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哲学の「終わり」、あるいは「終わり」と哲学

『「実在」の形而上学』より

哲学と形而上学について、もう少し考えたい。すべてをその全体において問おうとする試みは、必然的に「思考しうること」の全体と関わる。「すべて」とは、「思考しうるすべて」となるほかないからである。形而上学が思考の限界に関わるとは、このことの謂いであった。この限界が、思考のそのつどの終局、すなわち「終わり」を画す。だが、思考がどのようにその限界=終わりに達するかは一様ではないし、必ずしもすべての思考がそれに直面するわけでもない。なぜなら、そもそも思考はおよそ思考しうるものにしか関わりえないはずなのだから(「思考しえないもの」もそのようなものとして思考してしまうし、そうしてしまわざるをえないのだから)、それにもかかわらず「何」が、あるいは「どこ」が、あるいはどういう仕方か……その限界を画しているかを示すことは決して容易ではないからだ。少なくとも、思考であるかぎりの思考がそれを思考することはできないのである。これはすなわち、思考の限界=終わりを画するものは、当の思考が思考せずに終わってしまったものを図らずも別の思考が発見する(あるいは、少なくとも当の思考以外のものが発見する)ことによってしか示すことかできない、ということにほかならない。

思考の限界を示すいわば形式的特徴をここであえて取り出せば、それは思考が無意味に曝されることだと言ってよいかもしれない。思考が思考たる所以は、それが何ごとかを有意味に思考しうることだからだ。そして、思考が無意味に曝される典型的なケースは、次の二つだろう。すなわち、同語反復(トートロジー)に帰着するか、矛盾=逆説(パラドックス)に陥る場合である(「矛盾」というと弁証法が想起されるかもしれないが、「止揚」されうる矛盾はここで言う矛盾ではない。ここでのそれは、すぐあとでも述べるように、もはやその先にはいかにしても進めない類いのものであり、それにもかかわらず思考を継続しょうとするならすべてを御破算にしてから出直すほかないところのものである。いささか単純化して言えば、ハイデガーにおける形而上学期の「存在は無である」というテーゼは後者の形式的特徴を、いわゆる「存在の思考=思索」期の「性起は性起するは前者の形式的特徴を、それぞれ備えている。本書序章が論じたように、アリストテレスの「実体」、「個体」、「質料」は(場合にょっては「神」ですら)、それらが存在者の根拠であるかぎりで、もはや存在者ではない(つまりは存在しない)という矛盾である。

いずれの場合も、思考はそこでいったん行き止まり、もはやそのままその途を先に進むことはできない。だが、そこでいったい「何」が思考の限界として示されたかは事柄の性質上「言いえない(語りえない)」のだから、つまりそのおのおのの思考の仕方ではもはやその先に進めないというにすぎないのだから、もし当該の思考の本質にその限界が不可分に関わっているのであれば、それを示す思考の営みはあらためて別の仕方で再開されるほかない(このことはハイデガー自身においても生じており、それを示す鍵語が「転回」にほかならない。しかも、この「転回」は、私の見るところ、単数ではなかった可能性かある)。これはすなわち、ある種の思考にとって、つまり思考しうることの全体に、世界の全体に、あえて関わろうとする形而上学としての哲学にとって、「終わり」は不可避であるとともに、その営みに「終わり」はないということである。

正確に言おり。「終わり」とは歴史的=時間的な意味でのそれ、すなわち「終焉」ではなく、哲学的=形而上学的思考の一つの究極にして行き止まり、すなわち「挫折」なのである。ほかならぬこの挫折を通して、思考か関わっている当のものが指し示される。したがって、この思考は、それが根本において関わっている当のものとの繋がりをこの挫折においてのみ示すことかできる。思考は思考しえないものに関わってしまっているからこそ、思考するのである。どういうことか。その構造が比較的見えやすい形而上学で考えてみよ

