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電算部の方向をPULLに変えないと

未唯へ

 明日中に未唯空間両面印刷をプリントできるようにしましょう。そのために、仕事編の編集を11時までやっていた。朝も4時前から5時まで行います。

企画と電算との検討会

 企画の人は電算部に話さないです。TMは一言も言わなかった。電算部に方向を与えないといけない。

 パートナーも口を出さない。もっとお節介しましょう。インフラ全体を理解できるようにする。

 電算部の案には、社会が変わるというファクターが完全に抜けている。

電算部に言いたいこと

 今回の震災で買うことよりも、借りること、シェアすること。そのために、グローバルは頼れないということ。そこを販売店でどう表現するか。そんなことを言っても、今の電算部では無理です。だから、社会から見ていかないといけない。

 だから、社会から見ていかないといけない。なにしろ、販売店の社長は社会が変わるという認識は持っています。それに応えないと電算部とはいえない。

 あなたたちの思考は、グローバルのグローバルで集約することになっている。それは正しいことではない。メーカーとお客様とのコミュニケーションはお客様-店舗、店舗-本社、販売店-メーカーの三段ループです。

 システムの基本は、従来のPUSHからPULLに変わります。必要な情報は、その場でライブラリに取りに行けばいい。ネットワーク能力はサファイアで分担します。

ウイルス対策

 パートナーはウイルス騒動でバタバタしていた。半日をつぶしました。まあ、その時の方が、システムインフラを聞いているよりも、生き生きしている。

 ウイルスも完全にフォローする仕組みを要求していきます。転んでもただでは起きない。

 このロジックは、無線LANのセキュリティにも使えます。プルをインフラの基本にしましょう。

アンダルシアでスペイン旅行

 アンダルシアの2時から上映は舞台挨拶があったみたいです。だから、割引も効かないし、会員だけになるのでしょう。

 日常に変化をもたらすために、観に行ったけど、あまりいい映画ではない。何か、3人の小芝居みたいでした。スペインを旅行している感じがしなかった。ヨーロッパにいけないから、その代わりだったのに

 最後になる前に出てきました。8:25のバスに間に合いました。家には10時前に着きます。
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フィンランドの教育がすごい理由

『言葉の力』より

PISAはいずれ、英語のTOEICと同じように、グローバルスタンダードになる。問題は、日本人がなぜこのテストに弱いかということ。アメリカも誤答率は日本と同じ程度だが、無答率が日本より低い。アメリカ人は思いつきでもなんでも書く。日本人は困ると白紙回答。問題はそこだ。

PISAでは、たとえば、こういう設問が出題される。

落書きは良いか、悪いか。2つの考え方があって、落書きは街を汚すからいけないという意見。日本人だったら、当然そうだなと思うだろう。もうひとつの考え方は、その辺の看板だって勝手に外に出して、いろんなものを描いて表示しているのだからなんで落書きはいけないのか、一種のコミュニケーションなのだからいいじゃない、という意見である。

落書きが良いという意見と、悪いという意見があって、それぞれの根拠をもって説明している。だったら、それに対して、自分なりにそれを正しいというのなら、あるいは、どちらでもない意見があるなら、論理的に僕はこう思うから良い、あるいは悪い、と意見を言わなくてはいけない。

PISAの読解カテストでは、設問に対して賛否両論に触れながら論拠を引用し、自分の考えを示す力が測られる。そこで日本の順位がどんどん落ちている。2000年には8位だったが、2003年に14位、2006年には15位まで落ち込んだ。2009年に8位に盛り返したが、上海がI位、韓国が2位、香港4位と新興勢力の後塵を拝している。

いっぽうこの総合読解カテストでフィンランドはつねに上位を占めている。

なぜフィンランドは優れているのか?

もともと、フィンランド人は北国の寡黙な民族だった。それが欧州連合(EU)に加盟した1995年、ヨーロッパの新聞に「フィンランドはEUで何も発言しない」とバカにされた。コミュニケーションして、論理的に思考する力、すなわち読解力を身につけなければならないと、教育改革が行われた。教育改革の結果、フィンランド人は世界でも優秀な読解力、コミュニケーションカをもつようになった。

さきに日本人は白紙回答率が高いと書いた。読解力以前に自分の考えを示す力も問われているのだが、日本人は説明をするということが下手だ。「××が好き」と述べる場合、「なぜですか」と問われると、日本人は「好きだから」と理由にならないことを平気で言う。根拠を挙げず、あいまいな説明しかできないから、何を言っているのか伝わらない。

北川さんは、フィンランドの小学校の授業を見学した。生徒が意見を言ったら、別の生徒が「違う」と否定した。そのときに、先生は「違う」と言った生徒のほうを叱った。

北川さんは、なるほど、これがフィンランド式なのだ、とはたと気づいた。先生は、何かどういけないのか、どこの部分がどう違うのか、もう一度ちゃんと意見を聞いてから反論しなさいと言った。命題をきちんと聞いていないことについて叱ったのだ。相手が何を言っているのか、相手側の特別な理由は何かと考えず、ただ撥ねつけていたら、話が論理的に展開していかないからだ。

