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なぜ、虚構は消えないのか

『民族という虚構』より

なぜ、虚構は消えないのか。大脳生理学の実験や心理学の研究が示すように、思考や感覚が脳内で生まれる時点ですでに虚構が介入する。様々な錯覚のおかげで知覚が可能になっているつまり、精神活動の基本プロセスにすでに虚構生成機能が組み込まれており、虚構なしに人伺は生きられない。オリバー・サックスの患者がバラの花に対して見せた反応を思いだそう。確信に至るとき、データの集積と合理的判定を超える何かが生まれている。との質的な飛躍を埋めるのが虚構である。理性から信仰への飛躍がここにある。

貨幣や贈与の機能にみるように、集団現象にも必ず虚構が介在する。そして虚構のおかげで、個人心理の現象と社会制度との間に循環構造が成立し、システムが安定する。微視的な脳の仕組みから、巨視的な歴史・社会現象に至るまで、虚構と現実は不可分に組み込まれている。

道徳や正義も虚構の産物だ。哲学者に判断できない難題でも、我々素人には簡単に答えが見つかる。それは、歴史や文化を貫通する根拠が存在しないからだ。普遍的真理が存在しないからだ。

政治哲学の有名な例を出そう。電車が来だのに気づかず、工事を続ける人がいる。電車はブレーキが故障し、このままだと、工事に従事する五人が死ぬ。危険に気づいた駅員は転轍機を操作して、電車の進行方向を変えようとするが、そちらの線路にも工事関係者が一人いて死ぬのは確実だ。駅員はどうすべきか。五人を救うために一人を犠牲にすべきか。あるいはそのまま放置して、五人が死ぬにまかせるべきか。

次の状況と比較しよう。五人の患者が死の瀬戸際に瀕している。移植手術以外に、彼らを助ける手段はない。患者の二人は肺が必要であり、他の二人はそれぞれ腎臓がいる。そして残りの患者は心臓移植をしないと死ぬ。その時、偶然来院した健康な男性の血液検査の結果が知らされる。五人の患者との免疫適応度が非常に高い。健康な男性をI人殺して臓器を摘出すれば、五人の患者を救える。医師はどうすべきか。一人を殺して五人を救うために転轍機を操作する事例と、どこが違うのか。哲学者はいろいろな提案をする。しかし、専門家の間でさえ合意は得られていない。

ウィリアム・スタイロンの小説『ソフィーの選択』に劇的な場面が出てくる。アウシュヴぃッツでのこと。強制収容所前で「選別」を待つソフィーは、男女二人の子供を連れている。そこを通りかかったナチの軍医は、彼女に恐ろしい提案をする。「子供のどちらか一人だけなら助けてやる。どちらかを選べ」。初めはこの理不尽な選択を彼女は拒否する。しかし、「もういい。二人とも向こうに送れ」と部下に告げる軍医の声を聞いて、ついにソフィーは発作的に、「娘を連れて行きなさい」と叫んでしまう。こうして、息子の命を救うために娘が犠牲になる。

ソフィーはどうすべきだったのか。この状況で彼女に与えられたのは二つの可能性しかない。一つは、どちらかの子供を犠牲にして、残る子供の命を救う道。もう一つは、選択自体を拒否して、子供が二人ともガス室で殺される道だ。ソフィーは選択をし、一人を救った。子供が二人とも殺されるなら、一人でも救う方が合理的だ。しかし、当人にそのような発想はできない。彼女は一生、凄まじい良心の呵責に悩まされる。

ナチスードイツの降伏時、対独協力者として一万人以上のフランス人が、裁判を経ずに処刑された。無実の人間が混じる可能性を知りつつも、レジスタンスの指導者は処刑を許した。そうしなければ、復讐や内戦が各地で起き、もっと多くの犠牲者が出る恐れがあったからだ。

妊娠中絶・脳死・臓器移植・クローン・安楽死・死刑制度など、どれをとっても合理的根拠は存在しない。議論を尽くすことは大切だ。しかし、どこまでいっても究極的な根拠は見つけられない。この答えが正しいと、今ここに生きる我々の眼に映るという以上の確実性は、人間には与えられていない。判断基準は否応なしに歴史・文化・社会条件に拘束される。道徳や規範は、正しいから守られるのではない。共同体に生活する人々が営む相互作用の沈殿物だから、それを正しいと形容するだけだ。その背景には、論理以前の世界観が横たわる。倫理判断は合理的行為ではない。信仰だ。

カントは神の存在を前提する。この仮説なしに道徳は理解できないからだ。我々は、社会が個人とは別の存在であることを前提する。そうしなければ、道徳の根拠が失われるからだ。義務を結びつける拠点がなくなるからだ。(……)現実の世界において我々以上に豊かで複雑な道徳的実在性を持つ主体は、私にはIつしか見つからない。それは集団だ。いや私はまちがっているかもしれない。同じ役割を果たしうる主体がもう一つある。つまり神だ
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創発基点型 走りながら考えよ!