形而上学は、すべてをその全体において捉えようとする。だか、もしそれか全体に関わろりとするなら、それを問う思考自身はすでに何らかの仕方でその全体の「外部」に身を置いているのでなければならない。先に(第一節で)触れた、あの「異界」である。すべてである世界に対して「なぜ」という疑問が立ってしまうとは、思考に開かれた可能性の空間において世界の「外部」に当の思考か触れてしまい、そのようにして世界からその「外部」へと弾き出されてしまったことの証しなのだ。このときはじめて、思考の面前に思考さるべき「何」ものかか姿を現わす。思考という仕方で向かい合うことのできる何かがあるのだ。だが、そのとき思考自身は、当の思考さるべきものとの間に口を開けた亀裂のこちら側に、すなわち思考さるべきものの「外部」に弾き出されている。そのかぎりで、この「外部」は、思考の可能性を開くものではあっても、それ自身は思考しうるものではない。図らずもぽっくりと口を開けた亀裂の中に落ち込むことで思考か目覚めたのだとすれば、思考とこの亀裂は同体であり、それ自身は思考さるべきものの手前に(こちら側に)回り込んでしまって思考できない。形而上学が世界をその全体において思考せんとしているのであれば、その思考は世界の「外部」という思考しえないものの中に落ち込み、それと何らかの仕方で関わってしまっているのだ。これを、思考は思考しえないものに関わってしまっているからこそ思考する、と言ったのである。

こうして思考は、この思考しえないものとの関わりを介して、みずからかそこから弾き出され、そこから落ち込んだところへとあらためて向かう。だが、この還帰が上手くゆけぼゆくほど、すなわち思考すべきものが首尾よく理解され思考の手中に落ちれば落ちるほど、この動向を可能としたはずの〈思考しえないもの〉は跡形もなく消失する。亀裂は、その痕跡も定かでないほど、きれいに修復されたのである。思考が辿るこの一連の動向か〈抹消された思考しえないもの〉によって成り立っていた可能性に当の思考が気づくとしたら、それは逆にむしろ思考が上手くいかないときといりことになる。ところが、大抵の場合、そのことは思考の不十分さとされ、〈思考しえないもの〉に思考が直面するにはいたらないのだ。この点で、形而上学は特異な位置を占める。なぜなら、いまや思考の破綻が抜き差しならない仕方で迫ってくる形而上学においてこそ、そこに〈思考しえないもの〉が伏在していたことに当の思考かようやく思い当たることを可能にするからだ。このことは、思考がその根本において関わっている事柄に「ふさわしい」仕方で、すなわち「正しく」挫折することによってしか果たされない。何か思考の出立を余儀なくさせたのか、どこが思考の還帰すべきところなのかは、思考がその限界に触れ直すそのたびごとにわずかに示されるにすぎない。かくして、思考は何度でも、そのたびごとに別様の仕方でその「終わり」へといたり、破綻し、挫折せねばならないのである。だが、このことは決して思考の「終焉」を意味しないのだった。

最後に考えてみたいのは、このような〈思考しえないもの〉としての「外部」と思考がどのように関わっているのかである。ここで〈思考しえない〉とは「理解できない」ということであり、すなわちその根拠か見出されないことに等しい。先に見たように、ハイデガーはそうした「外部」との関係を、「追想」と、来るべき別の思考への「準備」と捉えたのだった。この点に関して、なお思考の余地が残されてはいないか。

思考ははじめからそれ自体で存在しているわけではなかった。日々慣れ親しんだ世界に、「えっ」、「なぜ」、「どうして」という仕方で亀裂や断絶の線が走ったとき、すなわち「問い(問題)」が持ち上がったとき、はじめてそれへの応対として思考は起動するのだった。このとき、いったい何か問われるべき事柄として姿を現わすのかは思考にとって決してあらかじめ明らかではないし、それどころかそもそも問いが持ち上がるか否かすら定かではない。思考が言いうるのは、おのれが動き出している以上、すでに問いは剣米してしまりているということ以外ではないのだ。ということは、凪海’はその根木においてみずからのイニシアティヴを有していないということである。それだけではない。ひとたび問いが持ち上がってしまったら最後、思考はもはやそれに答えないわけにはいかない。もちろん、いくら考えても正しい答えを出すことができないということはありうる。ありうるどころか、現にしばしばそうである。そんなとき、私たちは、とにもかくにも間に合わせの答えを出して、それでその場を凌いでいる。場合によっては「分からない1 として放置しておくことだってある。けれども、これすら間いに対する一つの応対なのだ。放置してもとりあえずその場は何とかなっているからである。〈「分からない」ことか「分かった」〉というわけだ。いよいよどうしようもなくなったときには、あらためて何らか別の対応をせざるをえなくなるまでなのだ。
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お酒のある意味ある生活

