未唯への手紙
未唯への手紙
情報化社会における集団の変貌
『現代日本の地域格差』より 現代日本社会論ノート
現代日本社会の重要な特質の一つが高度情報化社会であるということは、これまでにもふれてきたところである。情報化社会という指摘は、すでに以前からなされていたが、一昔前までは、そのイメージはマスコミ特にテレビの急速な発達と普及に注目するものであった。大衆社会化とか、1億総白痴化といわれて、その弊害がむしろ強調されていた。それは大企業であるマスコミ企業が単純化された情報を画一的に流布し大衆の志向を制御するものとして懸念されていた。
それに対して今日の高度情報化社会はかなり異なった様相と問題点を内包している。もちろん、マスコミは今日ますます旺盛な活動を繰り広げているが、今日むしろ注目されるのは、コンピュータ、携帯、スマホ等、多様な情報機器の目覚しい進化と広範な普及である。一昔前は、電車の中では、男性はスポーツ新聞、女性は週刊誌か文庫本を広げていたのであるが、今日では、男性も女性も携帯の画面を見つめ忙しく指を動かしている。かつての情報化社会においては、庶民はもっぱらマスコミ企業の発信する情報を受け取る受け手であったが、今日では受け手であると同時に、親しい近親・友人間であるか、より広い空間宛であるかはともかく、庶民の多くが情報を発信する送り手にもなっている。マスコミが頼りであった時代には、受け手である庶民は、得られる情報の種類としてはどのチャンネルを選ぶかという程度の選択しかできなかったが、今日ではマスコミ以外に多様な情報源に接することができるようになった。そのなかには、いかがわしい情報や偏った意見ももちろん含まれるわけであり、溢れる情報の中から必要なものを選び出す情報リテラシーの重要性が繰り返し強調される。
インターネットは、個人でも広く大勢の対象に、情報や意見を伝えることができる優れた発信力を持っている。それを個々人が手に入れたことで、情報化社会は全く異なった様相を呈することになった。膨大な情報が時々刻々にインターネットやメールの空間を飛び交う。その中には日常的なつながりのある人々相互の身元の確かな情報もあれば、発信者の特定さえできない無責任な内容のものも含まれる。それらの全体を見通し、コントロールすることはもはや困難になっているとさえ思われる。さまざまな悪質なウイルスやハッカーの被害などには、対応の困難なものさえ含まれる。高度情報化社会は、もはや過度に発展してしまった結果、制御不能になってしまっているとさえ思われる。
機器を通じ、コンピュータや携帯の画面を通じた、いわゆるバーチャルな結びつきが広がった反面、家族や近隣などの基礎的な集団が脆弱化し、リアルな結びつきが希薄になっていく。もっともこれらの場面での差引勘定は単純ではない。共働きが広がり長時間労働が改善されないことや、塾や習い事を含めて子供が家にいる時間が短くなったことなど、家族がともに過ごす時間は少なくなった。その一方で、夫婦や親子の間でも、携帯を介した会話が頻繁に行われるようになった。バーチャルな結びつきがリアルな結びつきを補完代位している部分も見出せる。
同じことは、広い意味での地域のつながりについても当てはまる。旧来からの近隣や村落などの機能は低下し、そのまとまりは脆弱化した。しかし、その結果個々人がばらばらに分散したというわけではない。弱体化したとはいえ、これまでの近隣や村落のむすびつきもそれなりに持続しているだけでなく、家族の場合と同じように、従来は直接顔を合わせて話し合っていたことを携帯を使って間接的に交流するという状況もある。それ以上に大きく変化したのは、近隣や村落などの限られた地域空間にこだわりなく、さまざまな機縁によって濃淡のあるネットワークが築かれてきていることであろう。行動範囲も広がっているだけに、直接的なネットワークも広がりを見せているが、機器を介した間接的なネットワークは、空間的制約なしに結びつきを作っている。かつては都市住民の行動範囲は広くその社会的交流の広がりもかなり広い地域に広がっていたのに対して、農村地域の場合には交通手段に恵まれず行動範囲も、社会的交流の空間的広がりも、狭い範囲にとどまるとされていたが、バーチャルな結びつきの比重が大きくなるにつれて、社会的交流における都市と農村の差異を大きく減らすことにもなっている。僻村からでも世界に向けた情報発信や交流が可能になっているのである。