『経営戦略パーフェクトセオリー』より

創発基点型 走りながら考えよ!

組織形態・各社員が常に考える「学習する組織」を作る

 従来型のピラミッド組織は、上意下達の指示命令系統であれば有効に働きますが、逆に意図せざる成果を生むようなスタイルではありません。したがって必要となるのは、現場側に権限を委譲する組織スタイルです。意図せざる成果を生むには、現場に一定の権限委譲をし、社員1人ひとりが常に考えるような「学習する組織」を実現することです。

試行錯誤しながら知恵を絞り、意図せざる成果を生み出す

・不確実性の高い状況では効果的

 基本思想は、「走りながら考える」の一言に尽きます。実行と同時に、リアルタイムで考えるという戦略です。どんな会社でも将来はわからない以上、こうした試行錯誤は何らかの形で無意識で行なっているはずであり、それを戦略手法として実施するということです。

 したがって、現場サイドによる事後的な戦略ということになります。現場で試行錯誤を行ないながら学習し、新たな知恵を創り出し、それによって「意図せざる」成果を生み出すということです。きわめて直観的な色合いが強い手法ということがいえるでしょう。

 活用場面としては、やはり不確実性が高い状況ということになります。不確定要素の大きい先端的業界ではとくに有効でしょう。もちろん、どんな会社であっても将来が確定しているわけではないので、究極的にはすべての場面に使えるということになりますが、時間もコストもかかる手法のため、留意が必要です。

・創発基点型のデメリット

 ●どうしても非効率になる

 1点目は、効率という点ではどうしても悪いものになるということです。試行錯誤を繰り返すということですから、時間もコストもかかって当然です。社員間のノウハウ共有によって知識を創造するということになりますから、人材も余裕をもたせておくことが必要です。失敗も許容しなければなりません。

 立ち上げ段階のベンチャー企業であれば、余裕も何もない中で、「いいからがんばれ!」と人の2倍も3倍も働くということで対応していくわけですが、それはいつまでも続けられるものではありません。

 継続的にこの戦略手法をとるとしたら、組織として資源の余裕をもたせるという意思決定をしなければなりません。先ほど、経営資源に余裕を持たせて柔軟性を生む組織スラックという概念を説明しましたが、「冗長性」ということが、この戦略タイプの特徴でもあるわけです。効率性とは正反対の思考が必要ということです。

 しかし、「意図せざる」成果を生むために余裕をもたせるという意思決定は、経営者としては、実際問題なかなかとりにくいはずです。目先の収益を落とすという判断はなかなかとりにくいものです。社外の投資家や取引先からは、批判が寄せられるかもしれません。その意味で、この戦略を貫くには経営者には相当の覚悟が求められるということになります。

●無秩序になることもある

 2点目は、ただの無秩序に陥る可能性があるということです。前提となる環境条件をセットしたらあとは現場サイドの創発に任せるという形になります。成果主義もとりませんので、事前に明確な成果で縛るということもしないわけです。下手をすると、誰も責任をとらない中で無秩序に堕すだけということにもなりかねません。

 そのため、こうした手法の有効性に疑問を呈する研究も少なからずあります。たとえば、クロスファンクショナルチームのように多楡匪をもったグループワークも、メンバー間の人間関係を重視しすぎることによって、決して革新的なものを生むことにつながらないという研究結果もあります。

 そこで必要となるのが、経営サイドの関与です。いままでは、前提となる環境条件をセットしたらあとは現場に任せるしかないと書いてきましたが、そうはいっても完全な放任であっては、「意図せざる」成果は生まれないということです。

 むずかしいことをいっているのではありませんし、妙なマネジメントの仕組みを作ることを求めているわけでもありません。適宜ミーティングの状況をヒアリングする、たまにはミーティングに顔を出してみる、メンバーを飲みに連れて行く、そんなことで十分です。そのようなちょっとしたコミュニケーションがきわめて重要なのです。

