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フランス史中世 十字軍の開始

『フランス史【中世】Ⅱ』より 十字軍の開始(一〇九五~一○九九年)

ヨーロッパとアジア、キリスト教とイスラム教という二人の姉妹は、当時の世界を二分しつつも、互いに相接することはなかった。それが、十字軍によってはじめて直接向き合い、互いを見つめ合うこととなった。最初の一瞥は恐怖のそれであった。彼女たちが互いを認識し、同じ人間であることを認め合うには、なにがしかの時間が必要であった。このとき、彼女たちがどのようであったかを評定し、その宗教としての年齢は何歳になっていたかを確定してみよう。

この両者では、イスラム教のほうが六百年も遅れて誕生したのに、すでに衰退期に入り、十字軍の時代をもってその一生を終えた。いまわたしたちが見ているイスラム教は、生命が去ったあとの抜け殻であり、影にすぎず、アラブの野蛮な相続人たちは、よく調べもしないで、それにしがみついているのである。

イスラム教はアジアの諸宗教のなかでも最も新しく、オリエントにのしかかっていた物質主義を免れるために最後の空しい努力をした。かつては、ベルシアも《光の王国》を《闇の王国》に英雄的に対峙させようとした(それがトルコ系諸族トゥランに対するイランの対決であった)が、充分ではなかった。ユダヤ教も、抽象的な神の単一性のなかに閉じこもって自己の内側に凝固してしまい、物質主義からの解放はこれまた不充分で、いずれも、アジアに救済をもたらすことはできなかった。マホメット(ムハンマド)は、このユダヤ教の神を採り入れ、「選ばれた民」から引き出して全ての人類に押しつけようとしたのであって、何かを生み出すことはできるはずもなかった。イスマイルが兄のイスラエルを超えることができたであろうか?・ アラビアの砂漠はペルシアやユダヤの地より肥沃になれただろうか?

〔訳注・旧約聖書において、イスマイルは、アブラ(ムが妻のサラに子ができなかったので、召使い女のアガルに生ませた子。その後、サラが身寵もって生んだのがイサク。イサクはイスラエルの民の祖であり、イスマイルは母アガルとともに砂漠に逐われてアラブ人の祖となったとされる。〕

「神は神なり」--これがイスラムの教えである。これは単一神の宗教であり、そこでは人間は消え失せ、肉は隠れてしまう。像に描かれることもなく、芸術もない。この恐るべき神は、自身の象徴に対してすら嫉妬深い。人間とも一対一であろうとする。人間は、この神によって満たされ充足していなければならない。肉親も家族も部族も、アジアの古くからの絆のすべてが断ち切られる。女性はハーレムに隠され、男は妻を四人、しかし、妾は無数にもつことが許される。兄弟間のつながりも両親との関係も無きに等しい。「イスラム教徒ヨロ色目S」の名前が、これらすべてに取って代わるのである。

家族のメンバーは、共通の名前も、固有の印も、永続性もなく、世代ごとに一新されるようにみえる。各人が自身の家を建て、当人が死ぬと家も死ぬ。人間は、人にも土地にも依存しないし愛着もしない。彼らは、孤立し、痕跡も遺さず、埃のように砂漠のなかに飛び散っていく。平等主義的でいかなるヒエラルキーも望まない神の眼からすると、彼らは、砂粒と変わるところがない。

そこでは、キリストのような《神人》という仲介者も全く不要である。キリスト教が天から投げ下ろしてくれた梯子、聖人たちや聖母、天使、イエスが神に向かって登っていったこの梯子を、マホメットは排除する。一切のヒエラルキーは消滅し、神のものと人間のものの区別もない。神は天の無限の奥に退くか、さもなければ地上にのしかかって自らの重みで押し潰す。わたしたちは無に等しい惨めな原子として乾いた平野に横たわる。

この宗教は、まさにアラビアそのものである。天と地があるだけで、その中間には何もない。天に近づかせてくれる山もなければ、距離を見誤らせる錫もない。焼けっく鋼鉄の兜のように、蒼暗いタイルの張り詰められた寫瀋が聳えているだけである。

