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教育に関する分化と統合

教育に関する分化と統合

 教育が学校に縛られているのが気になってしょうがない。学習はどこでやればいいのか。家庭は個別の中の、仕事は集まってやるもの。集ってやるモノと個別なモノがどうなっていくのか。

 本も一緒です。1冊になっているもの、バラバラの情報があり、届ける相手も同じところなのか、バラバラなのか多種多様です。分化と統合で大きく変わる時代になってきている。教育にしても、ITの使い方の直接伝えるとか、学習するとか、状況によって変化するなど、従来のやり方を大きく変えている。

教育素材をバラバラにする

 教育素材にしても、教科書のような百科事典に偏っているのではなく、バラバラに散財している。本だけではなく、ネット放送みたいなモノが時代を先取りしている。

 本をDNAでバラバラにして、拡散して、それらを組み合わせて、自分のライブラリを作る。それこそが現場に近いかもしれない。自分の目的に合わせていく。自分の目的そのものをその中に作り出す。そういう色々なコンテンツが存在する。

教育はまとまってやるものではない

 家庭というバラバラに存在するモノ、学校・会社のようにまとまったモノ、配置したものを一層のこと変えていったらどうなるか。

 それぞれものが、自分はどうなっているかを求めるモノです。

 学校の教育ではどうしてもステレオタイプになります。これを感じたのはイタリアに行った時に、ガイドのジプシーに対する見方にステレオタイプを感じた。これはユダヤ人に対しても同じでしょう。全体主義の教育では有用です。

 テレビの教育番組も同じで、ステレオタイプを拡げることが目的になっている。戦前の国策ラジオからのつながりなんでしょう。

知のカプセルはまだ先のこと

 多くの細かい情報を知った上で、全体を作り上げて、アナロジーの思考を用いて、自分の知の世界を作り上げるにはどうするか。

 「知のカプセル」がどういうカタチになるか。それを飲めば、全てが分かるというモノ。それが教育の最終目標ですね。教育が変わる時に、この辺のところが影響します。

教育とは何か

 教育とは何か、というところに戻ってきます。本には人間との関わりしか言及されていない。

 何もないところから教えるという段階は過ぎている。全体主義ではないけど、画一的なモノを教えるというものでもない。その次のカタチが求められている。そこに行っても、ある人にとっては得ではないからでしょう。

 人類が生き残る為に教育は必要だし、生まれてきた理由という個々のモノに対して、どう対応していくのか。

部屋は寒くて、布団から出られない。

 今朝、7時に起きた。外は雪だった。部屋の寒さが気になります。昨日のように、まるで家から出ないというのも、ぐったりです。

習いたいモノ、人がいない

 生涯学習とか大学の開放といっても、出掛けていって、習いたいモノとか人とかいるのかと言われると、何もない。

 哲学にしても、よほど本の方がいい。テーマが合わない。教育は個別です。教えるというスタンスが合っていない。かといって、後ろ姿を見て、育つというものでもない。全て、自分の内側の話です。

 内側に全てを知りたいと言うモノがあって、それに対応できるのは、他者に求められるものではない。そういうものを含んで、教育がどうなっていくのか。教育というジャンルで収まるかどうかわからないけど。

テーマ登録

 こういう多くが関連するモノは「テーマ」に登録しましょう。これも非正規化の一環です。

OCR化した本の感想

 『福祉小六法』

 ソーシャルワーカーの倫理綱領の中に、ソーシャルワークが定義づけられている。「ソーシャルワークの専門職は、人間の福利(ウェルビーイング)の増進を目指して、社会の変革を進め、人間関係における問題解決を図り、人々のエンパワーメントと解放を促している」「ソーシャルワークは、人間の行動と社会システムに関する理論を利用して、人びとがその環境と相互に影響し合う接点に介入する。人権と社会正義の原理は、ソーシャルワークの拠り所とする基盤である。」

 これと「サラフィストの方が優れたソーシャルワーカーである」という、ドイツの中のイスラム教布教との対比をすると面白い。「ソーシャルワーカー」には、実態がないと言うこと。それ故に、早い者勝ちで倫理綱領を決めているだけ。