 「そんなこと当たり前だろ」とお叱りを受けそうですが、その当たり前のことが、忙しさにかまけてついつい忘れられがちになるものです。経営サイドのみなさまには、ぜひお忘れなきようお願いしたいものです。
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アフリカの大疑問 ソーシャル社会

『アフリカの大疑問』より

いま、政権を覆す「ソーシャルメディア」のパワーとは

 2010年から11年にかけて、アフリカ・中東のアラブ圏を中心に独裁政権の打倒をめざす民衆蜂起が相次ぎ、チュニジアやエジプトでは体制転覆が実現した。

 軍事力を後ろ楯にした強固な支配体制が敷かれていた国々で、いかにして民衆革命は成功したのか。
その大きな原動力になったのは、「ツイッター」や「フェイスブック」といったソーシャルメディアだ。ソーシャルメディアが、多くの市民が団結し、行動を起こすのに一役も二役も買ったのである。

 ツイッターは、インターネット上で140文字のごく短い情報を不特定多数の人人に発信したり、ほかの人の情報を読んだりできるサービス。フェイスブックは、アメリカのフェイスブック社の提供による、6億人もの会員を有する世界最大のSNS(ソーシャル・ネットワーキングーサービス)で、会員同士の情報交換や画像・動画の投稿などが可能だ。

 これらソーシャルメディアの最大の特徴は、不特定多数の人々への情報発信が誰でも簡単にできる点にある。その伝わり方はウイルスの伝染の様子に似ているため、「バイラル(ウイルスのような)」効果と呼ばれる。

 こうした情報発信の担い手は、かつてはマスメディアだけだった。したがって、政府がマスメディアを支配し情報操作しているような国の場合、市民はなかなか真の情報を得られなかった。また、市民がまとまって行動を起こすにしても、政府の検閲にあって情報を共有できず、団結するのが難しかった。

 しかし、ソーシャルメディアの登場が事態を一変させた。ツイッターやフエイスブックは、携帯電話さえあれば、簡単に情報の受発信ができる。市民はこれを利用して情報を効率的にやり取りし、反政府の世論を作り上げ、盛り上げた。そして街に大挙して集まり、デモを繰り広げたのである。

 民主化運動をつぶそうとする政権側は、ツイッターやフエイスブックを利用させまいと、国内のインターネット業者に接続を遮断するように命じたり、利用者のアカウント情報を消去したり、居場所を突き止めるハッキング活動などを行なった。しかし結局、市民の情報共有を止めきれなかった。

 アフリカには、独裁的な国家が存在する。そうした国の指導者はソーシャルメディアによって市民が真実の情報を得ることを恐れているといわれる。ソーシャルメディアは、体制転覆をも可能にする、アフリカの人々の強力な武器になったのだ。

携帯電話の普及率が6年間で900%も伸びた理由

 アフリカやアジアを中心とした発展途上地域で大幅に普及率が伸びているのだ。
とくにアフリカの伸びがすごい。アフリカの携帯電話加入者数を見ると、2003年の約5300万人から09年には約4億6800万人にまで拡大している。なんと約900%という驚異的な伸びだ。しかも、これでも47%の普及率に過ぎないのだから、今後さらに伸びていくことはまちがいない。アフリカは世界でもっとも成長の速い携帯電話市場といえるのである。

 それにしても、なぜここまで急速に普及したのだろうか。

 その理由のひとつには、アフリカの固定電話の普及率がわずかI%に過ぎないことが挙げられる。固定電話の場合、電線網を張りめぐらす必要があり、設置コストが高くつく。そのため、なかなか普及は進まなかった。

 いっぽう携帯電話は、アンテナを立てて中継基地をつくるだけでネットワークを構築でき、アフリカの広大な土地でも容易にカバーできる。そうしたシステム上の優位性を活かして、携帯電話は普及していったのだ。

 ふたつ目の理由は、プリベイドカードの導入だ。お金を払ってカードを買い、払った金額分だけ通話できるというシンプルなしくみを導入したことで、低所得者でも手軽に携帯電話をもてるようになった。
そして3つ目の理由は、携帯電話を使った送金サービスである。アフリカでは銀行の支店網やATMの普及が十分に進んでいない。したがって、都会や外国へ出稼ぎに出た人が仕送りするさいには、手渡ししたり郵便を利用する以外に方法がなかった。それが携帯電話に組み込まれた送金サービス機能によって、手軽に送金できるようになったのだ。
携帯電話の普及は、アフリカの社会に大きな変化を生んだ。たとえば農村では、これまで多くの農家が仲買人の言い値で農作物を売っていた。
しかし、携帯電話で適性価格を知ることができるようになり、妥当な金額で取引できるようになったのである。
仲買人のほうも、事前に農家に買い付けの日程を連絡できるようになり、待ち時間が節約されるなどコストダウンにつながっている。
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アラブ民主化の原動力になったユースバルジ