だが、布教を目的として生まれたイスラム教は、この不毛の孤高のなかにとどまっているわけにはいかなかった。自らが変質する危険性と引き替えに、世界を駆け巡らなければならなかった。マホメットがモーゼから盗んだこの神は、ユダヤの山とかアラビアの砂漠では抽象的で純粋、畏怖的でありつづけることができたが、その神も、預言者の騎士たちによってバグダッドからコルドヴァまで、ダマスクスからスラット〔訳注・インド北西部〕にまで連れ歩かれるうちに、督月刀の回転によっても、彼らの本来の野性的熱情に火を付けることができなくなり、人間化していく。

わたしは、バラが咲き乱れ噴水に囲まれた楽園さながらのアルハンブラのハーレムは、イスラム教の峻厳さを根底から崩すものだと考える。この尊大な宗教は厳しく肉を呪誼したが、その肉が執拗に権利を要求しているのだ。追放された物質が形を変えて戻ってきて、あたかも主人として帰ってきた亡命者のように暴力をもって復讐するのだ。

彼らは女性を後宮に閉じ込めたが、彼らもその女性によっていっしょに閉じ込められるのである。ファーティマ〔訳注・ムハンマドの娘〕のために戦う彼らには《聖母》は要らなかった。彼らは《神人》を排除し、《受肉》をキリストヘの憎しみから排除したが、そのくせ、アリ〔訳注・ファーティマの夫〕の受肉を主張している。また、ゾロアスター教の「光の支配」の教義(マギ教)を非難しつつ、マホメットこそ「受肉せる光」であると教える。他の人々によると、アリがこの光であり、アリの末裔にして後継者であるイマーン(導師たち)は、その光線の受肉にほかならない。そのイマーンの最後の伝灯者イスマイルも、いまやこの地上から消え去ったが、彼の家系は知られざる形でいまも続いており、それを探し出すのが自分たちの義務なのだという。

エジプトのファーティマ朝カリフたちは、白分たちこそアリとファーティマの家系の目に見える相続人であるという。以前は、これらの教義は古代ペルシア帝国の東部山地で栄えていたが、そこでは、マギ教を窒息させることはできなかった。それが、八世紀から九世紀にかけて、イスマイル派と名乗る熱狂的な連中(カルマート宗徒)が剣を手に「見えざるイマーン」を求めアジアに広がりはじめた。このイスマイル派に対し、アッバース朝カリフたちは厳しい弾圧を加え、何十万人も虐殺した。そこで、エジプトヘ逃れた人々が、アッバース朝を打倒するために打ち立てたのがファーティマ朝だというのである。

神秘的なエジプトは、その古い秘伝の伝授を甦らせ、その秘密集会所《智恵の家》がファーティマ朝カリフたちによってカイロに建てられた。これは、狂信と学問、宗教と無神論の巨大で陰気な作業場である。このイスラム教の異端児たちの唯一確かな教義は、純粋無垢の服従であった。信者は、ただ導かれるままに自らを委ねることによって、九つの段階を経て宗教から神秘主義へ、神秘主義から哲学へ、そして、疑いと、さらには絶対的無関心へと進む。

その布教師たちは全アジアに広がり、バグダッドの宮殿にさえも浸透して、その破壊的な溶剤でアッバース朝カリフを浸した。ペルシアはずっと以前から、これを受け入れる用意をしていた。カルマートより以前、さらにはマホメットより前から、ササン朝〔訳注・西暦二二六~六五一年〕の最後の王たちのもとで、信徒たちに財産と女たちの共有、正義と不正義の対立の超越を教える宗派があった。

この教義が全き成果を生み出したのは、古いペルシアのカズビン(Qazinあたりの山地〔訳注・エルブールズ山の南斜面〕にその本拠を移してからであった。ここは、有名な皮の前掛けをした鍛冶屋カーウェや梶棒の一撃で水牛を倒した英雄フェリダンといった古代の解放者たちを輩出した地である。マホメット教におけるこのプロテスタンティズムは、こうした勇敢な人々の地に持ち込まれることによって、そこで民族的抵抗精神と結合し、彼らに《暗殺》という忌まわしいヒロイズムを吹き込んだ。
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江戸の風俗 犯罪と刑罰

