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イスラエルから見た世界

『世界情勢地図』より

核を保有し優位な立場にありながらも、イスラエルは常に崩壊を危惧している。

1~2世紀に、ローマによって離散を余儀なくされたユダヤ人は、その後、数世紀にわたって幾度も迫害された。1492年、カトリック信徒のイサベル女王によって、ユダヤ人はスペイン王国から追い出される。だが、1789年のフランス革命では、ユダヤ人の権利がフランス国内で認められた。ロシア帝国での差別や迫害はとりわけひどく、19世紀はその最たる時代であった。その他のヨーロッパ各地でも、彼らは反ユダヤ主義の犠牲になりつづけ、暴力の対象となることも多かった。

こうした人種差別に対する反撃として、テオドール・ヘルツルが1896年に刊行した著書『ユダヤ人国家』は、シオニズムと呼ばれるュダヤ国家復興運動の基盤となった。シオニズムは、19世紀にヨーロッパ諸国で盛んになった民族主義運動の延長であり、迫害から逃れる先となるュダヤ人の国の樹立を目指すことによって、ュダヤ人の民族意識を再確認する運動であった。

「国のない民へ、民のいない国を」というスローガンのもと、1917年、英国の外務大臣バルフォア伯爵は、パレスチナにュダヤ人居住地を作ることに賛意を表明したが、これは英国がアラブ人と交わした「オスマン帝国からの完全な独立」という約束と矛盾していた。実際、「国のない民」がいたとしても、「民のいない国」は存在しないのである。

ヨーロッパの2度の大戦の間に、反ユダヤ主義はいっそう激しくなり、それが原因で多くのュダヤ人が移民となってパレスチナヘ行った。まさにこの行動が現地に緊張を生むことになる。

第2次世界大戦後、ナチスによる虐殺への反動でユダヤ人のための国家樹立という案が幅をきかせるようになった。当時、50力国前後の加盟国(南側諸国は非常に少なかったが)を抱えていた国際連合は、英国の委任統治領であったパレスチナをュダヤ人とパレスチナのアラブ人で分割する案を提示した。しかし近隣のアラブ諸国はこの解決方法を拒否し、新しい国であるイスラエルに対して1回目の戦争を起こす。これはアラブ諸国の敗退に終わった。それ以来イスラエルはパレスチナの78%の土地を支配下におさめた。

イスラエルは、ナチスによる虐殺の記憶や各国に残る反ユダヤ主義に加え、アラブによって存在を否認されているために、多くのユダヤ人にとって避難国になっている。だが、周辺諸国が自国の消滅を望む敵対的な環境の中で、国の存在そのものが脅威にさらされているという意識を常に感じてきた。 1967年の戦争の際に、イスラエルは残っていたパレスチナの領±22%分と東エルサレムを獲得した。この地域はパレスチナ国家が将来建設される場合に領土の中心となるべき地域であった。フランス大統領ド・ゴール将軍はこのイスラエルによる侵攻を非難した。こうしてフランスとの戦略的同盟関係が決裂し、米国との同盟関係が始まる。

当時イスラエル国民は、自国が中東にありながらも西洋の民主国家であると自負していたが、多くの人々からは、東西二極対立における米国側の前線基地とみなされていた。冷戦後も両国の友好関係は盤石であるように見えるが、さらに2001年、米国が唱える「対テロ戦争」によって新たな絆が結ばれた。

領土を守るための核兵器の保有、文句なしでアラブに対し優位にある軍事力、戦略的な保証、米国からの多岐にわたる支援、アラブ諸国から繰り返し申し出がある和平交渉--これら安心材料が多々あるにもかかわらず、イスラエルはなおも国家の崩壊を危惧しているのである。イスラエルの政治首脳部には、軍事的な優位とパレスチナ領土の占有を継続することだけが国民の安全な生活を可能にするという考えがある一方で、和平と正常化を得るためには今こそ近隣のアラブ諸国と領土交渉をしパレスチナの建国を承認するべきだという考えもある。後者の考えはすでにイツハク・ラピン元首相が1990年代半ばに着想していた。イスラエルの世論調査によると、国民は数年前からパレスチナ国家の建国案を受け入れている。だが、それは手つかずで残されたままなのだ。
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トルコから見た世界

『世界情勢地図』より

トルコの戦略的な役割の方向性は、EUに加盟できるか否かに大きく関わってくるだろう。

15世紀に建国されたオスマン帝国の勢いは1529年ウィーン包囲(第1回)の際に頂点に達するが、包囲自体は失敗に終わった。フランス国王フランソワ1世と同盟を組んだスレイマン1世は、当時神聖ローマ皇帝であったカール5世とヨーロッパ大陸の主導権を争っていた。

