田中英道さんのメルマガより
2通あったハル・ノート
1941年11月26日、
アメリカは日本に交渉文書を提示します。
日本での正式名称は
「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」で、
交渉にあたったコーデル・ハル国務長官の名前から、
後に「ハル・ノート」と呼ばれるようになりました。
文書の内容は、アメリカ側が考える
国際秩序の安定策を提示し、
日本に要求をのむよう迫ったものです。
この中には、日本がのむ可能性のない、
・支那大陸やフランス領インドシナ(仏印)
・親日の南京政府に敵対する蔣介石政権支持への転換
・日独伊三国同盟の破棄
などの強硬的な内容が含まれていました。
つまりこれは、日本側に開戦させるための文書
以外のなにものでもなかった
と言うことができます。
ハル・ノートにはもう一通、
ハル国務長官が書いた「妥協案」が
別にあったことはよく知られています。
先の「強硬案」を作成したのは
ハリー・D・ホワイト財務次官補です。
そして、このホワイト財務次官補は、
ソ連軍情報部に内通したスパイでした。
ルーズベルトがソ連と
親和していただけでなく、
明確にソ連側の利害に立って工作を進める人物が
アメリカ政府内にいたわけです。
また、OSSには対ドイツ構想の立案スタッフとして
実際に、ホルクハイマー、アドルノ、マルクーゼら
フランクフルト学派の社会学・人文学者が
加わっていたこともわかっています。
ルーズベルトは「世界の社会主義化」を
目指していました。
OSSは、その目的を暗黙裡に
持っていた戦略組織でした。
OSS「日本計画」は、
階級闘争を起こさせ、軍部を孤立させ、
軍部と人民とは違うという意識を与えて
日本国内を混乱させることを
計画の基本に据えていました。
しかし日本は、計画通りにはならない
国柄を持っていました。
〝奇襲〟だと演出された「真珠湾攻撃」
日本に、OSS「日本計画」で予定されたような
階級分裂は起こりませんでした。
「大政翼賛会」に見られるように、
国難に対しては右派・左派の別なく、
一致団結して動きました。
戦後、「大政翼賛会は軍部に強制された組織であり、
国民を無理やり総動員するための天皇親政だった」
などとよく言われます。
しかし当時は、「一致団結して、国を、天皇を守ろう」
ということが国民の総意でした。
一般人のものも含め当時の日記資料を見れば、
それは明らかです。
ハル・ノートを突き付けられて
大陸からすべて撤退しろと迫られ、
石油を止められれば、日本は国家運営をしていけない
ということを皆わかっていました。
日本海軍は、国内に充満する開戦の気運を
しぶしぶのんだと言ったほうが事実に近いのです。
そして、アメリカは以前から日本を、
開戦せざるをえないという状態に
追い込む工作を続けていました。
大東亜戦争はアメリカが
熱望した戦争であり、
アメリカに脅迫されてやむをえず
日本が開戦した戦争です。
ハル・ノートはアメリカ国民に対しては
ひた隠しにされました。
あらゆる点から見て
理不尽な要求であるハル・ノートは、
そういった交渉を日本に対して
行っていることが表に出れば、
ドイツ潜水艦への挑発行為のように、
国内議会で問題にされてしまうべきしろものです。
1941年12月8日の真珠湾攻撃は、
ルーズベルトによって、
その奇襲性が演出されたのです。
突然、野蛮な、猿のような日本人が
襲ってきたかのように、
アメリカ国民には見えました。
それがまさにアメリカにとっては
「太平洋戦争」の開始であり、
日本にとっては交渉を重ねてきた末での
やむをえない「大東亜戦争」の開始
だったのです。
写真は今年の百日草