『江戸の風俗事典』より 犯罪と刑罰

窃盗の罪

 落語の世界も、現実と同様に窃盗が多かった。窃盗とは、空巣、万引き、スリなど、他人の財物を窃取することである。「御定書」五六条には(手元にある他人の金を盗んだ場合は)「金子は十両以上、雑物は代金に積り十両以上は 死罪」とあり、一〇両以下は「入墨敲」の刑である。なお、「家内へ忍び入り、或いは土蔵破り候類金高雑物之多少に依らず 死罪」が科せられた。

  万年も年齢を保つ亀五郎

  たった十両で首がすっぽん

 一〇両盗んで打ち首になったという、江戸は霊岸島の長屋の左官、亀五郎の辞世という。

  ○戸明きの盗 「無人の盗」ともいう。

  これは五六条の規定に、後に但書として付記されたもので、「昼夜に限らず、戸明きこれ有る所、又は家内に人これ無き故、手元にこれ有る軽き品を盗取類 入墨之上重敲」と記された。

  これは泥棒が意図的に企んだ犯行ではなく、たまたま戸が開いていたために、つい出来心で犯行に及んでしまったという情状を酌んでの措置である。[締め込み]の泥棒もこれによって少しは罪が軽くなり、また無人にした夫婦のほうも罰せられた。なお、長屋での戸締まりは、表の戸にIびぐらいの心張棒をするだけで、錠前は使わなかった。

  ○小盗のこと 小盗とは、五六条に「腰銭、挟銭を抜き取る者」のこととあり、ほかに万引、履物泥棒なども含まれる。「スリ」の語は、はやくに文禄三年(一五九四)の『言継卿記』八月二四日の記事に見られる。「巾着切り」ということばも使われたが、江戸では、身体をすりつけるので「スリ」、上方では刃物で切り取るので「チボ」という。

  また、小盗の類犯に湯屋の「板の開稼ぎ」があるが、こちらは四六条に「湯屋之客、衣類着替候もの 敲」と記されている。

強盗の罪

 強盗とは、暴行または脅迫を用いて他人の財物を強取することである。「御定書」には強盗の罪に対する言及はないが、なにしろ家蔵に忍び込めば死罪なので、改めて規定するまでもなかったのだろう。なお、七一条には盗みに入って人を殺した者は引き廻しのうえ獄門、刃物で人を疵付けた者は獄門、刃物以外のもので疵付けた者は死罪との記述がある。

  ○正当防衛・過剰防衛 人に傷害を与えた者は中追放とし、傷害の大きなものは遠島、小さな傷害は治療代を支払うという刑罰であったが、家屋への忍び入りの盗賊に対しては、殺しても差支えはなかった。[薙刀傷]の噺がある。

  ○事後強盗(準強盗) 窃盗目的で家屋に浸入したが、家人に見咎められたために、居直って強盗になるというもの。落語には[夏どろ][転宅]があるが、いずれも最初から家人を脅しているので、はたして準強盗といえるか微妙なところである。

  また、[にかわ泥](仏師屋盗人)は、夜中に仏師屋に忍び込んだ男が、見咎められたので二尺八寸の段平物を突き付けて脅すというもの。

追剥・追落の罪

 路上で通行人を脅して、衣類や金品を強奪することを「追剥」といい、凶悪な犯行ということで獄門の罪に、また、通行人の油断を見すまし、持ち物や懐中物、唇などを奪って逃げることを「追落」といい、こちらは死罪になっている。

 「追落」という用語は、すでに鎌倉時代からあったが、「御定書」で成文化されたものである。源信綱『大江戸春秋』の寛保三年(一七四三)閏四月の記事に「追落といふ盗賊はやる、昔は追はぎといひし」とあり、また宝暦二年(一七五こにも「追落はやる、両町奉行所より同心五人ツこ伐廻り」とある。

 [双蝶々]の小僧の長吉は、手癖が悪く、近所の不良仲間と「追落」をしている。その夜も、芝居帰りの女が二人肩を並べて歩いてきたので、いきなり突き当たって女の前のところに手を当てる。「あれっ!」と女が前を押さえた隙に頭の唇を抜き取って逃げるというもの。長吉は後に小雀長吉という盗賊になる。

詐欺の罪

 人を編し、錯誤に陥らせて、財物を奪い取る行為が詐欺罪である。偏す手段は、ことば、身振り、作為、不作為を問わない。不作為というのは、五〇〇〇円札で買い物をして釣銭を貰う時、店員が一万円札と思って、目の前で釣銭を数えて差し出した。その時、店員の錯誤を知りながら、黙ってその釣銭を受け取ってしまう行為をいう。

