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『正法眼蔵』すべての行為が修行です

NHKテキスト『正法眼蔵』より⇒ 仏教において、クルアーンとかモーゼの十戒のような戒律はあるのか。それはどういう立場で述べられているのか。他方に念仏を唱えればいいという仏教もある。整合性はあるのか

道元絶筆の八つの教え

 同じように道元は、菩薩が学ぶべきことを「八大人覚」の巻にも残しています。「八大人覚」は「八・大人・覚」です。すなわち、「大人として覚知すべきこと八つ」です。大人というのは、いわゆる「おとな」ではありません。ただ生物学的に成長しただけの大人ではなく、真に人間としてふさわしい人物、別の言葉で言えば菩薩と呼ばれる人が大人です。

 この巻は、その大部分が『仏垂般涅槃略説教誠経』、一般に『仏遊教経』と呼ばれている経典からの引用です。この経典は、釈迦が入滅される直前に説法された教えを記したものとされています(が、これは後世の人がつくったフィクションです)。

 道元は、『仏遺教経』のなかから、釈迦の教誠の中心をなす「八大人覚」を取り上げて、「如来の弟子たる者はこれを習学すべし。これを修習せぬ者は仏弟子ではない」と言っています。つまり、仏弟子たらんとする者は、この「八大人覚」を学ばねばならないのです。

 なお、奥書によると、この巻が制作されたのは建長五年(一二五三)正月六日、丞平寺においてです。そしてこの年の八月に、道元は京都において示寂しています。したがって、はからずもこの巻は道元の絶筆となりました。この巻は、道元の遺書として読むこともできると言えるでしょう。

 この巻に示されている八つの教えは次のとおりです。

  一 少欲--物足りないものを、物足りないままにしておくこと

  二 知足--与えられたものを、全部が全部自分のものとしないで、一部を他人のために回すこと

  三 楽寂静--寂静を楽しむ。喧騒の場所を離れること

  四 勤精進--精進に勤める。おのれ一人の利益のためにがんばらない

  五 不忘念--常に仏法を思っていること

  六 修禅定--心静かに真理を観察すること

  七 修智慧--智慧を修得すること

  八 不戯論--物事を複雑にせず、あるがまま、単純そのままに受け取ること

 このなかでとくに大事なのは、最初の二つ、「少欲」と「知足」です。

 だいたいにおいて、わたしたちはいつも物足りない思いをしています。年収が上がるといいなと思い、上がったら満足するかというとそうではなく、もっと欲しくなる。かえって欲望が膨らみます。欲望というものは、それを充足させればさせるほど、ますます膨らむものです。ですから、欲望を充足させることによって、わたしたちは幸福にはなれません。幸福になるには、逆に欲望を少なくするのです。それが「少欲」です。

 ですから、「少欲」は動詞形なんです。少なくするという動詞。では、どうすれば欲望を少なくできるか。それには、物足りないものを物足りないままにしておくことです。「もう少し欲しいな」と思ったとき、「いや、これで充分だ」と思い直す。その「充分だ」というのが、次の「知足」になります。

 知足(足るを知る)とは、普通は、与えられたもので満足することです。しかし道元においては、すでに得たもの(已得の法)を全部自分のものとはせず、一部を他者に回すことを意味しています。つまり、それが布施になるわけです。

あるがままに、しっかり迷う

 三つ目の「楽寂静」は、文字どおり、寂静な世界を楽しむこと。または喧騒の場から遠ざかることです。

 四つ目の「勤精進」は、善きことに努力すること。これは、ただ努力すればよいのではなく、自利に執着しない努力をするということが重要です。ですから、わたしはこれをあえて「がんばらない」と訳しています。わたしたちはどうしても、世間の物差しに執着して、給料を上げよう、利益を得よう、などとがんばってしまいます。でも道元が言っているのはそういうことではなく、仏道に精進しようということです。

 五つ目の「不忘念」は、仏の教えを忘れないこと。ついうっかり、ということのないように、常に仏の教えを頭に入れておこうということです。

 六つ目の「修禅定」は文字どおり、禅定を行うということ。日本人は禅定といえばすぐに「坐禅」を思い浮かべます。しかし、それはある意味ではまちがいです。禅定とはサンスクリット語の「ディヤーナ」の訳ですが、その意は、心静かに瞑想し、真理を観察することです。『仏遺教経』もその意で禅定を説いています。

 七つ目は「修智慧」。智慧という言葉はすでに何度も出てきているのでもうお分かりですね。これは世間を泳いで渡るために必要な「知恵」ではなく、あるものをあるがままに見ることができる眼のことです。こうした眼を養っていこうということです。

 最後の「不戯論」は、簡単に言えば、無駄な議論はするなということです。わたしたちは、物事をあるがままに受け取らず、つい複雑化して考えてしまいます。そうすると、わたしたちの心は乱れます。単純な悩みだったはずが、悩みをなくさねばならぬという悩みまで抱え込んでしまって、よけいに苦しくなるのです。

 道元は、「不戯論とは、実相を究尽すること」だと言っています。要するに、あるがままを知ればよいということです。これはすなわち、「莫妄想」(妄想すること莫れ)と同じことです。病気になればただ病気になっただけ。老いればただ老いただけ。死ぬときはただ死ぬだけ。そう思えるようになったら、「不戯論」であり、「莫妄想」なのです。

 以上が「八大人覚」の八つの教えですが、最後に、道元は「菩提薩埋四摂法」の巻と同様の注釈を付けています。すなわち、それぞれの教えにはみな、さらに八つの教えが具わっているので、教えの合計は八×八=六十四箇条になります。

 さて、ここまで道元の『正法眼蔵』を読んできました。取り上げられたのは全九十五巻のうちのわずかですが、いかがだったでしょうか。難しい! と思われたでしょうか。『正法眼蔵』は一種の哲学書です。哲学書であれば、専門家であっても小説を読むようにすいすいとは読めません。ですから、難しいと感じたとしても落胆しないでください。一度読んで分からなくてもいいのです。分からないことが分からないと分かることが悟りです。

 悟りを追いかけてはいけない、迷いをしっかり迷うことが悟りなのだ。道元はそう言いました。わたしたちも、一度読んで分からなければ二度、三度と読み、少しずつ仏性を活性化しながら、「しっかり迷えば」よいのです。
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