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フランス史中世 十字軍の開始

『フランス史【中世】Ⅱ』より 十字軍の開始(一〇九五~一○九九年)

ヨーロッパとアジア、キリスト教とイスラム教という二人の姉妹は、当時の世界を二分しつつも、互いに相接することはなかった。それが、十字軍によってはじめて直接向き合い、互いを見つめ合うこととなった。最初の一瞥は恐怖のそれであった。彼女たちが互いを認識し、同じ人間であることを認め合うには、なにがしかの時間が必要であった。このとき、彼女たちがどのようであったかを評定し、その宗教としての年齢は何歳になっていたかを確定してみよう。

この両者では、イスラム教のほうが六百年も遅れて誕生したのに、すでに衰退期に入り、十字軍の時代をもってその一生を終えた。いまわたしたちが見ているイスラム教は、生命が去ったあとの抜け殻であり、影にすぎず、アラブの野蛮な相続人たちは、よく調べもしないで、それにしがみついているのである。

イスラム教はアジアの諸宗教のなかでも最も新しく、オリエントにのしかかっていた物質主義を免れるために最後の空しい努力をした。かつては、ベルシアも《光の王国》を《闇の王国》に英雄的に対峙させようとした(それがトルコ系諸族トゥランに対するイランの対決であった)が、充分ではなかった。ユダヤ教も、抽象的な神の単一性のなかに閉じこもって自己の内側に凝固してしまい、物質主義からの解放はこれまた不充分で、いずれも、アジアに救済をもたらすことはできなかった。マホメット(ムハンマド)は、このユダヤ教の神を採り入れ、「選ばれた民」から引き出して全ての人類に押しつけようとしたのであって、何かを生み出すことはできるはずもなかった。イスマイルが兄のイスラエルを超えることができたであろうか?・ アラビアの砂漠はペルシアやユダヤの地より肥沃になれただろうか?

〔訳注・旧約聖書において、イスマイルは、アブラ(ムが妻のサラに子ができなかったので、召使い女のアガルに生ませた子。その後、サラが身寵もって生んだのがイサク。イサクはイスラエルの民の祖であり、イスマイルは母アガルとともに砂漠に逐われてアラブ人の祖となったとされる。〕

「神は神なり」--これがイスラムの教えである。これは単一神の宗教であり、そこでは人間は消え失せ、肉は隠れてしまう。像に描かれることもなく、芸術もない。この恐るべき神は、自身の象徴に対してすら嫉妬深い。人間とも一対一であろうとする。人間は、この神によって満たされ充足していなければならない。肉親も家族も部族も、アジアの古くからの絆のすべてが断ち切られる。女性はハーレムに隠され、男は妻を四人、しかし、妾は無数にもつことが許される。兄弟間のつながりも両親との関係も無きに等しい。「イスラム教徒ヨロ色目S」の名前が、これらすべてに取って代わるのである。

家族のメンバーは、共通の名前も、固有の印も、永続性もなく、世代ごとに一新されるようにみえる。各人が自身の家を建て、当人が死ぬと家も死ぬ。人間は、人にも土地にも依存しないし愛着もしない。彼らは、孤立し、痕跡も遺さず、埃のように砂漠のなかに飛び散っていく。平等主義的でいかなるヒエラルキーも望まない神の眼からすると、彼らは、砂粒と変わるところがない。

そこでは、キリストのような《神人》という仲介者も全く不要である。キリスト教が天から投げ下ろしてくれた梯子、聖人たちや聖母、天使、イエスが神に向かって登っていったこの梯子を、マホメットは排除する。一切のヒエラルキーは消滅し、神のものと人間のものの区別もない。神は天の無限の奥に退くか、さもなければ地上にのしかかって自らの重みで押し潰す。わたしたちは無に等しい惨めな原子として乾いた平野に横たわる。

この宗教は、まさにアラビアそのものである。天と地があるだけで、その中間には何もない。天に近づかせてくれる山もなければ、距離を見誤らせる錫もない。焼けっく鋼鉄の兜のように、蒼暗いタイルの張り詰められた寫瀋が聳えているだけである。