 『やさしい教育原理』

 教育とは何かを「人間とは何か」という問いから考える。教育は人間社会に固有な営みとして、進歩する人間を求めている。方向が分からない。

 『失われた宗教を生きる人々』

 ドゥルーズ派は現在、約百万人いるとされ、その半分以上はシリアに、残りはイスラエル(十二万人)とレバノン(二十五万人)に分かれている。激しい内戦を経て、キリスト教徒共存しているレベノンこそが中東の先行きを握ると思っている。
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ドゥルーズ派コミュニティとレバノン

『失われた宗教を生きる人々』より ドゥルーズ派 ⇒ レベノンを知りたいという思いはあります。玲子さんとのネタにするのは無理そう。ソホクリスだと少しは分かるかもしれないけど、宗教問題は中東では止めた方がいいので、一般知識です。

レバノンの首都ベイルートは、南北およそ三十二キロメートルに及ぶ地中海東沿岸の都市である。沿岸には百万人が住む現代的な建物が並び、また、あちこちには、この都市がまだ小さく、より美しかった時代に建てられた赤い屋根の古いハチミツ色の家が残っている。二〇一一年のこと、私はこの街の海岸通りを歩いていた。慎み深い恋人たちや立ち並ぶクラブの前を歩いていると、岩に砕け散る波の音がそこら中から聞こえてくる。冷たい水の流れる百年前のドーヴァー海峡で、マシュー・アーノルドは信仰の海の「憂いに満ちた、長い、引く波のとどろき」を聞いていた。ベイルートでは海は今も満ちたまま、荒々しい音を立てている。

十四年に及んだレバノン内戦は公式には一九八九年に終結したが、内戦で衝突を繰り返した各宗教グループは、いまだに用心深く相手の様子をうかがっている。この戦争でレバノン国民の四人に一人が傷を負い、二十人に一人が命を失った。どのグループも例外なく残虐行為を行い、それによりどのグループも苦しみに見舞われた。だが、レバノンの多様性がもたらしたのは、衝突だけというわけではない。この国の五百万の国民は十八の宗教・宗派に分かれているが、この中東で最も宗教的平等に近いものを享受しているのも彼らなのである。憲法は「国はいかなる信条をも尊重する」と宣言し、世論調査機関ギャラップ社の調査によると、レバノン国民は世界のどこよりも宗教的多様性に対して寛容であるという。

「哀れなるかな、宗教にあふれるも信仰のなき国よ。哀れなるかな、寸断された、その切れ端を国家だと信じる国よ」とレバノンの詩人ハリール・ハンブラーンはその詩集『預言者の庭』で歌い、一国に多数の宗教や宗派があることに苦言を呈している。しかし、レバノンにこのように多様なグループが密集していることは、理にかなったことである。これらのグループにとって、レバノンはどこよりも安全な場所なのだ。というのは、この国の大半の地域は山中にあり、政府軍でも侵入には困難を極めるからである。一方、地中海に面した立地によって、レバノンは西洋とも東洋とも言える国となっている。古代「西洋」文明の中心地は、ヨーロッパ大陸ではなく地中海だ。ソクラテスがかつて言ったように、その周辺には「池の周りにいるカエルのように」古代ギリシャ人が住んでいた。この海を越えて、貿易商は香辛料や小麦、染料や奴隷を運び、哲学者や聖人は思想や知識を伝え合った。紀元前八世紀のギリシャの詩人ホメロスや紀元前五世紀のギリシャの歴史家ヘロドトス、ギリシャの数学者ユークリッドのなかに、ギリシャ本土の出身者は一人もいない。彼らはエーゲ海の島やイタリア南部、そしてエジプトの出身である。ギリシャの哲学者ピタゴラスは、エーゲ海のサモス島でレバノン人を父として生まれ、晩年はイタリア南部で教鞭をとった。私はレバノンの十八の宗教団体の一つ、ドゥルーズ派の信者たちに会うためにこの国を訪れたが、それは彼らが現代に生きるピタゴラス教団の後継者なのかどうか知るためでもあった。ピタゴラス教団とは、ピタゴラスを信奉する、ギリシャ哲学者の古代の宗教的学問的教団である。

