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次期システムの設計を隠れて行います

環境も社会変革の中にある

 市民が主体的に考えて、それを企業と行政が支援して、NPOが行政んモノ申す世界です。

 その中に環境もあります。ただし、これはグローバルです。

 環境の技術で、環境問題は片付かない。市民組織、それも歴史を変えるような市民組織にしていくしかないでしょう。

 技術だけで片付けられるのか? 社会を変えずに、環境が片付けられるのか? 

環境問題と人口問題

 当然、人口問題も絡んできます。人が減れば、環境は良くなります。人口増加が環境のトリガーです。日本の場合は、日本人が減った分だけ、移民が増えます。そうしないと、社会が維持できない。そのバランスです。そのバランスの上に理念が要ります。

環境問題に企業を入れ込む

 環境問題の中に、企業を入れるのは簡単です。マーケティングを市民主体にすればいいだけです。CRMのような支援ではなく、商売そのものを変えていくのです。企業が存続ために必要な、底辺を変えてしまうのです。そのしないと、企業の末端は動かないです。大きなモーメントの元にいます。

 市民とのコラボレーションを作り上げた企業だけが残ります。市民とのネットワークと市民とのライブラリがそれを支えます。それらをつなげていくしか、生きる道がないようにしていけばいい。実際、そうなっていきます。

 マルクスの資本論の論理では立ち行かない。初めての市民が主役の世界です。それも革命ではない。歴史の変革です。

次期システムの勝手な設計

 次期システムの中に、グローバルの要素をどう入れるかです。

 できることの集合体で、次期システムはできません。それは個人的な趣味です。グローバルも含めて、全体を設計しないといけない。それを正しく行うためには、理念が必要です。理念の後ろには真理が必要です。

 私にとっての答というよりも、次期システムを含めた答は出ています。今回、一番重要なのはコミュニケーションをどうしていくかです。私にとってはコラボレーションですけど。

 あとは簡単に、安くするためのサーバーの配置、その意味ではライブラリです。それをコントロールする機能と人ですね。そこは作るところではない。

 次期システムのコスト削減でない部分について、ネットワークの使い方という口実で、関与していきます。くれぐれも、パートナーの邪魔はしないにします。

あいち環境塾のアクションプラン

 あいち環境塾もすぐに、アクションプランを示せと言うけど。アクションプランは現場が考え付くことです。現場でしか分からないことが多い。私がやるのは提案して、現場に気づいてもらうだけです。

 環境の人たちはやっている気になって、商売にしている。これは環境を述べている先生とかジャーナリストも同じです。むしろ、どういうカタチにしたらいいのかを、一緒に考えないといけない。

未唯空間の作られ方

 未唯空間は雑多なことから始まって、大筋を決めて、ロジックにした上で、そのなかに雑多なことを入れ込めるようにしています。

 どんな案でも、考えている自分のことを分析にして、それを基調にして、論理を展開すると言うのは、哲学以外にはない。それが重要です。そこから出た答にしても、将来性にしても、シナリオにしても。

販売店要望は正しい

 販売店内の教育を行っている部署とミーティングを行いました。そこには私の持っているニーズがすべてありました。情報の吸い上げもSNSも必要です。

 それに対して、パートナーとGMの反応は明らかに嫌悪感です。なぜ、素直に聞かないのか。自分たちで作らなくても、販売店の役員はFacebookでメーカーの役員とコミュニケーションしています。

 作るという世界ではなく、使う世界に入り込めば、済みます。本来の情報共有はもっと広くて、循環していると言ってますよね。素直になってください。

 ネットワーク会社もパートナーも自分の枠を決めないことです。大きな可能性を持っています。今は、制約の中にいる時でない。興味のままで拡大すればいい。
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ムバラク辞任後のエジプトの状況

『現地発 エジプト革命』より

エジプト革命の舞台となったカイロのタハリール広場は、ムバラク辞任から五〇日を経た現在、きれいさっぱりと片付けられている。しかし、広場に立って、目を閉じれば、まだ一〇〇万人の民衆が埋めつくして、「ムバラクは去れ」と繰り返した叫び声が耳に生々しくよみがえってくる。

