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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

信じたことが明らかに

2019年04月20日 | 受難と復活

ヨハネの福音書 19章31−42節

 12日間の帰国もあっという間に終わりました。前回はインフルエンザでほとんど休んでいましたが、今回はいろいろな方とお目にかかれたり、お耳にかかれたりしました。

 金曜日は奥多摩へ。さすが青梅線。小学生の遠足でしょうか。子どもたちのにぎわいが心地よく感じられました。途中駅から白髪の女性が乗って来ますと、座っていた三人の女の子がさっと立って譲ろうとしたのですが、残念! 他の人に座られてしまいました。そうしたら、今度は少し離れた所に座っていた男の子たちも席を立ち、「どうぞ」と声をかけたようです。その方は笑顔で子どもたちの間にお座りになりました。

 この箇所には、イエスの埋葬の様子が記されています。その描写の中に「これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである」という、福音書記者のことばが加えられています。この福音書を弟子のヨハネが書いた目的は、20章31節にあります。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」

 イエスが十字架に架かられたことを私はこの目で見た、目撃者なのだ、本当に起こったのだ、そして、それはあなたがたも信じるようになるためなのだ、とヨハネは訴えるのです。

 イエスのからだを十字架から取り降ろしたアリマタヤのヨセフ、そして埋葬を手伝ったニコデモのことがそのあとに続きます。二人とも、イエスへの信仰を隠していたのですが、ここでそれが明らかになります。十字架が明らかにするのを促したとも言えます。

 いろいろな事情でイエスへの信仰を表明できずにいる人もいるかもしれません。いつか、それが明らかになることを祈ります。


つなげることば

2019年04月19日 | 受難と復活

ヨハネの福音書 19章23-30節

 今週は受難週。きょうはイエス・キリストが十字架にかかって死なれた受難日です。主の受難の日を、どこで、どのような思いでお迎えになりましたか。

 ここには、十字架の上でイエスがお語りになった7つのことばのうち、3つが収められています。どれもがそこに居合わせた人々にとって、そして私にとって意味のあることばなのだと、3つのことばを繰り返し口ずさみながら覚えました。

 イエスは母には「あなたの息子です」と言い、ヨハネには「あなたの母です」と言って、母マリアを愛弟子ヨハネにゆだねられました。これは、イエスが結び合わせる家族です。私たちも、血のつながりのない者同士がイエスによって結ばれて家族とされました。イエスは、人と人とをつなげることばを十字架の上で私たちのためにお語りになったのです。

 「わたしは渇く」ということばは、肉体的な渇きから出たことばであるとともに、つながりを求めての渇きのことばだとも言えます。このことばに兵士たちはイエスに酸いぶどう酒を含んだ海綿をイエスの口元に差し出しました。「わたしは渇く」ということばに何をイエスに差し出すのかと問われているように読みます。私とのつながりを求めることばとして…。

 「完了した」は、罪人の私と神との間をつなげることば。それは、この世界で最も困難なことを完全に成し遂げたということを意味しています。

 つながっているという事実を思いめぐらしつつ、大切な一日を過ごします。


十字架につけた

2017年04月15日 | 受難と復活

マルコの福音書 15章21-47節

 当地では聖金曜日からイースター月曜日までが土曜日も含めて四連休。金曜日の午後外を歩きましたが、普段よりも人が少なくて驚きました。基本的に休みのスーパーも、きょうは開くそうです。

 マルコの福音書は、イエスの十字架への道、十字架上のお姿、死と埋葬を淡々と描いているという印象があります。ルカの福音書が描く両脇の犯罪人とのやりとりも、ヨハネの福音書が描くマリヤをヨハネに託すという感動的な場面もありません。

 けれども、15章にはイエスを取り巻く多くの人々の姿が登場します。祭司長、長老、律法学者、議会、ピラト、群衆、兵士たち、クレネ人シモン、道行く人、イエスといっしょに十字架につけられた者、ローマの百人隊長、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセの母マリヤ、サロメ、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たち、アリマタヤのヨセフ。

