みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神の宮の完成

2022年05月24日 | エズラ記

エズラ記 6章

 公園内のサクランボの実が少しずつ大きくなりつつあります。「あの場所」に行くと食べられると、今から楽しみです。

 1節から、当時は重要な文書を保管する仕組みがあったことが分かります。そして、キュロス王がエルサレム神殿を命令せよとの命令を下した文書は、バビロンではなくて、エクバタナで見つかったのです。エクバタナは、イランの南西部にあり、今はハマダーンという町です。ここには、エステルとモルデカイの墓があることで知られています。

 キュロス王の命令が確かに出されていたことを確認したダレイオス王は、今度はユーフラテス西方の総督タテナイたちに、エルサレムでの神殿建築工事を止めさせてはならないこと、むしろ、ユーフラテス川西方の地の人々は、神殿建築工事に積極的に協力するようにとの命令も下しました。

 タテナイたちは、個人的な感情を優先させるならば、神殿の建築工事をやめさせたいという思いだったのですが、ダレイオス王の命令には逆らえません。立場上王の命令を伝え、神殿建築工事に協力する立場へとなったのです。

 この章には、「間違いなくこれを行った」「建築を終えた」「祝った」などという何かが行われた、何かが起こったことを表すことばが出てきます。これらのことばは、それを行った人々がいたことを物語っています。それとともに私たちは、「彼らが…行った」ことのために、神がわざを行っておられるということを、これらのことばから知るります。

 「私が…やった」、「私が行った」と言いたくなるようなことが起こった時に、神を見上げられるように…と教えられます。


神に用いられる人々

2022年05月23日 | エズラ記

エズラ記 5章

 薔薇の美しい頃です。大きなものは一つで、小さなものはまとまって存在を表しています。大きな一つを写真に収めるのは下手でも何となくさまになるように思うのですが、小さなものは難しいといつも思います。

 16年近くにおよぶ神殿再建工事の中断についに終わりの時が来ました。そのきっかけは神のことば。神はハガイとゼカリヤという二人の預言者によって、工事に着手するようにと彼らに命じました。

 「みことばの光」では、ハガイ書もゼカリヤ書も読んでからそれほど経っていません。長い間の中断で民からは神殿を建て上げる意欲が萎(な)えてしまっていました。ハガイ書1章2節には、「万軍の主はこう言われる。『この民は「時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は」と言っている』」とあります。

 一度止まってしまった働きを再開するのには、初めに動き出す以上の力が必要です。この時は帰還後のユダヤ人の大きな危機でした。ですから神は、二人の預言者を遣わして、止まっていた車輪を大きく動かされました。

 再開は、その地を治めるペルシアの総督の耳に入りました。彼は自分の個人的な感情によってではなく、公人として為すべきことをしました。ユダヤ人が、神殿再建工事がキュロス王から出たと聞いた総督タテナイたちは、彼らの訴えを自分で握りつぶすことなく、真偽をダレイオス王に確認しようとして動きます。

 しかも総督は、ユダヤ人たちのことばをそのまま王に届けるのです。自分たちだけで神殿を再建するということがきっかけで中断してしまったことが、今度は相手側の総督の公平な判断も用いられて動き出そうとしています。

 ここを読んで思うのは、気づかないところで、気づかない時に神の目が注がれているということ。


まず礼拝

2022年05月21日 | エズラ記

エズラ記 3章

 15時間以上をかけて戻って来ました。冷蔵庫が空っぽなので、「買い出し」に…。一か月留守にする間に、季節の果物が変わっています。

 エズラ記3章から6章には、エルサレムの神殿の再建工事について書かれています。工事は人々がバビロンから帰還して2年目に始まりました。そしてこの章では、神殿の基礎工事が完成して定礎式が行われた様子も描かれます。

 エズラ記は、エルサレムに帰還した彼らが最初に神の祭壇を築いて礼拝をしたと書きます。彼らがまず献げたのは「全焼のいけにえ」。神への献身を意味するささげ物です。「第七の月」とは、3―4月から始まる暦に基づくもので、今の暦では9―10月頃です。何よりもまず礼拝とは、いつも変わらない神の民の姿勢です。

