『生きづらい時代と自己肯定感』より 自己肯定感のいま--いのちの世界と自己肯定感
若い世代の「コミュ力」偏重
精神科医の斎藤環氏は、若い世代のコミュニケーション力偏重と「承認依存」の問題について述べています(斎藤環『承認をめぐる病』日本評論社、二○一三年)。ひきこもり問題や就活の悩み、「新型うつ」などの問題の背景にも、この「承認依存」があると指摘します。若者の就労動機も「生活の糧」を稼ぐことよりも、他者から承認されるために働く傾向があること、現代の若者においては、「自信」や「自己肯定感」のありようが、ほぼ全面的に「他者からの承認」に依存しているかに見えるといいます。昔は「自信」の拠り所たりえた家柄、資産、自分の才能や能力といった客観的要素すらも、他者からの承認を経なければものの役に立たないというのです。
そして、この「承認依存」はコミュニケーション力偏重と対で進行した風潮だと指摘します。ここでいわれる「コミュニケーション力」(コミュ力)とは、適切な自己主張や議論・説得などの技術を必ずしも意味しません。「場の空気を読む能力」や「笑いを取る能力」を意味します。
私なりに理解した表現でいい直せば、グループのなかで自分に回ってきた「キャラ」(役割)をうまく演じて、それにふさわしい当意即妙のやりとりをする力を意味するものであるようです。ですから、このコミュ力は「キャラ」と相互依存的な関係にあるわけです。そうなると斎藤氏が指摘するように、問題はこの「キャラ」が若者流のコミュニケーションをスムーズにする反面、「キャラ」からはみ出す言動を抑圧する副作用をもつことであり、人間的な成長や成熟を抑え込む「枠」になってしまうことです。
斎藤氏によれば、このような承認依存とコミュ力偏重が進んだ背景にはコミュニケーション力や承認を可視化できるインフラの発達があります。一九九五年以降、商用インターネットとケータイの爆発的普及に伴い、コミュニケーションは多層化し、流動化したのです。
SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)などによって近い他者と「承認力」や「コミュニケーション力」が容易に比較可能になりました。投稿への「いいね」の数やフォロワーの数で承認の度合いを容易に数値化できるSNSサービスの流行、定着ぶりをみると、「承認依存」と「コミュニケーション力偏重」の密接な関係が見て取れるというわけです。
「いいね」依存が「自分が自分であって大丈夫」を壊す矛盾
だが、そこにはディレンマがあります。私に言わせれば、他者からの承認によって自分の存在を肯定する限り、他者に自分の存在を依存するという不安定を生きなければなりません。それは決して自分の存在そのものを肯定する「自分が自分であって大丈夫」という安心を与えません。また、「いいね」をもらい続ける「よい子」であるために、その枠に自分をはめ込み、そこから動けなくなるという「落とし穴」にはまることにもなります。
その「承認」は、私のいう自分の存在そのものを「あるがまま」に肯定するのとはわけがちがうのです。「あるがまま」の肯定は、自己を自由にし、変化への柔軟性をもたらします。だが「自己肯定」の他者への依存は、自分を他者の「いいね」をもらえる「よい子」の枠に閉じ込め、自分をがんじがらめに縛ることにしかなりません。
それに、フェイスブックなどで得られる「いいね」の意味は挨拶程度のものから、深い共感まで千差万別です。そのような他者からの「いいね」は決して自己の存在そのものへの「いいね」ではありません。自己の所有する属性や作品への「いいね」、それもその組織や集団の「友だち」の移ろいやすい雰囲気的な好感度にそった「いいね」でしかないケースも多いことでしょう。
また家柄、資産、自分の才能や能力などのいずれをとっても、自己を説明する属性でしかありません。つまり、もって生まれたぢのであろうと、獲得されたものであろうと自分の所有物です。「われ所有する、ゆえにわれあり」のレベルのものでしかないのです。
「天地一杯のいのち」に根ざす自己肯定感
それは、「天地一杯のいのち」を生きるかけがえのない個の存在としての自己、その「あるがまま」の全体を受けとめ、それと共に生きる自己ではありません。要するに資本主義システムという「コップ」の中をせせこましく生き、種々の悩みをくっつけた自己でしかないのです。そういう自己を相対化するもっと大きなスケールのモノサシで自己をとらえる目を持たないと、たとえ一瞬であろうと「コップ」のなかから脱出することができないのではないでしょうか。
自らがその気にならないと仕方がありませんが、「コップ」のなかの窮屈な生き方から自らを解き放つためには、自分の「あるがまま」をみとめ、自分を狭く決めつける自己像から自己を解放することを励ますメッセージや受容的・共感的な生身の支援を受ける必要があります。それはネット上の単なる言葉だけではなく、非言語的な眼差しや声の表情や雰囲気を感じ取れる「生身の顔と顔を合わせる」関係のなかで提供されることが大切です。
先日の講演会でフロアから若者の発言がありました。--雑草は他者から踏まれても起き上がろうとはしない。踏まれっぱなしである。そうして、人間の靴に踏まれて、その靴底に種をくっつけて、自分の子孫を繁殖させることを図っているのだ。ただ踏まれているのではない、なにか大切なものを護るために、踏まれてもそれを受け入れる--。
私もなるほどと思いました。目立たなくてもよい、目立つといろいろな余計な干渉や関与をうける。それだけ、余計なことにエネルギーを使わなければならない。また干渉や関与によって、自分が大切にしているものを汚されたり、傷つけられたりする危険も生じる。だから、おとなしく目立たないように、じっとしていることによって、大切なものを護っている戦略もありえるのです。
目立って「いいね」をもらうことに必死にならなくてもよい。なにも世間の基準で目立って、「いいね」をもらうことが、ほんとうに自分の存在を大切にすることになるとは限らないのですから。
