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「少子高齢化」は国民の問題?

『哲学中辞典』

 年始は年末に豊田市から借りた『哲学中辞典』で過ごした。丁度いい表現と長さは抜群。

年始の岡崎市図書館

 まともな本が無いですね。というか、12月の本が少ないみたいです。こういう時に意外な本に出会うと信じましょう。

 岡崎市図書館からなぜか、年末に11冊借りていた。今回、10冊返したが、1冊を忘れてしまった。来週、岡崎まで行かないといけない。ガソリンを補給しないといけないし、危険を冒すことになる。車って、本当に面倒です。

ゴミ片付けの専門家

 「ゴミ片付けいたします」という会社、室内清掃ができる人を募集しています。どんな人? 資格でもあるのかな。それとも部屋を片づけている人。

都会の死角を発見

 デパートの2階の椅子。何のためにあるか分からないけど。女子トイレの前にあります。スタバが面倒な時に使いましょう。ここなら、静かでいい。決して、座り午後地が善くない。直角な姿勢を要求される。まあ、ペナルティだと思えば。豊田市の都会の死角でしょう。

「少子高齢化」は国民の問題?

 少子高齢化というけど、これほど、個人と国家の思惑が異なるものはない。個人にとって、結婚とか子どもを産むとか年寄りが居るということと、国家にとって、国力とか、国の傾向との関係はない。

 国民というのはなくて、個人はどこでも行けるはずです。行ったところに所属するならば、国力は関係ない。

 強いところに行けばいい。レバノン、ハンガリー、アイルランドのように大量な意味を生んでいる。国家が強くなれば、戻ればいい。ギリシャの第二の都市はメルボルンだと言われている。結局、帰属意識という問題でしょう。

 自由と平等も同じです。自由と平等な国に行けばいい。それを前提として、国家間での平和な競争をやってもらった方がいい。それはいいとこ取りというよりも、新しいカタチの世界です。重要なのは国境を開けることです。日本には国境が無い。

問題の定義づけ

 詳細になればなるほど、問題が難しくなります。定義づけがどうしても大きな単位になります。国家とか自由とか平等とか。これらは哲学事典にも出てきます。個人の子どもを産むとかいうのは、哲学に出てこない。今の時代は、国家と国民をどうしていくかではなく、個人と国家をどうしていくか。

国民国家が多様化に対応するには

 多様化に対応するために、地域の中の個人の多様性を生かしていく。そのために、個人の覚醒が必要です。依存してはダメです。地域にエネルギーに貯めて、そこからマーケティングで循環させていく。

 多様化には、ハイアラキーではなく、配置の考え方を見ていく。その際に、個人は全体を考えて、先を見るカタチにしていく。

国民国家がグローバル化に対応するには

 グローバル化に対応するには、国というレベルでなく、もっと大きな単位にしていく。

 日本は国境があるから、多様化にもグローバル化にも対応できない。いかに遅れたものになっていくのか。こんな日本を変えていく必要があるかどうか。世界に一つぐらい残ってもいいじゃないか。それとも、思い切って、バーチャルな世界で国境を開放していくのか。個人が生きる世界です。

