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未唯空間のあとは未唯宇宙に取り掛かる

腰と胸が痛い

 昨日の夜から腰が痛くて、寝転がっていた。どんな姿勢をしても、腰が痛くて、胸が痛い。このまま、生きていけるのか。立ち上がれなくて、寝たままの状態で過ごした。8時からの予定が、またしても。今は10時半です。

 やはり、胸が心配です。原因を掴むことは出来ないのか。心臓外科ではないみたいです。加藤内科では他人事です。まあ、私自身が他人事ですから。

 未唯空間の見直しが終わった後遺症か? いつ、動けなるかもしれないことを前提に態勢を作り上げる。

 いつ動けなくなるか。入院しただけでも、ネットが絶たれます。その時に備えて、ネットのコンテンツを全て、オアシスに入れ込んでおきます。あれなら、潜り込んでも見ることが出来ます。

サラフィストが優れたソーシャルワーカー

 『アラー世代』でドイツの移民に関する本を読んでいた。サラフィストの方が優れたソーシャルワーカーである。日本にもキリスト教の布教で、青年二人で自転車で語りかけている。ああいうカタチでコミュニティのソーシャルワークとして、勧誘しているのでしょう。

 4世紀頃のアレキサンドリア図書館には、先鋭的なキリスト教徒が荒らし回っていた。最終的には、ああいう世界を作り上げるのでしょう。一神教の姿ですね。

未唯空間のあとは未唯宇宙に取り掛かる

 未唯空間第10章までの見直しが終わりました。次をどうしていくのか。当然、未唯宇宙の方に向かいます。参考文献の考察です。つまり、近傍系への拡大です。そこには、巨大な壁が横たわっています。正面からぶつかるのではなく、潜り込むか、飛び越えていくかします。

 それにしても、最終のところで「独我論」が出てきたのには驚きました。まあ、他者の世界との分離を出す以上は必然でしょう。

万年筆を試しましょう

 ボールペンで書いていると、指が疲れます。万年筆を試しましょう。

『哲学中辞典』は継続中

 『哲学中辞典』は後ろがいないので、また、借ります。何かと安心です。

OCR化した本の感想

 『アラー世代』

  ドイツの移民問題は第一世代の移民「外国人労働者」から第三世代の若者に移っている。ッドイツ社会に入り込むことをせずに、自分たちのコミュニティの中にいる。そのコミュニティはイスラム圏の国のコミュニティにつながっている。

  今や、コミュニティという単位で影響を受けている。その上に、イスラム国などの国境なき集団がいる。そのプロパガンダがソーシャルワークになった時の強みを感じる。

 『中国経済入門』

  中国の方向が世界の行方に影響を与えている。拡大でしか維持できない中国社会に持続可能性があるのか。世界を見て、自分たちの進路を決めるゆとりはあるのか。

  エネルギー・食料が自活するためには、人口問題を解決しないといけない。有効な手段はアフリカに押しやって、そこから持ってくると言うスタイルをとることになる。新帝国主義の変形になるだろう。

  本来の共産主義なら、全てのインフラの管理を国が行なっているのだから、環境問題は解決できるはずであるが、上からのMBA的な発想では13億人の挙動は制御できない。ただでさえ、地方分権の風土だから。環境問題は出たとこ勝負でしょう。
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豊田市図書館の30冊

361.9『OECD幸福度白書3』より良い暮らし指標:生活向上と社会進歩の国際比較

291.01『図説 日本の都市問題』

498.53『カリカリベーコンはどうして美味しいにおいなの?』食べ物・飲み物にまつわるカガクのギモン

814.7『【図解】まるわかり時事用語 2017⇒1018年版』世界と日本の最新ニュースが一目でわかる!

