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ドイツ史 《第三帝国》

『ドイツ史』より

疲弊し壊滅してしまったように見えたドイツのなかにあって、生き永らえて巻き返しの準備をしている活動的な要素の幾つかのうち最も強力なのが軍隊と重工業であった。なかでも工業人たちは強大な経済力を保持していた。彼らは伝統的政党に結びつこうとしたが、肝心の旧政党は政策もドクトリンもばらばらで多数票を獲得することができないでいた。これに対し、新興の国家社会主義党(ナチス)はあらゆる係累に縛られず、しかも第一党となったことにより、大製鋼所などから多額の献金がその懐に流れ込んだ。工業人たちのほうは、カネの力でヒトラーを操ることができると踏んでいたが、これは見当違いであった。この薄情な男は、手にした権限を最大限に活用して、一方で恐怖を撒き散らし、もう一方で、自分の考える国家再生を押し進めていった。パーペンもフーゲンペルク(経済相・農業食糧相・国民党党首)も、教養も経験もないこの男なら簡単に飼い慣らせると考えていたが、彼らのほうが数か月足らずでヒトラーに打ち負かされてしまった。

一九三三年夏には、すべての政党、政治的・非政治的を問わずあらゆる組織が禁止され、公共生活を牛耳るのはヒトラーの党の独壇場となる。情報相ヨーゼフ・ゲッペルスの煽動的なプロパガンダにより、ゲーリングとヒムラーの親衛隊と突撃隊、そして警察の暴虐によって、ナチ党に抵抗する者はすべて沈黙させられた。有名な国会議事堂の放火事件は、ファン・デル・ルッベという男の犯行とされたが、おそらくゲーリングが仕組んだもので、共産党が黒幕であるとして弾圧が行われた。

ナチスはその後の選挙でも過半数を取ることができなかったが「国民の圧倒的多数の支持を得た」として強権を発動した。このなかで、不幸にもユダヤ人、スラヅ人、ジプシー征亜目巳〔訳注・ロマ人〕などは「非アーリア人種」として財産を没収され、強制収容所に収監されて、ひどい扱いを受けた。〔訳注・本書では詳しく言及されていないが、とくにユダヤ人については、絶滅を視野に入れた大量虐殺まで行われたことは、あまりにも有名である。〕ドイツの最も偉大な学者や作家の何人かは亡命を余儀なくされ、その多くが移り住んだアメリカには、この結果、計り知れないほど大きな文化的貢献をもたらした。

この間、ドイツでは、政党だけでなく、組合や領邦も壊滅させられた。尊敬に値する抵抗を繰り広げた教会も少なくなかった。万人同胞主義を本来の教義とするキリスト教と人種的優劣を振りかざしゲルマン人を《支配民族》とするナチズムとが協調できるはずもなく、ローマで結ばれた政教協定にもかかわらず、カトリック教会もプロテスタント教会も、おしなべて迫害を受けた。一九三七年三月十四日、教皇ピウス十一世は反ナチズムの回勅(燃えるような憂慮をもって)をドイツの司教たちに宛てて発した。ナチス政府はこれを禁じたが、いたるところで回し読みされた。

ナチズム自体がアドルフ・ヒトラーを《フューラー(指導者、案内者)》と仰ぐ古代ゲルマンの神秘的信仰に蕎づく一つの異教であり、従わない者を摘発するために、監視と密告のシステムがいたるところに張り巡らされた。その一方では、再軍備計画と大型事業のおかけで失業者は減り、若者たちは、ナチ党の忠実な道具に仕立てるための精神教育を施す仕組みのなかに入れられた。

党の理念に合わせようとしない人々に対する《パージ》(粛清)は、ヒトラーの旗揚げ当初からの仲間にも容赦なく及んだ。一九三四年六月三十日の《長いナイフの夜》では、突撃隊長のレームとそのコ派が排除されている。なお、前首相のシュライヒャーやパーベンの秘書などヴァイマール共和政時代の旧敵八十余人もこのとき殺されており、この事件の残虐さは、まだ幾分か精神的自由を保持していた人々のなかに恐怖を引き起こした。

そればかりでなく、一九三五年の「ニュルンべルク諸法」によってユダヤ人は公民権を剥奪され、ゲットーに入れられて古代社会の奴隷よりも劣悪な状況に置かれた。

ヒムラーが率いた秘密警察、ゲシュタポは、人類史上最も残忍な加虐趣味的迫害を実行し、あらゆる恐怖を撒き散らした。

ヒトラーは、一九三四年のヒンデンブルクの死で共和国大統領に就任するとともに、「総統兼首相」を名乗った。総統はナチスの党首であると同時に国家元首であり、ドイツ民族の意志を体現する神秘的存在として、軍隊は総統の人格への絶対的忠誠を誓わなければならなかった。したがって、閣議が開かれることもなくなり、必要に応じて専門家に諮問は行われるものの、最終的には彼が一人でベルヒテスガーデンの秘密の隠れ家で決断した。とくに怒りに囚われたときは精神病の兆候が現れたが、彼がその気になったときは、人を惹きっける魅力を発揮した。とくに外国からの訪問者には虜になる人も少なくなかった。

この狂った時代にあって、正気を保っているドイツ人もいないわけではなかったが、そうした彼らも、常に警察が監視している全体主義体制に逆らうことはできなかった。
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