暗闇の中で考えるツール

 8時から10時まで布団の中に居ましょうか。そのかわりに、その中で何をするかです。暗闇の中で考えることにしようか。そのためのツールは揃っています。

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豊田市図書館の23冊

933.7『キャッツ・アイ』

235.04『フランス史【中世】Ⅱ』

336.2『会議の9割はムダ』

329『はじめての国際法』3日でわかる法律入門

121.05『日本の哲学第⑰号 特集 美』

749.09『最新 印刷業界の動向とカラクリがよ~くわかる本』デジタル化時代の印刷ビジネスを展望する本

019.9『本の雑誌増刊 おすすめ文子王国2017』本の雑誌が選ぶ文庫ベストテン

336.14『期をつけよう! ブラックバイト・ブラック企業』いまかr知っておきたい働く比とのルール

440『COSMOS インフォグラフィックスでみる宇宙』

498.55『カフェインの真実』賢く利用するために知っておくべきこと

290.38『世界地図2017年版』

361.7『現代日本の地域格差』2010年・全国の市町村の経済的・社会的ちらばり

384.37『旅行のモダニズム』大正昭和前期の社会文化変動

312.9『富国と強兵』地政経済学序説

331.86『新国富論』新たな経済指標で地方創生 GDPでは測れない本当の豊かさとは何か

323.14『憲法の時間』

332.1『新・所得倍増論』潜在能力を活かせない「日本病」の正体と処方箋

913.6『相棒 season14下』

383.81『和食の歴史』ユネスコ無形文化遺産に登録された和食

135.5『アラン、魂の医術』

007.3『暴露の世紀』国家を揺るがすサーバーテロリズム

913.6『独捜! 警視庁愉快犯対策ファイル』

333.6『この1冊でわかる 世界経済の新常識2017』

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哲学中辞典 気になる言葉

『哲学中辞典』より

独我論

 この私に現れる世界や他者は、それぞれが私にとっての光景であり、厳密に言えば、世界も他者も私の外部にそれ自体として存在するものではない、と考える哲学上の立場。一見すると常識はずれの奇説に見えるが、デカルトの「我思うゆえに我あり」を論理的に純化すると突き当たる根本問題といえる。独我論を公然と主張した哲学者はいないが、近代哲学は練のようにこの問題を抱えており、バークリやフッサールには独我論的な構図が見られる。また、カントの「物自体と現象」という区別にも、この問題が影を落としている。20世紀になってウィトゲンシュタインが、『青色本』において言語の観点から独我論の問題を新たに提起した。痛みのような個々人の内的体験を表現する言葉は、言葉が対象を正しく指示しているかどうかを公共的に確かめることができない。ウィトゲンシュタインは「私的言語」を否定したが、「言語ゲーム」の概念によって独我論の問題を解決したとも言えない。その後、トマス・ネーゲル(Thomas Nage1 1937-)が「視点」の考察を通じてアプローチした他、わが国の永井均が独我論の問題に深い洞察をもたらした。永井によれば、独我論の問題の所在を他者に対して言語で表現することは難しいが、しかしそれは、「なぜ、ある特定の時代に特定の両親の子として生まれ、このような性質をもった人間が、私なのか?」という疑問の中に読み取ることができる。Aという人物がかくかくしかじかの性質をもりことは不思議ではなく、世界のあり方から因果的に説明できるが、「そのAという人物が、なぜ他ならぬこの私なのか」ということは、いかなる世界の事実からも説明できない。「Aという人物が私であること」は、世界の事実ではない。これは仮象の問題ではなく、たとえばロールズが社会契約の思考実験をする際に、[私が誰であるかを知ってはならない]という「無知のヴェール」を基準にしたこととも関係している。最近では、独我論は「意識の超難問」と呼ばれることもあるが、それを誤った仮象の問題として退ける論者も多く、議論が続いている。

ヒュパティア

 エジプトのアレクサンドリアで活躍した女性哲学者であり、同時に数学、天文学などの科学者としても活躍した。同じく哲学者・科学者であったテオンの娘として生まれ、アレクサンドリアの新プラトン派のリーダーとして、プラトンやプロティノスをはじめとする哲学や天文学を教えた。当時、アレクサンドリアに様々な思想潮流が存在したなかで、断固たる科学的精神による哲学的思考をすすめて、深い尊敬を受けていた。しかし、当時、ユダヤ人とキリスト教徒の反目の広がる中、キリスト教徒の群衆によって、ヒュパティアは誘拐され、裸にされて貝殻で肉を切り落としながら殺害された。彼女の殺害によって、古代ギリシアの哲学伝統は終焉に至ったと言われた。そして、当時は珍しくなかった女性の哲学者たちも歴史の中から消え去っていった。

他者

 他者とは形式的には、同定された存在者(自己同一的存在者)に1・jする他の存在者のことである。同定は他と区別することでもあるから、自己や他者という概念は、同定(自己)/に対する/他という関係によってのみ意味を成す。ヨーロッパ近代以降の哲学では、自己同一的存在者としての「私」(自我)に対する他の存在者(他我)の関係を問うという文脈で、他者の問題が立てられた。人である他者もまた、[私]ではないもう一人の「私」であるように見えるが、いかにしてその他我を認識できるのか、といった具合にである。こうした問題設定は、自己関係性(自分自身を意識する自分)によって自己同一的存在者としての「私」を仕立てること(たとえばデカルト「私は思うがゆえに存在する」)、あるいは本来は「私/あなた/彼女(彼)」という人称関係においてのみ意味をもつ「私」を、この関係から切り離してそれだけで存在する大文字の「私」(自我)として仕立てることによっている。このような「私」にとって他者は、「私」ではない存在という、[私]の絶対性を脅かす不気味な(あるいは謎めいた)存在として現れる。この脅威から逃れようとすれば、たとえば「感情移入」によって[私]の認識世界に他者を取り込む(フッサールなど)、あるいは自他が分化する以前の身体経験の次元を呼び起こす(メルロ=ポンティなど)ことで、他者の他性を乗り越えることになるが、本来、他性なしに自己性は成り立たない以上、自己同一的存在者である「私」の解体を孕むことになろう。だがこうしたパラドクスは、他者をもっぱら認識の対象とするところから生じる。他者への関わりは、「魂への態度」(ウィトゲンシュタイン)や[応答(責任)」を呼び起こすこと(レヴィナス)として、実践的・倫理的関係として理解すべきであろう。だとすればそこには、誰が主体となって誰を他者と見なしているのかという社会的現実が反映される。主体のモデルが歴史的に「大人の、理性的な、十分な能力のある西欧の男」(イリガライ)であるなら、他者とは、社会的な権力関係・差別・排除を再認識するための合図でもある。
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哲学中辞典 ウィトゲンシュタイン

