みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神の恵みが土台にあって

2014年04月24日 | テトスへの手紙

テトスへの手紙3章


 早朝にいつも立ち寄る公園では、藤が開花しました。もう少しすると甘い香りに誘われて蜂たちが藤棚を飛び回る様子が見られることでしょう。

 テトスの手紙はきょうが終章。
 福音を信じて歩む教会にとっては良い環境とは言えない場所で、キリスト者はどう歩むかが、この手紙の主要なテーマです。3章にも、「支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者」となるように、また、「すべての人に優しい態度を示す者」となるように教えよと、パウロはテトスに命じます。

 ちょっと読むと、みんなにいい顔をするようにというように受け取られかねませんが、違います。むしろ、知恵と忍耐が必要な態度であると思うのです。政治家が悪い! リーダーが問題だ! ひっくり返せ! と叫ぶ人々といっしょになるでもなく、指導者たちに盲従するでもなくキリスト者としての良心に照らし合わせつつ、社会にあって良いわざに励むというのは、緊張を強いられる歩みです。

 気づくのは、この手紙には、イエス・キリストがおいでになって私たちを救い、今をどう歩むか、そして先に何が待っているのかの教えがちりばめられているということです。それがなかったならば、パウロがテトスに与えた命令は、どのように教会をマネジメントしたらよいのかを指南しているだけのものにすぎません。

 「ああする、こうする」の土台に、キリストによって明らかにされた神の恵みがどっしりとあるというのが、私たちの社会生活だということを忘れない…、今回の通読で強く教えられたことです。
     


この時代にあって

2014年04月23日 | テトスへの手紙
テトスへの手紙2章


 きょうの「みことばの光」本文3行目に、「テモテはどのように指導するべきであったか…」とありますが、正しくは「テトスはどのように指導するべきであったか…」です。おわびし、訂正いたします。

 テトスは、「昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう」(1章12節)と揶揄(やゆ)されていたようなクレテ島で、キリストを信じて新しい歩みを始めた人々に、キリストにあって歩むとはどのようなことなのか、世代や立場にふさわしく教え導かなければなりませんでした。

 「この時代にあって」ということばに目が留まります。
 救い主はこの時代にお生まれになり、歩まれました。イエスが当時の特に指導的な立場の人々と衝突しておられたのは、時代の主流に「そうではない」と新しい生き方を示されたからです。そして、表向きはこの時代に飲み込まれて十字架で殺されてしまったかのようです。そうではありません。

 時代はいつも、キリスト者が大切にしているものを踏みつぶせるほど力で挑んできます。抗う(あらがう)よりは、飲み込まれ、流されるほうがどんなに楽か…と思うこともあります。

 けれどもそうしないのは、キリストが十字架にかかられたから、キリストが復活して今も生きておらるから、やがて再びおいでになってすべてを支配されるという希望に生きているからです。
      


敬虔にふさわしい真理の知識

2014年04月22日 | テトスへの手紙
テトスの手紙1章


 きのうは、ピロリ菌除去の結果を見る呼気検査を受けに、宇都宮に行きました。ピロリ菌とはユーモラスに聞こえますが、胃の中で悪さをする厄介な細菌。妻は除去が成功しましたので、私も…と期待しています。

 帰り道、高速道路の渋滞に遭遇。「抜け道派」の私は早速北関東自動車道に入り、足利を通って戻ることにしました。足利といえば「あの最中!」と気持ちが一つになって、売っているはずの支店に向かいましたが、そこはすでに和菓子店の工場になっていました。あきらめて帰りかけましたが、「本店に行こう」と道を戻りました。
 久しぶりでゲット!。長いのと四角いのがありますが、改めてよく見ると同じ大きさなのです。「当たり前!」と言われるようなことに、やっと気づきました。

 きょうから三日間、「みことばの光」ではテトスの手紙を読みます。
 「テトスだけが読んだ手紙だからいいようなものの…」と「みことばの光」に書いてありますが、今や世界中の人が読んでいるのですから、クレテの人々はどう思っているのだろうかと心配になります。