17世紀になると、新たなウィーン包囲は失敗に終わるが(1683年、第2回)、それによってオスマン帝国に対する「神聖同盟」カ鴬ばれた(オーストリア、ヴェネツィア、ポーランド、ロシア)。オスマン帝国はこのころから衰退を始める。 19世紀末になると、「ヨーロッパの病人」とみなされた帝国は、ヨーロッパ列強からの介入をますます受けるようになった(フランス、英国、ロシア、ドイツ)。

ドイツの側に立って参戦した第1次世界大戦前の時点で、もはやトラキア地方以外にはヨーロッパを支配していなかった。敗戦の結果、帝国はセーヴル条約(1920年)に基づいて戦勝国によって解体された。

1923年のローザンヌ条約によって新しいトルコ国家が建設された。ムスタファ・ケマルが権力を掌握し、ヨーロッパに着想を得て、この国家の衰亡を食い止めるために政教分離と西洋化をトルコ人に課したのである。

第2次世界大戦では中立を守ったために、トルコは1947年のマーシャル・プランの恩恵を受け、1952年にはNATOに加盟した。

トルコはソ連との間に、西側陣営の中では一番長い地上の国境を接していたことから、NATOの防衛活動に積極的に参加してきた。

一方でギリシャとの敵対関係が高じ、1974年、キプロスで紛争が起きたが、その後両国の緊張関係は和らいだ。

ソ連の解体によって、NATOにおける共産主義に対する砦としての特別な立場を失ったが、カフカス地方や中央アジアでトルコ系の国々と関係を結び直し、1990~1991年の湾岸戦争では、クウェートの解放のために参戦して中東での自らの役割をはっきりさせた。
1999年12月のヘルシンキ欧州理事会でEU加盟交渉開始が同意されて以来、EUへの加盟は近代化の手段の一つであるだけでなく、トルコが問題なく西欧世界に属する国であると政治的にも認めさせる手段であると考えられている。

トルコのEU加盟問題はヨーロッパの世論を分けており、加盟交渉は長引くだろうとみられている。

トルコは米国にとって今も鍵を握る重要なパートナーであることには変わりない。

トルコも米国との良好な関係から戦略面でも政治面でも支えを得ている。それでも、2003年のイラク戦争の際には、米軍のトルコ領内自由通過を拒否した。トルコはイラクのクルド人住民の自治(最悪の場合は独立)が、自国のクルド人に波及するのを恐れているからだ。

非アラブ・イスラム教国のトルコは、アラブ諸国と複雑な関係を維持している。まず歴史問題(アラブを植民地にしていた宗主国だった)、そしてイスラエルとの軍事協力(ガザ紛争はイスラエルとトルコの関係に影を落としたが)などがその理由である。

また、アルメニア人に対する大虐殺(1915年)は今もなお、極めてデリケートな問題として残っている。これは、トルコと同盟国との間で大きな意見の相違がある問題であるが、それでも、2009年にアルメニアと外交関係を結ぶ妨げにはならなかった。

将来、トルコの戦略的・地政学的な役割の方向性は、現在行われている交渉が終了してトルコがEUに加盟できるか否かに大きく関わってくるだろう。だが、いずれにしてもトルコの役割が非常に重要であることに変わりはない。
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エコロジー問題

『世界情勢地図』より

人類は向こう20~30年以内に、あらゆる工業生産方法を変えなければならなくなるだろう。

エコロジーという言葉は、人間にとっての暮らしやすさを目的にして、変化する地球の複雑な自然の仕組みをひとくくりにした総称である。もし、人騒がせな科学者たちが正しいのならば、次に続く私たちの子どもや孫の世代になると、地球は暮らしにくくなるだろう。

これは3つの原因が重なる結果である。

1つ目は人口爆発の問題だ(1800年には地球の総人口は10億人であったが、2010年には67億人、そして2050年には90億人となって、おそらくその後にやっと人口が減少に転じるとみられている)。2つ目は、特に欧米諸国で、化石燃料と動物性タンパク質(肉や魚)を大量に消費するという都市型のライフスタイルが一般化したこと(すでに世界の人口の50%以上に当てはまり、極めて速いペースで増加している)が挙げられる。そして3つ目があらゆる空間の都市開発が加速していることである。

物質主義で生産性を上げることばかりに熱心な現代社会では、長い間、環境あるいはエコロジーについて心配すること自体、異端であるとか、迷信深い、あるいは懐古趣味であるとみなされていた。風向きが変わったのはつい最近のことである。

