みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いる場所がなかった

2012年12月25日 | クリスマス
ルカの福音書2章1-21節


 クリスマスの喜びがひとりでも多くの人々に満ちますように…。

 クリスマスイブの夕方、キャロリングに出かけました。障がいのある人たちの支援施設でお菓子を週に一度売らせてもらっている本屋さんの店先で讃美歌を5曲歌いました。交差点で停まった自動車の窓を開けて聞いてくださった方、ありがとうございました。
 その後は、市内の高齢者施設を訪ねて、施設内の三つの場所で3曲ずつ讃美歌を歌いました。キャロリングメンバーのほとんどは障がいのある人たちですが、去年に較べてみんなの賛美が格段に進歩しているのが、いっしょに歌っていてわかりました。終わった後、「上手になりましたね」とおほめのことばを頂き、さらに一人一人にお菓子をいただき戻って来ました。
 いっしょに歌っていると、時々調子外れの声も聞こえてくるのですが、いっしょうけんめい心を込めて歌っている様子は、聞いてくださる方にも伝わっていたようです。

 マリヤもヨセフも、「権力者の意のままに動かされる小さな駒のようなものだった」と「みことばの光」が書いています。ベツレヘムに着いてはみたものの、今度は泊まる場所がありません。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
 「フーッ」と何度もため息が出てくるような体験です。私なら、振り回されている、もてあそばれているような不満がふつふつと湧いてきそうです。

 二人がどんな思いを抱いたのか、聖書は伝えてはいませんが、マリヤが「おことばどおりこの身になりますように」(ルカの福音書1章38節)と受け止めたこと、ヨセフが「主の使いに命じられたとおりにし」(マタイの福音書1章24節)たことに、誠実に歩もうとする姿が浮かんできます。

 自分の思い通りにならない体験を重ねる中で、実はそれは、神のおことばがこの身になる一歩一歩なのだと受け止める…、これが信仰者の歩みなのだと思います。その歩みのすべてに救い主が共におられるから、感謝です。  

    
    


ほめたたえよ

2012年12月24日 | クリスマス
ルカの福音書1章67-80節


 待降節第四主日のきのう、教会では3名の方の洗礼式がありました。
 いずれも、すでにクリスチャンになっている人から誘われ、祈られて、この日に至りました。ある方は、聖書を読め、イエスさまのことをきける環境に置かれてから50年たっての洗礼でした。

 午後はクリスマスのお祝いの会。たくさんの子どもたちとご家族とが参加して、にぎやかな会となりました。子どもたちによる聖誕劇(イエスがお生まれになった出来事をもとにした劇)を見、持ち寄られたたくさんのごちそうを食べ、音楽の贈り物を楽しみ、クリスマスの話を聞きました。

 話の中で、「この話は聖書に書いてあるので、読みたい人は聖書を差し上げます」と申しましたら、帰りに5名の子どもたちがお母さんといっしょに「聖書をください」と言って、聖書をもらって帰りました。うれしかったです。

 この箇所で心に留めたのは、再び話せるようになったザカリヤの口から最初に出て来たのは、神への賛美だったということです。聖霊に満たされたザカリヤは、「ほめたたえよ」と救いの神を賛美します。

 9月に生まれた孫は、もちろんまだ話ができません。来年の今頃は、どのことばを先に話すか、「ママ」が先か「パパ」が先かなどが話題になることでしょう。赤ちゃんの口から最初に出るのが神への賛美であったら、どんなにか素晴らしいことかと思います。けれども、そうではありません。人はダビデの家に立てられた「救いの角」であるイエス・キリストを信じて、初めて神への賛美を口にするのだからです。

 今日は「クリスマスイブ」。多くの教会では夜に「燭火礼拝」(燭火礼拝)を持つことでしょう。クリスマスの主であるお方ゆえに、賛美の口を賜った者として、心から神をほめたたえたいと思います。

 
   


おことばどおり

2012年12月22日 | クリスマス
ルカの福音書1章26-38節


 この箇所はいわゆる「受胎告知」として知られ、多くの芸術家が作品に表しています。
 
 美術伝道を進めている方が、フラ・アンジェリコの「受胎告知」という作品を解説したのを思い出しました。Photo
 その中からいくつか…。
 この絵は、御使いが最初にマリヤに語ったときではなくて、「おとこばどおりこの身になりますように」と神の計画を受け入れたときの姿を表しているのだそうです。
 また、腰をかがめ両手を重ねているマリヤの姿勢には、相手を敬い、同意するという意味があるとも説明していました。
 「なるほど!」とうなずけますと、さらに作品への親しみが湧いてきます。

