Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

教員のいじめに思う⑤

2019年10月18日 | Weblog
 神戸市立東須磨小学校の「教員いじめ」で、その道具に使われたカレーを給食から一時的に中止すると市教委が発表し、ネット上でも波紋が広がっている。

・・・とのニュースを見て、やはりこうなるかぁと思いました。

教員がやっていることと同じ事をする子どもが出てきた時に、先生が指導すれば、「先生たちの真似だけど何か?」と言われそうで、その場合、指導ができないということです。

おそらくそうでしょう。しかし、子どもが大人の真似をするのは当たり前のことです。それが良いことであれ、悪いことであれ、真似をする。だから、大人の立ち居振る舞いそのものが教育なのです。

今回の措置は、真似をさせないようにしようと、本来、何の罪も無いカレーを出さなくするもので、ある種の卑怯さを感じます。子どもたちに真似をさせないような指導ができないこと、すなわち、教育への信念がないことを認めているようなものだからです。

大人たちの卑怯な振る舞いもまた、いずれ真似されるということを思い知るしかないのだと思います。

教育的信念など、期待しても仕方が無いのかもしれません。きっと件の教員もまたTVのお笑い番組を見て、ただふざけただけなのです。そのお笑い番組を見て、笑っていた人たちもまた、今日のこの社会的風潮を作ることに加担した人たちです。同様に止めることもできずに傍観してきた私にも応分の罪があります。

そう考えると、日頃から、善悪の判断を自分でできなくなっていることが、そして、正しいことを主張できなくなっていることが、問題の本質なのかもしれません。「赤信号みんなで渡ればこわくない」という社会をみんなで作ってきたのです。

そして、手段と原因を取り違え、簡単な対策の方に向かうのも問題だと思います。つまり、本当の原因には向き合わずに、手っ取り早く、問題を起こした手段を除去して、さも対策をしているように振る舞う姿勢にも、とても嫌な気分になります。

カレーは手段として使われたものであって、原因ではありません。手段を取り除くやり方は、言ってみれば、飲酒運転で事故を起こしたから、再発防止のために、車と酒をなくしましょうというようなものです。問題の原因は人間にあるのであって、車やカレーにあるのではありません。

今回の教員のいじめ問題で、やっていること全てが、日本の教育の劣化を示しているようで、何ともいたたまれない気分になります。

自分ごととして向き合っていかなければと改めて思いました。
コメント
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