019.9『「岩波少年文庫」のビブリオトーク』子どもの本の質が未来を変える

589.77『日本ゲーム産業史』ゲームソフトの巨人たち

936『とどまるとき』丘の上のアイスランド

335.89『NPO法人のすべて』特定非営利活動法人の設立・運営・会計・税務

332.22『中国経済入門』高度成長の終焉と安定成長への途

028『「100分de名著」名作セレクション』

019.9『気がついたらいつも本ばかり読んでいた』

295.3『アメリカ西海岸』わがまま歩き ロサンゼルス ラスベガス サンフランシスコ シアトル

383.8『サラダの歴史』「食」の図書館

302.27『中東崩壊』

162.27『失われた宗教を生きる人々』中東の秘教を求めて

519『環境・CSRキーワード事典』

814『語彙力がないまま社会人になってしまった人へ』

336.3『女性リーダー4.0 新時代のキャリア術』

371『やさしい教育原理』

333.6『2017年アメリカ大転換で分裂する世界立ち上がる日本』

766.1『帝国のオペラ』《ニーベルングの指輪》から《ばらの騎士》へ

193『聖書入門』

369.12『福祉小六法2017』

372『生きるための知識と技能』

911.3『俳句と暮らす』

365.35『生き返るマンション、死ぬマンション』

336『ドラッカー思考法大全』

134.94『ニーチェ みずからの時代と闘う者』

331.5『ブルジョワ』近代経済人の精神史

103.3『哲学中辞典』⇒アトの人が居ないから、また、借りてしまった。よかった!
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「知の統合」が価値の源泉 「統合脳」をどう作るのか

『価値創出をになう人材の育成』より 「知の統合」が価値の源泉--「統合知」の戦略とその展開人材 ⇒ 数学とか哲学からの考察がされていない。市民の覚醒が前提になる。

「統合知」の役割はますます拡大する。そこで、「統合」目標を策定し、実現するために必要な「統合脳」をどう作るかの方法を示したい。

〔1〕大学での統合脳の訓練法

 大学の教育は、それぞれ専門別のカリキュラムと統合領域別のカリキュラムで構成されている。

 理系では、基本論理と応用論理を受講し、実験・研究開発やプロジェクトヘ参加して、異分野間の交流や共同研究・開発を行うことで、多くの融合/統合が可能である。また文系は、専門分野の講座、統合分野の講座、ゼミカどの自主研究などによって、社会課題に関する専門書や関連する融合分野の研究など多くの融合/統合がなされている。しかし,業績を評価する場合は、絞った領域での評価や学位がもたらされる。また、統合的な知の集積は、広くて浅い知として評価される傾向がある。これらを前提にして、統合脳を訓練する方法を二つ提示する。

 (1)「知の構造化」の訓練

  たとえば、新聞記事や専門書などを読む際に、必ずA4判で1枚にまとめる方法をとる。筆者の方法は、第1段階として、目次別に枠を作成し、まず1枚にまとめる。次に、内容を読みながら、要点のみを基本にして、何か書かれているのかをまとめる。その後第2段階として、その内容を構造化するための新たな枠組みと、相互関係が明確になるようにし、枠を作って、結論は何かをまとめる。

  事例として、司馬遼太郎著『義経』の構造化を考えてみる。義経の合戦の内容と推移、頼朝との根底的な違いとともに、その相克の根底にある大きな時代認識の所在、なぜ鎌倉幕府という新たな時代創造がなされ、決定的な時代転換になったのかを概観しまとめる。これはそれぞれの自己流のまとめで良いが、時代転換など大局的な展開と個別の展開とを区分してまとめてみるのである。これは、個別の事象も重要だが、さらに俯瞰的な時代転換構造視点の思考である。この方法により、日常の新聞記事や論文などを、内容を俯瞰して観察し、記述して、構造化をすることで、「統合脳」を鍛える。

 (2)実践的経験から「統合知」の訓練

  大学での学びや研究に加えて、実践的な経験の補強として、企業との共同研究やインターンシップが導入されている。米国などにおいても講義や討議以外に、企業などからの要望によるカリキュラムの再編や新たな講座が導入されている。しかし日本での共同研究やインターンシップは、能動的な動機付けが少なく、問題意識の深堀りによる統合脳への転換が脆弱である。そこでインターンシップなどを、自己鍛錬の「気づきの場」であり、自己の新たな学問的な深堀りやさらに不足する知への習得意欲を高める場として把握し、また大学自身が、新たなカリキュラム編成を促す手段として見直すことの重要性を示しておく。たとえば汀自己の習得した成果とその分野での課題」を明示する。「気づきとしてのインターンシップの場」では、①現場のデータとは何か、②データの管理基準の方法、③複雑なデータの関連付け、④意思決定ムカニズム、⑤新たなシミュレーション持術。⑥データ処理と意志決定の体系など、で研究と現場でのギャップが生じるが、この問題意識に基づき、さらなる研究テーマの設定をすることで、知識の深まりと新たな研究領域への動機付けが可能になる。

