ハバクク書1章
通っている教会では、水曜日の午前と夜に祈祷会をしています。午前の祈祷会ではここのところずっと「聖書を読む会」が発行している手引きを用いて聖書を読んでいます。「イエスに会った人々」のほとんど終わりの部分まで読み進め、昨日はトマスについて読みました。
復活された日曜日の夕方、イエスは恐れている弟子たちのところに現れてくださいました。ところが、トマスはそこにいなかった…、という出来事をいっしょに読みました(ヨハネ20章)。
何人かでみことばに立ち止まり続けることで、新しい発見があります。対話の仕方も学べます。特に、私にとっては「語らない」「教えない」「でしゃばらない」という訓練を受けているような、大変よい時間です。
物事をひとりで考えて答えを出し、納得できたらよいのですが、そうとばかりは行かないということが度々起こります。ハバククは、神はなぜ悪の横行を見過ごし、沈黙しておられるのかとの疑問を抱きました。教えられるのは、彼は自分の中で悶々と考えて結論を出そうとしたのではなくて、神に訴えたということです。
けれども、神の答えを聞いてさらに、ハバククの心には疑念が湧きました。
なぜ、神は異教の民であるカルデヤ人を主の民を懲らしめる器として用いるのだろうか、という疑念でした。ハバククは、ここでも神に自分の思いをぶつけます。
神との対話を続けるというのは、どんなに自分の目で見て、耳で聞いて納得がいかないことが周りに起こっても、この世界は神のご支配のうちにあると信じているからです。しかも、神は愛に基づいてこの世界を治めておられると信じることができるからこそ、神との対話を続けるのだと思います。
あきらめないで、信じて…。
通っている教会では、水曜日の午前と夜に祈祷会をしています。午前の祈祷会ではここのところずっと「聖書を読む会」が発行している手引きを用いて聖書を読んでいます。「イエスに会った人々」のほとんど終わりの部分まで読み進め、昨日はトマスについて読みました。
復活された日曜日の夕方、イエスは恐れている弟子たちのところに現れてくださいました。ところが、トマスはそこにいなかった…、という出来事をいっしょに読みました(ヨハネ20章)。
何人かでみことばに立ち止まり続けることで、新しい発見があります。対話の仕方も学べます。特に、私にとっては「語らない」「教えない」「でしゃばらない」という訓練を受けているような、大変よい時間です。
物事をひとりで考えて答えを出し、納得できたらよいのですが、そうとばかりは行かないということが度々起こります。ハバククは、神はなぜ悪の横行を見過ごし、沈黙しておられるのかとの疑問を抱きました。教えられるのは、彼は自分の中で悶々と考えて結論を出そうとしたのではなくて、神に訴えたということです。
けれども、神の答えを聞いてさらに、ハバククの心には疑念が湧きました。
なぜ、神は異教の民であるカルデヤ人を主の民を懲らしめる器として用いるのだろうか、という疑念でした。ハバククは、ここでも神に自分の思いをぶつけます。
神との対話を続けるというのは、どんなに自分の目で見て、耳で聞いて納得がいかないことが周りに起こっても、この世界は神のご支配のうちにあると信じているからです。しかも、神は愛に基づいてこの世界を治めておられると信じることができるからこそ、神との対話を続けるのだと思います。
あきらめないで、信じて…。