 マリヤが「おことばどおりこの身になりますように」と受け入れたのは、それを受け入れたら自分がしあわせになるとか、もっとよい生活ができるとかいう展望を持っていたからではありません。
 御使いによって告げられた神の計画が「この身になる」ことで、自分に何が待ち構えているのかということについて、彼女に見通せていたとは思えません。

 「みことばの光」には、「マリヤがイエスの母となるのを受け入れたということは、それに伴う、喜び、悲しみ、辛さ、孤独など、これから彼女が通るであろうすべてを受け入れるということであった」とあります。

 先が見通せなくても、神が命じ、約束しておられるならば「おことばどおり」と信じる。これが、マリヤの信仰から教えられることです。



来てください

2012年12月21日 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録22章12-21節

 
 きょうは冬至。
 早朝の祈祷会は、満天の星空の下で始まりました。
 しかし、明日からは半年をかけて日一日と昼が長くなっていきます。私は、今頃の朝が気に入っています。祈祷会からの帰り、早朝ウォーキングをしている「お仲間」の姿も。自動車の中からは「寒いだろうに…」と思うのですが、歩いている人はそれほどでもありません。

 ヨハネの黙示録の通読が終わります。
 12節の「実よ。わたしはすぐに来る」との主イエスのことばに応えて、御霊も花嫁も「来てください」と言い、黙示録を聞く者たちにも「来てください」と言うようにと命じられます。そして、ヨハネは「アーメン。主イエスよ、来てください」と答えてこの書は閉じられます。
 いや、この書に記されていることは、読まれたときから開かれたのだと考えられます。

 心に留めたのは「来てください」とのことば。
 間違いのない約束を信じて、「来てください」と常に祈ることができるさいわいです。今は混在しているものが、このお方がおいでになるときにははっきりと分けられます(14、15)。
 「それぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」とありますが、考えれば考えるほど、胸を張って「主よ。あなたのために生きています」「生きてきました」とは言えないものを、信仰者は誰でも持っているのではないか、と考えます。
 
 けれども、「みことばの光」が書くように、「自分の着物を洗うこと」(キリストの十字架に血による罪の赦しを受けること)によって、どんな者であっても、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、…都に入ることができるようになるのです。

 「アーメン。主イエスよ来てください」は、待降節の今だけでなくて、キリストを信じる者がいつも願い求め続けること、祈りなのですね。

【おわびと訂正】
 「みことばの光」12月号45ページ4行目の長さの換算に誤りがありました。おわびいたします。以下のように訂正させていただきます。
(誤)「その城壁は、百四十四ペーキュス(約六十五キロメートル)と記されている。」
(正)「その城壁は、百四十四ペーキュス(約六十五メートル)と記されている。」





信じ、守るべきことば

2012年12月20日 | ヨハネの黙示録
ヨハネの黙示録22章1-11節


 ヨハネの黙示録もあと二日で読み終えます。
 今回の通読で、私は、この黙示が与えられたヨハネが置かれた状況、またこの黙示がヨハネによって届けられた教会が直面していた状況を思い浮かべました。一気に自分にとっての未来のことだとしないで、当時の教会がここに表わされていることばをどのように受け止めたのだろうかということです。

 きょうの箇所には、「これらのことば」「この書の預言のことば」「この書のことば」と繰り返されます。それは1章1節によれば、「すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため」に神がキリストにお与えになり、キリストが御使いを遣わしてヨハネにお告げになり、ヨハネがアジヤにある七つの諸教会に書き送ったものです。
 「すぐに起こるべき事」ということばは22章6節にもあります。

 そして、「これらのことばは、信ずべきもの」だとあります。ヨハネが、そして諸教会がこれらのことばを完全に理解し、納得できたのではなかったとしても、それは信ずべきものだとして、彼らはこれらのことばを信じて進んだのです。

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 そういえば、ネットバンキングの入り口に最近、「フィッシング詐欺にご用心」などということばが見られるようになりました。「信ずべきもの」「間違いのないもの」だとして利用しているものが、そうではなかったとしたら恐ろしいことです。

 「信ずべきもの」神のことばによって歩める喜びと安心を、改めて思いました。


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