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岡崎図書館の10冊

未唯へ

 母親の老人ホームにiPadを持って行った。アルバムを見せるつもりでいたが、ゴロッと寝たままでいたので、そのまま、帰ってきた。

 寝ていると、足が冷えて、しびれてきます。

 体調が悪いので、パソコン業務を行わずに、本を読んでは、寝ることを繰り返していた

岡崎図書館の10冊

 豊田市のスタバで、岡崎の本を読むつもりでいたが、体調が悪いので、家に直行。やりかけのOCRをしていたら、腰が痛くなったので、寝ながら、本を読んでいた。

 岡崎図書館へ返本に行ったけど、またしても、10冊、借りてきてしまった。あまり、負荷をかけずに処理します。次は、2週間後です。

 313.7『デモクラシーの世界史』

 G290.9『イギリス』地球の歩き方

 G290.9『モロッコ』地球の歩き方

 223『マンダラ国家から国民国家へ』東南アジア史のなかの第一次世界大戦

 105『日本2.0』

 319.2『フィリピン民衆vs米軍駐留』基地完全撤去とVFA

 629.3『カブーム!』KaBOOM! 100万人が熱狂したコミュニティ再生プロジェクト

 311『政治』ジャン=ジャック・ルソー

 567.0『明るい炭鉱』

 943.7『そこに僕らは居合わせた』語り伝える、ナチス・ドイツ下の記録
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中国 農村の変容

『近現代中国政治史』より

前近代、中華帝国においてフォーマルな官僚機構の最末端に位置していたのは県の長官である知県であった。郷紳層は、知県の統治を補完するとともに、科挙制を媒介として儒教的社会秩序の体現者としての社会的権威と統治機構に参画しうる政治回路を事実上独占していた。地域政治に対する彼らの関与は二〇世紀初めの新政を契機に様々な法的保証を獲得し、そのことが国民革命の打倒対象としての「上象劣紳」と批判される新たな社会的地位を有することになる。

一九三〇年代、国民政府による保甲制度(「戸」を単位とし一〇戸を一甲、一〇甲を一保とする)が導入された地域では、国家行政の政治的伝達ルートは各世帯にまで伸長し、郷紳がそれまで担ってきた役割は新しい機構によって回収されていく。すなわち保長は、合法的な地方公務の執行者として地方の公的資金の管理権限を保有し、食糧の徴収・負担金の割当て・徴兵の割当てなどの権力を握ることになった。

中華人民共和国成立前後の土地改革によって地主制が廃絶され、農民的土地所有が実現した。しかしながら、権力を奪取した中共にとって地主階級の打倒は一つの通過点であって、集団化による社会主義社会の実現が追求されねばならなかった。このような農村での政治運動は、権力奪取に至る過程で中共が獲得したエ作方法-エ作隊の派遣、積極分子の選抜、闘争大会の開催、新たな権力の樹立-によって実施された。この中共党組織と人民解放軍(退役者を含む)の実力を背景として展開された大衆動員型の農民運動の過程で新たな農村幹部がリクルートされ、同時に中央権力による基層社会の掌握が基本的に実現した。

農業集団化は農地の公有化を伴っていたが、一九五八年「大躍進」と呼ばれる中国政治の急進化のなかで、中国農村は一挙に人民公社に再編された。それは農家を「生産隊」「生産大隊」とピラミッド状に編成した大規模な組織で、農業・工業・商業・教育・軍事のマルチ機能を備え、中国農村が将来共産主義社会に移行する最良の形態であるとされた。「大躍進」運動による共産主義のユートピアの追求は国民経済を破綻させ、二〇〇〇万人とも言われる膨大な餓死者を生んだ。

一九六二年、人民公社は二〇~三〇世帯で編成される「生産隊」を実質上の単位として再編されることとなった。すなわち生産隊の範囲内の土地はすべて生産隊に帰すことを前提として農田水利建設が行われ、さらに飛び地調整によって村落の境界が生産隊の区画と一致するようになっていった。このインフラ整備や社隊企業という共有財産の存在は、「村落~生産隊」という集団的生存意識を生みだしていく。したがって、生産隊長には人民公社や生産大隊のりIダーとは異なる独自の役割が求められたのであるが、こうした中国農村の変容は、戸籍制度による移動制限や計画経済という制度的要因、さらにインフラ建設や企業創設に果たした下放青年や退職労働者の役割も重要であった。