  またこの新たな課題が大学などの「新たなカリキュラム再編」へと反映されることで,常に最新の「統合知」が形成される。このプロセスは、理論脳と実践脳の統合知でもある。日本でのインターンシップが、学生の就職経験の場として理解されているのでは、日本の知の劣化はますます深刻になる。

〔2〕企業での「統合脳」の訓練法

 企業では、事業環境の現状分析と今後の見極め、競争条件と自社の位置付け、基本戦略、戦略実現の方法、開発のテーマの設定と実現、事業モデルの創造、事業計画、事業化/製品化による価値の実現プロセス、推進体制の整備など多くの段階での分析や思考が求められる。

 そこで、価値開発を考える場合、多様な開発事項や開発部門を取りまとめる人材の確保が喫緊となる。

 (1)さまざまな開発技術や開発部門の統合としての「意味設計」方法

  製品価値の開発には、概念設計、スペックの設定、個別要素技術のマッチング、調整ターゲット(レベルの明確化)、インターフェイス(個々の技術の全体最適化)、リスク管理(環境変動/競争条件変動/日程の変更など)

  個別技術の動機付けや市場開発マーケティングなどを、「統合知」として取りまとめる必要があり、基本設計後、開発目標に「意味設計」という「実践的な統合知」実現プロセスが重要になってくる。

  つまり、個別技術にはそれぞれの目標や到達ミッションがあり、必ずしも、最終目標までの各要素技術の明確なミッションと目標とが整合しない場合がある。そこで、「意味設計」という段階を置き、目標に向けて実現すべき個別の開発分野の方向性を明確に設定しなければ、「統合知」としての完成ができないことになる。

  意味設計はまず、明確な目標の設定である。これには、ぶれない最終完成目標、統合すべき機能、プロットタイプ、「なぜ?」に対する意味付けが必要である。

  この目標に向けての課題の構造化によって、課題の体系化、課題解決アイディアの抽出、解決の吟味と体系化を行い、各要素技術の集結を図る。その作業のうえで、「意味設計」の段階では、①個々の機能と目標となる機能の相違やギャップの明確化、②それぞれの構成する個別技術のスタンス相違の明確化と目標を実現するギャップの解消と説得、③新たな課題解決の設定、④相互調整と相互要素間インターフェイスの改善、⑤十分な討議と調整などを行い、全体目標に向けての動機付けや執念を強化することを、実現するためのプロセスに導入することが重要になり、これによって、新たな統合知の完成を行うことができる。この「意味設計」は事前に様式化して、記述をすることで、抜けのない意味付けの設計ができる。

 (2)成功条件先取りの戦略と実行プログラム法

  企業経営では、技術などの「統合知」以上に、さらに経営全体(開発/生産/販売/サービス/戦略/組織体制/経営風土/人材育成/権限移譲など)を推進し、持続的に収益を上げ,勝ち続けることがきわめて重要になる。筆者は、企業での経験をもとに、事業の成功条件を先取りして予測し、その実現策を様式に書き出し、異質部門を含めて全体討議を行いながら、各要素の整合性を図るとともに、実行プログラム(日程と責任体制)を実施する方法を提示する。これは経営のさまざまな要素の「統合知」を共有し、成功条件形成に向けて、集中的に実行する方法である。筆者のコンサルティング経験から、経営の全体系の構造と成功条件を各社の事業特性を含めて書きだして、全体を眺めるという作業を勧めたい。これによって、異分野の部門からの追加・修正も行い、整合的な成功条件かどうかを吟味確認するのである。また、組織全体に経営成功の「統合知」が形成され、実現に向けての明確な動機付けが形成される。

  さらに、経営には多くの事業リスクがあり、これらを統合的に視野に入れて経営しなければ、持続的な発展はできない。
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中国経済の持続可能性 中国はみずからを養えるか

『中国経済入門』より 持続的経済成長は可能か? エネルギー・食料の制約と環境問題

人口と食料の推移

 改革開放以降の30年余りの間において、中国の食料生産量は大幅に増加した。それに、一人っ子政策による人口抑制の効果もあって、1人当たり食料生産量もこの間かなり増えた。米、小麦、トウモロコシといった主要穀物の自給率はこの間に95%以上を保っており、今日の中国は自力でみずからを養っているといえる。

