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未唯への手紙

未唯への手紙

宇宙論学者は数学を使ってSFを書く

2018年10月21日 | 2.数学
『ホーキング博士、人類と宇宙の未来地図』より 宇宙論学者は数学を使ってSFを書く

もうおわかりでしょう。ホーキングにかぎらず、宇宙論(コスモロジー)に取り組む宇宙論学者(コスモロジスト)たちは、いわば趣味で宇宙論をやっているのです。

「はやぶさ」のような(小)惑星探査機を設計したりする人たちは宇宙物理学者、惑星を研究している人も宇宙物理学者ですが、宇宙論学者というのは、まさに宇宙そのものを研究対象にしていて、その歴史とか未来とか、重力の正体とか別の宇宙の可能性とか、テーマはかなり大きな文脈から選ばれます。宇宙に関する研究をしている専門家のなかでも一番実用性から遠いというか、浮世離れしているというか、特殊な人種だと言えるでしょう。

宇宙論学者の仕事とは、いわば、数学を使って論理的なSFを書くことなのです。

だから無境界「仮説」であり、マルチバース「仮説」であるわけです。宇宙の始まりに「虚時間」を持ち込むのも、「こうしたらどうだろう?」という仮説にすぎません。宇宙論の分野で提出される論文というのは、そのほとんどが仮説なのです。

といっても、誰もが好き勝手に何を言ってもよいというわけではなくて、そこには最低限のルールがあります。そのひとつが、数学を用いると言うこと。数学によって、自分の仮説を表現し、そこに整合性が成り立っていることが、仮説の価値としては、必要最低限の条件と言えるでしょう。

いわば数学というのは、彼らにとってひとつの言語のようなものであり、そこで文法的に成立していないようだと、「通じませんよ」ということで、淘汰の対象になってしまいます。そのうえで、宇宙論学者は、ほぼ全員がアインシュタイン方程式を用いて、宇宙の知られざる顔を描出しようとしています。

アインシュタインの理論もまた、観測によって少しずつ検証が進んではいるものの、当時は仮説でしたから、その天才ぶりが窺えようというものです。100年経ってもその分野の最先端のプロたちが必須ツールとして用いるものを生み出したのですから。多くの学者たちは、「こんな場合はどうだろう?」と、さまざまに条件を変えながらアインシュタインの方程式を解き、宇宙の姿の隅々まで予測を立てようとしています。みんなして、さまざまな解を探しているわけです。

宇宙論学者は、SF作家のようなものである。

そんなふうに考えると、いろいろと仮説を提唱する意味や意図、彼らの活動の意義なども見えてくるのではないかと思います。

小説家でも、大家といわれる人は、より大きなテーマと正面から対決します。愛であったり死であったりを物語のスパイスに用いるのではなく、人間を形作る根幹部分として、それ自体をテーマにします。

「宇宙の始まり」という大きなテーマに取り組み、世界中で注目されたホーキングはそういう意味では、紛うことなく大作家であった、と言ってよいのかもしれません。アインシュタイン方程式が今でも使われている様子は、同じ文脈で言うと、100年前のモチーフが今でも新しい作家に引用されている、と例えることもできるでしょう。

彼らは「作家」ですから、イマジネーションを駆使して、いかに同業者の度肝を抜く仮説を提示し、今までの宇宙観をひっくり返すかに夢中です。それが衝撃的であればあるほど、「プロにはわかる」の枠を超えて、マスコミに注目され、大衆にも注目されていくことになります。真実の僕として地道に粛々と象牙の塔に寵もって研究に打ち込むというのは、宇宙論学者のイメージではないのかな、と思います。

いわば魅力的な世界観(宇宙観)を提示することで、人々のなかにある宇宙像を書き換えたい。そんな執念を燃やしている人たちなのです。そういう意味で、宇宙論学者には、ある種の文学的センスのようなものが必要だともいえるのではないでしょうか。

