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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

動揺、そして礼拝へ

2022年12月24日 | クリスマス

マタイの福音書 2章1−11節

 当地では、24日昼過ぎから26日までほとんどの店がお休みなので、23日はたくさんの買い物客が街に…。私たちも近くのモールに行きましたが、普段は適度に空きがある駐車場もほぼいっぱいでした。きょうと明日、どのようにお過ごしになりますか。

 ベツレヘムに「ユダヤ人の王」として生まれた幼子は、ある人々を動揺させました。時のユダヤの王ヘロデ(ヘロデ大王)が最も心をかき乱した人であることに間違いはありません。イドマヤ(エドム)人ヘロデは、「ユダヤ人の王」ということばに動揺しました。また、ヘロデがどのような王なのかを知っていた、エルサレム中の人々も同じだったと、3節にあります。

 一方で東方の博士たちは、幼子のいるところまで行き、ひれ伏して礼拝しました。彼らの喜びはどれほどのものだったことでしょう。このことから、幼子イエスは、ユダヤ人だけでなくすべての人々の王であり、いや、礼拝するべきお方だということが明らかになります。

 本日は「動揺、そして礼拝へ」としました。動揺するエルサレムの人々の中に、やがて三博士のようにこのお方をメシアとして礼拝する人もいたのではないか、というのがクリスマスイブのきょう、私が想像して期待することです。

 読者の皆様、幸いなクリスマスをお迎えになりますように。


私たちの間に住む

2021年12月25日 | クリスマス

ヨハネの福音書 1章14−18節

 「聖なる夜」と呼ばれる24日、オンラインで賛美礼拝を持ちました。たくさんの讃美歌を歌い、クリスマスに関連した聖書を読むだけでしたが、幸いな1時間でした。最後の賛美は「馬槽の中に」。その前に歌う「羊はねむれり」とともに、日本人による讃美歌の傑作です。ことばと曲の間にかい離がなく自然に歌うことができると、いつも思いながら賛美しています。

 14節の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」ということばは、何度読んでも感動します。神が約束されたメシア(救い主)は、ご自分の民として描かれているイスラエルの人々が期待したようにはおいでになりませんでした。

 ヨハネは「ことばは人となった」と書きます。神であるお方、この世界をお造りになった方が人となったのです。日曜日の「みことばの光」は、詩篇104篇を読みます。この詩篇では天地を創造された神の輝きがほめたたえられています。人がどれほど賛美してもし尽くすことのできない「尊厳と威光を身にまとっておられる」方が、人となられたというのはありえないこと。それは、私たちの間に住むためでした。

 人となって私たちの間に住んでくださった方と出会えなかったならば、私は今ごろ何をしていたのだろうかと、考えることがあります。あるいは、生き甲斐は何かと求めながらも得られないまま、老人になってしまったのかもしれません。「クリスマスおめでとう」という挨拶は、こんな者の間に住んでくださったことゆえの、自分への「おめでとう」なのではないでしょうか。

 クリスマスおめでとうございます。


まことの光

2021年12月24日 | クリスマス

ヨハネの福音書 1章6−13節

 「聖なる夜」をどのようにお過ごしになりますか。当地では家族が集まり一緒に食事をし、それから教会の礼拝に出かける人もいるようです。普段はそれほどでもない礼拝出席者がこのクリスマス時期には多くなるようです。私たちの教会はオンラインでの「賛美礼拝」、お借りしている教会では夜10時から外で礼拝を行います。私たちも予約していたのですが、ここ数日の寒さゆえにキャンセルしました。

 ヨハネは「光について証しする」ために神から遣わされたヨハネ(バプテスマのヨハネ)のことをここでまず記します。イザヤが「荒野で叫ぶ者の声がする…」と、イザヤ書40章3−4節で預言したのがこのヨハネです。使徒ヨハネはなぜ、ここでバプテスマのヨハネのことを書くのでしょうか。「彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来た」ということを明らかにするため、つまり、まことの光を強調するためです。しかしそれは、バプテスマのヨハネを偽物だと言いたいのではありません。彼の使命を明らかにするためでもあるのです。そして、このことは、キリスト者の使命に通じます。

