によらるる青柳の糸」 (『山家集』54)とあり、佐保の柳はよく知られていたことがうかがえる。なお、坂上の名は佐保の坂の上(現奈良市法蓮町北町)に住まいがあったからと言われる。彼女にとって、言わば、佐保川の辺りは生活圏にあった。奈良時代の川の名称は地名に添うところがあるので、この歌は佐保川の中でも法蓮町の佐保の地で詠まれたことがわかる。

 一方、碑文2の歌は、原文表記では 「佐保河之 清河原尒 鳴知鳥 河津跡二 忘金津毛」 とあり、佐保川には当時千鳥がよく見られたのであろう。佐保川の千鳥は六首に詠まれ、 一首には「佐保川にさ驟(ばし)る千鳥夜更(よぐた)ちて汝が声聞けば寝(い)ねがてなくに」 (1124)とある。現在はコンクリートで護岸された町中を流れる川の印象が強いが、当時は千鳥なども多く見られる自然が豊富な川筋だったことが想像される。なお、「河津(かはづ)」は飛鳥川の歌にも「川津」で登場し、鳴き声が詠まれている。

 碑文1の歌碑は奈良市法蓮町の佐保川右岸沿いの緑地公園内に昭和四十六年(一九七一年)に建てられ、碑文2の歌碑は大和郡山市下三橋町のこれも佐保川左岸の堤に昭和四十八年(一九七三年)に建てられたもので、平城宮跡の南方に当たる羅城門跡に近いところである。写真は左から碑文1と碑文2の歌碑。次は奈良市法蓮町付近の佐保川、芽を吹く佐保川の枝垂れ柳、川面で小魚を狙う白鷺。

    佐保川の 柳芽吹けり 子等の声

 

 


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2015年03月14日 | 写詩・写歌・写俳

<1286> お水取りの修二会満行

      つつがなく 満行迎へし お水取り 奈良はいよいよ 盛りの春へ

 三月一日から行なわれていた東大寺二月堂の修二会本行のお水取りが十五日未明に満行を迎える。十四日の夜は大松明の運行が最後ということで、多くの見物衆が集まった。この修二会は本尊の十一面観世音菩薩に二月堂下の閼伽井屋の若狭井から汲み上げた御香水(聖水)を十一面観世音菩薩に供え、天下太平、五穀豊穣、万民安泰等を祈願する悔過法要である。天平勝宝四年(七五二年)に始まり、欠くことなく行なわれ、今に続いていると言われる。選ばれた練行衆と呼ばれる十一人の僧が籠り、二月二十日から始められる前行(別火・べっか)を含め、二十四日間に及ぶ長期の法会で、奈良に春を呼ぶ恒例の行事として親しまれている。

                                

 最終日の十四日、大和地方は朝方雨で、午後になって天気が回復に向かい、夕方にはすっかり晴れ上がって、日が落ちると急に寒くなった。この日のお松明は前日までと違い、午後六時半から十一本の大松明が揃って二月堂の舞台に上がり、廻廊に並んで勾欄から一斉に突き出し、振り回わされと、大松明は激しく火の粉を撒き散らし十分ほどで終わった。火の粉が舞い落ちると観衆から歓声があがり、お松明が終了すると拍手が起きた。 お水取りが終われば、奈良はいよいよ春本番である。 写真は二月堂の舞台上で一列に並んで燃え上がるお水取り最終日のお松明。


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2015年03月13日 | 写詩・写歌・写俳

<1285> 同 窓 生

     同窓の面々 来し方半世紀 みなそれぞれに 風貌の人

 このほど高校時代の同窓会があり、欠席したのであったが、報告の便りが届いた。出席七十人ということで、葉書の半分ほどに同窓生たちの集合写真がレイアウトされていた。男女半々がそれぞれの出で立ちで写っている。思えば、古稀を迎えた来し方約半世紀の面々である。当時の面影がうかがえる顔も見られるが、ほとんどはわからない。言わば、これは歳月の仕業ではあるが、それぞれの風貌には齢を重ねて来た自負なきにしもあらずの感がうかがえる。