  ○取り込み詐欺 詐欺という行為は、相手を錯誤に陥らせて、相手の納得のうえで財物を詐取することである。「御定書」には「巧事、偏り事、重ねたり事致し候者 御仕置の事」として死罪から中追放の刑になる。「重ねたり事」は、執拗に強請すること。落語には[時そば][壷算][牛の丸薬]のように単純なものから、[樟脳玉][片袖]「人参かたり」[猫の皿]など手の込んだものまである。

無銭飲食

 料理屋や飲食店などの料理は財物である。店では、代価として金を払って貰えると思って提供したのだから、それを受け取った段階で「財物を交付させたる者」ということになる。因みに現行の刑法二四六条の第一項に該当するので、これを「一項詐欺」という。

 落語のほうでは[王子の狐]があるが、[居残り佐平次][付き馬][突落し]などは無銭飲食のほかに宿泊をし、娼妓のサービスなどの無形の利益を得ているので、さらに第二項「財産上不法の利益」を得たる者にも該当する。

恐喝の罪

 人を煽して財物を交付させる詐欺罪に対して、人を脅して、財物や財産上の利益を得る行為を「恐喝罪」という。この場合の「脅し」は、相手が恐怖心を生じる「害悪を告知」することで、その手段は、口頭、文書、動作、態度などによって、相手方の反抗を抑圧しない程度の暴行、脅迫を加えることで、[らくだ一[姫かたり]などが該当する。なお、相手方の反抗を抑圧する程度の暴行、脅迫を加えた場合には「強盗罪」になる。

  ○脅迫罪と強要罪 害悪の告知だけで、財物の取得を目的としない場合は「脅迫罪」となる。なお、脅迫または暴行を用いて相手方に「義務のないことを行わせ、または権利の行使を妨害」することは「強要罪」である。
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情報化社会における集団の変貌

『現代日本の地域格差』より 現代日本社会論ノート

現代日本社会の重要な特質の一つが高度情報化社会であるということは、これまでにもふれてきたところである。情報化社会という指摘は、すでに以前からなされていたが、一昔前までは、そのイメージはマスコミ特にテレビの急速な発達と普及に注目するものであった。大衆社会化とか、1億総白痴化といわれて、その弊害がむしろ強調されていた。それは大企業であるマスコミ企業が単純化された情報を画一的に流布し大衆の志向を制御するものとして懸念されていた。

それに対して今日の高度情報化社会はかなり異なった様相と問題点を内包している。もちろん、マスコミは今日ますます旺盛な活動を繰り広げているが、今日むしろ注目されるのは、コンピュータ、携帯、スマホ等、多様な情報機器の目覚しい進化と広範な普及である。一昔前は、電車の中では、男性はスポーツ新聞、女性は週刊誌か文庫本を広げていたのであるが、今日では、男性も女性も携帯の画面を見つめ忙しく指を動かしている。かつての情報化社会においては、庶民はもっぱらマスコミ企業の発信する情報を受け取る受け手であったが、今日では受け手であると同時に、親しい近親・友人間であるか、より広い空間宛であるかはともかく、庶民の多くが情報を発信する送り手にもなっている。マスコミが頼りであった時代には、受け手である庶民は、得られる情報の種類としてはどのチャンネルを選ぶかという程度の選択しかできなかったが、今日ではマスコミ以外に多様な情報源に接することができるようになった。そのなかには、いかがわしい情報や偏った意見ももちろん含まれるわけであり、溢れる情報の中から必要なものを選び出す情報リテラシーの重要性が繰り返し強調される。

インターネットは、個人でも広く大勢の対象に、情報や意見を伝えることができる優れた発信力を持っている。それを個々人が手に入れたことで、情報化社会は全く異なった様相を呈することになった。膨大な情報が時々刻々にインターネットやメールの空間を飛び交う。その中には日常的なつながりのある人々相互の身元の確かな情報もあれば、発信者の特定さえできない無責任な内容のものも含まれる。それらの全体を見通し、コントロールすることはもはや困難になっているとさえ思われる。さまざまな悪質なウイルスやハッカーの被害などには、対応の困難なものさえ含まれる。高度情報化社会は、もはや過度に発展してしまった結果、制御不能になってしまっているとさえ思われる。

