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中心市街地の空洞化に立ち向かう新しい公共

『都市に生きる新しい公共』より

大型店舗と公的施設が犯人か

 中心市街地の空洞化は地方都市で深刻だが、大都市圏の都市でも同じように起こっており、全国の都市圏が共通して直面する課題である。地方圏の都市では郊外のショッピングモールなどに客を直接とられるケースが随所でみられるが、大都市の中心部や郊外の主要都市でも、商店や料理屋などの自営業で後継ぎが確保できず、空き店舗や空きビルが増えて次第に街が寂れていく地域は珍しくない。全国の都市圏で地域の衰退を成り行き任せにするのではなく、市民団体や大学、経済団体などを中心とした新しい公共が、空きビル・空き店舗などを活用して街の再生に乗り出す取組みも盛んになってきている。

 戦後の一九五〇年代から七〇年代にかけての都市整備は、都市の魅力向上というより、人口の都市集中に対応するため、計画性のない市街地の拡大抑制に腐心しながら道路や上下水道をはじめとするインフラの整備や住宅建設に力を注いだ時期である。この時期には、都市政策といっても、実態を後追いすることに懸命で、形成された市街地はどこに行っても同じという指摘が行われた。駅前商店街も金太郎飴のように似たり寄ったりで、都市が無個性になっていくまま放置された。これは都市の魅力への感受性が不十分だったことよりも、住宅の大量供給とインフラ整備に迫られ、それに精一杯だった結果と言える。

 六〇年代半ばからクルマ社会化が始まると、それが都市の形に大きな影響を与え始めた。日常的な買回り品についても、車で郊外の大規模商業施設に出かけ、一度に大量の商品を買い込む行動が定着した。その結果、鉄道駅を中心に形成された中心市街地と郊外の大型店舗が顧客をめぐって正面からぶつかり合い、駅前商店街は徐々に劣勢に立たされた。この間、大型店舗の立地を規制するいわゆる大店法などの措置も講じられたが、九〇年代以後、規制緩和の大きな潮流の中で規制が緩められてきた。アメリカなど海外からの大型店舗の参入要請を背景に、二〇〇〇年に旧大店法が廃止されたことなどもあって中心市街地の疲弊に拍車がかかった。旧商店街のアーケード設置の補助などの施策は講じられたが、空き店舗の増加が顕著になり、地方都市では街の顔が失われることが懸念されつつシャッター街の呼称が普通のこととなっていった。

 中心市街地の疲弊の主犯は大型店舗だけではなく、県庁や市役所、公的病院、図書館等々の市民が利用する公的施設も同様である。中心市街地の駐車場不足や用地難、地価問題などを避けるため、建て替え時や新築時に郊外が選ばれた。そのため二〇〇六年に土地利用規制の基本法である都市計画法が改正され、大型店舗はもちろんのこと、官公庁施設や病院などの郊外への立地規制が強化された。しかし既に多くの地方都市では人が集まる諸施設が四方八方に分散した後であり、中心部だけでなくそれぞれが立地する場所も閑散とし、歩いて暮らせる街ではなくなってしまっていた。

中心市街地で何を守るか

 アメリカの都市で、七〇年代から八○年代にかけて中心市街地の荒廃が目に余るようになったことがある。中心部の治安が悪化し公園や高架下などは麻薬の取引場になったりしていたが、その結果、中間所得層は郊外に逃げ出し、税収も減って環境は更に悪化した。その背景には自動車交通が一般化していることに加えて、移民や少数民族の極度の貧困問題があった。

 わが国では中心市街地問題は荒廃というよりも衰退だろう。その過程で、既存の商店街や中小の店舗を守る政策が実施されなかったわけではないが、空き店舗はいったん貸せば戻ってこないし、固定資産税などの保有負担が軽いため活用の動機が働きにくい。しかしアメリカと違い、空き店舗になったりシャッターが閉まって街が衰退しても、そのことが商店街の貧困問題に結び付いているわけではなく、治安が悪化するわけでもない。

 わが国の中心市街地の議論は、商業との関係から論じられることが多かった。市街地は多様な機能で構成されている。小売機能以外にも、娯楽・業務・居住・福祉・医療・文化教育機能等々があり、それらを支える道路や下水道などの公共施設、交通機能や交通の結節機能も重要な機能であるが、都市の中心部ではよく整備されている。商業という旧来の形にこだわらず、これらを活かして人が集まりたい空間にすることを考えるべきだろう。担い手は、これまでみてきたような都市で活動する新しい公共である。中心市街地はコミュニティビジネスが成立しやすい立地であり、新しい公共が得意とする子育て支援や高齢者による高齢者のためのIT教育等々の取組みがコミュニティビジネスとして行われれば、中心市街地の賑わいの一助になるだろう。また、前述のような新しい公共によるエリアマネジメントの取組みが、中心市街地の賑わいの維持に効果を発揮することも期待される。「荒廃する日本」が都市圏で起こらないようにする基盤はあると思う。