ドゥルーズ派は現在、約百万人いるとされ、その半分以上はシリアに、残りはイスラエル(十二万人)とレバノン(二十五万人)に分かれている。そのどの国でも、ドゥルーズ派は国内のどの陣営につくかの選択を強いられてきた。イスラエルでは、ドゥルーズ派は軍隊に入り、パレスチナ人からは距離を置いていた。シリアでは、二〇一一年の騒乱後の流血の日々のなか、ドゥルーズ派はおおむねバッシャール・アルトアサド政権を支持している。レバノンでは一九七五年に内戦が始まると、ドゥルーズ派市民軍はジュンブラート家に率いられ、ムスリムと急進派が大半を占める連合軍と手を組んで、キリスト教徒が多数を占め、西洋の支援を受けるレバノン政府と戦った。時の経過とともに、内戦は複雑さを増していった。両陣営とも分裂していったのである。キリスト教徒のグループ同士が衝突し、キリスト教徒がイラクやシリアなどのムスリムが多数を占める国々と同盟を結ぶこともあった。ドゥルーズ派は他のムスリム集団と敵対し、特にレバノン最大の単一宗教集団となったシーア派ムスリムの民兵組織と戦った。内戦が長期化し、一進一退を繰り返すなか、レバノン旧市街の中心部は荒廃していった。

ドゥルーズ派では、初期のいくつかのムスリム集団の間で広まっていたような、過激な輪廻転生の考え方は認められていない(あるグループでは、新しい身体に生まれ変わる時に、生前の行いの報いを受けると信じられていた。たとえば、羊と性交した者は後の人生で羊に生まれ変わるという具合だ)。アラウィー派は、人間が植物に生まれ変わることもあると信じるが、ドゥルーズ派はこれを認めない。ドゥルーズ派が信じるのは、自分たちのコミュニティのメンバーが常にコミュニティ内で生まれ変わるということだ。この考え方によると、ドゥルーズ派の信者たちはドゥルーズ派という宗教が生まれるはるか昔から、一つの民族的集団として存在していたということだ。彼らは、肉体は若くとも、その魂は何千年も生きており、現代のドゥルーズ派コミュニティの一員である以前に、預言者ムハンマドの教友であり、ピタゴラス教団の弟子だったのである。では、受け皿となる肉体が不足した場合には、魂はどうなるのだろう? ドゥルーズ派に伝わる伝説には、この古くからの問いに対する答えも川意されていた。それによると、入る肉体がない場今ドゥルーズ派の魂は中国に行くということだ。

その晩、ムクタラの村を歩きながら、私は輪廻転生の思想がどのようにしてドゥルーズ派のコミュニティを形成したのかについて思いをめぐらせた。最初のうちは、この思想は改宗者の獲得に役立っていたのかもしれない。キリスト教徒に対しては、初期のドゥルーズ派はこう言っていたはずだ。「ムハンマドを預言者として受け入れても、イエスを拒否することにはならない。ムハンマドはイエスの再来だからである」。ギリシャ哲学を崇める異教徒に対しては、ドゥルーズ派の指導者のハムザ・イブン・アリーはピタゴラスの生まれ変わりだといって説得したはずだ。後の時代、武勇の誉れ高いドゥルーズ派の人々は、死ねばすぐに生まれ変われるという信念によって勇気を得ていた。戦場に向かうドゥルーズ派の兵士は「今夜、母の胎内で眠りたいのは誰だ」と叫んでいたことだろう。

この輪廻転生の思想は、コミュニティに対するドゥルーズ派の強い忠誠心の根拠ともなった。彼らは自らを、ハーキムに対する忠誠の誓いである、時の王への誓いを立てた者だと考えている。彼らはこれをもちろん現世で誓ったのではなく、自分たちが初めてドゥルーズ派のコミュニティを作った前世の十一世紀で誓ったのである。