若い世代の「コミュ力」偏重
精神科医の斎藤環氏は、若い世代のコミュニケーション力偏重と「承認依存」の問題について述べています(斎藤環『承認をめぐる病』日本評論社、二○一三年)。ひきこもり問題や就活の悩み、「新型うつ」などの問題の背景にも、この「承認依存」があると指摘します。若者の就労動機も「生活の糧」を稼ぐことよりも、他者から承認されるために働く傾向があること、現代の若者においては、「自信」や「自己肯定感」のありようが、ほぼ全面的に「他者からの承認」に依存しているかに見えるといいます。昔は「自信」の拠り所たりえた家柄、資産、自分の才能や能力といった客観的要素すらも、他者からの承認を経なければものの役に立たないというのです。
そして、この「承認依存」はコミュニケーション力偏重と対で進行した風潮だと指摘します。ここでいわれる「コミュニケーション力」(コミュ力)とは、適切な自己主張や議論・説得などの技術を必ずしも意味しません。「場の空気を読む能力」や「笑いを取る能力」を意味します。
私なりに理解した表現でいい直せば、グループのなかで自分に回ってきた「キャラ」(役割)をうまく演じて、それにふさわしい当意即妙のやりとりをする力を意味するものであるようです。ですから、このコミュ力は「キャラ」と相互依存的な関係にあるわけです。そうなると斎藤氏が指摘するように、問題はこの「キャラ」が若者流のコミュニケーションをスムーズにする反面、「キャラ」からはみ出す言動を抑圧する副作用をもつことであり、人間的な成長や成熟を抑え込む「枠」になってしまうことです。
斎藤氏によれば、このような承認依存とコミュ力偏重が進んだ背景にはコミュニケーション力や承認を可視化できるインフラの発達があります。一九九五年以降、商用インターネットとケータイの爆発的普及に伴い、コミュニケーションは多層化し、流動化したのです。
SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)などによって近い他者と「承認力」や「コミュニケーション力」が容易に比較可能になりました。投稿への「いいね」の数やフォロワーの数で承認の度合いを容易に数値化できるSNSサービスの流行、定着ぶりをみると、「承認依存」と「コミュニケーション力偏重」の密接な関係が見て取れるというわけです。
「いいね」依存が「自分が自分であって大丈夫」を壊す矛盾
だが、そこにはディレンマがあります。私に言わせれば、他者からの承認によって自分の存在を肯定する限り、他者に自分の存在を依存するという不安定を生きなければなりません。それは決して自分の存在そのものを肯定する「自分が自分であって大丈夫」という安心を与えません。また、「いいね」をもらい続ける「よい子」であるために、その枠に自分をはめ込み、そこから動けなくなるという「落とし穴」にはまることにもなります。
その「承認」は、私のいう自分の存在そのものを「あるがまま」に肯定するのとはわけがちがうのです。「あるがまま」の肯定は、自己を自由にし、変化への柔軟性をもたらします。だが「自己肯定」の他者への依存は、自分を他者の「いいね」をもらえる「よい子」の枠に閉じ込め、自分をがんじがらめに縛ることにしかなりません。
それに、フェイスブックなどで得られる「いいね」の意味は挨拶程度のものから、深い共感まで千差万別です。そのような他者からの「いいね」は決して自己の存在そのものへの「いいね」ではありません。自己の所有する属性や作品への「いいね」、それもその組織や集団の「友だち」の移ろいやすい雰囲気的な好感度にそった「いいね」でしかないケースも多いことでしょう。
また家柄、資産、自分の才能や能力などのいずれをとっても、自己を説明する属性でしかありません。つまり、もって生まれたぢのであろうと、獲得されたものであろうと自分の所有物です。「われ所有する、ゆえにわれあり」のレベルのものでしかないのです。
「天地一杯のいのち」に根ざす自己肯定感
それは、「天地一杯のいのち」を生きるかけがえのない個の存在としての自己、その「あるがまま」の全体を受けとめ、それと共に生きる自己ではありません。要するに資本主義システムという「コップ」の中をせせこましく生き、種々の悩みをくっつけた自己でしかないのです。そういう自己を相対化するもっと大きなスケールのモノサシで自己をとらえる目を持たないと、たとえ一瞬であろうと「コップ」のなかから脱出することができないのではないでしょうか。
自らがその気にならないと仕方がありませんが、「コップ」のなかの窮屈な生き方から自らを解き放つためには、自分の「あるがまま」をみとめ、自分を狭く決めつける自己像から自己を解放することを励ますメッセージや受容的・共感的な生身の支援を受ける必要があります。それはネット上の単なる言葉だけではなく、非言語的な眼差しや声の表情や雰囲気を感じ取れる「生身の顔と顔を合わせる」関係のなかで提供されることが大切です。
先日の講演会でフロアから若者の発言がありました。--雑草は他者から踏まれても起き上がろうとはしない。踏まれっぱなしである。そうして、人間の靴に踏まれて、その靴底に種をくっつけて、自分の子孫を繁殖させることを図っているのだ。ただ踏まれているのではない、なにか大切なものを護るために、踏まれてもそれを受け入れる--。
私もなるほどと思いました。目立たなくてもよい、目立つといろいろな余計な干渉や関与をうける。それだけ、余計なことにエネルギーを使わなければならない。また干渉や関与によって、自分が大切にしているものを汚されたり、傷つけられたりする危険も生じる。だから、おとなしく目立たないように、じっとしていることによって、大切なものを護っている戦略もありえるのです。
目立って「いいね」をもらうことに必死にならなくてもよい。なにも世間の基準で目立って、「いいね」をもらうことが、ほんとうに自分の存在を大切にすることになるとは限らないのですから。
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