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自由と社会公正を求めて ★1月25日革命★

2011年2月11日、18日間に及ぶ激しい抗議デモの末、30年にわたって大統領の座にあったムバーラクが辞任した。デモの開始から辞任発表に至るまで、世界はカイロの夕(リール広場で展開された治安部隊とデモ隊の激しい衝突、軍の展開、抗議デモの拡大など一連の出来事をかたずを飲んで見守った。エジプトではこの革命は、デモが開始された日にちなみ「1月25日革命」と呼ばれている。この革命は、狭義ではムバーラク体制の打倒を掲げたものであったが、広義ではナセル大統領以来1952年から60年間続いた共和国体制そのものに見直しを迫った革命と捉えることができる。

革命を国民の怒りの噴火ととらえるならば、地下にたまっていたマグマは物価の上昇、とくに若年層に高い失業率、警察の横暴、社会に蔓延する汚職と不正、制限された政治的自由など、この60年で澱のように溜まった国民の不満である。噴火は時間の問題であったが、革命直前の2010年H月から12月にかけて実施された人民議会選挙における大規模な不正によって、ムバーラクの次男ガマールヘの政権委譲が秒読み段階に入ったことが決定打となった。そして、最終的に不満のマグマを着火させたのは、これからも続くであろう不公正な社会を歩まされる20代から30代を中心とした若者たちであった。

1月25日革命に対する評価はまだ定まっていないが、この革命には中産大衆革命と軍によるクーデターという2つの顔がある。この2つの要素が同時に存在してはじめて、倒れないと思われた堅固な権威主義体制が驚くほどの短期間で倒れたのである。以下でこの革命の2つの顔をみてみよう。

まずは中産大衆革命としての顔である。エジプトは1日2ドル前後で暮らす貧困層が国民の4割、識字率も6割程度の貧富の差が大きい社会である。このような社会において、警察による弾圧という恐怖を払いのけ最初に立ち上がったのは、一般の家庭にはまだ高価なパソコンを所有し、インターネットを使いこなすことができる、当面食べるには困らない大学卒業資格をもった若者たちであった。この世代は、イスラエルとの戦争の脅威がない平和な時代に育ち、自由を当たり前と考える、ある意味グローバル化した価値観をもっていた。

彼らは、革命の約2年前にセルビアの民主化運動「オトゥポル」から非暴力で非宗教的な運動の手法を学んで「4月6日運動」を結成した。また、警察の不正を告発して当局により惨殺された青年に共感して立ち上げられたブログ「我々はみな(ーリド・サイード」に呼応して、反ムバーラク運動のうねりとなった(第21章参照)。革命の初期において抗議運動の中心となったのは、このような組織や運動のメンバーで、ある程度組織化された者たちであった。しかし、これらの組織がデモの中核になりつつも、ここに、自由と平等ならぬ自由と公正を求めて、予想を上回る数の組織化されない人々が加わったのである。そして、デモが数日におよび、軍がムバーラクではなく国民の側につくことが明らかになると、これまで政治に縁のなかった人々が、年齢や性別、職業や所得に関係なく集まるようになり、ムバーラクを辞任に追い込んだのである。以上の点から、この革命は中産大衆革命であったといえる。

しかし、1月25日革命は単なる中産大衆革命ではなかった。ムバーフクが辞任するまでの18日間の大局を方向づけ、ムバーラクを辞任に導いたのはエジプト軍であった。仮に、軍の大衆への同調がなければ革命は長期化し、さらに多くの犠牲者を出したことだろう。革命という究極的な局面では、軍はムバーフクに引導を渡してその治世に終止符を打ったが、実は軍と歴代政権の関係は複雑である。軍は各省庁の大臣や次官、国営企業にはその役員に退役軍人を送りこむなど、政権内部に深く入り込んできた。にもかかわらず、最後にムバーラクを見限った理由として考えられるのは、第一に大統領個人ではなく国家を守護するという軍の性質、そして第二は軍の利権を保護するためである。

