『サンデルの政治哲学』より 哲学的発展--「リベラル・コミュニタリアン論争の展開」
分配についての多元的正義論
ウォルツァーは『正義の諸領域』(邦訳名は『正義の領分』、一九八三年)という主著で、正義は、特定のコミュニティの人たちに共有された理解に基づいて決められ、福祉や教育などのいろいろな領域ごとに正義の原理は違い、社会的財についての分配的正義の規範は異なっている、とする。一つの統一的な正義の原理ですべてを判断すべきではないし、市場を支配する金銭の力で他の領域の分配を決めるべきではない。例えば、福祉や教育、貨幣、公職、仕事、自由時間、親族関係、政治権力などのさまざまな領域では、それぞれ別の基準で自律的に分配の正義を考えるべきである、というのである。このような考えに基づく平等観を彼は「複合的平等」と呼ぶ。これは、「分配についての多元的正義論(多元的分配正義論)」と言うべきだろう。
ウォルツァーは、コミュニティの人々が共有する文化や伝統や理解に基づいた正義を考えることを主張し、独立した哲学的論理に基づいて外から批判することに反対している。例えば「教育をどうしていくか」という問題は、アメリカならアメリカというコミュニティの人々に共有された理解によって考えるべきだ、とするのである。ウォルツァーの議論は、「コミュニタリアン的な論理を用いながら社会民主主義的な主張をする」という点で進歩的だが、分配の根拠を、コミュニティの構成員の共通の理解に求めるので、相対主義的という批判もある。そのため、「ウォルツァーのいうことは、コミュニティの多数派の意見をそのまま認めるということではないか」と批判されることがある。彼自身、意見が多数存在する民主主義の方が、哲学に対して優位であると語っているので、この批判が的外れとは言えない。
サンデルは、ウォルツァーの多元的正義論を簡潔に説明する。市場の原理が他の領域を支配するべきではないと主張する点で、サンデルの「市場の道徳的限界」という考え方と共通しているから、サンデルもこの点ではウォルツァーの考えに近いと言えるだろう。
そして、サンデルは、〝権利が先にあるのではなく、コミュニティの構成員であるということが先にあり、私たちが権利を持つのはコミュニティの構成員であることに基づく〟というウォルツァーの考え方を紹介する。つまり、「正義」は構成員であることから始まるのである。異なったコミュニティは異なった財に異なった意味・や価値を与えており、それは構成員についての異なった理解にも結びついている。このような考え方が「構成員としての正義」という文章の題名の意味するところである。
ただ、サソデルは、ウォルツァーの相対主義的な議論には必ずしも賛成はしておらず、〝ウォルツァーの多元主義は道徳的相対主義を必然的に要請するわけではない〟とする。そして、〝ウォルツァーの相対主義は、彼の肯定的な考え方と緊張関係にあり、肯定的な考え方としては、私たちが構成員として共有している生活を培っているコミュニティについてウォルツァーには特定のビジョンが存在する〃という。
例えば、ウォルツァーは、ホリデイとバケーションを分けて考えており、ホリデイは宗教的ないし公民的な意味をもつ公共的な責務に満ちた日であり、通常の生活から離れて共に祝う日である。これに対して、バケーションは、「空虚な日」という語源が意味するように、宗教的な祝祭や公共的なゲームがない日である。ウォルツァーは、「人々の公共的な支持によりどちらが選ばれるかが決まる」というような相対主義的な考え方を示しているが、実際には「バケーションよりもホリデイが価値が高い」と考えるコミュニティの方が、より豊かな共通生活を可能にし、帰属意識を培うことができる、と示唆しているというのである。
ウォルツァーの相対主義や正義論の問題性
しかし、ウォルツァーの正義の考え方は、コミュニティの多数派の考えに基づくことになるので、サソデルはこの点ではウォルツァーの考え方とは距離を置いている。「白熱教室」の第11回では、ウォルツァーの名前をあげて、そのようなコミュニタリアニズムに対する批判的な言及をしているのである。〝特定の時点における特定のコミュニティの多数派がいうことを正義だとすると、南北戦争前の南部の奴隷制擁護論も正義になってしまう〟と指摘して、そのような考え方の問題を指摘している。この点では、サンダルはウォルツァーとの違いも、明確にしていると言うことかできるだろう。
『正義の諸領域』のはじめの方で、ウォルツァーはインドのカースト制に言及しているが、普遍主義的な観点から不正義と断定してはいない。そうすると、中国やイスラームの人権無視に対してはどのように考えるのだろうか。さらに、過去の時代に人々の多数派が擁護していた奴隷制は正義なのかどうか。ウォルツァー自身がそれらを正義と明確に述べているわけではないが、そのような批判を招くだろう。
ウォルツァーが代表的な正戦論者であるにもかかわらず、アフガュスタン戦争を支持したという状況も、この批判的言及と関連しているように思われる。これは、オバマ政権が発足してから刊行された『正義』には該当箇所がなく、ブッシュ政権下で収録された「白熱教室」のみで見ることができる。アメリカ人の多数派が「正義の戦争」と考える戦争下にあっただけに、この批判は極めて重要な意味を持っている。
この論点は非常に大事なので、私も論文を書いてウォルツァーを批判した。正戦論自体が間違っているというわけではなく、ウォルツァーのコミュニタリアニズムにおける相対主義的論理に問題があると批判して、彼の正戦論に代わる新しい地球的ないしグローカルな正戦論を提起したのである。