人民共和国成立以前の中国で広く行われていたのは本人の意思によらない請負い婚(包辨婚) 共産革命と女性  であり、結婚の決定権は父母もしくは家長にあって子女は「父母の命、媒酌の言」に従うものであるとされた。こうした婚姻制度の背景には家を社会の根本秩序とし夫婦を人倫の基本とする儒教観念があり、三従(父・夫・子に従うこと)や四徳(女性としての道徳・話し方・身だしなみ・仕事)が強調された。

清末民初以降、近代思想に目覚めた青年男女は、伝統的な婚姻制度に反発して自由恋愛による結婚を渇望し、すでに父母の命に従って旧式結婚をしていた既婚者も自らの信条と現実の間で苦悶した。

一九五〇年、婚姻の自由、一夫一婦制、男女平等を規定する中華人民共和国婚姻法が公布・施行された。こうして両性の自由な意志によらない婚姻は無効であるとして、大衆動員方式によって婚姻法貫徹運動が展開され、「生産力の発展・生産建設」に有利な「民主的で睦まじい幸福な家庭」が目指された。

女性解放とは社会的労働への参加にほかならないという基本方針のもと、ほとんどの女性が「労働者」となり、このことによって男女共働き社会が出現する。同時に、学校教育において男女を区別する諸制度も廃止された。こうして労働や教育などの面での男女平等が強調され、新中国の女性は「すでに解放された」、「女性問題は解決ずみ」という評価が社会の共通認識となっていった。たしかにそこでは男性も家事を分担し、女性労働者は表面上男性と同等の地位を獲得したかに見えた。とはいえ、社会的労働への参加には解消しえない女性性(ジェンダー)に関わる課題群について、ほとんど意識されることはなかった。

人民共和国成立後、大規模な廃娼運動が展開された。すなわち妓院を全面的に閉鎖し、妓女に対して教育・更生を施すとともにその就業・生活問題を解決した。こうして一九七〇年代半ばまでに、中国社会では職業としての売春は姿を消すことになる。

中共政権にとって、女性労働力は国家建設のために不可欠であり、さらに大躍進運動期における家事労働の大幅な社会化によって、女性も男性同様に社会生産に従事するようになった。この政治運動はまもなく破綻するものの女性の社会進出は定着し、結局人民中国で専業主婦層が形成されることはなかった。六〇~七〇年代、「女は天の半分を支える」として女性の社会的労働への全面的進出が謳われたが、それは男性のあり方を基準とした「平等」であり、性別分業を根本的に克服するものではなかった。

都市では、政府は強い主導権によって労働力を統制しており、個々の労働者に職業選択の自由はなかった。このことは結果として女性労働者の増加を招来するものであったが、農村の女性もまた人民公社の労働力として組織されていた。そして都市でも農村でも、その労働条件における男女不平等が存在していた。また公権力による個人の管理は、婚外性行為の処罰や性に関する情報の厳しい制限を伴うものであった。

共産革命と この公権力による個々の民衆に対する厳格な管理は、共産革命によって可能となった。
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国家中心の歴史の見直し

『近現代中国政治史』より

二〇世紀から二一世紀にかけて、その時点での国家を正当化しない枠組みを追求した例をいくつか挙げよう。これも、国家と環境の相互作用という縦軸と、時系列にみた横軸に分けることができる。

第一に、国家と環境の相互作用という観点から見て、国家が自律的、主体的に成長し成立したのではなく、その周囲の地域や国際環境とのフィードバック・プロセスの中で出現、または建設されたという相互作用を重視する研究が現れた。

日本を含む束アジア地域の外交関係を、「グローバルな規模で世界が一体となりはじめた一六世紀の東アジア」という、地域と国家のフィードバックを歴史の枠組みで捉えるダイナミックな視点による研究もこのグループに入れることができる(岡本、二○○八)。この問題意識は、グローバル化か進行中の時期をカバーできるため、岡本の議論は、清末、中華民国、中華人民共和国という時期区分に拘束されることなく、二一世紀初頭にまで及んでいる。中国史研究の包括的な概説書の中で、井上裕正が主体とその環境間の相互作用を重視する観点を採って説明を行ったように、現存の一つの国家だけに焦点を当てるアプローチはますます少なくなってきたようである。

近現代思想も、国家ごとにそれぞれ確立していくのではなく、アジアの思想家たちの間で進められたフィードバック・連鎖の中で成熟していく、という枠組みからの研究もある。

国家と同じく、アジアや束アジアという地域の概念も、もともと存在したというよりも、発明されたものであるという、突き放した立場が主流を占めてきた(この論点は様々な文献で紹介されているが、溝口雄三らが編集した「アジアから考える」シリーズ〈東京大学出版会〉でも強く意識されている)。かつては、アジアになんらかの意味や価値を与えようとする研究や主張が相対的に多かった。二一世紀初頭においても「束アジア共同体」の議論に見られてきたように、その立場は引き続き存在しているが、逆にアジアという地域概念にとらわれない研究もある。例えば、アジアにとどまらず、ユーラシアというもっと広い地域枠組みで考えると、地域だけでなく、世界史の展開かきわめて異なって見えることもある。