 図が示すように、1985年から2015年の期間、総人口は33.4% (3億1、600万人)増えたが、食料の生産量はそれを上回る60.5%増だった(『中国農業発展報告』、『中国統計年鑑』各年版)。その結果、1人1年間の食料生産量は350~450キログラムという高い水準が保たれた。

 農業の大増産を反映して、米、小麦、トウモロコシは非常に高い自給率を維持している。全期間を通して米は生産過剰で純輸出の状態であり、トウモロコシは国内の畜産業の発展で飼料用の消費が増えたにもかかわらず、ほとんどの年で輸出超過となった。かつては年間1、000万トン以上の輸入超過であった小麦は、輸出入が均衡する状態にまで国内生産が成長している。輸入が急増したのは大豆および食用植物油である。1992年に輸入超過に転落した大豆は、2014年には7、100万トンの純輸入となった。これは同年の国内豆類生産量の4.4倍で、大豆の国際取引量全体の64%を占めた(2013年)。大豆の輸入増大は中国の貿易黒字を緩和する目的もあり、輸入元はアメリカなど既存市場からの割合が低く、日本とは真正面から競合してはいないが、中国の対外資源獲得戦略の一環と目されていることは確かである)。

食料需給の見通し

 中国の1人1日当たり熱量摂取は90年代半ば以降、日本のそれとほぼ同じ水準(2、800キロカロリー)に達している。今後、都市化や所得増加で消費構造が高度化し(植物性カロリーから動物性カロリーヘのシフト)、同水準の熱量摂取を維持するにしても、より多くの食料を必要とすることはいうまでもない。これは食料の間接消費(穀物などを飼料として家畜に与え、その肉や乳製品を食する)が増えるためである。しかし他方では、経済成長の過程で、就業構造が農業(肉体労働)から非農業(非肉体労働)ヘシフトしていくために、熱量消耗自体が減少する可能性もあり、直接消費の減少分によって消費構造の高度化を維持することはある程度可能である。

 1人当たり食料消費量は今後も400キログラムの水準に留まることが予想される。だとすれば、総人口のピークを迎える2030年まで、食料生産は年平均500万トン程度増産すれば足りることになる。これは年平均1%の増加率に相当するものであるが、ここ30年間の実績(1985~2015年が年平均1.66%増)を考えれば達成できないレベルではない。

 増産可能という判断の根拠について、以下の3点を挙げることができよう。田工業化や都市化などで耕地面積は若干減少するものの、中国政府は農地の転用を厳しく規制しているから、減少のスピードは日本など他の東アジア地域よりは緩慢である。(2)広東、浙江、江蘇など沿海地域の食料生産は過去十数年間たしかに減少してきたが、東北地域、中部地域の新しい生産基地が形成されている。食料の主産地が市場経済化のなかで大きく変化したのである。(3)米をはじめ、小麦、トウモロコシの単位収量については、潅漑施設などへの投資増大、品種改良を通して、今後、それを上げる余地はなお大きいといわれる。

 他に、流通システムの合理化、飼料利用効率の改善などで食料の浪費を減らすことも期待される。要するに、予想を越えた災厄に見舞われない限り、主要食料の基本自給はさまざまな政策努力によって実現可能と思われる。

 ところが、世界貿易機関(WTO)への加盟を果たした2001年以降、中国は国内の農業構造を調整し、適地適作を原則とした主産地の形成を促進する一方、比較優位論に立脚する農産物貿易にも力を入れている。具体的にいうと、野菜、水産加工、果物といった労働集約的食料品の生産と輸出を拡大しながら、大豆、食用植物油といった土地利用型の農産物輸入を増やすということである。ブラジル、アルゼンチンから大豆の契約生産・輸入を行い、近年アフリカまで食料生産資源の獲得に目を向けはじめている。