 ある人々はイエスを十字架につけようと画策し、ある人々はむりやりにイエスにかかわりを持たせられ、ある人々は職務上イエスとかかわり、ある人々は悲しみながら十字架の側にたたずみ、ある人はイエスとのかかわりを公にしました。間違いのないのは、これらすべての人々のためにイエスは十字架に架かったということです。

 ここには、イエスの「十字架上の七言」のうちの「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」が記されています。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との意味だともつけ加えられているこの一言。先に挙げた一人一人のゆえであったということ、そして私のゆえであったということを、思い巡らします。

 すばらしいイースターをお迎えください。


そのとおりです

2017年04月14日 | 受難と復活

マルコの福音書 15章1−21節

 今週は受難週。きょうはキリストが十字架に架かられた受難日です。親しい方々からきょうの夜の受難日にふさわしい小さな演奏会のお誘いを受けていたのに、メールの後半を読まずに閉じてしまったために結果としてダブルブッキング。とても残念ですが、ハイドンの「十字架上の七つの言」の演奏会には伺えなくなりました。「メールは最後まで読みましょう」と、自分に言い聞かせています。

 「みことばの光」、今年はマルコの福音書によって主イエスの受難と復活を読んでいきます。15章前半はローマ総督ピラトによるイエスの裁判の場面です。ここで裁判にかけられているのはイエスで、さばくのはピラトです。けれども、ここを読み返し読み返ししてみますと、実はピラトは自分をやがておさばきになるお方の前に立っているのです。本来さばくべきお方がここではさばかれ、さばかれるべき者がさばく立場にあるというのです。

 さばくピラトには確たるものが感じられず、周囲の声に引きずられ、結局は押し切られて「正しいお方」を十字架に渡してしまいます。しかし、そのようなピラトのふるまいもすべて含めて、神はご自分のひとり子を十字架につけて、罪人の贖いをなそうとしておられます。

 心に留めたのは「そのとおりです」との主イエスのことば。きょうの箇所での主のことばはこの一つだけ。けれども、このすべてに主がどなたかが伝わります。きょうの「みことばの光」には「主イエスよ。『そのとおりです』とのあなたのことばを信じ、あなたを王であり、主であると告白する者としてください」との祈りがあります。「あなたは罪人ですか」との問いかけに「そのとおりです」と答える、「あなたの主はイエスですか」との問いかけに「そのとおりです」といつも答える者でありたい…。


墓にいた人々

2016年03月26日 | 受難と復活

マタイの福音書 27章57—66節

 Karfreitag(聖金曜日、グッドフライデー)祝日のきのうは、あいにくの雨。家で一日を過ごしました。普段できなかったことがはかどりました。でも、これでは休みではありません…。けれども、主イエスが十字架につけられた日が休みで、街も静かなので、ハイドンの「十字架上の七つのことば」を聴きつつ、十字架を覚える幸いな日となりました。

 きょうの箇所は、十字架で息を引き取った主イエスのからだを、アリマタヤのヨセフが引き取り、自分の墓に埋葬する場面から始まります。ここに登場するのは、アリマタヤのヨセフとマグダラのマリヤとほかのマリヤ、そしてイエスのからだを盗まれないようにと対処する人々です。十一人の弟子たちがここにないのが印象に残ります。イエスの埋葬にかかわったのは、自分がイエスの弟子であることを隠していた者であり、それを見ていたのは女たちでした。また、祭司長とパリサイ人たちが願ったことで、墓はイエスの「敵」たちの手で「守られる」ことになりました。

 ここにはペテロたちの姿はありません。埋葬と墓の番を彼らがしなかった、いや、できなかったことは、日曜の朝に起ころうとしていることについて、神が備えておられることの一つだったと思うのです。イエスの十字架と埋葬、そして復活のために、神はいろいろな「伏兵」を用いておられるだということが印象に残ります。

 すばらしいイースターをお迎えください。


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