                                        

 長いようで短かった五十年を歩んで来た感慨は同窓生一人一人当然のこと異なるのであろうが、同じ時代を歩んで来たことに相違ない。学校の周辺は整備され、校舎も木造から鉄筋になって久しい。自転車で通った片道約八キロの道のり。とにかく、あこがれを抱いて元気に通学した青春ではあった。これから如何ほどの道のりか、面々には幸多かれと祈るのみ。 写真は同窓会の集合写真に納まった面々。では、写真に寄せる感慨の歌を今一首。

   古稀を過ぎ 来たりて 今にある姿  同窓一同 半世紀経て

 

 


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2015年03月12日 | 写詩・写歌・写俳

<1284> 蜘蛛と小紫陽花の花

         恋の題 寄り添ひ 花に蜘蛛二匹

 最近、高浜虚子の句に接した。中に「ふるひ居る小さき蜘蛛や立葵」という句があった。昭和五年の作で、蜘蛛も立葵もともに夏の季語。つまり、季が夏の句である。季語が二つを嫌う御仁もいるが、虚子は問題にしないように見受けられる。この句の場合は主役が蜘蛛で立葵の近くに網を張って獲物を捕えにかかっているところであろう。蜘蛛は女郎蜘蛛か。この句に接し、以前、小紫陽花(こあじさい)の花の下で睦み合う蜘蛛の写真を撮ったのを思い出した。

 今の時期にとは思いつつ、虚子の句に触発され、その写真を題材にしてこのほど句作を試みた次第である。蜘蛛というのは、最近、毒を有するとして騒がれている外来のセアカゴケグモのような要注意蜘蛛もいて怖い存在ではある。その姿はどちらかと言えばグロテスクで、猛烈に嫌う人も少なからずいるが、蛇や百足のようには嫌われる存在ではないところがうかがえる。

                        

 写真の光景は三重県境に近い東吉野村の山中で見かけたもの。撮影は六月で、花はコアジサイ(小紫陽花)である。蜘蛛は胴体部分が一センチ弱の小さな種類で、如何なる名を持つのか、残念ながら私には不明である。コアジサイは杉林の縁に群落をつくり、いたるところに花が見られた。その中の一花にカメラを向けたところ、花の下に睦み合う二匹の蜘蛛がいたという次第である。

 このときふと思った。こんなところにも生の営みが展開されている、と。日が差し来る度にコアジサイの花や葉が輝き、蜘蛛の世界を彩った。まさに、蜘蛛には至福のときであったろう。それがレンズを通して感じられた。全く小さな領域の世界であるが、これも歴然たる生の光景である。フレーミングを決め、花と蜘蛛に焦点を合わせ、シャッターを切ったのであった。

  コアジサイはユキノシタ科アジサイ属の落葉低木で、関東以西、四国、九州に自生分布し、大和地方の山地にも多く見られ、日本の固有種として知られる。幹の下部で枝分れし、横に広がり高さ一、二メートルになる。葉は卵形で、先が尖り、縁に大きな鋸歯が見られ、葉の両面に毛が散生する。花は六、七月ごろ、枝先に散房状の花序をつけ、直径四ミリ前後の両性花を多数咲かせる。花弁は白色から淡青色まで見られるが、陽光の加減や角度によって色彩に変化が見られ、アジサイの仲間の中では地味な花を咲かせる部類に入るが、その花には味わいがある。 写真は日の光を受けて咲くコアジサイのもとで睦み合う蜘蛛。では、なお、次なる四句。

    蜘蛛に蜘蛛の営み 花に花の萌え

    花の蔭 蜘蛛には蜘蛛の世界あり

    小紫陽花 日が差し来れば輝きぬ

      寄する恋 花の下にて 蜘蛛二匹