 中国政府は1997年に95%以上の食料自給率を国際公約として設定し公表し、いま(2015年)もそれを変えてはいない。主要穀物をみる限りでは、この国際公約が守られている。ところが、大豆、食用植物油、小麦、大麦(ビール生産用)などの輸入量を国内で生産する場合に必要な耕地面積に換算すると、2010年にはそれが3.8億ヘクタールに上る。輸出した野菜等の分を差し引くと、食料供給が海外の耕地に依存する割合(依存率)は2割強に達する。言い換えれば、作付面積をベースに考えれば、中国の食料自給率はすでに80%程度に低下している。同じ方法で2015年の食料自給率を試算してみると、それが70%をやや下回ったことも判明した。この観点で中国の食料自給率を中長期的に考えると、自力でみずからを養うという中国政府の公約は危うくなる。

 十分な外貨を持ち、不足分の食料を国際市場から調達することは日本、韓国、台湾も行っていることであり、非難には値するまい。しかし、中国の巨大さからして、基本自給の目標を放棄した場合の国際社会への影響は甚大にならざるをえない。当分の間は、高度成長がつづく中国の食料問題から目が離せない。
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サラフィストの方が優れたソーシャルワーカーであるわけ

『アラー世代』より

若者がイスラム原理主義の過激派になるのは、イデオロギーに飛びつくからであると私たちは確認してきた。彼らはごく幼い頃からすでに、はっきりとあるいはぼんやりと、そうしたイデオロギーの核心に触れていたのだった。だが若者が過激化する原因は、ドイツのイスラム教モスクの団体の大半が新しい世代とその要求に応えるのを怠ってきたためでもある。

従来これらの団体は自分たちの信者のことを知っていた。彼らは「外国人労働者」の第一世代、あるいは第二世代だった。彼らはドイツ語を話せないままドイツにやって来て、生活も考え方も祖国の伝統に則っていた。いまもなお、多くのモスクでトルコ語かアラビア語で説教がおこなわれるのは、対象がこうした旧来のグループだからだ。

しかし第三世代の若者にとってはどうだろう? 彼らはドイツで生まれ、ドイツ語を話す。もしかするとトルコ語あるいはアラビア語はほとんどできないのかもしれない。彼らの願いや不安や観念は、学校やメディアや現在の社会的・政治的出来事や昨今の世界紛争によって強い影響を受けている。両親にモスクに連れて行かれれば、彼らはただあくびをするしかない。モスクになんの関心もないか、あるいはイマームの話がほとんど理解できないのだ。他方で、ドイツで説教するイマームは、ドイツでの生活は数年足らずというのがほとんどだ。彼らはドイツ語に通じておらず、若者の世界について、若者が頭を悩ませる問題について、ごくごく大まかな知識しかもちあわせていない。そんな説教者がドイツの若いムスリムにはたらきかけられるだろうか? --ありえない。

このようにして、まさしく宗教上の需給ギャップが生まれた。サラフィストはそのギャップを見つけ、きわめて巧妙に入り込んだのだ。サラフィストはドイツ語だけでなく、若者言葉も話す。彼らはより優れたソーシャルワーカーだと言わざるをえない。彼らは若者がいるところに出向く。青少年センターヘ、ゲームセンターの前へ出向いていく。そこには、まさに最後のもち金をすってやけになっている少年がいる。あるいは公園や広場で待ちかまえる。そこでは若者が酒を飲み、ドラッグをやっている。あるいは少年たちが賞賛を求めてボールを追うサッカー場でも待ちかまえる。サラフィストは、若者たちが入り浸り、退屈して、いらいらしながら時間をもてあましている場所で待ちかまえる。

サラフィストはケバブのスタンドやバス停で若者と出会う。彼らは家の呼鈴を鳴らして、若者にやさしくたずねる。「金曜日の夜なのに、どうして礼拝に来ないんだい?」。家族の祝い事にサラフィストがやって来て、そこではじめて彼らと話す若者も少なくはない。サラフィストは布教にたいへん真面目で、自分たちの計画を情熱的に推し進める。