第二に、新たな地域の視座として、主に二〇~二一世紀に存在する国家の形成との関連から評価されてきた海洋を中心とする秩序やネットワークも、取り上げられるようになった。辺境と見なされてきた海域が実は交通やコミュニケーションの主要な場であり、それ自体が[海は一つ]という意識を持った領域と捉えられ、これまでの陸上国家中心の直線的な史観に変更を迫ったのである。

ユーラシアや海洋という枠組みによる研究は、実は自律的に存在したにもかかわらず、歴史研究の表舞台からはぼ抹殺された歴史の展開面を復活させたものとして評価された。これらの研究は、歴史が、単純な進化論に基づいた系統樹のようなかたちで記述されるという基本的な前提を否定した。それも単なる理屈だけではなく、実証的なアプローチによって明らかにしたのであり、そこから、現在とは大きく異なる世界が実現していた可能性を強く示唆して、二一世紀初頭にまでしぶとく生き延びた国家形成の政治神話を相対化していく役割を果たした。

第三に、時系列の観点から見て、近代と前近代の対照の行き過ぎに対する異議申し立ても、歴史研究に沈潜した研究者から行われた。この時系列の対照の行き過ぎは、東アジアとヨーロッパという別の図式的な対照の行き過ぎとも対応していた。

夫馬進は、近代以前の中国の王朝は朝貢体制をとっていたというが、中国の政治的、文化的優越性を認めないヅェトナムや日本に対しては、知らないふりをして関係を維持した事例などを具体的に挙げ、前近代と近代、朝貢体制と主権国家システムの違いを単純に区別し述べることができないとした。「中国のかつての国際関係がシステム論として図式化されればされるほど、実際の中国外交は指の間から漏れてゆく」。このような歴史学の不確定性原理ともいえるような競合関係、つまり図式化した要約による単純化をすれば史実が軽視され、史実に基づけば単純化した要約ができないジレンマは、簡単には解決できないであろう。

以上、国家の相対化の試みを説明した。このようにして、二一世紀初頭では、二つの立場が並存するようになった。一つには、国家の重要性を一方で認めながらも、そこにとどまらない立場が主張されるようになった。つまり、アジアにおける国家建設の構想が研究され続ける一方、国家を前提とする歴史を研究する必要を認めながらも、それにとらわれない姿勢が大事だとされるのである。国家を前提とする歴史を相対化しようとするこれらの試みの背景には、現在と過去だけでなく、地球規模の統合が進むと考えられる将来像が、たとえ明確に示されなくとも、問題意識の中核にある。

しかし、二一世紀初頭の時点において、国家だけを見ることは確実に少なくなった一方、国家の存在意義が完全になくなったわけでもないし、国家に替わる何らかの新しい事物が明確に現れたのでもない。しかも中国では、中国独自の政治、経済、社会の枠組みがあるという立場からの議論も存在する。「中国モデル」や「北京・コンセンサス」などとも呼ばれるこの立場は、国家としての中国の歴史という枠組みを前提としている。

つまり、国家は以前よりも重要ではなくなったとしても、まだ十分に大きな意味があると考えられる。このような状況では、個々の研究では、国家を相対化する研究とともに、国家を対象とする研究を続ける二つのアプローチのうち、どちらか一方だけを使ってもかまわないが、テキストとしては複合的なアプローチを扱うべきであろう。

清末、中華民国、中華人民共和国というプロセスをまとめて理解しようとすると、まず連続性を見ていくことになる。この見方からすれば、中国という国家の形成プロセスというまとめ方ができる。ふつう、研究を進めようという場合、これまで進められてきた研究を参考にするものである。もちろん、すでにある研究をそのまま使うのではなく、取捨選択することになる。

国家形成、つまり一つの国家ができる巨視的なプロセスを見る場合、統合論という先行研究がある。しかし、中国の場合、単に国家形成だけでなく、そのプロセスに革命が大きな役割を果たしたという大きな特徴に関する先行研究も見ておかなければならない。この方面では、歴史的制度論という研究がある。ここでは、統合論と歴史的制度論という研究の先行例を見ていこう。
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