機器を通じ、コンピュータや携帯の画面を通じた、いわゆるバーチャルな結びつきが広がった反面、家族や近隣などの基礎的な集団が脆弱化し、リアルな結びつきが希薄になっていく。もっともこれらの場面での差引勘定は単純ではない。共働きが広がり長時間労働が改善されないことや、塾や習い事を含めて子供が家にいる時間が短くなったことなど、家族がともに過ごす時間は少なくなった。その一方で、夫婦や親子の間でも、携帯を介した会話が頻繁に行われるようになった。バーチャルな結びつきがリアルな結びつきを補完代位している部分も見出せる。

同じことは、広い意味での地域のつながりについても当てはまる。旧来からの近隣や村落などの機能は低下し、そのまとまりは脆弱化した。しかし、その結果個々人がばらばらに分散したというわけではない。弱体化したとはいえ、これまでの近隣や村落のむすびつきもそれなりに持続しているだけでなく、家族の場合と同じように、従来は直接顔を合わせて話し合っていたことを携帯を使って間接的に交流するという状況もある。それ以上に大きく変化したのは、近隣や村落などの限られた地域空間にこだわりなく、さまざまな機縁によって濃淡のあるネットワークが築かれてきていることであろう。行動範囲も広がっているだけに、直接的なネットワークも広がりを見せているが、機器を介した間接的なネットワークは、空間的制約なしに結びつきを作っている。かつては都市住民の行動範囲は広くその社会的交流の広がりもかなり広い地域に広がっていたのに対して、農村地域の場合には交通手段に恵まれず行動範囲も、社会的交流の空間的広がりも、狭い範囲にとどまるとされていたが、バーチャルな結びつきの比重が大きくなるにつれて、社会的交流における都市と農村の差異を大きく減らすことにもなっている。僻村からでも世界に向けた情報発信や交流が可能になっているのである。

しかしながら、この結果問題になるのは、一つは、広がりを見せる機器を介した間接的ネットワークは、機器の活用のいかんによってきわめて多くのネットワークに結びつく者と、機器の活用が少ないために貧しいネットワークしか組みえていない者との格差を広げていくことである。国境をこえて広いネットワークを築き、日常的に社会的・経済的活動を展開している者もあれば、他方には、極端な場合、一人暮らしの不器用な高齢者が、家族や地域との直接的結びっきも薄くなり、機器の扱いに不慣れで間接的なネットワークも組めないという、孤立状態に陥る危険性もある。それらの中間に、行動範囲の拡大や機器の活用のあり方などに基づいて、いくつものグラデーションを描くことができよう。

もう一つの問題は、直接的な結びつきにせよ、間接的な結びつきにせよ、いずれもそれぞれにきわめて濃密なものから、ごく淡い接点に過ぎないものまで、多様なものが含まれているということであり、単純に直接的な結びつきが濃密で、間接的な結びつきが淡白であるということはできない。このように直接的な結びつきと間接的な結びつきが共存する中で、今日の社会生活が営まれている。

こうした社会生活において、重要性を増していくのは、旧来の限られた地域空間の区切られた社会的交流ではなく、地域空間の制約を離れたさまざまな契機に基づいて生み出されるネットワークであろう。そのなかには、生産活動、消費活動のそれぞれにかかわる経済的なネットワークもあれば、政治的志向を持ったネットワークもあり、また文化的な契機や趣味などによって形成されるネットワークもある。もちろん、経済領域にも、政治領域にも、また文化的な領域にも、中央集権的な色彩の強いわが国の場合には、中央権力による体制的な枠組みが整備されている。経済領域は国家権力と結びついた巨大資本を中心にした資本主義的経済機構が聳え立っている。政治領域には、官僚機構に支えられた政権政党による運営が行われている。文化領域においては、それぞれの領域で伝統的な秩序が維持されている。こうした広い意味での支配層によって構築されている体制に対して、市民が社会生活の場において形成するネットワークが、新たな方向性を作り出すことができるか否かが、重要な問題である。支配層によって構築された体制に取り込まれ、その末端として機能することが少なくなかった旧来の村落などの地域社会が脆弱化し、代わって新たに生まれてきた集団やネットワークのうちには、すでに権力的な体制に取り込まれたり、その末端として活動するようになったものも少なくない。しかし、多くの市民が自らネットワークを組み立てることが可能になっているだけに、中央集権的な体制に対して距離をもち、新たな方向を志向する活動を繰り広げているものも数多い。
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グローバリゼーションにともなう資本主義の変容