 心に留めたのは、パウロのはじめの挨拶にある「敬虔にふさわしい真理の知識のために」ということば。ここをある英訳聖書は「敬虔にみちびく真理の知識」と訳します。
 12節にあるような人々の中に福音を伝え、教会が誕生しますが、気をつけていなければすぐに飲み込まれてしまいます。教会の指導者にも、いや指導者だからこそ影響は大です。

 イエス・キリストを信じるということは真理の知識を得たということ。イエスへの信仰は、人を敬虔な歩みへとみちびき、実を結ばせます。世の中が大変だから福音は届かないと考えるのではなくて、世の中が大変だから福音を届けると発想を変える必要があることを、12節のことばが教えています。
      


旅路にある間、いつも

2014年04月21日 | 出エジプト記
出エジプト記40章16-38節


 今朝は満開です。Photo_2
 イースターはどのようにお過ごしになりましたか。
 通っている教会では、ひと足お先に「イースター子ども集会」を土曜日に持ちました。
 エッグペイントを楽しんだあと、「復活はびっくり!」というイースターのお話。時を捕らえてみことばを届けます。たくさんの子どもたちとともに、ご家族もお見えになって良い時間を持つことができました。

 「みことばの光」では、イースターを挟みましたので、出エジプト記の最後の箇所が離れ小島のように残ってしまいました。きょうで終わりかと思うと寂しいですね。

 ここで目につくのは、「主がモーセに命じられたとおりである」ということばの繰り返し。このことについては16日のブログで触れました。 
 心に留めたのは、「旅路にある間、いつも」という一言。エジプトを出て荒野を旅する民は、雲が幕屋の上から上ったときには旅立ち、雲が上らないと、上る日まで旅立ちませんでした。「ああ、そうなのか」とわかったつもりになっていましたが、よく考えるとこれは大変なこと。雲が何日もとどまっているならば、天候が良くても自分たちが出かけてウズウズしていても旅立たないのです。彼らが進むか止まるかは、彼らの判断によってではなくて、主の心だけによっていたということなのですね。

 私たちにとってこれは、神がともに歩んでくださっているという約束を信じて、神のことばをいただいて「進め」ならば進む、「止まれ」ならば止まるということです。みことばによらずに日々を歩もうとする無謀さに対する警鐘でもあると、読みました。

 「みことばをください」と神に願います。旅路にある間、いつも…
      


ただそれだけを…

2014年04月19日 | 出エジプト記
コリント人への手紙第一 15章12-19節


 冷たい雨が上がり、春の陽射しが部屋に差し込んでいます。
 一雨ごとに暖かく…と言われますが、この時期は一日のうちにさまざまな花が咲くので目が離せません。いつの間にかハナミズキが満開になりました。桜前線は現在東北地方南部を北上中。この時期の北への旅は、お花見が何度もできて楽しいでしょう。

 きょうの箇所には「もし…」が7回登場します。
「(もし)キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、…」(12節)
「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。」(13節)
「そして、(もし)キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教はむなしいものになり、あなたがたの宣教も…」(14節)
「もしかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが…」(15節)
「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。」(16節)
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、…今もなお、罪の中にいる」(17節)
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者」(18節)

 復活を否定する人たちは、福音に真っ向から反対しているのだということを、パウロはここで訴えています。
 「福音を知らせましょう」とこの章をはじめたパウロは、福音とはキリストの復活なのだと明言するのです。この箇所について、ある注解者は、「使徒たちは、何かすごいことが起こった。それは神がキリストをよみがえらせたことだ、と人々に語った。…使徒たちのしてきたのはただそれだけ、キリストは復活した、すごいことが起こったと語っただけだった。」
 痛快です。すごいことが起こった。キリストは復活したのだと驚きと喜びをもって伝えているのかと、強く問われます。
    


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