結局のところ、異教徒との結婚を認めないという厳格な規則は、この輪廻転生の思想に支えられたものだと言える。平均的なドゥルーズ派の一般信者や女性に課されるわずかな義務の一つに、同信の者と結婚するというものがある。ドゥルーズ派はコミュニティ内での生まれ変わりを通じて永遠の命を獲得しているため、非ドゥルーズ派の部外者との間に子どもをもつと、現世のその子どもだけでなく、来世の子どもにも影響を及ぼすことになるのだ。だが、この現世で嫌な結果が出ることもある。二〇一三年七月、あるスンニ派ムスリムの男性がドゥルーズ派の女性と出会い、女性の家族には、自分はよその村のドゥルーズ派の信者だと嘘をついて結婚した。だが男性の正体がわかると、家族は男性を捕らえて去勢した。ワリード・ジュンブラートはこの事件を非難した。だが、ドゥルーズ派の著名な一族の子孫であるアマル・アーラムッディーンが、二〇一四年にアメリカの俳優ジョージ・クルーニーと婚約した時には、コミュニティはもう少し穏やかな対応をした。もっとも、アマルの故郷のドゥルーズ派のある年配の女性は、女性ジャーナリストのインタビューを受け、あまり面白くなさそうにこう言った。「ドゥルーズ派には男が残っていないんですかね? 神のご加護あれ」

コミュニティとしての現代のドゥルーズ派は、ヤズィード教徒やゾロアスター教徒よりもうまく運営されている。今までのところ、自分たちの土地があり、自治を守れているからだ。この理由の一つには、レバノンには支配力を振るう宗教グループがないことが挙げられる。レバノンでは、ジュンブラートは今日まで暗殺を免れ、政治と関わり続けている。シリアでは、コミュニティの規模の大きさや、主要都市から遠く離れた地の利によって、内戦の最悪の被害からは守られている。イスラエルでは信仰の自由があり、多くがイスラエル軍で兵役に就いている。だが、脅威はいたるところにある。レバノンは不安定で、シリアは血なまぐさい戦場となり、イスラエルではユダヤ人移民の住宅建設のために、ドゥルーズ派の土地の大半は没収されている。ドゥルーズ派の一般信者は教義について無知なため、海外での信仰の維持は難しい。それでもなお、ドゥルーズ派の聖職者と世俗の指導者は、あらゆる場所でコミュニティの結束と独自性を保つことに成功している。カーナヴォン卿がその未来をいかに悲観的に描こうとも、私は同じことはしたくない。そんな思いを胸に、私はムクタラとハスバヤの旅を終えた。
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教育原理 人間への問いと教育への問い

『やさしい教育原理』より 教育とは何か ⇒ 未唯宇宙の中で「教育を変える」を考えるために教育原理を見てみた

「人間とは何か」という問いから考える

 古代から人びとは「人間とは何か」という自分たちの存在をめぐる大きな問いに答えを出そうとしてきました。ホモ・サピエンス(知恵のあるものとしてのヒト)、ホモ・ファーペル(ものをつくるものとしてのヒト)、ホモ・ルーデンス(遊ぶものとしてのヒト)などは人間を定義しようとした代表的な事例です。中でも古代ギリシャ人たちが考えた“人間はホモ・サピエンスである”という定義は、生物学上、哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属ヒト種に分類されている、ヒトという動物の学名として残りました。「人間は考える葦である」といった哲学者(パスカル)もいました。このほかにも私たちは人間を定義するにあたって、道具を使う、言葉を話す、火を使う、衣服を身にまとう、直立二足歩行をする等々、人間だけがもっているさまざまな特性・能力をすぐに思いつくことができます。このように人間の定義を並べてみると、そこに示されているのがいずれも生まれた後で獲得される人間の特性・能力であることに、私たちはすぐに気がっくことができます。ここにあげられている特性・能力のうちどれひとっをとっても、人間が生まれながらにもっているものはありません。

