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1時半からの活動

寝れば、寝るほど、しんどくなります。

やはり、起きている手ですね。

パソコンをしていると、腰が痛くなります。

眼自体がかなり、しんどい。今は何もしないでおこうと思うけど、しないでおくのが一番しんどい。
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文明と戦争 富と安楽

『文明と戦争』より

歴史を通じ、繁栄の高まりは戦争と兵役の苦難に耐える意思の低減に関連づけられてきた。豊かな近代以前の社会で金持が成し遂げた肉体労働からの解放と贅沢な生活水準と、それによってより異質で魅力のないものとなった従軍や戦地生活の肉体的苦難は相容れなくなった。通常の生活の方が便利なものが多く、そこから逃げ出したいと思わせるようなものは少ない。そして追求したいと思わせる魅力というものも、軍務のなかには相対的に少ないのである。豊かさが文民的な性質のもので、戦士階級による直接的な力を通じた搾取に基づくというよりは法によって保護されているという場合、非武装化されているエリートは暴力的な紛争に対してさらに馴染めなくなる。我々が見たように、歴史的にはこのことによって、繁栄する近代以前の社会は貧困層からの暴力的な乗っ取りに無力になってしまったのであった。飢えたオオカミは定期的に満ち足りた犬を打ち負かした。この関係が近代になると変化するのだが、そこでは優れた軍事装備を生み出す成熟した科学技術のインフラストラクチャーが圧倒的な重要性を持った。しかし、それと同時に、産業と科学技術の時代が進展し、先進国の一人当たりの富が一五倍から三〇倍という驚異的なペースで増えていくにつれ、昔は特権階級のみが享受していた豊かさ、快適さおよびその他の便利なものが社会全体に拡大していったのである。ブルジョワになるという夢が登場し、そして社会の大部分を覆い尽くすように広がっていった。経済的に発展した「消費社会」では、平均的な男女はいまや昔の貴族以上の快適な生活を普通に享受するようになっている。

かくして増加していく豊かさは、生産と貿易での相互依存を増幅させるという近代の論理だけではなく、裕福さと快適さとが社会の苦難に耐える意欲にもたらす効果―それは今や社会全体に広がり着実に上昇しているIという伝統的な論理も通じて作用し、戦争を減らしたのである。この二つの原理は『ニューョークータイムズ』記者であるトマスーフリードマンが記した、半ば遊びのような原則に反映されている。その原則によれば、ファーストフード・チェーンのマクドナルドの店舗を持つ国同士は戦争を決してしないというのである。国際関係理論の研究者の間でしばらく思索の種になったこの定式が出てから、旧ユーゴスラヴィアのような例外は存在するようになってきている。いずれにせよ、マクドナルドのような多国籍企業を引きつける国は世界経済に十分につながっており、かつその恵みを享受するだけの裕福さを備えているという考え方に、それは基づいてい≒第二次世界大戦後ヽ先進国で豊かさと快適さのレペルは新たな高みに至り、そしてその時期において豊かなほぼ全ての国が民主主義であったため、好戦性の低下における快適さの効果と民主主義の効果を区別することは難しい。既に記したように、ある程度これら二つの要因が相互に関連していることは明らかなのである。それがどの程度関連しているかという点は、後ほど論じる。

今日の自由主義的、裕福で安全な社会の人々にとって、ほんの数世代前の自分たちの祖先がどのように暮らしていたか、そして貧しい国の現在の生活が依然としてどのような状態にあるのかを思い描くことは難しい。生きることはいうまでもなく困難を伴うものだが、昔ははるかにそうであったのである。近代の社会では不安が恐怖や肉体的苦痛に取って代わってきたのかもしれない。しかし、伝統社会の利点を正当に評価したり、近代性のストレスや問題を踏まえたうえであっても、この変化は革命的以外の何ものでもない。近代以前の社会の人々は、最も基本的な意昧での生き残りのために奮闘したのである。彼らのほとんどは飢えから逃れるために肉体労働を一生したが、決して飢えから解放されることはなかった。孤児、小児での死亡、配偶者の早世、死の全般的に早い訪れといった悲劇は、彼らの人生から切り離されるものではなかったのである。どの年代においても彼らは病気、障害、苦痛といった効果的な治療が存在しなかったものにむしばまれた。国家の支配が確立している場合でも、近隣国同士の暴力を伴う紛争はよくあった。したがっていつでも起こり得る可能性があった。このため、肉体的強さ、頑強さ、名誉といったものが重視されたし、それらの全ての評判を持つことが重要であった。苦難と悲劇は人々の態度を硬化させ、運命主義的な心境にさせがちである。その文脈でいえば、戦争による苦しみと死とは、マルサスの主張する他の死神たちー飢饉と病-と並んで、もう一つの自然に近い不幸として経験されたのであった。

