みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

折にかなった助言

2014年01月25日 | 出エジプト記
出エジプト記18章


 熱心なファンではありませんのでとお断りしてから述べますが、今月の大相撲での稀勢の里はほんとうに残念でした。横綱挑戦にうってつけの場所だと言われて始まってみると、ボロボロと負けが込んで13日目を終えて勝ち越しらできていません。怪我も重なりました。久々の日本人横綱誕生か! との期待が重圧になっていたのかもしれませんね。

 しゅうとイテロの訪問は、荒野を旅するイスラエルの民にとって、とりわけ指導者のモーセにとって折にかなったものでした。何よりも、妻や子どもたちとの再会はモーセを力づけたことでしょう。そして、主のみわざを聞いたイテロが主をほめたたえたのを、モーセは喜んだことだろうと想像できます。

 さらに大切なのは、イテロがモーセに助言を与えたことです。
 「あなたのしていることは良くありません」とイテロは明言します。おそらくモーセ自信も感じていたことでしょうが、指導者として神の声を一人で聞き民に伝える立場にあったゆえに彼には重圧がかかっていたと想像できます。「みことばの光」にあるように、そのような場合には外部の助言者が必要でした。しかも、これから先ずっと荒野を旅しなければならない民のためにも、荒野での生活に熟知するイテロの一言は何よりも大切な助言だったことでしょう。

 モーセはイテロのことばをすべて言われたとおりに受け入れます。しゅうとだから…? 彼は、神がイテロを自分のために遣わしてくださったことを受け入れたからでしょう。
     


主の命により

2014年01月24日 | 出エジプト記
出エジプト記17章

 この章には、モーセを悩ませる民と、モーセとともに戦う人々が登場します。

 過越を体験し、海の水が分かれる中を歩き、苦い水が飲めるようになるのを見、マナとうずらを食べた民。水がなければ、これらを与えられた主に期待して祈り求めればよいのに、ここでも彼らはモーセにつぶやくのです。学ばない人々です。

 「主の命により」ということばを心に留めました。
神を信じる人は、「みこころ」ということばを使います。それを自分に都合がよいか悪いかということを測るものとしてはいないだろうかと問われます。

 神の命令によって旅立ち留まったのだとしたら、水が出ない所にいるのは「みこころ」です。そこで大変なことが起こったら、しかもあれほどのことを体験してきたのならば、彼らがすることは一つ。主に信頼して求めることです。しかしそうではありませんでした。
民によって殺されかかっているモーセは、ここで悩みを神に訴えます。神への道を持つ者がいることが窮地を救うのです。

 「主の命によってここにあるのだから…」と、どーんと構えているようにと教えられます。
それにしても、神はなんとあわれみ深いお方なのでしょうか。



マナを食べた

2014年01月23日 | 出エジプト記
出エジプト記16章22-36節


 うっかりしていましたが、きのう1月22日はこのブログの開設記念日でした。「みことばの光的毎日」も3歳になったということです。これまでの記事数は932、ブログを訪ねてくださった方の累計はおよそ46,000ほどになります。「みことばの光」をお使いになっての聖書通読のわずかな支えに…と願って始めたのですが、「三日何とか」の私のこと、こんなに続くとは思いませんでした。

 さて、きょうの箇所で心に留めたことばは、「彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた」です。イスラエルの民は、約束の地に入るまで四十年間天からのマナを食べ続けました。神が与えられたものでずっと養われたということです。安息日のためには、前日に二倍のマナが与えられます。「みことばの光」には「マナを集めるという労働からも開放されて、礼拝に集中し、主の安息を楽しむことができる」とあります。荒野での生活から、民は六日間一生懸命働き、一日を安息日として過ごすという生活が身につくようになります。

 そしてキリスト者は、週の始めの日を主の日として、これまた労働しないで神を礼拝するために用いていると受け継がれます。
 考えてみますと、キリスト者も約束の地をめざしての途上にあります。自分たちで働き、耕し、対価を得て生活しますが、突き詰めると神が与えられるマナを食べています。実際の食べ物も主が備えてくださったものです。
 さらに私たちは、神のことばを日々いただいて歩んでいます。そのようにしなければ枯渇してしまいますから…。恵みのうちに、開こうと思えば開いて読むことのできる聖書が与えられているというのは、まさにマナを食べ続けることから通じます。
 きょうの「マナ」は、さてどんな味がするでしょうか。
   


集めたい気持ち

2014年01月22日 | 出エジプト記
出エジプト記16章1-21節


 寒さの中にも、陽射しの力強さを少しずつ感じるようになりました。雪の多い所にお住まいの方は、とんでもない! と思われることでしょう。春が待たれます。
 
 「水がない」に続き、今度は「パンがない」と来ました。
 聖書を持つ私たちは、この出来事の顛末(てんまつ)を知ることができますが、いざ自分の身を荒野を旅するイスラエルの民の一人だと置き換えて考えますと、大変だっただろうと思います。そして、彼らを連れ出した(実際には神がなさったことなのですが…)モーセとアロンは、どんなに大変なところに立たされただろうかと想像します。しかし、二人の指導者は、ここでも神のことばを民に届けるという務めに生きています。

 このような中で、民はエジプトに帰りたい気持ちを表しました。こんなところで飢え死にするなら、パンや肉をあてがわれていた奴隷のままの方が良かったということです。彼らには、自分たちが神への信頼が問われているのがわからないのです。

 神は彼らに、夕には大量のうずら、朝にはパンを降らせてくださいました。その日の分を集めるようにとのことばともに…。
 このような中で、民は多く集めたい気持ちに駆られました。こんな荒野できょうの分だけしか集められないのは不安だと考えたのです。彼らには、神が自分たちを養っておられるのがわからないのです。

 主イエスが教えられ、多くのクリスチャンが親しみ祈り続けている「主の祈り」に、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」とあります。この祈りは、「自分が働いたので食える」という縛りから私たちを解放し、働くことの本来の意義へと引き戻してくれます。日ごとの祈りです。
   


たった3日で

2014年01月21日 | 出エジプト記
出エジプト記15章


 分かれた海の水の中を歩いて脱出するという劇的な勝利を賜ったモーセとイスラエル人は主を賛美します。15章1-21節には、神への賛美と感謝が美しく、かつ力強いことばで連ねられています。これで、イスラエルは何があってもだいじょうぶ、と言いたいところですが、彼らの喜びと賛美は三日間しか持たなかったのです。「えーっ、3日しか持たないの?」と批判するのは簡単ですが、自分の中にもそのようなことがあるでは…と考えてしまいます。
 
 ずっと前に中学生のためのキャンプをしたとき、簡単なハイキングをしました。ところが、10分も経たないうちに、「疲れた」とか、「まだぁ」などと言うキャンパーが出始めました。すると、ハイキングの様子を見ていたその時の講師の先生が「あなたがたは出エジプトの民のようですね」と笑顔でおっしゃったのです。その時のことばを、私は今も忘れません。

 「みことばの光」には「試練と慰めは交互に来るようである」とありました。神の恵みの豊かさをすぐに高ぶり忘れて、文句を言ってしまうような自分たちを忘れずに、神は今あるところから成長してほしいと願われ、行動を起こされるのです。

 



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