しかしながら、この結果問題になるのは、一つは、広がりを見せる機器を介した間接的ネットワークは、機器の活用のいかんによってきわめて多くのネットワークに結びつく者と、機器の活用が少ないために貧しいネットワークしか組みえていない者との格差を広げていくことである。国境をこえて広いネットワークを築き、日常的に社会的・経済的活動を展開している者もあれば、他方には、極端な場合、一人暮らしの不器用な高齢者が、家族や地域との直接的結びっきも薄くなり、機器の扱いに不慣れで間接的なネットワークも組めないという、孤立状態に陥る危険性もある。それらの中間に、行動範囲の拡大や機器の活用のあり方などに基づいて、いくつものグラデーションを描くことができよう。
もう一つの問題は、直接的な結びつきにせよ、間接的な結びつきにせよ、いずれもそれぞれにきわめて濃密なものから、ごく淡い接点に過ぎないものまで、多様なものが含まれているということであり、単純に直接的な結びつきが濃密で、間接的な結びつきが淡白であるということはできない。このように直接的な結びつきと間接的な結びつきが共存する中で、今日の社会生活が営まれている。
こうした社会生活において、重要性を増していくのは、旧来の限られた地域空間の区切られた社会的交流ではなく、地域空間の制約を離れたさまざまな契機に基づいて生み出されるネットワークであろう。そのなかには、生産活動、消費活動のそれぞれにかかわる経済的なネットワークもあれば、政治的志向を持ったネットワークもあり、また文化的な契機や趣味などによって形成されるネットワークもある。もちろん、経済領域にも、政治領域にも、また文化的な領域にも、中央集権的な色彩の強いわが国の場合には、中央権力による体制的な枠組みが整備されている。経済領域は国家権力と結びついた巨大資本を中心にした資本主義的経済機構が聳え立っている。政治領域には、官僚機構に支えられた政権政党による運営が行われている。文化領域においては、それぞれの領域で伝統的な秩序が維持されている。こうした広い意味での支配層によって構築されている体制に対して、市民が社会生活の場において形成するネットワークが、新たな方向性を作り出すことができるか否かが、重要な問題である。支配層によって構築された体制に取り込まれ、その末端として機能することが少なくなかった旧来の村落などの地域社会が脆弱化し、代わって新たに生まれてきた集団やネットワークのうちには、すでに権力的な体制に取り込まれたり、その末端として活動するようになったものも少なくない。しかし、多くの市民が自らネットワークを組み立てることが可能になっているだけに、中央集権的な体制に対して距離をもち、新たな方向を志向する活動を繰り広げているものも数多い。
現代日本社会の重要な特質の一つが高度情報化社会であるということは、これまでにもふれてきたところである。情報化社会という指摘は、すでに以前からなされていたが、一昔前までは、そのイメージはマスコミ特にテレビの急速な発達と普及に注目するものであった。大衆社会化とか、1億総白痴化といわれて、その弊害がむしろ強調されていた。それは大企業であるマスコミ企業が単純化された情報を画一的に流布し大衆の志向を制御するものとして懸念されていた。
それに対して今日の高度情報化社会はかなり異なった様相と問題点を内包している。もちろん、マスコミは今日ますます旺盛な活動を繰り広げているが、今日むしろ注目されるのは、コンピュータ、携帯、スマホ等、多様な情報機器の目覚しい進化と広範な普及である。一昔前は、電車の中では、男性はスポーツ新聞、女性は週刊誌か文庫本を広げていたのであるが、今日では、男性も女性も携帯の画面を見つめ忙しく指を動かしている。かつての情報化社会においては、庶民はもっぱらマスコミ企業の発信する情報を受け取る受け手であったが、今日では受け手であると同時に、親しい近親・友人間であるか、より広い空間宛であるかはともかく、庶民の多くが情報を発信する送り手にもなっている。マスコミが頼りであった時代には、受け手である庶民は、得られる情報の種類としてはどのチャンネルを選ぶかという程度の選択しかできなかったが、今日ではマスコミ以外に多様な情報源に接することができるようになった。そのなかには、いかがわしい情報や偏った意見ももちろん含まれるわけであり、溢れる情報の中から必要なものを選び出す情報リテラシーの重要性が繰り返し強調される。
インターネットは、個人でも広く大勢の対象に、情報や意見を伝えることができる優れた発信力を持っている。それを個々人が手に入れたことで、情報化社会は全く異なった様相を呈することになった。膨大な情報が時々刻々にインターネットやメールの空間を飛び交う。その中には日常的なつながりのある人々相互の身元の確かな情報もあれば、発信者の特定さえできない無責任な内容のものも含まれる。それらの全体を見通し、コントロールすることはもはや困難になっているとさえ思われる。さまざまな悪質なウイルスやハッカーの被害などには、対応の困難なものさえ含まれる。高度情報化社会は、もはや過度に発展してしまった結果、制御不能になってしまっているとさえ思われる。