エジプト軍に、支配者個人ではなく国家に仕えるという気風がいつから備わったのかについては諸説ある。近代的な軍隊としてエジプト軍が整備されたのは、19世紀初頭のム(ンマド・アリーの時代に遡るが、エジプト軍はその設立以来、一貫して外国勢力と戦う軍隊であった。1879年から82年にかけて活発化したエジプト最初の民族主義運動といわれるオラービー運動は、アフマドーオラービー大佐が中心となって展開された。また、1月25日革命によってナセル大統領が築いた政治体制は否定されたが、そのナセルは1952年の7月革命で外来王朝であるム(ンマド・アリー王朝を廃止して、エジプト人の手に国の支配を取り戻した英雄であった。加えて、エジプト軍はイスラエルと4度戦火を交え、国の主権を守っている。このような歴史を経て、軍は国家を守護するものという意識が醸成されてきたのである。

では、2つ目の理由である軍の権益の保護についてみてみよう。実は、エジプト軍は通常の国防の任務の他に、軍事産業をはじめとして、飲料、農業、食品加工業、建設業など、あらゆる分野の企業を経営している。なんと、それらを合わせたシェアはGDPの10%から15%(30%という説もある)を占めるといわれる。エジプト軍は、国内最大の企業体なのである。軍が各産業に進出している理由は、1979年のイスラエルとの平和条約の締結以降、戦争の脅威が著しく低下したことと、万一の戦時に備えて国の自律を維持するためだといわれている。

ところが1990年代になると軍をめぐる状況が変化する。冷戦の終結という国際情勢の変化のなか、世界の国々同様、エジプト政府も本格的に市場経済化へ舵を切ったのである。補助金は削減され国営企業は民営化されたが、この過程で軍の巨大な利権を脅かす形で台頭してきたのが新興の実業家たちであった。彼らは、2000年の議会選挙では国会議員に当選、さらには与党幹部となり、次期大統領候補として急浮上したムバーラクの次男ガマールの取り巻きとなった。このようなタイミングで起きたのが、2011年1月のムバーラク辞任要求デモであった。軍の利益が国益につながると考える軍上層部にとっては、軍の利権を侵食する実業家が大きな影響力をもつであろうガマール政権の誕生を阻止する、まさに千載一遇の機会であったといえる。

また、1月25日革命が同じアラブの国であるシリアやイエメンのように泥沼化せず、短期間に終息したのには、いくつかの要因がある。ひとつには、エジプトの歴代大統領が、他の独裁国家のように大統領に忠誠を誓う親衛隊や私兵を持たず、軍隊が国軍のみであったことである。しかも、その唯一の軍隊の利権が大統領個人とは独立していたため、軍は比較的容易にムバーフクを切ることができたのである。

さらに、アメリカの存在も無視できない。アメリカ政府は革命において間違いなく重要な役割を果たしている。エジプト軍は、イスラエルとの平和条約の締結の見返りとして、アメリカ政府から毎年13億ドルもの軍事援助を受けており、現在エジプト軍の兵器の大半はアメリカ製である。エジプト軍はアメリカ政府に隷属しているわけでないが、その圧力に弱いという宿命を背負っている。オバマ米大統領はムバーフクに辞任を促したといわれるが、革命の最中にアメリカ政府とエジプト軍幹部の間でどのようなやり取りが交わされたのか、その詳細は現段階では明らかにされていない。

2000年代に入ってからのムバーラクは老いた。ムバーフク時代を比較的よく評価する者でも、その最後の10年を否定する者は多い。国民は、これまでの体制の負の遺産を抱えつつ、新たな政治体制の枠組み造りに取り組み始めた。これからエジプトはどこに行くのか、革命の結末はまだみえない。
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エジプト最大のイスラーム主義活動 ★ムスリム同胞団★

『現代エジプトを知るための60章』より

1月25日革命後のエジプトにおいて、急速に勢力を拡大させている組織がある。それは、ムスリム同胞団というイスラーム主義運動である。軍主導の暫定統治下でその政治的台頭が顕著となっており、エジプト政治における重要アクターとして注目を集めている。

この同胞団の台頭を支えているのは、彼らが社会慈善活動を通じて構築してきた社会的ネットワークである。同胞団はエジプト社会において、モスク建設、無料医療奉仕、貧困家庭救済、相互扶助組織の運営から、スポーツクラブ、輸入代理店、中古車販売などの企業経営に至るまで、多種多様の社会活動を展開している。こうした活動に恩恵を受けた人々や好感を寄せる人々が、同胞団の支持基盤を形成している。同胞団が強固な社会的ネットワークを持つ背景には、長年におよぶ彼らの活動の歴史がある。