『哲学中辞典』より

ウィトゲンシュタイン 1889-1951

 20世紀言語哲学の創始者の一人であり、分析哲学全般に大きなIMやを与えた哲学者。19世紀末ウィーンにて鉄鋼業界の大物を父とする、音楽を愛好するユダヤ系の家庭に生まれ、最初エンジニアを志したが、後に数学の基礎や論理学・哲学に関心をもつようになり、渡英してラッセルに師事した。特に、ラッセルの「論理的原子論」の影響のもとに『論理哲学論考』(1918年夏脱稿、1921年公刊)を著し、分析哲学、特にウィーン学団に大きな影響を与えた。この書の公刊によって哲学の問題は解決されたとし、この後、巨額の遺産を捨て去り、田舎の教師になったり僧院の庭師になったりといった放浪を10年近くした。しかし、その後、再びケンブリッジに戻って大学教授を勤めるとともに、数学の基礎礎をめぐる問題に取り組み、それ以降『論考』の批判的検討を軸に後期の思想を展開した。その代表作は『哲学探究』(1953)である。

 彼の哲学は、『論考』と『探究』の二書によって大きく前期と浚川に分けられるが、哲学の問題は言語の問題であるとし、その論理や文法の正しい理解によって問題を解決しうるという基本姿勢は一貫している。しかし、言語観の大きな転換が見られ、前期では写像、後期ではゲームがキーコンセプトとされ、これによって哲学の問題へのアプローチも様相を変える。『論考』では、言語の本性は世界の事実を捉え、語るところにあるという信念が基礎にあり、文が事実を写す像でありうるための条件が世界と言語のそれぞれの側面において解明され、一種の模写論として真理対応説が提起された。これに対して『探究』では〈言語ゲーム〉という観点が主張され、種々の言語使用の生活実践から意味の問題が論じられた。つまり、前期思想のように言語を事実や思考の表現として捉えるのでなく、「言葉を話すことがひとつの活動あるいはひとつの生活様式の一部をなす」『哲学探究』)という観点から捉えられる。そして「語の意味とは言語の中におけるその用法である」(同上)といったウィトゲンシュタイン独自の意味論をもとに、心や知識をめぐる諸問題が議論された。

経験論

 後期のウィトゲンシュタイン、またその影響をも受けたオックスフォードを中心とする日常言語学派は、言語の働きを形式的な分析によって共通の本質に還元する企てを拒否したが、その拠り所となるのは人間の言語使用に関する個々の経験的事実の収集であった。

言語ゲーム

 後期ウィトゲンシュタインの哲学一言語観の本質を示す鍵概念で、日常会話から学問的論述に至るまで、すべての言語活動は〈言語ゲーム〉として捉えられるという主張である。これは、前期の『論理哲学論考』における、言語の本性を専ら世界の事実を写すことにあるとする言語観を批判する過程で形成されたもので、最終的には後期を代表する『哲学探究』において結実したものである。言語ゲームはまた、「言語とそれが織り込まれた諸活動からなる全体」とされ、われわれの生活形式の一部であることが強調される。

コンヴェンショナリズム

 ウィトゲンシュタインは規約主義を言語分析に適用し、独自の言語哲学を主張した。その規約主義は、特にその前期、ある言語において可能な文は、すでにあらかじめその言語の形式的条件(論理)によって限界づけられているという主張に見られる。

真理関数

 こうして論理式は、数学同様に、変項に真か偽の値を入れると、式全体の値(真理値)も決定されるので、これを真理関数という。真理関数のアイデアは、ウィトゲンシュタインが明示していた。