ただし、そんなふうに意識が先行していますから、出てくるものは、どれもが仮説。観測や実験によって、最終的に現実とぴったり合うような仮説がでてくると、同業者のプロだけでなく、周辺分野のプロから世間一般にまでそのすごさが伝わって大騒ぎとなり、ノーベル賞にまでつながっていくわけです。

ノーベル賞は、物理学の理論に関しては、観測や実験で「確かにそうだ」と証明されない限り与えられませんから、ホーキングは、ノーベル賞は受賞していません。ホーキングによるブラックホールが放射をするという予測は、今では大半の理論物理学者が正しいと認めているようですが、観測や実験によってはっきりと確かめるのは困難なので、ノーベル賞は与えられていないのです。ただし、理論上の重要性を評価して与えられる基礎物理学賞を受賞するなど各所で表彰されており、その功績は十分に称えられていると言ってよいでしょう(余談ですが、自伝では基礎物理学賞を「ノーベル賞よりも権威がある」としています。けれども、2012年に創設された国際的な学術賞ですから、半分は彼一流の皮肉でしょう。一方で、1990年代にイギリス政府から爵位を授ける打診を受けた際は、科学研究の助成金を巡る方針で反対の立場だったこともあり、辞退しています)。

同業者に自身の仮説が認められるには、数学的に正しいだけでは不十分で、その数式が「美しい」必要があります。「宇宙はこのような仕組みで動いている」という数式を提案したとして、現実にはさまざまな条件が発生しますから、その通りにはいかないこともあります。そのとき、変数として、いろいろな計算処理を数式に付け加えることで補正をかけ、現実に数式を合わせていくことは不可能ではありませんが、それは数学的に美しくありませんし、そんなことをしても意味がありません。究極的にはデータの数だけ変数がある、ということになってしまいますから、それならデータをただ集めるだけにした方が使いやすい分、マシです。

そうではなく、膨大に集めたデータをシンプルな数式で一括して表現し、「宇宙はこうなっている」と提示する。それが宇宙論学者の仮説としては、「美しい」わけです。再び文学に例えるなら、個々の人間の無数の体験に見られる普遍性を抽出して描写するからこそ、その作品には価値があるというわけです。

そういうわけで、理論物理学をやっている人と実験物理学をやっている人の間では、両者をどのようにつないでいくのか、ということが常に問題になります。ホーキングは理論物理学の人ですから、宇宙の始まりをどうやって説明できるかということを考えたとき、いかにシンプルな方程式で表現するか、にこだわります。そこには彼のアイデアが必ず盛り込まれています。アインシュタイン方程式を皆使っていると言いましたが、そこはある意味、全員通ってきた道なので、そのなかだけで何か新しいことをやろうというのは難しくて限界があります。一流の業績を打ち出すには、その次の一歩をどう踏み出すかが重要です。

数式を生み出す行為には無限の可能性がありますから、整合性や普遍性は問われるものの、ある意味、何をやっても構いません。そこでアインシュタイン方程式にちょこっとスパイスを加える人もいれば、大きな要素を付け加えようとする人もいる。なかでも最大の要素というのが、宇宙を真逆のスケールで描出する量子力学です。

アインシュタイン方程式と量子力学の基礎方程式を組み合わせるというのは、宇宙論学者なら誰もが夢見る「次の一歩」だったのです。それを実現したのがホーキングなのでした。アインシュタインの重力理論を量子力学と組み合わせるので、これを「量子重力理論」といいます。つまり、ホーキングは、量子重力理論の分野に先鞭を付けた人、という言い方もできるわけです。

ただし、この分野は、全体としてはまだ始まったばかりであり、両者は完全には統合がなされていません。あまりにもコンセプトがかけ離れているので、宇宙の始まりのようにかなり限定された状況では、なんとか一緒に扱えたものの、その他の条件でもうまく両者を合わせて扱うところまでは行っていないというわけです。