『地球クライシス』より

アラブ民主化の原動力になったユースバルジ

お椀ボートを漕いだことのある人は、オールを支えている部分の両舷が外側に膨らんでいるのを知っているだろう。この部分のふくらみを「バルジ」という。人口ピラミッドは、本来の富士山のような形だったのか、ペビーブームや少子高齢化などで、かなりデコボコしてきた国が多い。とくに、若者(ユース)の人口か膨らんで(バルジ)くると、活動力、闘争力、情報力の旺盛な若者か増えることで、戦争や社会不安が増大するという。これは「ユースバルジ」理論としてもてはやされている。最近のアラブ諸国の激しい民主化の動きは、まさにこの理論かぴったりあてはまる。

アラブ諸国で民主化運動のドミノか発生するとは、専門家でも予想する人は少なかったのに違いない。だか、長期政権への不満、汚職の蔓延、コネの横行、失栗者の急増、貧富の格差、食料価格の高騰、といったさまざまな欲求不満が渦巻き、一触即発の状態になっていた。こうした社会的不公平や不安にさらされた「ユースバルジ」世代のエネルギーが、ついに臨界点に達した。

発端は二〇一〇年一二月半ば、野菜を売っていたチュニジアの失業中の若者か警察官に嫌がらせをされ、抗議の焼身自殺をはかったのがきっかけだった。これかインターネット、ツィッター、フェイスブックなどで広まり、若者がしだいに過激化してデモや暴動に発展した。二三年にわたって権力をにぎってきたベンアリ政権は、あっけなく崩壊した。

アラビア半島、東地中海、北アフリカに広がるアラブ圏は、民族ではなくアラビア語を共通言語とする国々である。情報の共有化が一挙に進んで、同じ不満を抱えるエジプト、アルジェリア、イエメン、ヨルダン、バーレーン、リビアなどでも民主化を求めるデモが連鎖的に発生した。

米国の全面支援で安泰と信じられていたアラブの盟主、エジプトのムバラク大統領も、ついに政権を投げ出した。ただ、リビアでは、政府軍と反政府勢力の抗争か激化して、市民の大量虐殺を恐れた欧米が政府の軍事施設を空爆して本格的内戦に発展した。

これらの国でも、反政府デモや抗議の焼身自殺か相次ぎ、警察や軍に対する不法逮捕や拷問などへの怒りが高まり、大規模な反政府デモに発展した。これの国々の多くは二〇世紀前半に植民地支配から独立した後、軍や軍人出身者が政権を握って民主化の動きを抑え込んできた。世界最大の油田地帯を抱え、西側諸国は東西冷戦時代に旧ソ連への対抗上、軍事政権や王族政権を積極的に支持してきた。

このために異常な長期政権がつづき、エジプトは二九年、リビア四一年、シリアは親子で四〇年も大統領の職にとどまり、サウジアラビアは一九三二年の建国以来サウド王家が支配してきた。

かつて、カーター米大統領の国家安全保障問題担当補佐官だったブレジソスキーは、次のように語ったことかある。

 「革命の時限爆弾のように、(若年化する)人口か中東を待ち受けている。現在、社会的に不安定な下位中流層出身の若者が世界全体で八○○○万~一億三〇〇〇万人いて、怒りと情熱と欲求不満と憎しみを互いに伝え合っている。学生か中心である彼らは、革命家としての出番を待っている。彼らか怒りを爆発させれば、それはネットを通じて一気に伝染するだろう」

ただ、権力者を追い出しても、これら多くの国には有力な野党が存在せず、民主的な国家が再建できるか不安が残る。大統領や国王らの権力者の首をすげ替えるだけでは、若者は納得しないだろう。イラクが好例だ。米国はイラク戦争のはてに旧政権党を排除して新国家建設を目論んだが、混乱は収まりそうにない。民主化したはずの中東諸国でも、独裁政権が倒れたあと、長期にわたって混乱がつづくことにもなりかねない。
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