独我論

 20世紀になってウィトゲンシュタインが、『青色本』において言語の観点から独我論の問題を新たに提起した。痛みのような個々人の内的体験を表現する言葉は、言葉が対象を正しく指示しているかどうかを公共的に確かめることができない。ウィトゲンシュタインは「私的言語」を否定したが、「言語ゲーム」の概念によって独我論の問題を解決したとも言えない。

分析哲学

 数学的論理学によって伝統的哲学や言語論の諸命題を批判的に分析したL、ウィトゲンシュタインの議論も、分析哲学の発展に大きく寄与した。狭義の分析哲学は、前期ウィトゲンシュタインの影響を受けたウィーン学団の論理実証主義から発する、科学的命題の真理性をもっぱら分析の対象とする方向と、後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」理論から始まる、日常言語の論理や意味を分析の対象とする方向と、二つの面から理論展開されたものを指す。

原子命題

 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の冒頭に「世界は事実の集まりであって、物の集まりではない」という命題がある。世界はこれ以上分析できない単純な実体からなる、相互に独立な諸々の原子的事実とこれらの複合としての諸事実からなる。

トートロジー

 記号論理学では、ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)に従って、論理的に真なる命題ないし論理的法則はトヤトロジーと命名される。つまりそれは、部分命題の真理値に関わりなくつねに真となる命題であるが、現実世界については何も語らないという点で、「AはAである」と同じ性質をもつ。
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哲学中辞典 アーレント関連

『哲学中辞典』より

アーレント 1906-1975

 全体主義、暴力、革命という20世紀の危機をヨーロッパの伝統のなかで正面から捉え、人間の自由と協同を考えたユダヤ系の政治思想家。ドイツのハノーヴァー近郊で生まれ、ハイデガー、ヤスバースに師事して哲学的教養を身につけていたが、ナチスの権力掌握を機に、亡命生活に入り、1951年にアメリカ合州国で市民権を得るまでの18年近くを無国籍者として過ごした。第二次世界大戦終了後、『全体主義の起源』(1951)の出版によって一挙に世界的な名声を確立し、それ以降、『人間の条件』(1958)、『イェルサレムのアイヒマン』(1963)、『革命について』(1963)、『精神の生活』(1978)などの著作で注目を集めたが、とりわけ、89年の東西冷戦終了後、20世紀がはらむ危険を鋭く認識した思想家として、大きな尊敬を受けている。ナチズムとスターリン主義がなぜ生まれたかという問題を、ヨーロッパ近代化の過程の前提に立ち返って鋭く考察し、プラトンからマルクスに至るまでのヨーロッパ政治史の流れの中に、全体主義を生み出す思想的起源を探った。

 とりわけ、近代社会が全体として労働を賛美して消費社会を生み出し、人々がバラバラに孤立化させられていく傾向のなかに、全体主義の流れの危険を捉えた。人間の活動を「労働」「仕事」「活動」の三つに分け、古代ギリシアの民主政に示されるように、経済的利害にとらわれないで、協同を求めて営まれる人間の政治活動の重要さを強調した。また。近代社会の流れが、批判的にものを考える人間の能力の衰退をもたらし、人間同士の共に生きる協同の場としての政治的空間を消失させていると考え、人間がもつ根源的な力として、「始める」力を強調した。なかでも、一人ひとりの個人が新しい世界を作り上げていくという思想の強調は、20世紀の政党政治の限界を乗り越える新しい政治的空間の形成の提起として、市民運動をはじめとするこれまでとは違う人間のつながりを求める人々の大きな可能性を示している。

一般意志

 アーレントは、政治的空間の本質的な「多数性」(manyness)を重視する観点から、ルソーが本質的に単一的な意志主体として国家を表象したこと自体を全体主義的と批判した。徹底的に民主的であろうとする意志がその反対物に転化する逆説を示している点で、いまもなお重い問題を提起していると言えよう。

権威

 自発的な同意ないし服従を引き出す能力または関係。強制力による威嚇を背景にして受容、服従をさせる権力と区別される。政治的権威、社会的権威、専門的権威などに分類される。政治的権威とは、権力に対する自発的服従、服従義務を引き出す能力または関係であり、たとえば日常生活においても、自ら判断するのではなく政府の言うことに従う場合にみられる。同じように、子供が親や先生、上級生の言うことに従う場合、教祖のお告げに信者たちが従う場合(社会的権威)、医師や科学者の情報に人々が信頼をよせる場合(専門的権威)、など、様々な権威への服従が見られる。これらの例に見られるように、権威の根拠は政治的な象徴や価値、絶対的な依存状態、非合理的な啓示、専門的で高度な知識など、様々であり、また権威の担い手も、個人、役割、制度と様々である。