『現代日本の地域格差』より 現代日本社会論ノート 高度にあるいは過度に発達した資本主義

国家独占資本主義という概念が影が薄くなった理由はもう一つあるように思われる。それはグローバリゼーションの進展である。グローバリゼーションという概念は、今日の経済・社会を語る場合に欠かせない枕言葉となっている感があるが、ヒト、モノ、カネそれに情報が世界各地をめまぐるしく行き交う今日の世界は、これまでになかった多くの問題を生み出しており、今日の経済・社会を規定する重要な要因となっている。もっともこれもきわめて高度に発達した科学技術とそれを基盤とする資本主義の高度な発展が生み出した所産であることは当然のことである。第二次大戦とその後の経済成長にともない輸送手段の目覚しい発達と普及とにも支えられて、ヒトとモノの世界的な交流が目覚しく進展したことはあらためていうまでもない。その影響が多くの領域に見られることもまたいうまでもないことである。

ここでとりわけふれておく必要があるのは、カネと情報の交流である。モノの交流の問題ではあるが、グローバリゼーションの一つの現われとされるのが、多国籍企業の展開や、生産拠点の海外進出など、企業活動が一つの国家の内部で行われるだけでなしに、国境を越えて展開するようになることがある。モノの交流がきわめて活発になり、貿易の比重がきわめて大きくなることは今日広く見られるところであるが、交流はさらに深化し、単に原料の輸入や製品の輸出にとどまらず、企業の経営や生産活動それ自体が、国家の枠を超えていくことになる。海外投資が活発化し、資本の海外進出が広がる。こうなると国家をまたいでの資金の流れが活発化せざるを得ない。カネの交流すなわち国際的な為替が経済活動において重要な位置を占めざるを得ないことになる。

わが国では、第二次大戦後1970年まで1ドル360円という固定レートで為替交換がされていたが、その後の改訂を経て80年から変動相場制に移行した。多くの先進諸国は変動相場制をとり、為替市場が国家相互に影響しあいながら為替相場を形成するようになる。日々、時々刻々に為替レートが微妙に変化する制度に先進諸国は組み込まれることになった。こうした流動性の高い為替相場が機能するには、グローバリゼーションのもう一つの現れである情報の交流が重要な前提条件となる。電気通信技術とさまざまな情報機器の目覚しい発達と普及によって、世界の隅々まで瞬時に情報交換が行える技術的条件が得られている。さまざまな経済的・社会的・政治的な情報が、瞬時に世界を駆けめぐり、それに反応して為替相場がめまぐるしく変動する。一つの国で生じた相場の変動は、たちまちのうちに世界各国の為替レートを変動させる。電気通信技術の発達が見られず、情報の交流に多くの時間が必要な時代には、今日のような変動相場制をとることは難しく、それぞれの国家が固定的な交換レートで相互に貿易を行っていたものと思われる。高度情報化(情報のグローバルな交流)の恩恵を為替制度は享受しているのである。

ところで、このような変動相場制の広がりは何をもたらすのであろうか。先に国家独占資本主義において、金本位制を廃止して管理通貨制度に移行することによって、国家(中央銀行)は自由に紙幣を発行し多様な経済・社会政策を展開することができるようになり、景気調整・恐慌防止を図ることができるようになったという指摘を紹介した。管理通貨制度によって流通する紙幣の量をコントロールすることができるようになったことが国家独占資本主義の重要な特質とされていたのである。

ところがグローバリゼーションが進むと、紙幣の価値が時々刻々に変化することになる。国家が管理した貨幣量が、実質的には為替市場において変動してしまうことになる。国家独占資本主義においては、国家が間接的にではあれ市場を管理し、国家の経済政策などを介して国家・政府の関与の下に資本活動が行われるものと想定されていた。それによって資本主義の特質ないし欠点である生産の無政府性をコントロールし、恐慌の回避や予防が図られるものとされていた。グローバリゼーションはこうした国家独占資本主義の特質を弱体化し、市場の優越を作り出すことになる。すなわち、せっかく国家(中央銀行)が貨幣量を調節しても、それが機能する実質的価値は、為替レートの変動によって規定されることになる。国際的な為替市場が国家の決定を事実上変化させてしまうことになる。国際的な為替市場は、膨大な取引に基づく需要と供給のバランスによって定まるものであり、いずれの国の政府もこれを完全にコントロールすることはできない。