 帰国2年目の2月に、神殿建築工事が始まりました。その前に、建築に必要な杉材はレバノンから、人材はツロとシドンから整えられました。このように、ソロモンが建てたいわゆる第一神殿と同じようにして人材や資材が備えられていきます。

 目に留まるのは、神殿の礎が据えられた時、つまり定礎式での人々の姿です。そこには喜びと泣き声とが交錯していました。ソロモンの神殿の壮大さを知っていた人々は大声をあげて泣きました。多くの人は、ソロモンの神殿の大きさに比してゼルバベルたちの神殿が規模において劣ることによると考えますが、喜びと悲しみとが入り交じった涙、泣き声だったのではないでしょうか。

 何事も、信仰者にとっては「まず礼拝」です。


数字には神の御手が…

2022年05月20日 | エズラ記

エズラ記 2章59−70節

 フランクフルトのサッカーチーム、「フランクフルト・アイントラハト」がヨーロッパリーグで優勝したとのニュースが…。PK戦での優勝ですから、「手に汗握る」瞬間が何度も訪れたことでしょう。フランクフルト中心部にある広場を埋め尽す人々の映像を見て驚きました。

 2章ではこれまで、指導者たち、氏族別、町村別、祭司、レビ人、神殿奉仕者の順で帰国者の人数が出ているのですが、ここにはまず、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人だと証明できなかった人々のことが記されます。その後に奴隷の数、家畜の数、神殿建築のための献金と続きます。

 バビロン捕囚というと、捕囚されたイスラエルの人々が帰還までの間ずっと虐げられ、ひもじい生活を強いられたかのような印象を持ちやすいのですが、そうではありません。これらの記述は、彼らが多くの富を捕囚の地で得たことを明らかにしています。

 なぜ、捕囚の地でそれが可能だったのでしょうか。富を得るためには、彼らが異国で、そして厳しい環境下で勤勉に働かなければなりません。ダニエルや三人の青年たちの姿が浮かんできます。もちろんそれだけが理由ではありません。

 神が常に彼らとともにおられ、彼らを祝福してくださったことを私たちはこれらの数字を中心とした記述から見ることができます。数字に表れることには多くの人々の苦闘、忍耐、勤勉を認めます。しかし何よりも認めなければならないのは神の御手。神殿再建のために神が捕囚の民に備えをさせられたのです。


覚えておられる神

2022年05月19日 | エズラ記

エズラ記 2章1−58節

 水曜日夜のオンラインでの祈祷会。就寝前の子どもたちも参加しました。子どもたちが元気で賛美し暗唱聖句をしている姿に、元気を分けてもらって戻ります。

 聖書を読み進めるなかで苦手だと思うのが、人の名前が連なる箇所ではないでしょうか。それも、聖書でそれほど名が知られていない人々の名前を読むのはやさしくはありません。ここには、バビロンでの捕囚のみから解かれてエルサレムとユダに戻って来た人々の名前が並んでいます。

 時間的にも地理的にもかけ離れている私たちがここを読むのは、簡単なことではありません。それこそ斜め読みさえしない箇所かもしれません。けれども、もしこれらのリストの中に自分の親が、父祖が、あるいは子どもたちがいると言われて、聞くとしたらどうでしょうか。おそらく、名前が呼ばれるのを今か今かと待ち望みながら、聞くのではないでしょうか。

 これらの名前が聖書に残っているということは、本日の「みことばの光」にあるように、神は私たち一人一人を覚えておられ、名前を呼んでくださるだということを伝えているようです。年齢を重ねると、昔会った人のお名前を思い出せないなどというようなことが起こります。

 先日、私たちがことばでは言い尽くすことができないほど教え導いてくださった方に7年ぶりに会いました。しかし、相手の方は私たちのことをお忘れになったようです。でも、私たちは覚えています。そして何よりも、神が私の名を覚えておられ、呼んでおられるという事実を知るのは大切なこと。「あなたが忘れても、わたしはあなたを忘れない」…なんと慰めに満ちたことばでしょうか。


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