 ではいったい人間の特性であるとされるこれらの力を、どのようにして人間は手に入れるのでしょうか。人間に対するこのようなきわめて素朴な問いをたてたとたんに、私たちは教育の人間にとってのきわめて重要な役割とその本質に気づかされることになります。教育は生物学上の〈ヒト・homo〉として生まれ、いまだ人間としての特性をもたない存在に、〈ひと・human〉としての特性を獲得させることをめざして行われる人間の社会的な営みなのです。生物として誕生した〈ヒト〉は、教育を通して人間的な諸能力を手に入れ、〈ひと〉になっていくのです。

 人間は、考え、言葉を話し、道具を使い、ものをっくり出し、高度に発達した社会をっくってきました。人間のもっているさまざまな能力は、人類の長い歴史の中で文化として外在化され、蓄積されてきました。人は文化を身につけることによって人間としての資質の大きな部分を手に入れるわけですが、同時にまた文化も一人ひとりの人間の心と体の内側に取り込まれることによって維持され発展します。人間の社会はそうすることによって、新しい世代の中に、文化を生み出し、社会を更新していく能力を育ててきたのです。教育は人間に働きかけ、人類が蓄積してきた文化を次の世代に獲得させることをめざして行われる人づくりの営みです。同時に人づくりを通して人間の社会の未来を拓く営みです。

教育は人間社会に固有な営み

 教育は人間社会に固有な営みです。人間以外の動物の群れの行動には教育的な営みは観察されません。では、どうして人間の社会にだけ教育の営みが立ち現れてくるのでしょうか。そのわけを、まず、生物としての人間の種の特徴にさかのぼって考えてみましょう。

 地球上のすべての生物は種としての生存をかけて世代交代(誕生と死)を繰り返しています。世代交代のためには、何よりもまず先行する親世代のもつ種としての特性や能力を次の世代にきちんと伝えていく必要があります。地球上の生物種の世代交代には、大きく分けて3通りのシステムが採用されているとみることができます。

 A:〈遺伝子〉のみに依拠する世代交代システム

  先行世代のもつ情報を遺伝子のDNAに載せて次世代に伝える方法は、すべての生物に共通する基本的な方法です。進化の初期・中期の段階の生物はこの方法だけに頼って世代交代をしています。この段階では生存に必要な情報はあらかじめ遺伝子の中にすべてインプットされており、新しい世代が生まれてから後で獲得しなければならないものは何もありません。

 B:〈遺伝子+学習能力〉に依拠する世代交代システム

  地球上にはやがて生物の進化の過程で学習能力を手に入れ、遺伝子に載せきれなくなった種としての経験を、生まれてから後で学習という形で個体に獲得させるような世代交代システムをもつ生物種が現れてきました。次の世代に伝えなければならない身体外の情報が多量で複雑になった動物に、この学習能力が認められます。鳥類や哺乳類にはかなり大きな学習能力が潜んでいることが近年の研究で明らかになってきています。学習によって個体が獲得した能力は遺伝子晴報として次の世代に伝えられることがないので、この段階では、学習によって獲得された能力は、その個体の死とともに消滅してしまいます。

 C:〈遺伝子+学習能力+教える能力〉に依拠する世代交代システム

  個体が学習して手に入れた能力を他の個体に積極的に伝えていくことができれば、先行する世代の獲得した能力は個体の死とともに消滅することなく、有効に次の世代に引き継がれ積み重ねられていくことができるようになります。〈教える〉という能力を手に入れることによって、その上うな世代交代システムを可能にした生物種が、進化の最終段階で現れました。いうまでもなく人類です。教える能力を手に入れることによって、人間の社会は先行世代の能力や経験を文化という形にして蓄積し、次の世代に有効に伝達することができるようになりました。文化を新しい世代に効率よく学ばせるための工夫も重ねてきました。〈教える一学ぶ〉という一対になっている能力が発揮されることによって、文化の伝達が可能になったのです。教える能力を手に入れることによって、人類は他の生物種とは次元を異にする世代交代のシステムを開発することが可能になったのです。