ムバラク辞任の後、中東ニュースの焦点は、衝突が激化したバーレーンやリビアに移り、一ヵ月後の三月一一日には、東日本大震災が起こり、日本は中東どころではなくなった。

日本ではエジプト革命といっても、本当に革命だったのか、という疑問があるだろう。民主主義が機能している国からみれば、「民衆のデモに押されて、大統領が責任をとって辞任しただけ」と思うかもしれない。しかし、秘密警察をつかって国民を縛っていた権力者を、国民自身が立ち上がって追い出したことは、強権が幅をきかせる中東では、「革命」としか呼べない重要性を持つ。

この文章を書いている三月下旬に、私はカイロの郊外にあるブラクーダクルールという人口密集地の「人民委員会」を訪ねた。一月二八日のデモ隊と警察の大規模な衝突の結果、警察が姿を消した後、各地に住民たちが自衛のためにつくった委員会であゐ。

若者たちを中心とする人民委員会はムバラク辞任後も各地で存続している。ブラクーダクルールの若者のリーダーは「いまも週一回の会合を持っている」という。若者たちで地域の清掃をしたり、ゴミの収集などを行政に求めたりしているという。「警察との関係はどうか」と聞くと、「地元の警察署を訪れて、革命前に住民に暴力をふるうなどして住民から嫌われている警官について、地域外への配転を求めた」と語った。

民衆とムバラク政権下で人びとがどれほど警察を恐れ、警官がいかに横暴だったかを知っているだけに、民衆と警察の関係の変化に驚いた。人民委員会に公式の権限があるわけではないが、人びとに嫌われている警官は、もう地域で仕事をすることができないということだ。警官が地域に戻るためには、警官が姿を消した後、地域の治安を守ってきた地元の人びとがつくる人民委員会と話をつけなければならない。民衆の大規模なデモによって、強権の大統領を追い出したという経験を経て、エジプト人の中にあった警官への恐怖が消えたのである。

さらに四月初めの金曜礼拝の後、エジプト各地で前大統領を不正蓄財や民主化運動弾圧で訴追することを求める大規模デモが起きた。タハリール広場も民衆で埋まった。国民の間には軍が前大統領をかばっている、という見方が広がっていた。デモはさらに一週間後の金曜日にも予定され、「民衆対軍」という対立の構図が出てきた。

ところが四日後に、検察当局はシナイ半島の保養地シャルムエルシェイクの宮殿にいるムバラクと息子二人に対する拘束と尋問を開始した。入院中の前大統領は病院内での拘束となったが、息子二人は、かつて政治犯が入れられたトラ刑務所に収容された。辞任から二カ月かかったが、全権を握る軍も、革命の完遂とムバラク時代の清算を求める民意には抗えないという状況を浮き彫りにした。

私は一九七九年にアラビア語を学び、アラブ世界の歴史に関心を持つ大学生として、カイロ大学に一年間、籍をおいた。大学卒業後、朝日新聞に入社し、一九九四年にカイロに赴任した。それ以後、カイロには通算一〇年駐在した。私は中東でもエジプトほどジャーナリストに興味深いテーマを与えてくれる国や社会や国民はないと思ってきた。ただ、ムバラク体制下では、強権体質、民主主義の欠如、権威主義的な政治体質、非効率な行政、腐敗の蔓延など、政治は最低だった。同時に、エジプト人はそんな政府や権力に対しては弱腰すぎると思ってきた。

しかし、一月二五日以後の出来事をつぶさに見て、エジプト人に対する見方が変わった。さらにエジプト革命とその後の政治的な進展の検証という、ジャーナリストにとっての新たなテーマが加わった。

・・・去年の7月初めにエジプトへ行った時に、市民と警官の軋轢を感じた。通訳のアムロさん(男性)からは市民側の立場から、専制政治の悪さと、それに抵抗する趣旨のことを聞いていた。
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