株式会社を基盤とする独占資本主義において、株式市場が重要な役割を果たすことは、いうまでもないが、株式市場もまた、グローバリゼーションの時代には、国家のコントロールは限定的なものとならざるを得ない。国家独占資本主義において、国家は株式会社のあり方について、株式取引について、株式市場について、それぞれ詳細な法制度を整えて、緻密なコントロールを行っている。しかしながら、グローバリゼーションの下では、それらはある意味で「ザル法」にならざるを得ない。国内の会社のうちで、海外に拠点を移すものは少なくない。それらには国内の制度は部分的にしか適用できない。海外に拠点を作るものの多くは、原材料や労働力あるいは製品の市場といった経営上の有利さを求めて進出するわけであるが、中には国の規制逃れという場合も見られる。また株式市場には多くの海外投資家も加わり、政府の意向とは無関係に投資行動を展開する。株式相場は、国内の要因だけでなく、海外の多様な要因によって激しく変動する。国家の整備する法制度がカバーできない部分が次第に大きくなっていく。

企業活動に対する課税においてさえ、グローバリゼーションは困難な問題を広げていく。課税については当然政府の定める制度があり、それに基づいて国や地方自治体に納税するわけであるが、企業のうちにはより有利な制度の国に資本移転を行うものも現れる。なかにはタックスヘーブンと呼ばれる課税を免れられる地域に移転するものも生じ、国内資産家の中には資産がどれほどあるのかすら把握できない者も生まれてきているといわれる。

資本主義の高度な発展は、グローバリゼーションをもたらした。その結果、1930年代から数十年間にわたって、国が資本をコントロールするという国家独占資本主義が指摘されたのであるが、世界規模で結びっいた巨大な資本主義の展開にともなって、国のコントロールは部分的なものにとどまるようになり、国のコントロールを超えて世界規模での資本の激しい競争が繰り広げられるようになった。いわば資本主義は再びコントロールの効かない状態に陥ってしまったように思われる。

このことは歴史上しばしば見出される経済分野と政治分野あるいは社会分野との進展のアンバランスの一つの現れということができる。経済分野でのグローバリゼーションの進行に対して、政治分野でのグローバリゼーションの進展が遅れていると見ることができる。政治分野では従来の国民国家としての統治が支配的であり、グローバルな経済活動に対応したグローバルな政治はいまだ未成熟な状況にある。国連をはじめとする国際機関の活動は見られるものの、世界政府とでもいうべき強力な制度はいまだ現実性を持たない。さまざまな分野で国内産業の保護を目的とした関税などによる防壁が作られ、経済・社会の多くの制度が国によって異なっている。それらを調整し統一を図ろうとする動きはあるにしても、なお部分的なものにとどまっている。多国籍化する企業に対する課税は単純ではないし、極端な場合にはタックスヘーブンといわれる地域も存在している。国家的な権力による管理の枠をこえた経済活動の展開によって、ある種歪んだグローバリゼーションが進行しているのである。
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OCR化した1冊

『哲学中辞典』

 アーレント
  アーレント
  一般意志
  権威
  実践
  自由
  生/生命/生活
  全体主義
  判断力
  友愛
  労働

 ウィトゲンシュタイン
  ウィトゲンシュタイン
  経験論
  言語ゲーム
  言語論的転回
  コンヴェンショナリズム
  真理関数
  独我論
  分析哲学
  原子命題
  トートロジー

 社会
  国民国家
  全体と部分
  中心と周縁
  消費
  消費社会
  情報化社会
  市民社会

 哲学者
  哲学
  ヒュパティア
  ヘーゲル
  フッサール
  ハイデガー
  ハイエク
  カント

 概念
  観念論
  現象学
  公共性
  システム
  持続可能な発展
  私的所有
  空間
  ベーシック・インカム
  原因と結果

 存在
  存在
  無
  平等
  他者
  意識
  存在被拘束性

 宗教
  仏教
  道元
  ムハンマド
  イスラーム
  神
  キリスト教
  啓示

 全体主義
  レーニン
  ファシズム
  ナチズム
  トロッキー
  革命
  構造的暴力

 政治形態
  資本主義
  社会主義/共産主義
  民主主義

 歴史
  歴史哲学
  歴史観
  哲学史
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キリスト教からのイスラム教を見ると