 遺伝子によって次世代に伝えられる生命の情報を身体内遺伝系とよぶとすれば、文化はそれに対して身体外遺伝系を形成しているということもできます。人類は身体外遺伝系をっくり出した生物です。教えることができるという力が文化=身体外遺伝系の内容を次世代に積極的に手渡すことを可能にしました。広い宇宙にはもしかしたら人類と同じような世代交代システムをもっている生物がいるかもしれません。あるいは全然別の世代交代システムが編み出されているかもしれません。このことについては私たちはまだ何も知りませんが、地球上でこのような世代交代のシステムをつくり出しだのは、人類だけなのです。教えるという能力を使いこなすことによって、人類は身体外遺伝系の領域を飛躍的に増大させることになりました。教える能力を使って人間の能力の可能性を飛躍的に大きくしていったのです。もし、自発的に教える能力を人間が獲得していなかったら、人類の歴史は現在とはまったく異なる展開をしていたことでしょう。

 人類が教える能力を、しかもこの能力の発揮に大きな歓びが伴うような形で手に入れることができた謎はまだ解けていませんが、この能力こそ人間を人間たらしめているおおもとの能力であるということができるでしょう。
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ソーシャルワーカーの倫理綱領

『福祉小六法』より

前文

 われわれソーシャルワーカーは、すべての人が人間としての尊厳を有し、価値ある存在であり、平等であることを深く認識する。われわれは平和を擁護し、人権と社会正義の原理に則り、サービス利用者本位の質の高い福祉サービスの開発と提供に努めることによって、社会福祉の推進とサービス利用者の自己実現をめざす専門職であることを言明する。

 われわれは、社会の進展に伴う社会変動が、ともすれば環境破壊及び人間疎外をもたらすことに着目する時、この専門職がこれからの福祉社会にとって不可欠の制度であることを自覚するとともに、専門職ソーシャルワーカーの職責についての一般社会及び市民の理解を深め、その啓発に努める。

 われわれは、われわれの加盟する国際ソーシャルワーカー連盟が採択した、次の「ソーシャルワークの定義」(二〇〇〇年七月)を、ソーシャルワーク実践に適用され得るものとして認識し、その実践の拠り所とする。

 ソーシャルワークの定義

  ソーシャルワークの専門職は、人間の福利(ウェルビーイング)の増進を目指して、社会の変革を進め、人間関係における問題解決を図り、人々のエンパワーメントと解放を促している。

  ソーシャルワークは、人間の行動と社会システムに関する理論を利用して、人びとがその環境と相互に影響し合う接点に介入する。

  人権と社会正義の原理は、ソーシャルワークの拠り所とする基盤である。(IFSW:2000.7.)

 われわれは、ソーシャルワークの知識、技術の専門性と倫理性の維持、向上が専門職の職責であるだけでなく、サービス利用者は勿論、社会全体の利益に密接に関連していることを認識し、本綱領を制定してこれを遵守することを誓約する者により、専門職団体を組織する。

価値と原則

 I(人間の尊厳)

  ソーシャルワーカーは、すべての人間を、出自、人種、性別、年齢、身体的精神的状況、宗教的文化的背景、社会的地位、経済状況等の違いにかかわらず、かけがえのない存在として尊重する。

 Ⅱ(社会正義)

  ソーシャルワーカーは、差別、貧困、抑圧、排除、暴力、環境破壊などの無い、自由、平等、共生に基づく社会正義の実現をめざす。

 Ⅲ(貢献)

  ソーシャルワーカーは、人間の尊厳の尊重と社会正義の実現に貢献する。

 Ⅳ(誠実)

  ソーシャルワーカーは、本倫理綱領に対して常に誠実である。

 Ⅴ(専門的力量)

  ソーシャルワーカーは、専門的力量を発揮し、その専門性を高める。

倫理基準

 I 利用者に対する倫理責任

  1(利用者との関係)

   ソーシャルワーカーは、利用者との専門的援助関係を最も大切にし、それを自己の利益のために利用しない。

  2(利用者の利益の最優先)

   ソーシャルワーカーは、業務の遂行に際して、利用者の利益を最優先に考える。

  3(受容)

   ソーシャルワーカーは、自らの先入観や偏見を排し、利用者をあるがままに受容する。

  4(説明責任)