サラフィストといえば、一見してそれとわかるような異質な人たちのように考えてしまう。だが、それは錯覚だ。彼らはとくに目立つこともなく、私たちのごく身近で生活している可能性がある。彼らが若者に話しかけるとき、「さあおいで、君たちもサラフィストになろう」などとは言わない。もっと器用で慎重なやり方をする。彼らは連帯感や親近感を作り出す。「やあ、元気? 友達とはうまくいってる? サッカーはどうだった? お兄さんたちとのゴタゴタはどうなの? 卒業したら仕事を探すつもりかい?」。声をかけられた若者がいやな体験や不安を嘆いたりすれば、サラフィストはすぐに味方になったり、火に油を注いだりする。「たしかにね。この国は本当に人種差別をするよ。君は何を期待していたんだ? 君の髪は黒く、ムスリムだ。ここでは仕事を見つけられないだろうし、社会にもけっして受け入れられないよ」。サラフィストはあらゆる身振り手振りに言葉を尽くして、「私たちは君の抱える問題を理解している」ことをはっきりわからせる。しばらくしてから、若者たちに「君たちを信頼しているから言うんだ」と打ち明ける。「私たちのところに来れば、宗教を見出せば、君は受け入れられるし救われるんだよ」。サラフィストはおきまりの主題をふたたび取り上げる。「この社会を見てごらん。ただ物質的なことばかりに向かっている--どれほど病んでいることか。人々は沈んでいて、目的もなくあくせくはたらくのに、その賃金だけでは生活できないなんて。イスラム教ではすべてが完全無欠で、光に満ちているんだ!」。つまり別の世界の可能性がある、というわけだ。けっして押しつけがましくなく、つねに粘り強く、彼らは若者・に自分たちの提案を語りかける。やさしく親しげに、そして思いやりがある話に、ときおりイスラム教の恩恵についての短いコメントや助言が加わる。なかには少年たちといっしょにサッカーをする者もいる。「君たちが勝ったら、みんなに飲み物をおごるよ。私たちが勝ったら、一度いっしょにモスクに来て、礼拝をしよう」

ただし、激しい調子で不安や憎しみを煽るビラが校門の前で配られている光景にも出くわすこともある。そこにはコーランから数行が引用されている。「『なぜおまえたちは地獄に堕ちたのか?』。あなたたちは言う。『私たちは祈りを捧げる者とともにいなかったのです』」。ビラには黒をバックに「地獄」、「祈り」、「いなかった」が赤で強調され、悪しきムスリムを脅すような無数の場面が描かれている。

興味本位に、あるいはひまつぶしに、実際にモスクに足を運び、一度か二度礼拝をした若者は、自分を少し誇らしく思うのかもしれない。彼らはともかくよいことをしたのだから。二度目に行くと、今度は礼拝だけでなく、話を聞かないかと誘われる。そんなに長い時間はかからず、おそらく十分か十二分程度だ。そのときにはもう本題に入り込んでいる。

三度目に若者が連れて行かれると、話はいくぶん長くなる。ムスリムが強くて輝かしい力をもっていた時代が物語られる。そして今度は、死後の世界もきらめく色彩で描き出される。しかし突然不安を呼び起こすテーマ、とりわけ死、また死後の問題が語られる。「血のなかにアルコールがあるまま死んだらどうなるだろう? 無実をあかす前に死んでしまったら、何が起こるだろう? 結婚する前に女の子と寝てしまったら、何か君を脅かすだろう?」。若者は耳をそばだてて聞く。

ところが、その後すぐに聞かされるのは、ふたたびコーランの美しく幻想に満ちた物語である。よきアラーについての物語だ。とりわけ若者の憧憬に訴えかけ、ロマンチックな雰囲気がっくりあげられ、若者はひたすら感激してその雰囲気に身をゆだねたくなる。たとえば、信者に対するムハンマドの愛が語られると、願望に火がつけられる。このように愛されたい、完全に、献身によって! それは、ある人たちにとって父や母からは受けたことのない愛である。

しだいにサラフィズムが若者にとって、いまの苦境からの最後の逃げ道のように思われてくる。サラフィズムは僻病、薬物中毒、アルコール依存を癒し、退屈やゲーム中毒から救い、両親の家から解放すると約束する。これらすべてを若者は心から信じたいと思う。サラフィストが少年刑務所の前に立って、たったいま出所して自由を実感している若者を待ちかまえていることがある。あるサラフィストはさっきまで受刑者だった者に話しかける。「よう、兄弟、こんなところでもう二度と会いたくないね。おいでよ、助けてやるよ。仕事を探してやるよ。面倒見るよ。ともかくこんなところには二度と足を踏み入れてはダメだ」。心を打たれた若者はさらに二、三冊の小冊子を手渡され、電話番号を交換する。出所したときに両腕を広げて出迎え、支援を約束してくれた人を頼ることになる若者もめずらしくはない。
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