憩いの場としての中心市街地

 欧米では、中心市街地に老若男女が集い、ショッピングやカフェでの飲食を楽しんでいるし、自動車が排除された広場に集まること自体に楽しみを見出している。中心市街地には、シンボル的な広場や教会、ホールなどが存在していることも多く、快適な空間として維持されている。

 中心市街地の疲弊に歯止めがかからなかったのは、住民にとって守るほどの街がないからだという厳しい意見はあるが、原因は日本人自身の生活様式の中に中心市街地が明確な位置を占めていなかったことにもあるのではないか。コミュニティ空間としての中心市街地は、住民が生き生きと歩き回る空間として高齢社会で新たな位置づけを得る可能性を持っている。コミュニティの核となる中心市街地には、前章までにみたように多様な担い手が多様な機能を持ち込むようになってきている。しばらく前から、都心居住が大都市圏のライフスタイルとなってきた。中心部に人が集まり住むようになると、新しい公共の取組みにも弾みが出てきて、中心市街地にこれまでとは違った面白昧が出るのではなかろうか。

 中心市街地疲弊の責任を外的要因だけに求めるのは一方的だろう。地域によっては、名古屋市・大須商店街のように商店主が共同でエリアー体をショッピングモール化し、新しい公共と協働でごっちゃ煮の面白さを演出して多様な人びとを引きつけている事例がある。中心市街地の商店主が、後継ぎ問題などがあったとはいえ、店舗構成や品揃え、閉店時刻などで消費者から支持を失い、多様化・高度化する消費需要に対応し損なったことが底辺に横たわっている。商業以外の魅力があれば中心市街地の展開も異なっていたのではという点も含め、考えるところが多い。
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街を巡って

ダービー市

 ダービーという所に来ています。交通手段がないので、ツアーか車しかないいけません。ガイドブックにも載っていません。2千年前の石畳で有名だそうです。それで、産業を作り上げている、観光立国の典型でしょう。

 だから、インフォメーションで「お手洗い」と書いてありました。日本からのツアーの人はそこで、30セント払うのでしょうね。小さな街がそういうカタチで成り立っていることが重要でしょう。きれいにしています。ここでお肉を食べました。

 オートバイとかツーリングの人たちも食べています。

オランダの街

 その次に行ったのが、オランダの街です。車が入れないようになっています。人と自転車で溢れています。昼からビールを飲んでいる人たちで、一杯です。車は街にはいりません。駐車場は全て地下です。電線もありません。

 殆どはカードです。5ユーロ以上はカードだそうです。カード文化です。この街ではケータイを持っている人は居ません。聞いてみたら、オランド人はケチだから、ケータイを使っていないのでは、とのこと。オランダ人に対しては偏見に満ちています。

 オランダとベルギーの違いも少し分かりました。家のつくりは似たようなものです。ベルギーの方が拘りがあります。オランダの方は広場は何も使っていなかった。クリスマスシーズンは盛大だそうです。オランダの内陸だから、当然、風車はないです。

リューガ市

 その後に、7時過ぎに、なぜかリューガという街に寄っています。キリスト教大学の町です。やたら、活気のある街です。学生だけではないです。

 彼らが以前見た、市の図書館に寄るために来たそうです。私の願いです。なかなか見つからずに、街をグルグル回っていた。目が回ってきた。図書館をやっと見つけたけど、9-5だから、当然、閉まっています。本当に町の中心にあります。

 図書館前の広場に移動遊園地が来ていました。偶々だそうです。その前にも、移動遊園地のコースターのすごさを聞いていたので、その実物を見ることができた。安全基準をクリアーしているとは思えない、スピードで動き回っています。何かにぶつかるものです。図書館はは入れなかったけど、移動遊園地は楽しめました。

食べて、飲む文化

 昨日は肉が食べられて良かった。歯が悪いので、チョキチョキにしたけど。それにしても、周りを見ると、もっと、大きなものを食べている。それとビールはペアです。すごい量です。ヨーロッパ文化ですね。

 やはり、生きている意味が違うんですね。多分。そのためのインフラを作り上げています。地ビールは各地方にあります。インフラはきれいです。

 街にしても、家にしても、共同というカタチになっています。日本は集団性を言いながら、それぞれがバラバラです。どこに強さがあるのか。
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