量子論というのは、非常に小さなものをうまく扱うことが上手な理論ですが、大きなものを扱おうとすると、とたんにうまくいかなくなります。例えば、人間を量子論で説明しようとすると、これは計算するべき事柄が膨大になりすぎて、できません。原理的には可能なのですが、人間はあまりにもたくさんの量子の組み合わせでできているので、その相互作用を全部計算しきることは事実上、不可能なのです。

逆にアインシュタイン方程式は、太陽系とかブラックホールとか、宇宙全体における重力の作用など、非常に大きな世界を説明する際にとても便利なツールです。両者を統合した方程式をひとつ作り、小さな極限の分野では量子力学の方程式の内容にほぼ帰着し、大きな極限の分野ではアインシュタイン方程式の内容に帰着する。そういうものを作れるかというと、これがなかなか難しいわけです。

そこで登場したのが先述した「超ひも理論」です。

超ひも理論は「両雄並び立たず」の状態だったものをうまく解決するのには、確かに今のところ成功しています。ただし、無理をした分、しわ寄せというか、別のところで違った難しさが出てきてしまいました。と言うのも超ひも理論では、宇宙の次元が4つでは足りなくなってしまったのです。今では、この宇宙は10次元とか11次元であるとか、そういう議論になってきています。

しかし、そうすると、どうしてその10次元や11次元は見えないの?という話に当然なります。でも、超ひも理論の学者たちは、重力の方程式と量子論の方程式を統合するための数学的な美しさを求めたあげく辿り着いた理論であるので、これでいいはずだ、と信じたいのです。

数学的な美しさが先にあって、実際に、そこで出てくる数式でうまく説明がつく。ならば、現実もそうなっているのに違いない、という発想ですね。

理論物理学者がこんなことを言い出すと、当然、実験物理学者は怒り出します。我々は空間は3次元しか測れないし、時間を合わせても4次元でしかこの世界を観測できない。君たちが言う6次元とか10次元とかはどこにあるのか、それを教えてくれれば実験で確かめるから言ってくれ、と。

超ひも理論の学者は、宇宙の初期はそうなっていた、と言います。宇宙が始まった頃は空間にエネルギーが非常に集中していたので、高次元の世界があったのだ、と。地上でも同じくらいエネルギーを集中させた環境を作ることができれば実験で確かめられるはずですが、これは難しい。地球上にある最新の実験施設(加速器。粒子を加速してその様子を観測する)でもパワーがたりません。

もしそれが可能になったら、超ひも理論が原理的に正しいかどうかがわかるはずです。逆に「宇宙全体を使わないと確かめられない」ということになると、これは事実上、検証は不可能、ということになります。

ちなみに、このような「数学的な美しさ」は、理論物理学者をおびき寄せる罠ともなり得ます。

アインシュタインは、統一場理論といういわば究極の方程式を発表して『ニューヨーク・タイムズ』の一面を飾りましたが、後に誤りだったことがわかりました。DNAの二重螺旋構造を発見したフランシス・クリックも、最初、DNAの暗号解読を試みて非常に美しい理論を作ったのですが、「なぜそのような暗号体系になっているのか」といういわば滑り出しのところから説明が間違っていて、無効になってしまいました。数学的には「これしかない」というほど美しい内容で注目されたのですが、実際の自然はそうはなっていなかったのです。このような例は、他にもたくさんあります。理論物理学者は、つい数学的な美しさに惹かれてしまいますが、それは必ずしも絶対ではないわけです。

理論物理学者のなかでも宇宙論学者は、半分ファンタジーの世界に足を突っ込んでいて、想像力を駆使して壮大なSFを書いているような人種です。もの凄い想像力であれこれと〝作品〟を発表しますが、そのうちのどれが正解であるのかは、いかに美しかろうとも、実験・観測で確かめられるまではわからないものなのです。

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