   ソーシャルワーカーは、利用者に必要な情報を適切な方法・わかりやすい表現を用いて提供し、利用者の意思を確認する。

  5(利用者の自己決定の尊重)

   ソーシャルワーカーは、利用者の自己決定を尊重し、利用者がその権利を十分に理解し、活用していけるように援助する。

  6(利用者の意思決定能力への対応)

   ソーシャルワーカーは、意思決定能力の不十分な利用者に対して、常に最善の方法を用いて利益と権利を擁護する。

  7(プライバシーの尊重)

   ソーシャルワーカーは、利用者のプライバシーを最大限に尊重し、関係者から情報を得る場合、その利用者から同意を得る。

  8(秘密の保持)

   ソーシャルワーカーは、利用者や関係者から情報を得る場合、業務上必要な範囲にとどめ、その秘密を保持する。秘密の保持は、業務を退いた後も同様とする。

  9(記録の開示)

   ソーシャルワーカーは、利用者から記録の開示の要求があった場合、本人に記録を開示する。

  10(情報の共有)

   ソーシャルワーカーは、利用者の援助のだめに利用者に関する情報を関係機関・関係職員と共有する場合、その秘密を保持するよう最善の方策を用いる。

  11(性的差別、虐待の禁止)

   ソーシャルワーカーは、利用者に対して、性別、性的指向等の違いから派生する差別やセクシュアルー(ラスメント、虐待をしない。

  12(権利侵害の防止)

   ソーシャルワーカーは、利用者を擁護し、あらゆる権利侵害の発生を防止する。

 Ⅱ 実践現場における倫理責任

  1(最良の実践を行う責務)

   ソーシャルワーカーは、実践現場において、最良の業務を遂行するために、自らの専門的知識・技術を惜しみなく発揮する。

  2(他の専門職等との連携・協働)

   ソーシャルワーカーは、相互の専門性を尊重し、他の専門職等と連携・協働する。

  3(実践現場と綱領の遵守)

   ソーシャルワーカーは、実践現場との間で倫理上のジレンマが生じるような場合、実践現場が本綱領の原則を尊重し、その基本精神を遵守するよう働きかける。

  4(業務改善の推進)

   ソーシャルワーカーは、常に業務を点検し、評価を行い、業務改善を推進する。

 Ⅲ 社会に対する倫理責任

  1(ソーシャルーインクルージョン)

   ソーシャルワーカーは、人々をあらゆる差別、貧困、抑圧、排除、暴力、環境破壊などから守り、包含的な社会を目指すよう努める。

  2(社会への働きかけ)

   ソーシャルワーカーは、社会に見られる不正義の改善と利用者の問題解決のため、利用者や他の専門職等と連帯し、効果的な方法により社会に働きかける。

  3(国際社会への働きかけ)

   ソーシャルワーカーは、人権と社会正義に関する国際的問題を解決するため、全世界のソーシャルワーカーと連帯し、国際社会に働きかける。

 Ⅳ 専門職としての倫理責任

  1(専門職の啓発)

   ソーシャルワーカーは、利用者・他の専門職・市民に専門職としての実践を伝え社会的信用を高める。

  2(信用失墜行為の禁止)

   ソーシャルワーカーは、その立場を利用した信用失墜行為を行わない。

  3(社会的信用の保持)

   ソーシャルワーカーは、他のソーシャルワーカーが専門職業の社会的信用を損なうような場合、本人にその事実を知らせ、必要な対応を促す。

  4(専門職の擁護)

   ソーシャルワーカーは、不当な批判を受けることがあれば、専門職として連帯し、その立場を擁護する。

  5(専門性の向上)

   ソーシャルワーカーは、最良の実践を行うために、スーパービジョン、教育・研修に参加し、援助方法の改善と専門性の向上を図る。

  6(教育・訓練・管理における責務)

   ソーシャルワーカーは教育・訓練・管理に携わる場合、相手の人権を尊重し、専門職としてのよりよい成長を促す。

  7(調査・研究)

   ソーシャルワーカーは、すべての調査・研究過程で利用者の人権を尊重し、倫理性を確保する。
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