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未来の息子たちへ。

『息子へ。』より

あの震災と事故の後、海外に住む多くの知人から、僕や家族、友人を心配するメールが届いた。日が経つにつれ、長文の英語を読んで、英語で返すということが、失礼ながら面倒くさくなって、「大丈夫。癌になる可能性が1%くらい増えただけだから……」などと乱暴な返事をするようになってしまったが、遠く離れた日本に住む僕らを、心配する想いを有り難く感じた。驚いたのは、彼らの多くが、日々刻々と変化する、事故の状況を詳しく知っていたことだ。インターネットによって、彼らは遠く離れた日本の情報を知ることができる。状況が悪化するようなことが起これば、すぐに、そのニュースは彼らに伝わり、暫くすると、僕にメールが届く。ときには、僕のほうが情報を得るのが遅いこともあった。

この数十年で、僕らの目や耳、口や手足は、科学技術によって拡張されたと言える。本来なら見ることのできない遠くの景色を見ることができ、本来なら届かない声が届くようになった。ニューヨークの交差点の様子をリアルタイムで眺めることもできれば、オーストラリアに住む友人の日記を読むこともできる。インターネットに限らず、様々な技術によって、世界は身近になったと言える。しかし、技術によってその「範囲」は広がっていく一方だが、僕らの「心」はどうだろう。技術による「範囲」の広がりに「心」は追いついているのだろうか。僕らは、どこまで「心」を配ればよいのだろう。

僕がちょうど息子と同じ中学生の頃、「ウィ・アー・ザ・ワールド」という、アフリカの飢餓を解消する目的で作られたチャリティー・ソングが世界中で響いていた。まだ子どもだった僕の視界は、その歌で広がった。「私たちはひとつだ」と、世界規模の「範囲」で考え、行動することを教えてくれた。しかし、あれから30年。―世代を経るうちに、もっと広い「範囲」で捉えることが必要だと、僕らは深く知らされた。心を配るべき「範囲」は、この世界に住む人々、人類だけではなくなった。

地球環境―僕らは「地球」というシステムの上で生きている。「人々」という「範囲」を考えるだけでは、僕らは長<生きてはいけない、ということを知った。虫も鳥も魚も森も海も、すべてが繋がっている。微生物から大気まで、すべてが繋がって「地球環境」があり、僕らの暮らしが成り立っている。自分の国だけでも、世界の人々だけでもな<、地球上のあらゆるすべてが繋がっており、そこまで心を配らなければ、僕たち人類は、地球環境から追い出されてしまうだろう。もちろん、一世代前にも環境問題を唱えていた人は多<いたが、僕ら市民のレペルでそれを深く認識したのは、たったこの20~30年だと思う。地球のシステムを学習し、心を配るべき「範囲」が広がった。

それでは、これからの世代、どういう「範囲」で、心を配るべきなのだろう。それは「時間軸」であると僕は思う。世代を超えて、心を配ること。いま生きていることを過去の世代に感謝し、これから生まれてくる先の世代を想うこと。この本の文章の中で、僕はこう書いた。自分の世代より先まで影響を与えてしまう可能性があることには手を出しちゃいけない」

毎日、様々なニュースが流れてくる。廃炉に数十年。セシウム137の半減期が30年。そして、放射性廃棄物は数百年、数千年、数万年と管理を続けなければならないという。そんな「お荷物」を、先の世代の人々はどんな気持ちで受け入れるのだろう。7代先を想うどころか、もっと先の子孫にまで、リスクやコストといった、原子力利用の「後始末」を押し付けて、僕らは暮らしている。

いま、僕らが心を配るべき「範囲」は世代を超えた未来だ。科学技術がいくら進化しようと、未来を眺めることはできないだろう。しかし、僕らは未来を「想像」することができる。遥か先の世代を想うことができる。

ただ、たった一つ、なるべく広い「範囲」に心を配ろうと提案したい。想像力や思いやりの欠如は、身を滅ぼしてしまう。せめて、数百年先の未来。人類が、この地球に存在していることを願うばかりだ。心を配ろう。未来の息子たちへ。
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