 たとえばアーレントによると、近代以前の西欧における権威という概念は古代ローマの都の神聖な創設に由来する。そして、この祖先崇拝を中核とした宗教と伝統と権威の三位一体に支えられた元老院の権威は、後にキリスト教の権威という形で中世に受け継がれ、あらゆる道徳の基礎となっていたが、近代における世俗化の流れの中で消滅したという。

実践

 ハーバーマスに影響を与えたハンナ・アーレントは、マルクスの労働概念を批判し、労働(耐久物を生み出さない)と区別される、仕事(耐久物を作る制作)、活動(言論による政治的活動)という概念を提示し、「活動」の自由実現における意義を強調した。それぞれに、その目的に照らして意義ある区別だが、マルクスの実践概念の批判的な世界観的構想が見えなくなっており、マルクスの実践概念の意義を再度救い出しながら、彼らの意図したマルクス主義の弱点への批判を汲み取ることが課題となっているといえる。

自由

 ヘーゲルのように「最高の共同が最高の自由」と述べたり、アーレントのように「政治の存在理由は自由」だと述べる場合には、様々な形で異なる個人がどのように共存できるかというだけでなく、他者との関わりそのものが、相互の自由の積極的実現や可能性の保証となることとして、自由という問題において語られてきた

生/生命/生活

 アーレントは、その意味で、人間の営み(生活)の条件として、「労働」「仕事」「(政治的協同)活動」を挙げた。「労働」や「仕事」だけでなく、人間が互いを認め合いつつも、共同的・公的「活動」の経験を奪われたときには、人間は、狭義の意味では「生きて」いないという問題の指摘である。そのために、古代において、ポリスに暮らす市民の生活とそれ以外の人間の生活が区別され、卓越した意味での人間的な営みとして、話し合いと公的な「活動」が人間であることの重要な条件とされた。

 このような近代の生活の理解は、人間生活に根底的な変容を生み出すことになった。このことは、アーレントによっては、人々の協同的活動の場をなす公的領域の衰退として論じられ、M.ノーコーにおいては、人々が発達した市場経済の中で、生命の生存に振り回される「生政治」として指摘された。そのような状況にあっては、個々人が孤立したままに(したがって、ビオスの可能性を失っ

全体主義

 戦後早い時期に書かれたハンナ・アーレントの歴史書『全体主義の起源』(1951)は、全体主義を左右両陣宮に共通する出来事として、また国民国家から必然的に生来する結果と考えて、賛否両論を巻き起こした。

 21世紀に入っても、日本やロシアにおいて、その復活の兆しがなくはない。「全体主義政権がその隠れもない犯罪性にもかかわらず大衆の支持によって成り立っていたという事実は、われわれに非常な不安を与える」というアーレントの指摘は、今日の不安でもある。

判断力

 アーレントも、既成の概念や認識の拘束を離れ、他者との相互性を通じてわれわれが直面する諸問題についての新たな普遍的原理を見出していく能力としてのカントの反省的判断力を高く評価し、自らの政治哲学の基軸に据えた。

友愛

 アウグスティヌスのものとされ、アーレントがしばしば引用する、愛とは「あなたが存在することを欲する」(volo ut sis)ことだという表現は、上記のアリストテレスの概念に一番近いと思われるが、ここには、しばしば恋愛や性愛との微妙な関係が含まれる。

労働

 アーレントは古代ギリシアにおける人間の生活を「労働」「仕事」「活動」と三つに類型化したが、その際「労働」は私的な生物的過程に対応し、永続する生産物をもたらさない低次の活動力として、制作技術によって永続的な人為世界の創出を指向する「仕事」からも区別された。
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岡崎市図書館の9冊

916『雪原にひとり囚われて』シベリア抑留十年の記録

301.2『高校生からわかる社会科学の基礎知識』

368.3『自殺の歴史社会学』「意志」のゆくえ

140.2『心理学史』

159『次の時代を、先に生きる。』まだ成長しなければ、ダメだと思っている君へ

161.1『信と知』たんなる理性の限界における「宗教」の二源泉

778.2『世界シネマ大事典』

382.1『江戸の風俗事典』

318.6『ふるさと革命』〝消滅〟に挑むリ-ダーたち
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