だが、布教を目的として生まれたイスラム教は、この不毛の孤高のなかにとどまっているわけにはいかなかった。自らが変質する危険性と引き替えに、世界を駆け巡らなければならなかった。マホメットがモーゼから盗んだこの神は、ユダヤの山とかアラビアの砂漠では抽象的で純粋、畏怖的でありつづけることができたが、その神も、預言者の騎士たちによってバグダッドからコルドヴァまで、ダマスクスからスラット〔訳注・インド北西部〕にまで連れ歩かれるうちに、督月刀の回転によっても、彼らの本来の野性的熱情に火を付けることができなくなり、人間化していく。

わたしは、バラが咲き乱れ噴水に囲まれた楽園さながらのアルハンブラのハーレムは、イスラム教の峻厳さを根底から崩すものだと考える。この尊大な宗教は厳しく肉を呪誼したが、その肉が執拗に権利を要求しているのだ。追放された物質が形を変えて戻ってきて、あたかも主人として帰ってきた亡命者のように暴力をもって復讐するのだ。

彼らは女性を後宮に閉じ込めたが、彼らもその女性によっていっしょに閉じ込められるのである。ファーティマ〔訳注・ムハンマドの娘〕のために戦う彼らには《聖母》は要らなかった。彼らは《神人》を排除し、《受肉》をキリストヘの憎しみから排除したが、そのくせ、アリ〔訳注・ファーティマの夫〕の受肉を主張している。また、ゾロアスター教の「光の支配」の教義(マギ教)を非難しつつ、マホメットこそ「受肉せる光」であると教える。他の人々によると、アリがこの光であり、アリの末裔にして後継者であるイマーン(導師たち)は、その光線の受肉にほかならない。そのイマーンの最後の伝灯者イスマイルも、いまやこの地上から消え去ったが、彼の家系は知られざる形でいまも続いており、それを探し出すのが自分たちの義務なのだという。

エジプトのファーティマ朝カリフたちは、白分たちこそアリとファーティマの家系の目に見える相続人であるという。以前は、これらの教義は古代ペルシア帝国の東部山地で栄えていたが、そこでは、マギ教を窒息させることはできなかった。それが、八世紀から九世紀にかけて、イスマイル派と名乗る熱狂的な連中(カルマート宗徒)が剣を手に「見えざるイマーン」を求めアジアに広がりはじめた。このイスマイル派に対し、アッバース朝カリフたちは厳しい弾圧を加え、何十万人も虐殺した。そこで、エジプトヘ逃れた人々が、アッバース朝を打倒するために打ち立てたのがファーティマ朝だというのである。

神秘的なエジプトは、その古い秘伝の伝授を甦らせ、その秘密集会所《智恵の家》がファーティマ朝カリフたちによってカイロに建てられた。これは、狂信と学問、宗教と無神論の巨大で陰気な作業場である。このイスラム教の異端児たちの唯一確かな教義は、純粋無垢の服従であった。信者は、ただ導かれるままに自らを委ねることによって、九つの段階を経て宗教から神秘主義へ、神秘主義から哲学へ、そして、疑いと、さらには絶対的無関心へと進む。

その布教師たちは全アジアに広がり、バグダッドの宮殿にさえも浸透して、その破壊的な溶剤でアッバース朝カリフを浸した。ペルシアはずっと以前から、これを受け入れる用意をしていた。カルマートより以前、さらにはマホメットより前から、ササン朝〔訳注・西暦二二六~六五一年〕の最後の王たちのもとで、信徒たちに財産と女たちの共有、正義と不正義の対立の超越を教える宗派があった。

この教義が全き成果を生み出したのは、古いペルシアのカズビン(Qazinあたりの山地〔訳注・エルブールズ山の南斜面〕にその本拠を移してからであった。ここは、有名な皮の前掛けをした鍛冶屋カーウェや梶棒の一撃で水牛を倒した英雄フェリダンといった古代の解放者たちを輩出した地である。マホメット教におけるこのプロテスタンティズムは、こうした勇敢な人々の地に持ち込まれることによって、そこで民族的抵抗精神と結合し、彼らに《暗殺》という忌まわしいヒロイズムを吹き込んだ。
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