みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

大祭司の死

2013年07月03日 | ヨシュア記
ヨシュア記20章

 
 iPhoneが壊れてしまいました。相手の声が聞こえないのです。いろいろ調べてみると、イヤースピーカーなるものが故障しているらしい。そこで最寄りの携帯ショップへ。ところが、ショップではiPhoneの修理受け付けをしていないとのこと。大宮駅の近くにMac関係の修理受付窓口があることを教えてもらいました。「そこなら、即日オーケーです」との声に押されて出かけました。
 やはりイヤースピーカーの故障。保証期間中なので、新品と取り換えてくれました。窓口にはたくさんの人。びっくりしました。いざという時のための保証制度は大切! 改めて思いました。不調のiPhoneは、時々液晶画面がおかしくなって「ハズレ機種」だと思っていましたので、交換で一挙に解決です。

 「のがれの町」は人生の「いざ!」という時のために、あやまって人を殺した人が復讐からのがれる場所として神が備えられた町です。ここでは、ヨルダン川東側に三箇所、西側に三箇所が「のがれの町」と定められたとあります。

 目に留まったのは「その時の大祭司が死ぬまで」という6節のことば。
 あやまって人を殺してのがれの町に逃げ込んだ人は、正しいさばきを受けた後だけでなく、時の大祭司が死んだときにも自分の家に帰ることができるということです。
 「みことばの光」にあるように、大祭司は人々の罪のとりなしをするものです。大祭司が死ぬということで、あやまって人を殺した者の罪が贖われるのです。ここに、イエス・キリストが十字架で死んで人々の罪が贖われることの型が見られます。

 イエス・キリストは、あやまって罪を犯した者ばかりでなくて、すべての罪人のための贖いを十字架によって成し遂げられたことに、すべての罪人への神の深いあわれみを覚えます。
 
    


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