これに比べ、あるいは対照的ですらあるのだが、裕福な自由主義社会の生活は劇的に変化した。肉体労働の衰退は既に言及した。飢えと欠乏は豊かな社会に取って代わられ、そこでは最も基本的な需品である食糧が事実上制限なく入手可能となった。これにより、窮乏よりむしろ肥満が貧困層の間ですら1いや実をいえば彼らの間で特に、ということまであるのだがI問題となるという、歴史的に見て前代未聞で逆説的な結果が生まれた。小児または若い時期の死亡は稀な出来事となり、幼児死亡率は産業革命以前に比してほぼ二〇分のIまで低下した。人口全体に占める一年当たりの死亡者はI〇〇〇人につき三〇人から、七人あるいはI〇人の水準へと下がっ‰昔は第一位の死因であった伝染病がヽ衛生の改善ヽ予防接種、抗生物質によって脅威でなくなっただけではなく、生きていくなかで昔はついてまわった無数の炎症や障害-視力の低下、歯の劣化、皮膚病、ヘルニアーが、薬、医療器具、そして手術によって緩和された。麻酔や鎮痛薬からバイアグラに至る他の薬が、生活の質を劇的に改善するようになった。先進国の人々は暖かくエアコンの効いた住まいに暮しているが、その住まいには家事のほとんどをやってくれる電気製品も備えつけられている。室内風呂やトイレもある。彼らは毎日手を洗うし、それと同じくらいに服も着替える。徒歩よりも車で移動する。余暇時間を占めるメディアを通じて、ポピュラー娯楽の圧倒的な流入を受けている。遠く離れたエキゾチックな場所で休暇を取る。「必要性のピラミッド」を駆け上がった彼らは、個人の自己充足を強調する「ポストモダン」「ポスト物質主義」的価値が自分たちには合っていると考えている。これは特にアメリカ人には信じがたい話かもしれないが、先進国(アメリカのインナIシティのような特に問題を抱える地区は別として)では、物理的暴力の可能性が日常生活の要素ではもはやなくなっている。秩序と快適さを備えた社会では、社会的なやり取りにおけるぞんざいな振る舞いは減り、他方で礼儀正しさ、平和的な議論、ユーモアが規範となる。男性は「自分の女性的な側面につながりを見出す」ことがよりできるようになる。子供や若者はかつて親に体罰でしつけられたり、学校、遊び場、路上でけんかをしたりしたものだが、今や彼らは社会全般での暴力に対する嫌悪に囲まれ、暴力を避けるよう習慣づけられている。

こうした変化と同じくらい劇的に、社会的な期待や心理的な性も上昇する。裕福な自由主義社会の人々は人生を単に耐え忍ぶというよりは、生きて人生を支配し、それを楽しむことを期待するのであり、戦争が彼らの人生設計のなかに入ってくることはほとんどない。

そうであるとすれば、歴史的に共和国の外交政策と関連づけられてきたあの「軽率な熱情」が、第二次世界大戦後に発達してきた裕福で消費者主義・快楽主義的な自由民主主義社会でほとんど消滅しているように見えるのも、驚くには当たらない。そのうえ、相対的に裕福でない「デモス〔民衆〕」においてよりもその社会のエリートおよび裕福な中間層においての方が、この変化の影響は大きい。社会内の「持たざる者」の方がより暴力的な社会行動に走りやすいのと同じように、国際体制で恵まれていない国家もそうした行動に陥りやすいというのは、全く偶然ではないのである。
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