自転車の存在

 自転車がないけど、細い車道を真ん中を走っている。絶対に歩道は走らない。自転車を止めるところもあります。

スーパーマーケット

 帰りに、カルフーズ・マーケットに寄りました。付箋だけを買いました。ふつうの銘柄に対して、カルフーズ製は半額でした。

 スーパーのトイレも有料です。30セントです。居なかったから、お金を置かずに出てきたら、おこられました。

 豚、牛、チキン、魚が同じ価格帯であります。ベルギーはヨーロッパの中央です。

意味ある生活

 酒飲みの夕食というのは長く続きます。それを毎日、行っているそうです。酒に意味があるのか。これが生き方なんでしょうね。奥さんとの関係を含めて。

 何か、寝ている方が疲れます。これは生きていることが疲れることと同じです。そんなものは元々、関係ないけど。

 得た次元をまとめているけど、その人たちにとっては、どうなっていくかです。そういうことは重要ではない。

 お酒が意味あることになっている。そんなにすごいものなのか。そこで価値観を分けないといけない。タバコもそうだけど、生活の機軸になっているとしたら、そういう人でコミュニティを分けないといけない。私には理解し得ない世界です。

ギリシャ人の生活

 別に、ギリシャ人に生活を変えろとは言えないけど、どうなるかの将来を考えるようして欲しいということは言えます。そのためのヒントは与えることは出来ます。考えて、未来を決めるのは、ギリシャ人です。その結果として、未来を絞られるのはしょうがないです。そのことを割り切るかどうかです。

 ドイツの立場とか言いながら、結局は、ドイツのための利益が優先するというのは、まずはハッキリさせた方がいい。

私は超アナログ

 先方には、私がスマホ等を使いこなしていると思われていた。研究開発部署に居た時に、PCとかネットワークで技術者の仕事を変えていた。その延長線で考えると、当然、最新のデバイスを使いこなしていると考えたようです。私はデジタルを超えて、超アナログに来ています。つまり、紙の世界です。

 パソコンは自分の能力、特に弱点を伸ばすものでした。私の場合は記憶力です。だから使いました。今はコミュニケーションだから、さほど使えません。ケータイはコミュニケーションです。相手がいない以上。コミュニケーションは成り立ちません。あったとしても、そんなものでやりとりすることはできません。

 スマホは単なるゲーム機です。ゲームからコミュニティ化したときの提案をするけど。それ以上のことは関係ないです。むしろ、デジタルになることで、個人は独立することができる可能性が出ている。自分は独立しているからいいけど、日本の集団性を壊す可能性を持ってきています。スマホを使って、新しいコミュニティとつなげていくのか。ソーシャル的にしていくのか。新しいケータイを作り上げるかです。

 私は超アナログ世界に来ています。自分の世界をいかにまとめていくのかがテーマです。コンパクトに、色々な形態に対応させながら、かつ発展しながら。μギャラクシーは最たるものです。見えている情報の千倍の世界が控えています。デジタルでは不可能です。

μギャラクシーはコンパクト空間です

 代表元として、μギャラクシーを作り上げています。宇宙空間といえども、コンパクト化しないと意味がないです。そうしないと、自分の範囲でしか考えない。分からないものは分からないものとして、切り捨てます。自分の運命とか、存在する意味であるのに。

 その完成が急ぎません。あまりのも無題だし、核の部分をいかにするかが最終目的です。千倍の情報からどのように持ってくるのか、大量情報からどのように集めてくるのか。

街の風景

 街の風景は日本に比べるとはるかにいい。両脇の車は邪魔だけど、道路はなるべく狭くして使うと言うことです。自転車をこの中にいれたいけど、かなり苦労しています。苦労している分だけ、未来があります。

 日本は苦労としていません。メーカーも行政も先を考えないといけない。完全な思考停止です。売ることだけで、最適に使うことを考えていない。意味を持たないです。

未唯空間の構造

 未唯空間の構造は三つからなる。ベースとなる位相で近傍系がつながる骨格。ブログから反映して。各ジャンルに分配。詳細を含めたMu・Gaの部分です。未唯空間は自分のすべてであるが、当然、偶然でのすべてです。個々の項目をつなげて、新しい分野も開いている。そこに意味を持たせる。それは単なる事実とか興味を超えた次元です。

 詳細の命題表現の数は8×8×4×4で1024であり、それらには10個の詳細が付与すると、10Kであり、1000文字あると、10Mです。それで世の中のすべてを代表させます。点を拡大するのに、TL、AL、TG、AGの4つを近傍としたのは発見です。そのまま見ていても、アイデアが浮かばないものを流れて、分解して、その要素で自己同型させていく。
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