対話とは、言葉のキャッチボールである。投げては受け取る練習を繰り返さないと、キャッチボールができるようにならない。「否定する前に、まず相手に質問をして、(相手の話の)命題をきちんととらえなさい」と指導するのは当然なのである。

言葉のキャッチボールは、相手を否定することではない。やりとりのなかで、問題点を絞り込む。新しい疑問が生まれ、その答えを探す。その繰り返しだ。疑問をもつことは大事である。相手の言うことに対して、「それはどういうこと? よくわからないからもう一度説明して」と。「なぜ」「どうして」と繰り返すことで焦点が絞られ、深められていく。

ヨーロッパでは、伝統的に弁証法などを学ぶので、言葉を扱うのも技術だとふつうの了解事項になっていると思えばよい。
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未来の息子たちへ。

『息子へ。』より

あの震災と事故の後、海外に住む多くの知人から、僕や家族、友人を心配するメールが届いた。日が経つにつれ、長文の英語を読んで、英語で返すということが、失礼ながら面倒くさくなって、「大丈夫。癌になる可能性が1%くらい増えただけだから……」などと乱暴な返事をするようになってしまったが、遠く離れた日本に住む僕らを、心配する想いを有り難く感じた。驚いたのは、彼らの多くが、日々刻々と変化する、事故の状況を詳しく知っていたことだ。インターネットによって、彼らは遠く離れた日本の情報を知ることができる。状況が悪化するようなことが起これば、すぐに、そのニュースは彼らに伝わり、暫くすると、僕にメールが届く。ときには、僕のほうが情報を得るのが遅いこともあった。

この数十年で、僕らの目や耳、口や手足は、科学技術によって拡張されたと言える。本来なら見ることのできない遠くの景色を見ることができ、本来なら届かない声が届くようになった。ニューヨークの交差点の様子をリアルタイムで眺めることもできれば、オーストラリアに住む友人の日記を読むこともできる。インターネットに限らず、様々な技術によって、世界は身近になったと言える。しかし、技術によってその「範囲」は広がっていく一方だが、僕らの「心」はどうだろう。技術による「範囲」の広がりに「心」は追いついているのだろうか。僕らは、どこまで「心」を配ればよいのだろう。

僕がちょうど息子と同じ中学生の頃、「ウィ・アー・ザ・ワールド」という、アフリカの飢餓を解消する目的で作られたチャリティー・ソングが世界中で響いていた。まだ子どもだった僕の視界は、その歌で広がった。「私たちはひとつだ」と、世界規模の「範囲」で考え、行動することを教えてくれた。しかし、あれから30年。―世代を経るうちに、もっと広い「範囲」で捉えることが必要だと、僕らは深く知らされた。心を配るべき「範囲」は、この世界に住む人々、人類だけではなくなった。

地球環境―僕らは「地球」というシステムの上で生きている。「人々」という「範囲」を考えるだけでは、僕らは長<生きてはいけない、ということを知った。虫も鳥も魚も森も海も、すべてが繋がっている。微生物から大気まで、すべてが繋がって「地球環境」があり、僕らの暮らしが成り立っている。自分の国だけでも、世界の人々だけでもな<、地球上のあらゆるすべてが繋がっており、そこまで心を配らなければ、僕たち人類は、地球環境から追い出されてしまうだろう。もちろん、一世代前にも環境問題を唱えていた人は多<いたが、僕ら市民のレペルでそれを深く認識したのは、たったこの20~30年だと思う。地球のシステムを学習し、心を配るべき「範囲」が広がった。

それでは、これからの世代、どういう「範囲」で、心を配るべきなのだろう。それは「時間軸」であると僕は思う。世代を超えて、心を配ること。いま生きていることを過去の世代に感謝し、これから生まれてくる先の世代を想うこと。この本の文章の中で、僕はこう書いた。自分の世代より先まで影響を与えてしまう可能性があることには手を出しちゃいけない」

毎日、様々なニュースが流れてくる。廃炉に数十年。セシウム137の半減期が30年。そして、放射性廃棄物は数百年、数千年、数万年と管理を続けなければならないという。そんな「お荷物」を、先の世代の人々はどんな気持ちで受け入れるのだろう。7代先を想うどころか、もっと先の子孫にまで、リスクやコストといった、原子力利用の「後始末」を押し付けて、僕らは暮らしている。

いま、僕らが心を配るべき「範囲」は世代を超えた未来だ。科学技術がいくら進化しようと、未来を眺めることはできないだろう。しかし、僕らは未来を「想像」することができる。遥か先の世代を想うことができる。

ただ、たった一つ、なるべく広い「範囲」に心を配ろうと提案したい。想像力や思いやりの欠如は、身を滅ぼしてしまう。せめて、数百年先の未来。人類が、この地球に存在していることを願うばかりだ。心を配ろう。未来の息子たちへ。
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