機器を通じ、コンピュータや携帯の画面を通じた、いわゆるバーチャルな結びつきが広がった反面、家族や近隣などの基礎的な集団が脆弱化し、リアルな結びつきが希薄になっていく。もっともこれらの場面での差引勘定は単純ではない。共働きが広がり長時間労働が改善されないことや、塾や習い事を含めて子供が家にいる時間が短くなったことなど、家族がともに過ごす時間は少なくなった。その一方で、夫婦や親子の間でも、携帯を介した会話が頻繁に行われるようになった。バーチャルな結びつきがリアルな結びつきを補完代位している部分も見出せる。
同じことは、広い意味での地域のつながりについても当てはまる。旧来からの近隣や村落などの機能は低下し、そのまとまりは脆弱化した。しかし、その結果個々人がばらばらに分散したというわけではない。弱体化したとはいえ、これまでの近隣や村落のむすびつきもそれなりに持続しているだけでなく、家族の場合と同じように、従来は直接顔を合わせて話し合っていたことを携帯を使って間接的に交流するという状況もある。それ以上に大きく変化したのは、近隣や村落などの限られた地域空間にこだわりなく、さまざまな機縁によって濃淡のあるネットワークが築かれてきていることであろう。行動範囲も広がっているだけに、直接的なネットワークも広がりを見せているが、機器を介した間接的なネットワークは、空間的制約なしに結びつきを作っている。かつては都市住民の行動範囲は広くその社会的交流の広がりもかなり広い地域に広がっていたのに対して、農村地域の場合には交通手段に恵まれず行動範囲も、社会的交流の空間的広がりも、狭い範囲にとどまるとされていたが、バーチャルな結びつきの比重が大きくなるにつれて、社会的交流における都市と農村の差異を大きく減らすことにもなっている。僻村からでも世界に向けた情報発信や交流が可能になっているのである。
しかしながら、この結果問題になるのは、一つは、広がりを見せる機器を介した間接的ネットワークは、機器の活用のいかんによってきわめて多くのネットワークに結びつく者と、機器の活用が少ないために貧しいネットワークしか組みえていない者との格差を広げていくことである。国境をこえて広いネットワークを築き、日常的に社会的・経済的活動を展開している者もあれば、他方には、極端な場合、一人暮らしの不器用な高齢者が、家族や地域との直接的結びっきも薄くなり、機器の扱いに不慣れで間接的なネットワークも組めないという、孤立状態に陥る危険性もある。それらの中間に、行動範囲の拡大や機器の活用のあり方などに基づいて、いくつものグラデーションを描くことができよう。
もう一つの問題は、直接的な結びつきにせよ、間接的な結びつきにせよ、いずれもそれぞれにきわめて濃密なものから、ごく淡い接点に過ぎないものまで、多様なものが含まれているということであり、単純に直接的な結びつきが濃密で、間接的な結びつきが淡白であるということはできない。このように直接的な結びつきと間接的な結びつきが共存する中で、今日の社会生活が営まれている。
こうした社会生活において、重要性を増していくのは、旧来の限られた地域空間の区切られた社会的交流ではなく、地域空間の制約を離れたさまざまな契機に基づいて生み出されるネットワークであろう。そのなかには、生産活動、消費活動のそれぞれにかかわる経済的なネットワークもあれば、政治的志向を持ったネットワークもあり、また文化的な契機や趣味などによって形成されるネットワークもある。もちろん、経済領域にも、政治領域にも、また文化的な領域にも、中央集権的な色彩の強いわが国の場合には、中央権力による体制的な枠組みが整備されている。経済領域は国家権力と結びついた巨大資本を中心にした資本主義的経済機構が聳え立っている。政治領域には、官僚機構に支えられた政権政党による運営が行われている。文化領域においては、それぞれの領域で伝統的な秩序が維持されている。こうした広い意味での支配層によって構築されている体制に対して、市民が社会生活の場において形成するネットワークが、新たな方向性を作り出すことができるか否かが、重要な問題である。支配層によって構築された体制に取り込まれ、その末端として機能することが少なくなかった旧来の村落などの地域社会が脆弱化し、代わって新たに生まれてきた集団やネットワークのうちには、すでに権力的な体制に取り込まれたり、その末端として活動するようになったものも少なくない。しかし、多くの市民が自らネットワークを組み立てることが可能になっているだけに、中央集権的な体制に対して距離をもち、新たな方向を志向する活動を繰り広げているものも数多い。
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