OCR化した本の感想

 『現代日本の地域格差』 情報化社会における結びつき

  旧来からの近隣や村落などの機能は低下し、そのまとまりは脆弱化した。しかし、その結果個々人がばらばらに分散したというわけではない。弱体化したとはいえ、これまでの近隣や村落のむすびつきもそれなりに持続しているだけでなく、家族の場合と同じように、従来は直接顔を合わせて話し合っていたことを携帯を使って間接的に交流するという状況もある。それ以上に大きく変化したのは、近隣や村落などの限られた地域空間にこだわりなく、さまざまな機縁によって濃淡のあるネットワークが築かれてきていることであろう。行動範囲も広がっているだけに、直接的なネットワークも広がりを見せているが、機器を介した間接的なネットワークは、空間的制約なしに結びつきを作っている。かつては都市住民の行動範囲は広くその社会的交流の広がりもかなり広い地域に広がっていたのに対して、農村地域の場合には交通手段に恵まれず行動範囲も、社会的交流の空間的広がりも、狭い範囲にとどまるとされていたが、バーチャルな結びつきの比重が大きくなるにつれて、社会的交流における都市と農村の差異を大きく減らすことにもなっている。僻村からでも世界に向けた情報発信や交流が可能になっているのである。

  問題になるのは、一つは、広がりを見せる機器を介した間接的ネットワークは、機器の活用のいかんによってきわめて多くのネットワークに結びつく者と、機器の活用が少ないために貧しいネットワークしか組みえていない者との格差を広げていくことである。

  もう一つの問題は、直接的な結びつきにせよ、間接的な結びつきにせよ、いずれもそれぞれにきわめて濃密なものから、ごく淡い接点に過ぎないものまで、多様なものが含まれているということであり、単純に直接的な結びつきが濃密で、間接的な結びつきが淡白であるということはできない。

  、多くの市民が自らネットワークを組み立てることが可能になっているだけに、中央集権的な体制に対して距離をもち、新たな方向を志向する活動を繰り広げているものも数多い。

 『江戸の風俗事典』

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 『フランス史【中世】Ⅱ』キリスト教からのイスラム教を見ると

  ヨーロッパとアジア、キリスト教とイスラム教という二人の姉妹は、当時の世界を二分しつつも、互いに相接することはなかった。それが、十字軍によってはじめて直接向き合い、互いを見つめ合うこととなった。最初の一瞥は恐怖のそれであった。彼女たちが互いを認識し、同じ人間であることを認め合うには、なにがしかの時間が必要であった。このとき、彼女たちがどのようであったかを評定し、その宗教としての年齢は何歳になっていたかを確定してみよう。

  この両者では、イスラム教のほうが六百年も遅れて誕生したのに、すでに衰退期に入り、十字軍の時代をもってその一生を終えた。いまわたしたちが見ているイスラム教は、生命が去ったあとの抜け殻であり、影にすぎず、アラブの野蛮な相続人たちは、よく調べもしないで、それにしがみついているのである。

  イスラム教はアジアの諸宗教のなかでも最も新しく、オリエントにのしかかっていた物質主義を免れるために最後の空しい努力をした。かつては、ベルシアも《光の王国》を《闇の王国》に英雄的に対峙させようとした(それがトルコ系諸族トゥランに対するイランの対決であった)が、充分ではなかった。ユダヤ教も、抽象的な神の単一性のなかに閉じこもって自己の内側に凝固してしまい、物質主義からの解放はこれまた不充分で、いずれも、アジアに救済をもたらすことはできなかった。マホメット(ムハンマド)は、このユダヤ教の神を採り入れ、「選ばれた民」から引き出して全ての人類に押しつけようとしたのであって、何かを生み出すことはできるはずもなかった。イスマイルが兄のイスラエルを超えることができたであろうか? アラビアの砂漠はペルシアやユダヤの地より肥沃になれただろうか?

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