①1988年に国連の枠内で気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が結成されて以来、約20年間にわたって、気候変動の問題や地球温暖化に対する恐れが、強迫観念に駆られたかのように人々の不安を増大させている。 1992年の国連の枠内で行われた気候変動に関する会議で発表されたリオ宣言は、1997年の京都議定書に引き継がれた。その内容は、1990年時点の温室効果ガスの量の5%を削減するというものであり、2012年までという期限が設けられている。だが、それに真剣に取り組んでいるのはヨーロッパだけである。

2009年12月にコペンハーゲンで行われた、ポスト京都議定書に関わる国連会議では、「国際共同体」は力を合わせることができると思っていたEUが、ほとんど孤立無援の状態になり、産油国と新興国からの反対と、成長をあきらめることなどできないと拒否する米国およびBASIC4カ国(ブラジル、南アフリカ、インド、中国)のやる気のなさに対峙することとなった。

それでも一応大国の部類に入る20カ国が2050年までに気温上昇を2°C以下に抑える目標に合意したものの、どのようなやり方で遂行するか、そして中期目標をどうするかについては細かく詰めることができなかった。新興国は、二酸化炭素排出を減らすと宣言したとはいえ、外国からの査察は一切拒否したのである。

コペンハーゲン国連気候変動会議(COP15)での「失敗」、つまり、極めてがっかりさせられる結果を受けて、議論が再び沸騰した。 IPCCがやり玉にあがる一方、気候変動問題に関して国連で最も重要な貢整役であった国連気候変動枠組み条約事務局長が辞任した。国連というあまりにも大きな枠組み(192力国)で交渉をするのは何の役にも立たないという意見が∃-ロッパ側では広がったが、ほかの加盟国や新興国は参加国を制限するようないかなる会議の場も拒否した。翌年2010年にドイツのボンとメキシコのカンクンで再び会議が行われることになった。

②専門家は懸念材料として次のものをあげている。土壌、陸水と深層水、植物、食物、動物や人間などの生物体、および繁華街や住宅街の空気、プラスチック製品に蓄積されて、公衆衛生に脅威を与える(がん、循環器系の疾患、アレルギー)だけでなく人間の生殖機能にとっても危険性(生殖毒性物質)のある大量の化学残留物や殺虫剤などだ。

③飲料水不足の脅威は、上記の汚染や、人口爆発、都市の過度な集中化が原因であり、それにともなう水の大量消費によって引き起こされる(次項参照)。

④何年も前から改善する旨を公約に掲げ、2010年は国際生物多様性年であると宣言したにもかかわらず、急速に失われつつある生物多檜|生については、多くの人々が自分自身の未来と結びつけて考えず、さして懸念を抱いていない。だが、この状況は人類にとって深刻な脅威を予告する兆しである。絶滅の恐れのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約、1973年)とそれ以来発表された公約の数々机現代生活によって脅威にさらされた種の絶滅のペースを弱めることはほとんどなかった。
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「観光」について

『世界情勢地図』より

世界観光機関は国際観光について、人々が国境を越えた先で少なくとも24時間、仕事以外の理由で滞在する旅行すべてを指すと定義している。

20世紀後半になると、観光は大衆的な現象になるまで大きく発展した。交通網の発展、交通費の低価格化、余暇の延長、国境の開放などによって、観光は飛躍的に発展し、世界のグローバル化の一つの要素にまでなった。国際観光客は、1950年に2500万人、1980年には2億8000万人、1990年には4億4000万人と推移し、今日9億人以上を数えるまでになっている。国際観光業は、国内観光業をしのいで、GDP(国内総生産)の11%を占めている。

観光客の移動パターンは主に北から南へ向かうものであり、移民現象とは逆方向だ。また観光の場合、移民の場合ほど制限を課されない。世界一観光客が多いのは地中海圏であり、全観光客の40%を占めている。中央アメリカとカリブ海諸国などのメソアメリカ、そして中国の大規模な発展の恩恵を受けたアジア・太平洋圏がそれに続く。

観光はまさに、世界最大の非政府の経済セクターである。貧しい国々にとっても、観光業は重要で不可欠の経済活動だ。発展途上国49カ国のうち46カ国にとって、外貨獲得のための最大の手段となっている。同様に、観光は新興国や先進国にとっても非常に経済的な魅力を持つ産業活動である。観光客を受け入れる側の社会に、財政面でも、人とのつながりという面においても、雇用創出の意味でも、しっかりした効果を直接与えるのだ。だからこそ、2005年のクリスマスシーズンに起きた大津波の後、アジア諸国は、自国にとっての一番の援助とは、観光客が大勢戻ってくることにあると考えたのである。

