昨夜、奈良の前田さまからメールがあり、赤膚焼の登り窯の説明会に行かれた時のことが詳しく書かれていました。以下はメール。
昨日(13日)奈良の赤膚焼窯元、古瀬堯三窯の大型登り窯が解体修理されていて、その修復と発掘調査の現場説明会があったので行ってきました。赤膚焼は大和郡山城主の豊臣秀長が、瀬戸か京都の陶工を招いて赤膚山に開窯したと伝えら、江戸時代末期の天明の頃に古瀬堯三窯の祖、治兵衛が京都から赤膚山に入り、大和郡山藩城主柳沢保光(堯山候)の藩御用窯として赤膚焼を再興したと伝えられ、江戸末期には治兵衛窯の西側および東側にも窯が作られ、それぞれ「西の窯」「東の窯」と呼ばれ、古瀬窯はその真ん中にあったため「中の窯」と呼ばれたようです。 幕末に名工と言われた奥田木白がこの「中の窯」で仁清写しなどの作品を世に広め、小堀遠州七窯の一つに数えられるようになったようです。明治になって東西二つの窯はいずれも閉じられ、「中の窯」だけが今日まで維持され、大型登り窯は、登録有形文化財に指定されています。
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