 ヨハネは常に「指し示す」人でした。イエスを指し示す人だったのです。さて、自分は常にイエスを指し示しているのでしょうか。

 その後で使徒ヨハネは「まことの光」を紹介します。「みことばの光」が書くように、イエスはまことの光です。それゆえすべての人を照らす、つまりすべての人にとっての光なる方なのです。しかし、光に照らされた時に人はイエスに対して二通りの応答をします。受け入れないこと、そして受け入れることです。なぜ受け入れないということが起こるのか、それはイエスがご自分の民が期待するような姿でこの世界に来なかったから、彼らが期待するような道を歩まなかったからです。

 「まことの光」なら分かりそうですが、そうではないのだということをここから考えます。12節のことばを心に留めて「聖なる夜」を迎えたいと思います。


ことば、いのち、光

2021年12月23日 | クリスマス

ヨハネの福音書 1章1−5節

 昨日は冬至。夏至から半年は日が短くなる一方でしたが、ここからは少しずつ日が長くなります。ちなみに昨日の日の出は8時10分、日没は3時51分で、日照時間は7時間41分とのことでした。

 クリスマスを前に、「みことばの光」ではヨハネの福音書を開きます。マタイやルカの福音書は、いわゆる「降誕物語」を記しますが、ヨハネはキリストの来臨を別の視点から描きます。ことば、いのち、そして光で表しているのです。

 「初めにことばがあった」ということばは、創世記の「初めに神が天と地を創造した」を思い起こします。神はことばによって世界を創造されました。ヨハネはここで、ことばを単なる考えや思想を伝えるものだとしているのではありません。ことばは初めからあり、神であり、神とともにおられたと紹介しているのです。

 さらにヨハネは、ことばにいのちがあり、そのいのちは人の光だと展開します。それは、ことばと神によって造られた人間との間に焦点を当てているのです。人のいのちはことばによって分け与えられたもの、そしていのちとはただ肉体的に生きているということ以上のことを伝えようとしています。光とは、明るいとか暗いというこの目で見える景色についてではなくて、神に造られたにもかかわらず神に背いた人間の罪、霊的な暗闇を打ち砕くものとして記そうとしています。

 クリスマスには光がふさわしい、それは単に冬至の頃で夜が長いのでせめて光を灯して明るく…というものではなくて、光なるキリストが人間を罪の闇から解放する方だからなのです。

 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」ヨハネの福音書8章12節


神をたたえる老人

2020年12月26日 | クリスマス

ルカの福音書 2章22ー38節

 クリスマス第一祝日の25日は久しぶりの晴天。近くの公園を歩きましたが、たくさんの人が散策、犬の散歩を楽しんでいました。家では「クリスマスオラトリオ」の25日演奏分を聴き比べ。対訳歌詞を見ながら、初演の頃人々はどんな思いで教会で聴いていたのだろうかと想像を膨らませました。

 この箇所には、幼子イエスが主に献げられるために両親によって宮に連れて行かれた時の出来事が記されています。律法に記されたとおりに行うヨセフとマリアの敬虔な姿と、ささげ物から垣間見ることのできる貧しい生活とが伝わってきます。

 宮で幼子と両親を待っていたのはシメオンという老人。彼は幼子イエスを抱いて神をほめたたえるのです。それにしても、シメオンが「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた」ということばに驚かされます。これが彼のいのちを支えてきたのです。そしてついに、その約束実現の日が来たのです。老預言者アンナも幼子イエスがどのような方なのかを悟って人々に語ります。

 ザカリヤとエリサベツの夫妻、シメオンとアンナ、クリスマスの出来事には4人の老人が「活躍」します。歳を重ねて、次第にいろいろと不自由なことが増えてきて希望が小さくなっていくような思いになりがちなのが老人。私もその一人です。特に、今回のようなパンデミックの中ではどうしても行動も気持ちも縮こまりがちになります。

 彼らのように救い主を待ち望み、証ししていく生活が歳を重ねるクリスチャンにも与えられているというのは、なんという恵み、喜びでしょう!

*ここでは「高齢者」ではなく、あえて「老人」ということばを使用いたしました。

*12月18日から27日までの「みことばの光」本誌の通読箇所は、聖書同盟ホームページに掲載している「聖書通読計画カレンダー」から変更になっています。ホセア書の通読を終えてからクリスマス箇所を読むように変更したためです。戸惑われた方もいると存じます。お詫びいたします。


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