観光に流れるお金は、非民主主義的な体制を敷く政権を安泰にしてしまうことになるのだろうか? いや、一国が観光のために門戸を開くということは、その国の人々を社会的にそれほど統制していないという証明にもなっている。独裁体制が強いほど、外国人が自国内に滞在することを受け入れることが難しくなるからだ。冷戦時代に共産主義国を訪れたごく少数の人々は、一般人と接触したり、最悪の場合反体制派に接触したりしないように、徹底的に尾行され監視されたものである。テロの危険性も観光業につきまとう大きな脅威である。テロ活動はその国の外貨収入の手段の一つを襲い、国を不安定にしようと目論んでいるからである。だが、いまや人々は危険に慣れてしまった。そもそもテロはどこにでも起こりうるものであり、西側諸国の都市であっても例外ではない。すでにニューヨーク、マドリード、ロンドンで経験してきたとおりだ。こうしてテロの危険性が社会の一部としてますます当然のように認識されるようになった。

同様に、衛生に関わるリスク、交通機関の事故、あるいはスポーツ活動やイベントでの事故などは、見た目は地味かもしれないが、実際にはテロよりもずっと危険をはらんでいる。

また、今後観光業に大きな脅威になるものがあるとすれば、環境を尊重しようとする動きが大きく台頭してくることだろう。観光地も旅行団体も、環境保護に適応しなければならなくなるはずだ。飛行機で大勢が移動するということは、環境汚染や公害の元凶だ。今後、もし航空輸送がエネルギー消費を抑えることができないようであれば、その代償は大きなものとして戻ってくるだろうし、何より地球温暖化に対する戦いの名において異議が唱えられるだろう。


・・・観光立国が専制政治から抜け出す手法です。これはチュニジア・エジプトで証明されようとしている。
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3ヶ月ぶりの出張です

未唯へ。

 折角のホテルなのに、1時間おきに起きています。

 未唯空間にまとめることと出すことの関係を夢で見ていました。その前が、存在と無です。

エッセイと未唯空間の関係

 やはり、エッセイを書くことと、未唯空間とは分けて考えます。未唯空間は社会のライブラリとして、特化して、進化させます。

 インスピレーション側ではエッセイは意識するけど、未唯空間の方はあくまでも五次元空間です。そして、無限次元です。

ネットワークのすごさ

 なぜ、ネットワークがすごいかというと、コラボレーションとライブラリとつながるからです。逆も言えます。コラボレーションとライブラリがなければ、ただの線です。コラボレーションとライブラリを生かすのは事務局です。知恵です。

答は自分の中にある

 パートナーも自分の中に答があることを自覚しないといけない。昨日の議論はそうことでした。

 単に同じ言葉で述べたくないという面もあるけど、むしろ、抽象的な概念ではなくて、それに対して、我々は何を考えて、何を言っていたから、こうなったのか、を述べることが役割です。

 まとまりがないように、自分でループしています。決めることです。

徳島でのミーティング

 9:30~11:30まで、社長とネットワーク会社のミーティングに参画。先方には、私が行くことは連絡してなかったけど、すんなりと入りました。

 E-電算からのDVDの内容の説明から入りました。一人のスタッフ、一台のタブレットでお客様に対応するというものでした。本当に、これが販売店での理想なのか。

 売る方が機械に頼って大丈夫なのか。それよりも情報をいかにユーザーに渡していくのかが、今後は必要だと感じた。我々はこんなことを知っているという信頼感がベースになります。

 販売店が変わる!というなら、大々的に電算部を説得しないといけない。その間の連中がなっていない。本来はメーカーが販売店に擦り寄らないといけないが、これが実態です。

コラボレーションの必要性

 徳島の販売店はさまざまな意見を発信している。それが販売店の意思になっていない。多くの販売店と語れる場が欲しい。現在はメーカーの役員などとFacebookで接続しているそうです。

 販売店とメーカーとのコミュニケーションの場が要ります。それぞれの立場を超えて、要望をハッキリさせる。それとメーカーの方が細分化されて、バラバラの方向を向いているのを一致させることも必要です。

やはり、ローカルから分かるしかない。

 我々は、変わるために最低限のコストでできるインフラは用意します。最終的には、徳島発で変わるしかないかもしれない。ローカルから変わるしかない。グローバルであるメーカーにいくら言っても、変わるはずがないです。

 複雑性の考え方では、周辺から変えて、核部分を変わることを提唱している。
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