同胞団は、1928年にスエズ運河沿いの町イスマイリーヤにおいて、(サン・アル・バンナーという学校教師によって結成された。当時のエジプトはイギリスの支配下に置かれ、西洋近代化政策が進む中で社会におけるイスラームの役割が低下しつつあった。しかし、イスラームの伝統的な担い手であったウラマーやスーフィー教団などは、有効な対策を打ち出せなかった。こうした中、バンナーはイスラームと祖国のために自ら行動しようと決意した。そして、イスラーム法の施行とイスラーム国家の樹立を目指して、6名の仲間と共に「イスラームのために奉仕するムスリムの同胞たち」としてムスリム同胞団を結成したのであった。

設立間もない1930年代、同胞団はエジプト各地に支部を設立し、全国規模の組織展開を進めた。同胞団の活動の特徴は、エリート層だけでなく、広く大衆にもイスラーム復興の必要性を訴えかける教官を行った点にある。この試みは、大衆が力を増しつつあった当時のエジプト社会において、広く受け入れられた。また、同胞団は設立当初から、イスラームを、宗教活動だけではなく、社会のあらゆる分野で実践しようとした。モスクやコーラン暗誦学校の運営の他に、教育・出版、社会慈善活動、企業経営、労働組合の組織化、議会選挙への出馬、女性団体やスポーツクラブの運営を行うなど、多種多様な活動を展開した。イスラーム国家の樹立のためには、社会のイスラーム化か必須であるという考え方である。社会活動を重視する同胞団の基本姿勢は現在においても堅持されており、強固な社会的ネットワークの源となっている。大衆を様々な活動に巻き込むこの方針が功を奏して、40年代末には、50万人のメンバーおよび同数の支持者を有する同国最大のイスラーム主義運動に発展したとされる。

同胞団が復活したのは、1970年にサダトが大統領に就いた後であった。サダトは政権基盤の強化を目指し、競合者であるナセル主義者ら左派を抑制するために、イスラーム主義者を対抗勢力として利用した。その結果、非合法状態は継続したままであったが、同胞団も活動再開が黙認されることとなった。

第3代最高指導者ウマル=アィリムサーニーの下、同胞団の組織再建が進められ、医療、教育、相互扶助などの社会奉仕活動が再開された。彼はサダト政権との協調と非暴力・穏健活動を重視し、既存の法秩序の下で活動を行う合法活動路線を掲げた。ここには、政権との全面対決を回避し、組織存続を優先する同胞団の基本方針が見られる。また、彼は同胞団内のクトゥブ主義者ら急進派の排除に努めた。1970年代以降のイスラーム復興の隆盛という時代を背景に、同胞団は着実な組織拡大に成功し、エジプト最大のイスラーム主義運動として復活を遂げた。

続くムバーラク政権下でも、同胞団は合法活動路線を堅持した。1980年代には強固な社会的ネットワークを基盤に、非合法ながらも人民議会への進出を果たした。87年に実質的な最大野党となった同胞団は、イスラーム法の施行を求めて活発な議会活動を行った。しかし、90年代以降にムバーラク政権が権威主義的性格を強めるにしたがって、同胞団への弾圧は苛烈なものとなった。これに対して、同胞団はエジプト政治の民主化を求めてムバーラク政権への批判姿勢を強め、他の野党・反政府運動との連携を深めた。だが、反対派の声を黙殺する権威主義体制の前では、有効な対策を取れなかった。

この同胞団の危機的状況は、1月25日革命によってムバーラク政権が崩壊することで一変した。革命初期、同胞団は政権との全面対決に慎重な姿勢を示した。そのため、青年運動が先導する反ムバーラクの抗議デモに乗り遅れる結果となったが、合流後の同胞団は社会的ネットワークを総動員し、抗議デモの一翼を担うこととなった。革命後、ムバーラク政権という最大の障壁が消滅した同胞団は、自由公正党という政党を設立し、1954年以降の非合法状態に終止符を打つことに成功した。また、生活苦に直面するエジプト国民の支援を目的に、彼らは社会慈善活動のさらなる発展に努めている。この社会的ネットワークを基盤に、同胞団は精力的な政治活動を展開している。