分配についての多元的正義論
ウォルツァーは『正義の諸領域』(邦訳名は『正義の領分』、一九八三年)という主著で、正義は、特定のコミュニティの人たちに共有された理解に基づいて決められ、福祉や教育などのいろいろな領域ごとに正義の原理は違い、社会的財についての分配的正義の規範は異なっている、とする。一つの統一的な正義の原理ですべてを判断すべきではないし、市場を支配する金銭の力で他の領域の分配を決めるべきではない。例えば、福祉や教育、貨幣、公職、仕事、自由時間、親族関係、政治権力などのさまざまな領域では、それぞれ別の基準で自律的に分配の正義を考えるべきである、というのである。このような考えに基づく平等観を彼は「複合的平等」と呼ぶ。これは、「分配についての多元的正義論(多元的分配正義論)」と言うべきだろう。
ウォルツァーは、コミュニティの人々が共有する文化や伝統や理解に基づいた正義を考えることを主張し、独立した哲学的論理に基づいて外から批判することに反対している。例えば「教育をどうしていくか」という問題は、アメリカならアメリカというコミュニティの人々に共有された理解によって考えるべきだ、とするのである。ウォルツァーの議論は、「コミュニタリアン的な論理を用いながら社会民主主義的な主張をする」という点で進歩的だが、分配の根拠を、コミュニティの構成員の共通の理解に求めるので、相対主義的という批判もある。そのため、「ウォルツァーのいうことは、コミュニティの多数派の意見をそのまま認めるということではないか」と批判されることがある。彼自身、意見が多数存在する民主主義の方が、哲学に対して優位であると語っているので、この批判が的外れとは言えない。
サンデルは、ウォルツァーの多元的正義論を簡潔に説明する。市場の原理が他の領域を支配するべきではないと主張する点で、サンデルの「市場の道徳的限界」という考え方と共通しているから、サンデルもこの点ではウォルツァーの考えに近いと言えるだろう。
そして、サンデルは、〝権利が先にあるのではなく、コミュニティの構成員であるということが先にあり、私たちが権利を持つのはコミュニティの構成員であることに基づく〟というウォルツァーの考え方を紹介する。つまり、「正義」は構成員であることから始まるのである。異なったコミュニティは異なった財に異なった意味・や価値を与えており、それは構成員についての異なった理解にも結びついている。このような考え方が「構成員としての正義」という文章の題名の意味するところである。
ただ、サソデルは、ウォルツァーの相対主義的な議論には必ずしも賛成はしておらず、〝ウォルツァーの多元主義は道徳的相対主義を必然的に要請するわけではない〟とする。そして、〝ウォルツァーの相対主義は、彼の肯定的な考え方と緊張関係にあり、肯定的な考え方としては、私たちが構成員として共有している生活を培っているコミュニティについてウォルツァーには特定のビジョンが存在する〃という。
例えば、ウォルツァーは、ホリデイとバケーションを分けて考えており、ホリデイは宗教的ないし公民的な意味をもつ公共的な責務に満ちた日であり、通常の生活から離れて共に祝う日である。これに対して、バケーションは、「空虚な日」という語源が意味するように、宗教的な祝祭や公共的なゲームがない日である。ウォルツァーは、「人々の公共的な支持によりどちらが選ばれるかが決まる」というような相対主義的な考え方を示しているが、実際には「バケーションよりもホリデイが価値が高い」と考えるコミュニティの方が、より豊かな共通生活を可能にし、帰属意識を培うことができる、と示唆しているというのである。
ウォルツァーの相対主義や正義論の問題性
しかし、ウォルツァーの正義の考え方は、コミュニティの多数派の考えに基づくことになるので、サソデルはこの点ではウォルツァーの考え方とは距離を置いている。「白熱教室」の第11回では、ウォルツァーの名前をあげて、そのようなコミュニタリアニズムに対する批判的な言及をしているのである。〝特定の時点における特定のコミュニティの多数派がいうことを正義だとすると、南北戦争前の南部の奴隷制擁護論も正義になってしまう〟と指摘して、そのような考え方の問題を指摘している。この点では、サンダルはウォルツァーとの違いも、明確にしていると言うことかできるだろう。
『正義の諸領域』のはじめの方で、ウォルツァーはインドのカースト制に言及しているが、普遍主義的な観点から不正義と断定してはいない。そうすると、中国やイスラームの人権無視に対してはどのように考えるのだろうか。さらに、過去の時代に人々の多数派が擁護していた奴隷制は正義なのかどうか。ウォルツァー自身がそれらを正義と明確に述べているわけではないが、そのような批判を招くだろう。
ウォルツァーが代表的な正戦論者であるにもかかわらず、アフガュスタン戦争を支持したという状況も、この批判的言及と関連しているように思われる。これは、オバマ政権が発足してから刊行された『正義』には該当箇所がなく、ブッシュ政権下で収録された「白熱教室」のみで見ることができる。アメリカ人の多数派が「正義の戦争」と考える戦争下にあっただけに、この批判は極めて重要な意味を持っている。
この論点は非常に大事なので、私も論文を書いてウォルツァーを批判した。正戦論自体が間違っているというわけではなく、ウォルツァーのコミュニタリアニズムにおける相対主義的論理に問題があると批判して、彼の正戦論に代わる新しい地球的ないしグローカルな正戦論を提起したのである。
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