現在、エジプト国内で同胞団に匹敵し得る組織的力量をもつ政治主体はほぼないとされる。今後も組織力の増減はあるだろうが、エジプト社会で広く受け入れられている同胞団が一定の役割を担い続けるであろうことは間違いない。エジプトの社会・政治を考える上で、同胞団は必ず、言及すべき重要な存在であり続けるであろう。
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久しぶりに、エコットのセミナーへ

未唯へ

 日本の湿気は考えることを停止させます。

エコット・セミナー事前考察

 午後からのNPOの講演会には行ってきます。

 それでNPOはどうしたいわけ。いつも、これが分からない。どういう政治形態にしたいのか。どうしたら、皆が幸せになれるか、というところまで考えているのか。取りあえず、自分の領分を作って、そこでおしまいみたいなこと。そんなのはどうでもいい。勝手にやっていればいい。単なるお仕事なんだから。

 こんなことを個人に求めるのであれば、個人をどう変えろと言いたいのか。どう変えるつもりなのか。そのためのシナリオはどうなっているのか。エコットにしても、子供への環境学習にしても、だからどうするのか、それで個人は変わってきているのか。最低でも、インタープリターは代わってきたのか、どういう意識と知識でやっているのか。

 それを地域ごとにやっていくしかない。そこで相手を見ながら、変えていくしかない。NPO単独では何もできないという理由で逃げている。その割に、個人に対して、変われと要求している。NPOがまずは変えなさい。それをどういう風に変えればいいのか。グローバルとどうつなげればいいのか。

直間比率を改善

 コンピューターにより、直間比率というのはカミヤさんの時代です。今、どんな時代で何が求められているか、分かっているのか。だから、Gはおっちょこちょいなんだ、何も考えていない。

 それにしても、パートナーの9月の動きが悪いですね。と言っても、2週間で一日しか会っていないけど。雑多なことで追われている。そんなものはGに渡して、先のことをできるようにしないといけない。周りの人間は何も考えていないのか、今回の報告資料を見ても分かります。

竹コプターは免許不要

 竹コプターもどこでもドアも免許は要らない乗り物です。なぜ、車には免許がいるのか。車は進化していない。この二つを量産した方がメーカーとしては成り立つのではないか。

グリーン・コンシューマー

 グリーン・コンシューマーは結局、手間が掛かる形にしておくことです。多くに人が関わって、それでお金を回していく手段です。

ドイツ国鉄のスマホ

 ドイツの国鉄の乗務員の持っているスマホは、今の状況が見えるようになってる。

 ケルンからローカル線でアーヘンへ向かっている時に、乗務員にICE10がどうなったかを聞いた所、スマホのケータイで、ケルンに5分遅れでで着いて、6番線から出発したことが、的確に表示されていた。

 これも、かなりの勢いでクレームを掛けたから、見せざるを得なかった。クレームはつけるものです。

研究開発部門での評価

 奥さんのロンドンの逗留先では、私の研究開発部門での実績を認めていることを話されたようです。何しろ、技術員をサポートするレベルはかけ離れていた。

 名古屋では、サポートする相手がお客様であり、店舗です。それらを支援していない、名古屋の人には理解できない。これが名古屋の限界です。想像力が欠如している。

エコットのセミナー

 やっと、終わりました。おかげで、本を6冊、片付けることが出来ら。エジプトの体質と動きが大きなテーマになる。この辺も、OCRにして、出すことです。自分の中でまとめないといけない。

 感想としては、いつまでも同じところで、ゴチャゴチャしているじょないよ。

 質問する人は、自分のことを述べるだけではダメです。全体の方向をつけていくたまの疑問点をはっきりさせていくことです。

 フライブルグで感じたのは、日本の社会インフラを積極的に変えていくことです。今までやっていることが、いつかはつながるということではダメでしょう。

 社会インフラをインターネットのようなネットワーク型にしていく。集中-分配型にしない。どんなカタチにせよ、社会インフラは作り直さないといけない。

 その中には、人的なインフラもあります。組織の中の埋もれているものを掘り出します。
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